昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

'09BLOGの一年04

2009-12-31 | 呟き
10/3-17にアップ。北海道ツアーは北の国に秋色を求めました。
千歳川源流の支笏湖です。

インデイアン水車は遡上するサケを集めます。

新冠のサラブレッド銀座


美瑛の風景



南アフリカのアップは、プレトリアのジャカランダから始めました。

10/30-11/5, 11/11-19, 11/25-12/4, 12/13-19, まで4回になりました。


アフリカのアップの間隙を縫って、秋色を、京都奈良兵庫に求めました。

写真は京都の真如堂です。


平成21年は、まさに「変」の時代でしたね。安定を望みますね。

 1年間有難うございました。どうか良いお年をお迎えください。




DATA:
 ○2009年Blogアップ回数346回
 ○2009年アップ枚数:12296枚ー9228枚(昨年までの枚数)=3068枚
   

'09BLOGの一年03

2009-12-30 | 呟き
7/16-17でアップ。湖北のスキー場、箱館山が雪のない季節には百合の高原になります。





6/30-7/5と7/14-31の2回に分けてアップ。今回の北海道は焼尻・天売、そして札幌・支笏湖と4泊の旅だった。

天売島に住むウトウの群れは、やがて地面の穴に潜ります。





7/6-7/13までアップ。フグが集まる光市の海岸と山口県の西にある角島(つのじま)、更に萩城址を見て、am1:30の帰宅でした。

角島にかかる海上の橋はTVのCMでおなじみであった。





7/23の日蝕は雲の中であったが、鳥が騒いで飛んでいく。8/26に硫黄島の皆既日食をアップ。





8/16-8/23と9/25-10/2の2回に分けてアップ。南米ヴェネズエラのテーブルマウンテンの頂上です。
 大陸移動で分かれてしまった大地は、砂岩であるところなど、姿形は南アのそれと似ていなくもない。(南アのテーブルマウンテンは頂上には残念でした)




8/27-9/9と9/16-17の2回に分けてアップ。戦国の武将真田氏のふるさとを訪ね、鳥居峠を越えて群馬県に入ります。2泊3日の旅でした。

浅間山の北側の嬬恋村の一面のキャベツ畑。




'09BLOGの一年02

2009-12-29 | 呟き
4/10-13のアップ。京都の動物園にもカバがいた。規模は小さくとも手入れの行き届いた動物園でした。




4/14-16のアップ。京都原谷の感動のシダレザクラでした。昨年から2回目です。




4/17-5/4のアップ。
 平家が都落ちをしてから、一気に九州にまで落ちます。そこで、再起を図りますが、地元の武士は頼朝の命を受けており、平家一族は四国高松の屋島にまい戻ってきます。

 九州の地での平家一族の立ち回り先を訪ねた3泊4日の旅でした。宇佐八幡宮から右回りに下関まででした。




5/4-7のアップ。例年訪れる京大の演習林に桜を眺めます。見事な御衣黄(ぎょいこう)桜です。




5/10-12のアップ。鈴鹿の御在所岳(1212m)を訪ねる。アカヤシオがまだ咲いていた。




5/14-15のアップ。近畿地方の最北端、経ヶ岬を訪ねてみれば、何とハヤブサの精悍な姿が見られました。




5/16-19のアップ。大津から三井寺までを巡りました。
 大海人皇子(天武天皇)と争った天智天皇の嫡子大友皇子は、瀬田の唐橋で破れ、その所縁の土地に大友神社を見つけました。





