みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

エビデンス馬鹿

2014-09-30 19:28:03 | Weblog
今年出版したばかりのドキュメンタリ本の出版社とは違う別の出版社に新しい本の企画を出していた。
長年親しくしているその出版社の社長から連絡があり「編集会議でつぶされてしまいました。申し訳ないです」ということ。
といって、あ、そうですか、と素直に引き下がる私ではない。
「それで、ボツになった理由はどういうこと?」
彼曰く、学者や権威者による「お墨付き」がないからというのが表向きの理由だ。
要するに、単に音楽家みつとみ俊郎という個人が体験したこと、経験したことだけでは世の中を納得させられないし、まず売れないということなのだろう。
つまりは、「音楽が認知症などにどれほどの効果があるのかを学者なり医者がエビデンスと一緒に証明しない限り音楽と認知症の関係の本なんて売れるわけがない」、まあ多分そう言いたいのだろう。
このひとことで私はこの出版社に見切りをつけた。
音楽がある病気に対して効果があるとかないとかいったことの証明など一体どうやってエビデンスを取れば良いというのか。
それこそ、頭に電極をつけるかCTスキャンやMRIと一緒に音楽でも聞かせようというのだろうか(体験された方ならわかるように、機関銃のような騒音のするMRI装置の中で音楽なんか聞いていられるわけがない)。
仮に、何らかの方法で音楽と病気の科学的な因果関係がわかったとしてそれが一体何の役にたつというのだろうか。
現在、認知症の治療によく使われているA錠なども多くの被験者の実験の結果実際の治療に使われているのだろうが、果たしてそのクスリで本当に患者さんの病気が完治しているのだろうか(これは疑わしい)。
このクスリのおかげで果たして患者さんが幸福な人生を送れているのだろうか(これも疑わしい)。
ある症状が改善されたとしてもクスリというのは「モグラ叩き」のようにこっちで一つ、あっちでも一つという風に次から次に副作用が出てくるもの。
クスリというのはどんな病気のクスリでも「そういうもの」なのだ。
それに、第一、私は病気を治そうなんてそんな大それたことを考えたことは一度もないし、私にそんな役割や力があるとも思わない。
私にできること、それは、音楽の力でついさっきまで暗い顔に沈んでいた一人の人間の顔を明るくすることだし、それが人間にとって一番大事なことなのではないのか。
実際、先週行なった「音楽カフェ」でもそんな光景を目の当たりにした。
これまで介護施設などで一万人以上のお年寄りの人たちと一緒に「音楽」をしてきた中でも同じような光景は何度も目にしている。
そう言うと件の社長「そう、それですよ、それがエビデンスになるじゃないですか」。
でもね…。こんなことで学者さんやお医者さんは絶対にエビデンスだとは認めませんよ。
彼らが求めているのは、「学会で発表できるエビデンス」これしかありません(そうやって「例の細胞騒ぎ」も起こったんじゃないんですか)。
彼らがとりあえず欲しいのは「科学者として世の中から認められるための権威」。それがエビデンスなのです。人々の幸せは、多分、二の次でしょう。
でも、私はそんなことで学者や医師を責める気持ちもありません。
もうこれは世の中の構造的にしょうがないことだと思っていますから。
でも、私が望んでいるのはそんなことじゃない。
音楽が人々の頭の中をかき回して刺激して、そして結果「人間らしくハッピーな生活を送ることができるようになること」。
私にとって、これ以上の望みはありませんし、これができればこれ以上のエビデンスは必要ないのでは。そう思います。
だって、音楽は何千年、何万年の間、人間の生活をハッピーにしてきてるじゃないですか。
これ以上、一体どんなエビデンスが必要なんですか。

私のことばに彼も押されたのか、「一方的に音楽を聞くだけじゃダメでしょう」とか最近TV番組で覚えたばかりらしい「当事者研究が認知症治療に有効らしい」といったことを言いだしたので、私は「私が一方的に演奏したり聞いたりするだけの音楽をやっていると思いますか。当事者研究なんて、ユマニチュードと同じで、私にとってはごくごく当たり前のことですよ」と反論したが、まあ、こんなことを言ってみたところで私の頭の中で彼のところから本を出そうなどという気はとっくのとうに失せている。
私にとって必要なのは、もっともっと現場で多くの人たちと音楽をやりながら音楽がどれだけ認知症というものに影響を与えていかれるかを試していくだけ。
そして、一人でも多くの人たちの笑顔を見るだけ。
音楽家にとってこれ以上の幸せはないと思うのだけれども….。

鎌倉の母

2014-09-15 18:48:32 | Weblog
私には、鎌倉にも母がいた。
といっても実母ではない。
正確には、実父の正妻と言われた人。
別に、だからなんだという話ではない。
敬老の日になると私は必ずこの「鎌倉の母」のことを思い出すのだ。

