みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

久しぶりに88歳の義叔母の声を聞こうと電話した

2015-08-22 18:34:15 | Weblog
オバとは東京の恵子の実家で恵子の入院中の数ヶ月間同居していた。
しかし、今は大阪の義弟宅に引き取られそちらで生活をしているので時々心配になって電話する。
メールが使いこなせない人だが(この年代の人なら当たり前だ)、携帯は持っているのでいつでも気兼ねなく連絡できる。
ただ、連絡するたびに返ってくることばは同じ。
「物忘れがひどくてネ。私、もうボケちゃってダメかも」と力なく話す。
私は、そのたびに笑いながらこう応える。
「何言ってんの!88にもなって物忘れしない方がおかしいよ。ハハハ。別にボケたってイイじゃん。デイケアとか楽しいことたくさんやって毎日明るく生きていけばイイの。家の中でも回りに遠慮しないで言いたいこと言わなきゃダメだよ。ハハハハ(義弟の家で毎日遠慮がちに生活しているだろう叔母の姿が見えるので、私は力いっぱい彼女を元気づける)」。
年寄りがボケるのは当たり前なのに、それのどこがイケナイのだろうといつも思う。
今の社会、ボケすら許されないのだろうか。
毎日にようにメディアは「認知症」の恐怖を煽る(認知症の何を恐れているのか?)。
もうほとんど集団ヒステリー状態で「ターメリックが良いとかココナツオイルが良いとかいった食べ物情報から、このエクササイズをすると脳が活性化して云々…」と、その喧噪ぶりはダイエット情報並かそれ以上だ。
先日も、軽度認知症(MCI)になっているかどうかが90%の確立ででわかる検査があるとニュースで言っていた。
私は、それを聞いて「?」。
この検査の根拠にもなっているアミロイドβ(英語では、ベータアミロイド)がアルツハイマーの元凶かどうか学説としてまだ定着しているわけではないのに「90%の確立ってなによ?」(健常者のアミロイドベータの値を計っても認知症の診断基準にはならないと反証する学説もある)。
認知症に対する最近のメディアの煽り方は異常だ。
近い将来日本だけでなく世界中で四人に一人が認知症に罹患する時代が来る。
そら大変ダ。みんなで予防しましょう….。
いやいや、私は別に大変だとは思ってはいないんですけど…。
高齢者の人口がそれだけ増えるのだから、それに伴ってボケる人が増えたって当たり前の話じゃない。
アルツハイマー型?レビ小体型?前頭側頭型?脳血管性?…いろんな理由で認知症になることはわかってきたし、脳が萎縮してどんどん老化が進んでいく…とかを医療関係者や科学者は問題にしていろんなクスリを作ってきたけれども(今のところ抗認知症薬は3、4種類しかない)、認知症を完治させるクスリはないし、土台完治するはずもない代物なのでは?と私は思っている(人間がバイオニック何とかといった人造人間になってしまえば話は別だろうが..)。
人生50年だろうが、百年だろうが、生あるものは必ず死を迎える。
だとしたら、問題は認知症にならないことなの?
それとも…?
私は、別に認知症になったって、ボケたっていいと思っている。
問題は、その後でしょう。
ずっとクスリづけにして、一日中下を向いて過ごさせるのか?
それとも、認知症なんか何も気にせずにそれまでとまったく同じように暮らしていくのか?
そんなの無理…と最初から思わないことだ。
人間は「無理」と思った時点で、全てが「無理」になってくる。
「自然に生きて自然に死ぬ」
人のボケも認知症も、あるいはガンだって、人の細胞が老化して、内臓に老廃物が溜まってくれば認知症になるのもガンになるのも「自然現象」の一つなのでは?
西洋の歴史の中では「大宇宙(マクロコスモス)」と「小宇宙(ミクロコスモス)」の違いと相克が生き方の根底にあったと私は阿部謹也先生の著書で教わった。
人間が自分の手の届く範囲でコントロールできるものが「小宇宙(ミクロコスモス)」。