5/20-24のアップ。幕末、坂本龍馬が襲われ辛くも逃げ延びた寺田屋旅館は今も健在です。




5/25-28のアップ。鳥取砂丘で世界各地の作家による砂の像の博覧会があった。ガリバーの小人国です。




5/29-6/2のアップ。和歌山県田辺市の海にクジラが迷い込んだ。田辺市の生んだ天才の南方熊楠も訪ねました。

熊楠が最後に研究したのが粘菌類の研究でした。世にも不思議な生き物です。





6/3-7のアップ。黒百合が神戸高山植物園で咲く。





6/8-16のアップ。豊川ICから奥三河に鳳来山を訪ね、更に北へ茶臼山高原でシバザクラ高原を見ます。




6/17-22のアップ。長谷寺のボタンには少し遅いが、少しは「坐って」咲いていました。




6/23-25のアップ。御室の桜は散ってしまってもまだ伽藍は自由に入れない。
宸殿だけで、お隣の五智如来を訪問した。


'09BLOGの一年01

2009-12-28 | 呟き
 年の瀬も押し詰まり、今年1年を振り返ってみたいと思います。
 
 旅を柱にして、掻い摘んでみます。

1/17阪神大震災の鎮魂の灯火が、昆陽池の広場で朝5:47まで灯ります。





1/8-14まで、2003年7月、急に思い立って出かけたオーストラリア(エアーズロックとグレートバリアリーフ)7日間個人ツアーのアップでした。




1/21-22まで、1999年8月、サヴァンナを見たいとケニヤの旅でした。3回に分けてアップした1回目でした。(この後は6/26と8/7)




誇り高きマサイの子どもたち、家は牛の糞の乾燥したもので出来ています。





1/24-2/5まで、石垣島とその周辺の旅行のアップでした。海を渡る竹富島の長閑な牛車。





2/18-3/10まで、カンボジアのアンコールワットなどをアップしました。
 写真はアンコール王朝の最盛期を作ったジャヴァルマン7世が、アンコールトムの次に、母の菩提を弔うために建てた「タ・ブローム寺院」です。自然界に帰ろうとしています。






次に訪れたヴェトナム縦断のツアーです。

3/13-4/7まで、アップしました。写真はハロン湾クルーズです。




4/8-9までアップ。神戸の兵庫にある大仏です。
戦前は、奈良・鎌倉・兵庫で三大仏といわれたものでした。ここ能福寺で平清盛が出家して「浄海」を名乗ります。


森の池

2009-12-27 | 自然界
ファイルの片隅に、秋の紅葉の写真が眠っていたので並べてみます。

 落葉が終って枯れ枝になってしまった現在の季節、どこか華やかな色に懐かしささえ覚えます。


「山に入って山を見ず」とか言いますが、山の木々を池の水面に見ます。






神戸裏山の高山植物園の秋です。これは孫ですね。橋の下には魚が泳いでいるようです。





対岸を、健脚揃いのハイカーが進みます。





これはヒツジグサか、コウホネか、やがては氷の中で頑張る水草たち。





静かな水面が波立ち、静かな水面に魚が波紋を作る。


ネコ

2009-12-26 | 話題
小春日和が続いた頃、ガスの給湯器の上で、すやすやと寝る白猫は野良です。





ふと起き上がって、お腹の毛並みの手入れです。





次は足の先の手入れです。





前足の先の爪の辺りを舐めている。目を閉じて、半分眠りながら…。





カメラのシャッター音か何かで、ふとわれに返って、警戒のまなざしを向けたまま5分は動かない。この顔は左右が違う顔です。






X-masです。宗教にはこだわらずに、クリスマスの持つ暖かさを享受します。


疋田舟川

2009-12-25 | 歴史・文化遺産
峠の方から流れ出る小川が村の中を貫きます。

 この川こそが、かつて日本海から琵琶湖、そして京都に向う物資の流通に役立っていました。

疋田川に船をつけて疋田舟川と呼ばれている。運河であった。









愛発村の疋田地区はこの川の遺跡を保存してふるさと起しをしています。船着場のモニュメントです。






船の通った川を挟んで、家並みが続きます。





船の停船場所が出来ていた。






今は村人の生活用水である。蕪が旨そうなので、聞いてみたが手に入らなかった。





当時の船が再現されている。船便に関しての年表が展示されている。古くは平清盛の嫡子、平重盛も着工した跡が残っているという。





記念碑に当時の様子を見ることが出来ます。船を引っ張って川を遡っていたという。





船着場のモデルである。






1866年の大洪水で、水路が破壊され、その後復興はしなかったという。

関が原で敗れた義の武将大谷吉継も計画したという。






 疋田宿は賑わいがあったことでしょう。地図で見れば日本海と琵琶湖、さらに太平洋を結ぶ最も短い距離である。
 
 貫通すれば北前船の活躍はなかった訳です。展示の資料から見ると、川の上流同士を繋ぐ運河は青い線の位置に考えられていたらしい。

やがて、TVか新聞で企画特集をすると思いますが、村内の史跡とかいろいろありそうで、もっと丁寧な探訪をしてみたいですね。



国境の固め(愛発の関)