長い間音信不通だったこの「母」との交流は、ある一本の電話をキッカケに始まった。
鎌倉という場所は、人を妙な気分にさせると私はいつも思っている。
 
浅草の小料理屋のボンボンで薩摩琵琶奏者の友人が、「自分がやっているのは平家琵琶だから、ここに近づくと源氏の亡霊が俺に来るな来るなと囁くんで、俺は、鎌倉で未だかつて安らかに歩けたことがないんだよ」とよく言っていた。  
 そんなバカな…と私は思ったが、それでも実際にはそうした(源氏の)怨念よりもこの場所に対する愛着の方が勝っていたのだろう。
八幡宮の大鳥居の前で琵琶を片手ににっこりと微笑む彼の写真をどこかの週刊誌のグラビアで見かけた。  
 
あいつも、有名人気取りでバカなことをやっているな….。

 
そんな不思議な街へ私もある一本の電話で引き寄せられることになった。
二十年近くも前の話だ。
電話の主は私が受話器をとるなりいきなり私の名前を呼んだ。
 
「トシちゃんね?トシちゃんだろう?宮崎の加藤文嘉だけんど、覚えているかい?」。  
 
それは、かなり年輩の人の声だった。
確かに私の名前を連呼しているところを見ると、間違い電話ではなさそうだった。
それに、宮崎は死んだ父親の出身地だから多少馴染みのある土地ではあった。
しかし、一体全体、この人は誰なのだろう?  
 加藤?加藤さん?加藤文嘉?
 頭の中でその名前を何度も反芻するが何一つ記憶が手繰れない。
私が、必死に電話の主と自分の父親の関係を探り出そうとしていると、向こうから説明を始めた。
 
「私は、トシちゃんのお父さんの部下だった加藤だけども、もう覚えとらんだろうな?三十年ぶり?いやもっとかもしれん。」。 
 
彼は、私がまだ小学校に上がるか上がらないかの時の話しをしているらしかった。
 
「渋谷のウチば何回か行ったことがあるけん、まだ小さかったから覚えとらんじゃろな」。 
 
おそらく私が四、五才ぐらいの時のことを話しているのだろう。
そんなことを、今、急に思い出せと言われても無理な話だ。 
 
私は、多少苛立ちを感じ始めていた。
すると、彼の口からとんでもないことばが飛び出した。
 
「鎌倉のお母さん。シゲさんが、トシちゃんに会いたいんだと」。 
 
鎌倉のお母さん? 
ン?  鎌倉のお母さんとは、あの人のことか?
 
私の実の母は、私が中学三年の時他界した。
父親が死んだのも私が小学五年の時。
ちょうどその時だった、私が初めて鎌倉に行ったのは。
母親に手をひかれ、まだ小学校一年だった弟と私は、父親の葬儀のために鎌倉を訪れた。
情景が今でも鮮明に蘇る。 
 
見知らぬおばさん、おじさんたち….。
お葬式なのに線香の煙りは一切なく母親に教えられるままに、榊という木の葉っぱを向きを変えながら父の写真の飾られる祭壇の前に飾った。
それが、神道式の葬儀のやり方だとわかったのはかなり後になってからのことだった。

 
「そう。シゲさんが、この一年ぐらい、トシちゃんと、弟さんの、何ていったかな、弟さんの名前?」 
 
「シュンです」。私は、ぶっきらぼうに答えた。
 
「そう、そのシュンくんと二人に本当に会いたがっているんだよ。会いに行ってやってくれないだろうか?アンタも、いろいろ感情的なこともあるだろうけど、もう時間も大分たっているし、お母さんも大分年だしね」。 
 
私の小さい頃、私の母親をあれほど罵っていた人が、今頃になって急に私と弟に会いたいと言ってきている。
そういうことなのだろうか。 
 
父の家庭に子供がいないことは、実母から聞かされていたから知っていた。
それにこのシゲさんと呼ばれる人が気性の激しい人だということも聞いていた。
そのシゲさんが、私と弟にひと目会いたいと言っているからぜひ会いに行けということを私の父のかつての部下が私に伝えている。 
 
それにしても、この加藤という人は、なぜゆえにかくも長い間かつての上司に忠誠を尽くそうとしているのだろうか。
それこそ、一文の得にもならないだろうに。

「ね、わかったでしょう?シゲさんは、子供に罪はないんだし、死ぬ前にちゃんと仲直りしておきたいと言っているんだよ。じゃあ、電話番号を言うからかけてみてね」。 
 
さっきから、この人はお母さん、お母さんと言っているが、鎌倉の「その人」は私の母親なんかではない。
第一、鎌倉の家と交流がなかったのも、父の墓参りをずっとさせてくれなかったのもこの人のせいじゃないか。
それを、何で今頃になって....。 
 
