この広田神社の歴史は古く「日本書紀」や平安時代につくられた「延喜式(えんぎしき)」にも記載があります。
「日本書紀」によれば神功(じんぐう)皇后が新羅遠征の帰路、船が此処の海上に差し掛かったときに、船が廻って進めなかった。
そこで天照大神(あまてらすおおみかみ)の荒魂(あらたま)を、この地に祀ったと言う。祭神は天照大神である。
また、「延喜式」の記載を見ると、国の護りをする神々285座(名神大社)に選ばれている。これらは式内社と言われる。
それで、風雨や地震などに霊験があると信じられ、当時の朝廷・公卿・貴族には官位昇進の神として崇敬されていたという。
平安時代には歌合会が始まり、神仏を慰める為に神前で行われた。
高倉帝の承安2年(1172)の「広田社歌合」の記録が残っている。このときの判者は藤原俊成で貴族58人の歌の競演があった。これは俊成の自筆本(国宝)として東京に残っている。
建物は、高倉天皇の時に社殿を修理し、慶長9年(1604)豊臣秀頼によって大規模な改築、徳川吉宗の時に、山の上流にあって洪水の恐れがあるというので、現在地に鎮座した。
現在の本殿は伊勢神宮から譲られたもので、昭和31年竣工したものである。見えているのは拝殿である。
明治7年境内地を割譲して、南宮社と戎社を合体して西宮戎神社が独立している。
なお、このあたり一帯は、日本書紀に「御心広田の国」と出てくる。また、中世の書物には「広田社、世俗西宮と号す」とか出てくるそうで、「西宮」は広田神社の別称であったとも言われている。
祭神天照大神の御脇殿には、住吉大神・八幡大神・諏訪大神・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀り、広田五社と言われる。
大阪の住吉大社、岩清水八幡宮、諏訪大社はすべて元官幣大社である。そして、高皇産霊神は天地開闢の時、高天原に出現した最も古い神様である。この9代あとになってから、やっとイザナギ・イザナミが生まれてくる。
神社の裏山2万平米に散在するツツジの群落がある。
植物学者「牧野富太郎」が、ツツジの花見に訪れる人を見て一句「ただ三つ葉千万人をおびきよせ」、そしてコバノミツバツツジはこれなりと言ったという。昭和44年県指定天然記念物になった。
左:コバノミツバツツジの狂い咲きを見つけた。
右:天照大神の鳥居の結界は石柱2本を注連縄で結ぶ。大神神社もそうだった。
「日本書紀」によれば神功(じんぐう)皇后が新羅遠征の帰路、船が此処の海上に差し掛かったときに、船が廻って進めなかった。
そこで天照大神(あまてらすおおみかみ)の荒魂(あらたま)を、この地に祀ったと言う。祭神は天照大神である。
また、「延喜式」の記載を見ると、国の護りをする神々285座(名神大社)に選ばれている。これらは式内社と言われる。
それで、風雨や地震などに霊験があると信じられ、当時の朝廷・公卿・貴族には官位昇進の神として崇敬されていたという。
平安時代には歌合会が始まり、神仏を慰める為に神前で行われた。
高倉帝の承安2年(1172)の「広田社歌合」の記録が残っている。このときの判者は藤原俊成で貴族58人の歌の競演があった。これは俊成の自筆本(国宝)として東京に残っている。
建物は、高倉天皇の時に社殿を修理し、慶長9年(1604)豊臣秀頼によって大規模な改築、徳川吉宗の時に、山の上流にあって洪水の恐れがあるというので、現在地に鎮座した。
現在の本殿は伊勢神宮から譲られたもので、昭和31年竣工したものである。見えているのは拝殿である。
明治7年境内地を割譲して、南宮社と戎社を合体して西宮戎神社が独立している。
なお、このあたり一帯は、日本書紀に「御心広田の国」と出てくる。また、中世の書物には「広田社、世俗西宮と号す」とか出てくるそうで、「西宮」は広田神社の別称であったとも言われている。
祭神天照大神の御脇殿には、住吉大神・八幡大神・諏訪大神・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)を祀り、広田五社と言われる。
大阪の住吉大社、岩清水八幡宮、諏訪大社はすべて元官幣大社である。そして、高皇産霊神は天地開闢の時、高天原に出現した最も古い神様である。この9代あとになってから、やっとイザナギ・イザナミが生まれてくる。
神社の裏山2万平米に散在するツツジの群落がある。
植物学者「牧野富太郎」が、ツツジの花見に訪れる人を見て一句「ただ三つ葉千万人をおびきよせ」、そしてコバノミツバツツジはこれなりと言ったという。昭和44年県指定天然記念物になった。
左:コバノミツバツツジの狂い咲きを見つけた。
右:天照大神の鳥居の結界は石柱2本を注連縄で結ぶ。大神神社もそうだった。