2009-12-24 | 歴史・文化遺産
 若狭の国から、南に向う狭い谷の奥まったところに愛発村はある。峠を越えると近江国から都へと通じる街道になる。

 飛鳥時代から奈良時代まであったという愛発の関は、桓武天皇AD789年に廃止され、現在では位置も特定できなくなっている。


疋田は「ひきだ」と読むが、JRの駅も新疋田駅である。ここには疋田船川に沿って船便があったという。






 この地区には城址がある。戦国時代に越前を抑えていた朝倉氏は、西方の護りとしてこの国境の地に城を築いていた。

城は信長によって2回落城し、廃城になったものである。






 戦国の世に、織田信長は越前の朝倉氏を攻めたが、近江の浅井氏が背後を襲い、信長は前田利家ら数名とともに、都へ逃げ帰った。
 それがこの道から、朽木谷を通り、都へ帰ったのではないかと思うと、歴史のロマンを感じます。もっと西から朽木谷に出たかも知れませんが…。

 この時の越前攻めで城は落ちている。

 次の落城は、再び織田信長の越前に向った時だった。落城してからは廃城になり、放置されて約400年である。

朝倉方の将、疋壇(ひきだん)氏が築いたという。






天主はなかったと思うが、高台に館があった場所です。草木の茂る高台は、兵どもが夢の跡です。
 







傍を北陸本線がカタカタと音を響かせながら走ります。騒音も自然の中へ吸収されてしまいます。





カラスが来るのは、もっと寒さが来てからかも。


トンネルを出ると越前だった

2009-12-23 | 旅の風物
愛発関は越前に抜ける最短距離だったようです。
 現在でも、国道8号線・国道161号線の合流点であり、JRの北陸本線が峠の下をトンネルで抜けています。北陸に鉄路が入った最初だったそうです。

トンネルを出ると新疋田駅がありました。



ログハウスの駅舎は新しい。





駅は小さくとも、天下の北陸本線です。上り方向にトンネルが見える。このトンネルを出たところは塩津駅で、湖西線と長浜・米原方面に分岐します。







折りから、下り電車がやってきた。のっぺらぼうの無紋の電車です。振り返ると、黙って敦賀に向ってまっしぐら。








駅前広場の案内板です。現在地と新道との間の山が愛発山(483m)といわれる。


愛発の関は古道であった

2009-12-22 | 歴史・文化遺産
近畿地方から、北に位置する福井県嶺南地方は若狭国になる。これを隔てている峠道は、古代飛鳥時代から関所が設置されたところです。

 この関所は、古代、三関と呼ばれ、鈴鹿・不破(関が原)・愛発(あらち)の関の一つでした。

江戸時代の関所とは違って、人物改めが主だったようで、外から畿内に入る不審人物もさりながら、それ以上に外に出る者に警戒をしたらしい。

 中央政府に政争で敗れた人は、近畿地方の外に出て再起を期すということから、関の外に出る者を取り締まったと言う。

 都で権力争いの乱のあったときに、閉鎖をされたと「続日本紀」に記載されている。それは関所は右符を持ち、朝廷は左符を持ち、それが関所で一致すると関は閉鎖されたと言う。

 例えば、越前北陸に縁をたどった薬子は、ここ愛発(あらち)の関で差し止められている。また、長屋王一族が藤原氏の為に没した時、壬申の乱で大海人皇子が勝利した時、藤原仲麻呂が道鏡に追われた時、などに、閉鎖されている。



愛発の関を「あらち」と読める人は少ないでしょう。鈴鹿の関・不破の関とここである。

国道161号線を走っていても、全くそれらしい遺跡は残っていない。そこには近畿から北陸に向う旧峠道だけであった。そこに愛発の村があった。





メタセコイヤ並木から、国道161号線に戻り、北に向います。福井県に入った辺りで、標識が出てきました。






北陸最古の歴史と万葉集に出てくる詩歌の郷である。また紫式部も通ったと言うのが楽しい。





こんな標識は最近のもので、以前に通過した時はなかった。

ハイキングコースにもなっている。







少し峠の方に進むと、地区の名前が変わった。


琵琶湖の東岸をたどる9号線と湖西をたどる161号線の分岐地点でもある。





車で行ける所まで行きます。




車はここで限界でした。深坂古道は、峠を越えて琵琶湖東岸を南へ下り、長浜・草津に通じます。