私は、彼にそう言ってやりたかったが、相手の強引な口調に押されてそのまま、私は電話番号を書き取らされていた。
 
私は、受話器を置き、ボールペンで走り書きしたその電話番号をじっと眺めた。 
 
そして、頭の中で「その人」の顔を思い出そうとした。

彼女に会ったのは二回だけだった。
一回目は、父の葬式の時。
二回目は、母の葬式。
どこで聞いたのか、誰が知らせたのか、母の葬儀の場にその人はいた。
右足を引きずり和服を着た初老の婦人は、父の「その人」に違いなかった。 
 
父の葬儀に、父が認知した子供二人を連れて一人乗り込んだ母の勇気にも私は感心した。
子供を連れていけば門前払いされることはないと思ったのだろう。
自分自身に財産を相続する権利はなくても、父の子供である私と弟には法律的な権利は残されているはずだった。
母親は、その権利を主張しに行ったのだろうか。 
 
そして、その母親が死んだ時、今度は、逆に正妻であるシゲさんが我が家に乗り込んできた。
別に、我が家に乗り込んできても、彼女が私の母や私の家から取れるものは何もない。
純粋に、母の死を悼みに来たと言うのだろうか。 
 
結戦中戦後を通じて長い間続いた親の世代三人の相克のドラマは、正妻であるシゲさんと私たち兄弟を残した形で幕を引いた。
と思っていたのに、また新たな幕が、今度は私を当事者にして始まろうとしていた。

私は、メモ用紙の上に書かれた電話番号を眺め、受話器をにぎろうとする衝動を何度も抑えた。 
 
私の頭の中で同じセリフが繰り返された。
 
「シゲさんですか?お久しぶりです。トシロウです。お元気ですか?」
どう考えても陳腐だ。
いや、それ以上に滑稽でさえある。
まるでドンキホーテじゃないか。
正体のまったく見えない相手に道化をしていても意味はない。 
 
私は、意を決し受話器を取った。
 
呼び出し音が聞こえてくる。
一回、二回、三回、と。
そうだ、あの人は、確か足が悪かったはずだ。
右足を引き摺っている。
小さい頃に小児マヒを患ったからそうなったのだと聞かされていた。

十回以上は待たなければ。自分にそう言い聞かせた。  
しかし、呼び出し音は意外に早く途切れた。
五回ほど聞いただろうか。 
 
「ハイハイ」。
明るいノビのある大きな声だった。 
 
とても九十歳近い老人の声には思えなかった  
別人が電話に出たに違いない。
 
「あのう、シゲさんはいらっしゃいますでしょうか?わ、わたしは、….というものですが…」。
声がうわずっている。あがっているのかもしれなかった。
 
しかし、相手はいきなりこう答えてきた。
 
「トシロウちゃんね?早く来んね。待っとるよ。いつ?明日かい?」。
 
思い掛けない展開だった。
このままでは、明日鎌倉まで行くはめになりそうだった。
私は、咄嗟に三日後の土曜日ではどうですかと答えていた。 
 
私の答えに満足したのか彼女は、土曜日ね、土曜日ねと何度も念をおしながら電話を切った。


私の両手には、朝顔の鉢と昼顔の鉢が一つずつぶら下げられていた。 
 
前日、入谷の鬼子母神の朝顔市で買ったばかりのものだった。
私が「その人」に土曜日と答えたのは、毎年七月の最初の週末に行われる朝顔市のことを思い出したからだった。
朝顔市の初日が金曜日。 
 
私の頭の中で、鎌倉と朝顔が何のためらいもなく結びついていた。
  
朝顔だけでは寂しい。
昼顔も持っていこう。

私は、朝顔を昼顔をひと鉢ずつ買った。 
 
七月の日射しと八幡宮から海へと通じる通りの照り返しは強烈だった。
額から汗が容赦なく滲み出てきていた。
しかも、両手を塞がれている私は、ポケットからハンカチを取り出すこともできない。 
 
私は、汗で目が霞みそうになるのをじっと耐えるしかなかった。
 
「確か、この辺りが小町のはずだが」と電柱の番地表示を見る。
 
郵便局を通り過ぎたあたりから小さな川が歩道に沿って見えていた。 
 
「そうそう。この川は、海まで通じているはずなんだ」。
私は、小さい頃の記憶を辿っていた。
 
小さい頃の記憶といっても父の葬式の時ではなかった。
それよりもずっと後、私の母が私と弟を連れて父の墓参りに来た時のことだった。 
 
北鎌倉と鎌倉とのちょうど中間あたりの寺に父の墓はあった。
鎌倉で唯一の尼寺だということだった。
大きな背丈の竹が見事におい茂る寺だったが、由緒のある大きな寺の多い鎌倉の寺の中では多少貧相に見える寺でもあった。 
 