逆に、人間の手の届かないもの、火、水、土、風といった「自然」がすなわち「大宇宙(マクロコスモス)」だと先生は説明する。
面白いのが、人間の内臓は「小宇宙」ではなく「大宇宙」の一部に属すること。
つまり、内臓は人間の身体の一部ではあるけれども、自分ではコントロールできない部分だから、人間の内臓も大宇宙、つまり、「自然」の一部ということになる。
ある学者さんは、内臓は「内部」ではなく、口から肛門に至るまでの入り口から出口までの部分が大気に触れている人間の「外側」だと説明する(つまり、人間の身体を口から肛門で逆向きにひっぺがすと内臓が「外」にさらけ出されることになる)。
西洋の歴史では、こうした「大宇宙」はいつも「恐れ」の対象だった(だから、西洋では「森」はいつも怖さの象徴として登場する)。
病気を起こすのも、この内臓という「大宇宙」。
だから、西洋医学では、早い段階から平気で身体にメスを入れて、この「大宇宙」の正体を覗こうとしていたのだろう。
日本の学者の中でも、三木成夫先生とか養老孟子先生といった「解剖学」の専門家は、この人間の身体の中の「大宇宙」を普段から覗き込んでいるからこそ人間の生き方や社会を大きな視点でとらえられている人が多いような気がする。
その養老先生が認知症について触れた文章の中で「<気違い>ということばを差別用語にしてしまって日常語から省いてしまったのは大きな間違いだ。彼ら彼女らは、自分たちの<気>とは違う<気>の中で生活している人たちなのだから、<気違い>と言う方が本来はマトを得たことばなのだ」というような意味のことを言っていた。
私もそう思う。
「ことば狩り」をする人たちは、何が差別かの意味もわからずに、ただ表面的な意味だけでことば狩りをして逆に差別を助長していることが多い。
差別というのは、本来「違いを認めない」こと自体が差別なのであって(人種差別ってそういうことでしょ)、単にことば上の問題ではない。
違いを認めない結果が何をもたらすかは明らかだ。
ケンカ、戦争、いじめ、..すべて「違い」を認めない人間の心が起こすもの。
認知症ということばだって、今は一般的な用語として定着しているが、それを「あのジイさんすっかりボケちゃったネ」と言った途端、「差別だ」とクレームをつける人がいる。
「ボケる」って言い方、すごくカワイイじゃない。
ボケたらツッコメばいいだけ。
認知症患者でよくある例の一つ。
「私のサイフ取っただろ」認知症患者からこう言われて介護者が「取るわけないだろう」と返すから悲劇が起こる。
これは、在宅介護でも施設の中の介護でも同じ。
私たちには「妄想」に思えることでも、患者さんの中では「真実」は確かにあるのだ。
違う「気」の世界にいる人に、こちらの「気」で反発してもツッコんだことにはならない。
まず「違う世界のボケ」をこちら側の世界のボケに翻訳することから始めなければならない。
「サイフを取った」ということばの裏には必ず意味がある。
ここが出発点だ。
認知症の人のことばは一見荒唐無稽に見えても、それはこちら側の「気の世界」での話。患者さんの脳の中ではちゃんと「理」があるのだ。
ひょっとしたら、小さい時にクラスメートの子(あるいは先生)にサイフを預けてまだ返してもらってないと今でもずっと思っているのかもしれない。
誰かに貸したお金がまだ返ってきていないのかもしれない….。
いずれにせよ、「違う気」の中に隠されている患者さんの「真実」を見つけていかないことには家族だろうが、介護スタッフだろうがコミュニケーションの「出口」は見えてこない。
きっと、その「人」に通じる「ツッコミ」をこちら側が用意しておけば良いのかもしれない。
そしたら、お笑い風に明るくコミュニケーションできるのかも…。
でも、介護(人間関係)は、ケースバイケース。
一般論で割り切るのは危険、なのだ。

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