確か、この寺に来たことが二回ぐらいあったはずだった。
しかし、母が死んだ後、私も弟も、私の親類は誰も父の墓を訪れなくなっていた。
いや、その話題を口にする人もいなくなっていた。 
  
父の墓は、今もあの尼寺の中にあるのだろうか。
それとも、まったく別の場所に移されてしまったのだろうか。
母と私たちは、父の墓に詣でた後必ずこの道を通って海まで行った。
 

私は、郵便局を通り過ぎしばらく行ったあたりを左に曲がった。 
 
地元の人間や観光客で、平日でも人通りの絶えることのない大通りを一本小道に入っただけでそこは古都鎌倉だった。 
 
どの家もゆったりとした敷地に石や竹、木の塀で家を取り囲み、他所ものを寄せつけない毅然とした門構えを持っていた。
 
左手に大きな寺の裏門があった。
その向いには、料亭なのだろうか、通りすがりの一見の客はお断りとその看板が無言で語りかけていた。
さっきまで聞こえていた自動車の騒音と人々のざわめきと入れ代わりに、寺の塀の上に突き出した竹林がさわさわと風にそよぐ音が聞こえてきた。
頭の上では、鳶が空高く舞っていた。 
 
私は、あの琵琶奏者の言った源氏の亡霊の声が今にも聞こえてきそうな気配を感じた。
 
もちろん、真昼の炎天下に出てくる亡霊などいるわけがない。
しかし、鎌倉には過去がいつもそこにある。
亡霊たちが真っ昼間か顔を出してきてもおかしくないほどの深遠で冷徹な雰囲気が備わっている場所だ。 
 
鎌倉の小学校のほとんどは戦前の古い校舎のままだ。
少しでも掘り起こせば、遺跡や人骨が出てくるからうかつに建て替えられないのだそうだ。
 

「確か、このあたりのはずなのだが」と番地と表札を照合すると、そこにはミツトミ・トシミ(確かに父の名だ)、ミツトミ・シゲと書かれた木の表札があった。
竹の格子戸のある古い一軒家だった。 
 
「この家がそうなのか?」。
 
私は、目の前の表札を見ながらその人の姿を想像した。
 
それにしても、なぜ三十年以上も前に死んでしまった父の名前がまだ表札には書かれているのだろうか。
私は呼び鈴を押した。
 
通りに面した古めかしい格子戸と家の玄関までは数メートル距離があった。
しばらくすると、玄関の引き戸ががらがらと音をたてて開いた。 
 
懐かしい音だ。
 
今は、一軒家だろうがマンションだろうが、引き戸の玄関などほとんど見かけない。
蝶番で開くドアの音は、オイルが切れていない限りほとんど無音だ。
現代社会は、ガラガラという音すら許容しないのだろう。
 
その「音」の向こうから現れたのは、小柄な和服姿の女性だった。

「トシロウちゃん。いらっしゃい。こっち、こっち」と言って、彼女は私を手招きした。
早く玄関の方に来いと言っているようだった。 
 
私は、格子戸を開け、みやげの朝顔を彼女に渡した。
 
「あら、朝顔ね。きれいだね。ありがとよ」。
彼女はそう言った。その声は近所中に響き渡るのではないかと思われるほど大きなものだった。 
 
「こっちに来なさい。今、全部案内してあげるから」。
そう言って、彼女は、私を裏庭の方に案内し始めた。
 
さほど広い庭ではなかったが、ボケ、カイドウ、柿、枇杷などの大きな庭木が生え、ゆったりした佇まいの風景はまさしく鎌倉ならではのものだった。
大きな枇杷の木には枇杷の実がたわわに実り、枝はその重みに耐え切れず大きく曲がり、川幅二メーターほどの先ほどの小川の方まで迫り出していた。 
 
「そこは、鯉もたくさんいるし、何だかわからないけど魚がたくさん上がってきているよ」。
 
きれいな小さな川の流れだった。
街の中にある川でこれだけ水の澄んだ流れを見るのは久しぶりだった。 
 
「トシロウチャン。これ、みんなあんた達兄弟にあげるからネ。私が死んだら、住もうと売ろうと、あんた達の 勝手だからネ。ちょっと古いけど、手入れすればあんた達でも住めるよ」。 
 
いきなり何を言い出すんだこの人は。
 
私は面くらった。
この人の頭の中では、父親が死んでからの三十数年は一体どこに行ってしまったというのだろう。
あれほど頑強に、私の母親と私たち兄弟の存在を拒み続けていた思いはどこに消えてしまったのだろう。
 
いくら子供がいないとはいえ、私はこの人の本当の子供ではない。
 
「私と弟は、あなたの父親が他所に女を作って産まれた子供です。その私たちに、いきなり家を継げと言うのですか?」

 
私の母親は、三人姉妹の一番末っ子。
鹿児島で生まれた母は、祖母や叔母たちと一緒に戦争中、台湾に疎開していた。
鹿児島は台湾に近い。 

三人姉妹の中でずば抜けた容姿を持っていた母が、日本の軍人たちが催すパーティに借り出され当時台湾総督府の要職にあった父の目にとまるのにそれほどの時間はかからなかっただろう。 
 
そんな事情を、父の正妻であったこの人はどれほどわかっていたのだろうか。


私は、案内されるまま家の中に通された。
茶室になっている居間には、小さなちゃぶ台と座蒲団が敷かれていた。
床の間には、南画の掛け軸とお茶の先生だというシゲさんが活けたのだろうか、百合の一輪ざしが置かれていた。 
 
「お昼、まだでしょう?今、用意しますからね」。
 
そう言われて、まだ昼を食べていなかったことを思い出した。
 
しかし、私は反射的に、「大丈夫です。お構いなく」と心にもないことを言っていた。  

聞こえているのかいないのか、私のことばなどまったくおかまいなしに彼女は食事の支度を始めた。
 
居間の目の前には廊下と廊下の向こうに縁側があった。
縁側に接する窓ガラスは全部開け放たれていた。
畳み十畳ほどの居間から廊下、縁側、そしてその前には草花の生い茂る庭が広がっていた。 
 
夏の日射しは高い位置にある。
縁側の上のひさしに遮られて太陽の光は家の中まで届いてこなかった。
時折、外から心地よい風が居間の方まで吹き込んでいた。 
 
庭の手入れもしっかりと行き届いていた。
梅の木には、梅雨の間にもがれずに枝についたままの梅の実がたくさんぶら下がっていた。
 
「たくさん、もいでいきなさい。私は、もう梅酒も何も作らないから」。そう言って、彼女は、梅の実をもがせようとした。 
 
「私は梅酒なんて作ったことありませんし、祖母が毎年作っていた梅酒がまだたくさん残っていますから」。
 
私は、このまま彼女の言う通りにしていたら、梅の実をたくさん持たされそうだと思った。 
 

この家では時間が止まっている。
 
私はそう思った。
 
すべてが一つの平面にあった。
台所から便所、玄関、廊下、居間、寝室、縁側、庭に至るまでそのすべてが同じ平面上にあり、そこを仕切るものは何もないかのようだった。
同じ一つの風が家の中を巡っていた。
 
この空気の中にいるのは、私と彼女の二人だけ。 
 
しかし、孫と祖母ほども年の離れた二人の間に共有されている時間は何もなかった。
そこにあるのは、ただ一人の男性でつながる縁、それだけだった。
彼女にとって、私は一体どういう存在なのだろうか。
本当に息子だと思っているのだろうか。
 
三十年以上も前にこの世を去ってしまった自分の夫とその不倫相手を許し、その二人の間にできた私という存在を無理矢理息子だと思おうとしているのだろうか。
 
いっそ単刀直入に聞いてみようか。

「私は、あなたの息子ですか?」 
 
私がこの家に足を踏み入れてからどれだけの時がたったのか私には皆目見当がつかなかった。
私は腕時計をしていないし、この家の中にも時計らしきものはどこにも見当たらなかった。 
 
彼女は、一体どうやって時間を計っているのだろうか。
あるいは、彼女の生活に時間などまったく必要のないものなのだろうか。 
私は、座蒲団の上であぐらをかいていた足をなげだした。
両方の手を後ろでにつくと私は、上半身の体重を自分の腕にかけた。
思いっきり伸びをしてみたくなったのだ。
その時、彼女が急に朝顔のことを言い出した。  
 
「さっきの鉢、縁側の下に置いてちょうだい」。
そうだ、鉢は、まだ玄関に置いたままだった。
私は、ゆっくりと起き上がると、鉢を取りに玄関に行った。 
 
玄関には、縦横五十センチ、高さ三十センチほどの大きな敷石があった。
鉢は、その敷石の脇の地べたに置かれたままになっていた。 
 
私は、二つの鉢を手に取ると、それを縁側まで運んだ。
地面に降り立った私は
「ここら辺でいいのかな?」そう聞いた。
 
「そうそう、そこでいいよ。やっぱり、こっちの方がいいじゃないか。ウチには蔓のあるものは何もないんだよ。何にも取られたくないからね」。

そう言いながらシゲさんが私の前にやってきた。
 
「蔓があると、木もくいも枝も、屋根もひさしも全部取られてしまうからね」。
 
次ぎの瞬間、頭を前にかしげ過ぎたのか彼女の身体が前につんのめりそうになった。
私は、咄嗟にぐらつく彼女の体を下から支えた。
なんて軽いんだ。

 
私は、「あの日」と同じように、シゲさんの家の格子戸を開け、庭の敷石に足を踏み入れた。
告別式から十日はたっていたはずだ。
私が引き戸を開けた気配を感じたのだろうか、家の中から五十代ぐらいの一人の男性が出てきた。
私の顔を見ると、その男性は、私に軽く会釈をした。
 
「トシロウさんですか?」その男性が尋ねた。 
 
ええ、そうですと答えると、その男性は、わざわざ遠くまですみませんねと言った。
そして、自分がシゲさんの弟の子供であることを告げた。
 
シゲさんには、姉と弟がいたはずだが、どちらもはるか昔に亡くなっているはずだった。
しかし、そのどちらの親戚ともシゲさんはかなり頻繁に交流があったのだろう。
男性の口ぶりから、そうした過去を私にわざとひけらかすようなそぶりが感じられた。 
 
私と弟。それは、この男性にとってもまったく無視することのできない存在。
しかし、同時にあまり関わりたくはない相手。
そんな彼の心の中がすぐに透けて見えた。

 
その数日前、私は、しばらく会っていなかったシゲさんの様子が気になり、電話をした。
 
聞き慣れない声が電話越しに聞こえてきた。
女性の声だった。
いつもの明るいシゲさんの声ではなかった。
暗く沈んだ声だった。 
 
私が自分の名前を告げると、相手は、シゲが一週間前に死んだこと、そして、今家の中の後片付けをしている所だと私に教えてくれた。
そして、さらにその女性は少し苛々した様子でこう付け加えた。 
 
「叔母は、九十二で亡くなりましたが、あなたの事は叔母から時々聞かされていました。叔母がこの家を譲るとか言っていたそうですが、そんなたわごとはもうお忘れください。叔母は、ちゃんと遺言を残していて、財産は全部こちらの親戚で分けることになっていますし、この家も処分してしまいます。もう二度とこちらにはかけてこないでください」。
そう言って、女性は無造作に電話を切った。

 
シゲさんが亡くなった。
九十を越えている彼女にいつ死が訪れても何の不思議はなかった。
随分前に大往生した私の祖母も享年は八十八だった。
それに比べて、なんて長生きな人なのだろうとずっと思っていた。 
 
もちろん、年寄りの一人暮らしを役所がほうっておくわけはなかった。
時折ヘルパーさんが訪れていたようだったが、健康そのものだった彼女に対して役所もとりたてた危機感は持っていなかったのかもしれない。 
 
亡くなったシゲさんの亡骸を発見したのは用事で訪れた隣家の住人で、死後二日たっていたそうだ。
よくある話、と言ってしまえばそれまでのことだが、その間、シゲさんは、誰に看取られることもなく家の中に一人放置されていたのだ。 
 
私は、その男性の後を追って家の中に入った。
もう一人女性の姿があった。
この男性の奥さんだろうか。
それとも、私が一昨日電話で話した相手なのだろうか。
私は、すっかり物の無くなってしまった家の中を見回した。
元々そんなに家具がたくさんあった家ではなかった。
平屋の一戸建て。すべて畳みの部屋である。
年寄りの一人暮らしにそれほどの荷物は必要ない。
大きな家具で目立ったものと言えば、箪笥と旧式の白黒テレビぐらいだったろうか。
大きな足の四本ついたテレビは、おそらく昭和三十年代ぐらいに購入したものだろう。
もちろんリモコンなどという気のきいたものはなく、カチャカチャと手でチャンネルを回していかなければならない代物だった。 
 
時々、そのテレビをシゲさんと二人で見た。
彼女は新聞のすべての面を毎日くまなく読むといっていたが、テレビはほんのたまにしか見ないとも言っていた。
ちょうど歌謡番組をやっていた。
往年の大物女性歌手がブラウン管の中で歌っていた。 
  
私は、彼女のごきげんをとるつもりでこう聞いた。 
 
「お母さん。この人の歌、好きでしょう?」。
 
私は勝手に思い込んでいたのだ。
お年寄りならすべてこの人のファンだろうと。  
 
しかし、彼女はちょっと怒ったような口調でこう言った。
 
「私はこの人嫌いだよ。何で、あんな気持ちの悪い濃い化粧をして整形おばけのような顔で歌っているんだろうね。それに、この人の歌、ちっとも上手かないよ」。 
 
彼女の言う通りだった。
確かに、この歌手は若い時は数々の名声をうちたてた人だったのかもしれないが、既に音程はかなりあやしくなっていた。

私は、シゲさんがいつも座っていたちゃぶ台の場所、そしてテレビの置かれた場所を見た。
しかし、そこには何もない。
 
今どきあんなテレビを欲しがる人がいるとも思えない。
きっと、粗大ごみにでも出してしまったのだろう。 
 
私は、急に不快な感情に襲われた。  
私は、一体ここで何をしているのだろう。
  
遺品でも探しに来たのか。
 
いや、そんなことではないだろう。
第一、此の家に遺品などというものが存在するとも思えなかった。 
 
できるならば、こんな形でこの家を訪れたくはなかったのに。
 
できれば、たった一人でシゲさんの住んでいた時そのままの家の中に入り、自分が最初にこの家を訪れた時と同じように、縁側に向って庭を静かに眺めたかった。
そうやって、たった二年半の短いつきあいだった「鎌倉の母」との日々をゆっくりと振り返りたかった。 
 
しかし、私は、既にその家の招かれざる客になっていた。 
ひと通り家の中を見たら早々に引き上げよう。
 
その方が、私にとっても彼らにとっても平和なはずだから…。
 

私は、縁側に立った。 
 
庭に面したガラス戸は閉め切られていた
。冷房のまったくない家であったが、夏でもこの家で暑さを感じたことはほとんどなかった。
私はガラス戸に手をかけた。
ちょっと手に力をいれ、そのガラス戸を右に押し開けようとした。
相変わらず立て付けの悪い引き戸だった。
 
私が、戸の上の方にだけ力をかけたせいだろうか、ガラス戸は、下の方でひっかかり一瞬止まった。 
 
しかし、私は、そのまま強引に力をいれ、ガラス戸を右に押しやった。
 
ひっかかりながらも、その戸はガラガラと音をたてて開いていった。
すうっと風が家の中に流れこんできた。
私は、背後に二人の視線を感じた。 
 
せっかく閉めている戸を(この人は)なぜわざわざ開けてしまうのだろうか。
 
そんな非難の視線を感じながら、私は庭を見た。 
 
「この綺麗な庭を見るのも今日が最後だな」。
そして、私はゆっくりと視線を下に落とした。 
 
「あ、朝顔!」
 
朝顔と昼顔の二つの鉢は、私が初めてこの家を訪れた時に置いたそのままの位置に置かれていた。
 
シゲさんと再会した最初の年の夏の終わり、私は、彼女にこう言った。 
 
「お母さん。朝顔を毎年咲かせましょうよ。何なら、ここに大きなひさしというか藤棚みたいなのを作って朝顔を一面に咲かせましょうか?」。
しかし、彼女はこうことばを返した。 
 
「鉢だけにしときなさい。朝顔に縁側を全部占領されてしまいたくないからね」。
 
私は、秋になると、咲き終わった朝顔から種子をとってシゲさんに渡した。
彼女も、律儀にその種を蒔き、鉢の中で朝顔と昼顔を育てていたのだ。 
 


検査結果

2014-09-10 14:43:33 | Weblog
恵子の退院後の整形外科での3ヶ月おきの定期検査。
前回医師から「骨折した患部が壊死しているかも?」みたいな(不吉な)ことを言われた後だけに、彼女にとっても私にとってもレントゲン撮影の結果はとても不安だった。しかも、
アポの時間を1時間半過ぎてもなかなか診察の順番が回ってこず(整形の待ち時間はいつも長く、何のためのアポ時間なのかといつも疑問に思う)、苛々と焦りは頂点に達していたが、今回も医師のひとことで急激に肩から力が抜けてしまった。
「大丈夫だね。順調ですよ」。
このひとことでそれまで彼女の身体の中にずっと重くのしかかっていたストレスと不安が全身からどっと抜けた(ようだ)。
いつもはあまりしない雑談に先生と恵子が花を咲かせている(ちょっと珍しい光景だ)。
「家事なんかやってるの?」「あまりやってません」「でも、炊事は?」「ちょっと…(きっと、医師のことばがよく聞こえずに誤解したのだろう)」。
あわてて私が訂正する。
「いや、炊事は全くできません。お皿を少し並べたりするぐらいで…」
「そうだろうね。どうやってやるのかなと不思議に思ったんだけど…」
こんな雑談が診察室で気楽に交わせることが嬉しい。
3ヶ月先の12月の予約を済ませ診察室を後にする。
会計に向うとすぐ前に見慣れたおばあさんが車椅子で順番を待っていた。
「そうだ、恵子のベッドの隣にいたあの人だ」。
名前は忘れてしまったが、恵子の隣でいつも「イテテテテ…」と口癖のように唸っていた人だ。
恵子と顔を見合わせ「イテテおばさん、まだ入院していたのか」と驚く。
この人の「イテテテテ」は、横のベッドで聞いていてもほとんど途切れることのないほど続いていた。
なのに、看護士さんが来て「痛みは?」と聞くと必ず「大丈夫です」と答える。
あんなにしょっちゅう痛いって言ってるじゃないか!と突っ込みを入れたくなるが、おそらくこの年代(明らかに八十代以上の方)の人たちに特有の「遠慮」の作法なのだろうと理解する。
家庭や学校であまり自己主張をしてはいけないと教育されてきた世代独特の反応だ(特に女性は)。
現在の被介護世代の大半がこうした「自己主張を良しとしない」世代の人たちなのでいろいろな問題も起きるのではないかと思う(特に介護施設などで)。
この方はどうやら一人暮らしのご様子で、ずっと恵子の隣に入院していた時も身内とおぼしき人が尋ねてきたことはまったくなかった。
時々訪れてきたのは市役所の職員とおぼしき人物(ほとんど若い男性だが)か、あるいはケアマネージャーとおぼしき女性のみだった。
「はい、これアパートの通帳と領収書、そしてガス、電気の領収です。他に何かお部屋から持ってきて欲しいものありますか?」
え?市の職員さんってそこまでプライベートの面倒を見なくてはいけないの。
聞こえてくる会話に一瞬驚くと同時に、きっとそうなんだろうな、一人暮らしのお年寄りを助ける行政の立場としては、そこまでやらないといけないのだろうなとも納得する。
でも、…。
それでもやはり疑問がわく。
これからどんどん増えてくる一人暮らしのお年寄りの面倒を行政が果たして全て見る事ができるのだろうか。
どう考えても無理だよな。
そんなことやりきれるはずがないし、特別養護老人ホームだって、有料介護つき老人ホームだって入りきれるキャパが今でも足りないし、その穴埋めのためのグループホームやデイサービスだってどこまでこの穴を埋められるのか(政治は、それを全て「在宅に回せ」と言うのだが)。
そんな心配をしてしまう私たちを他所にこの「イテテおばさん」は、きっとこうした医療施設を介護施設代わりにうまく利用しているのかもしれない(とも思った)。
ある意味、いろいろな行政の福祉サービスを利用すれば、民間のアパートに一人暮らしで住んでいるよりも、医療機関に入院している方がそれこそ「命の保証」はしてくれるし、三度のご飯にもありつけるし、入浴サービスだってあるし、絶対居心地は悪くないはず。
しかも、はるかに安上がりかもしれない(生活保護の方が最低賃金よりも暮らしやすいのもこれと同じ仕組みがあるからだ)。
まあ、そうは思いたくはないのだけれども、この「イテテおばさん」そこまで見抜いて意図的に入院生活を繰り返しているのかもしれない。
しかも、そんな人は日本中にきっとたくさんいるのだろうナとも考えてしまう。
これを「福祉国家」と言ってよいのか、あるいは「福祉後進国」というべきなのか、ちょっと微妙なところではあるのだが。

記念日

2014-09-02 18:51:22 | Weblog
とはいっても、私にとって本当は思い出したくもない「悪夢の記念日」だ。
恵子が病気に倒れたのは、三年前の2011年9月2日。
この三年間彼女の介護を続けてきて、三年前よりも気持ちが明るく落ち着いてきたかと言えば必ずしもそうとは言えない。
逆に、いろいろな不安が増えたような気もする。
三年前のこの日病院のベッド脇で思った「起こってしまったことはしょうがない。問題はこれからだ」という「覚悟」自体は揺らいでいないが、まだ何もわかっていなかったあの時と比べて、冷静にいろいろなことが判断できるようになってくると逆にどんどん「怖さ」も増している。
一つには、「再発の恐怖」というのがいつも頭のどこか片隅にあるからだろう。
脳梗塞も脳出血も「再発」の可能性はいつでもある(脳梗塞の方が再発の頻度ははるかに高いのだが)。
この病気は、単に「生活習慣病」とばかりは言えない別の要素もあるからだ。
むしろ「生活や食べ物が悪い」から病気になったのだったら、それを改めれば良いだけのこと。
しかし、それをやったところで「再発」する人はいる。
きっと別の何か重大な問題がこの病気には潜んでいるのだろう。
そうなるリスクは毎日の生活の中から極力取り除くようにしている。
それでも…。時々何か肝心なことを忘れているような気がする。
疲れがたまったりすると(私自身の苛々からか)、時々彼女に声を荒げる時がある。
おそらく、介護の日々を送っている人ならそうした日常生活の苛々から、本当はしたくない言動をしてしまう時は必ずあるのだと思う。
で、そのたびに、自己嫌悪に陥る。
相手のことをすごく思いやっているつもりなのにどうしてそういう言動や苛々が出てきてしまうのか…。
介護の日常は、三年前に考えていたようなそんな「甘い」ものではやはりなかったということだろう。

発症当時はわからなかった恵子の麻痺の度合いも他の人よりはるかに高いことも徐々にわかってきた(なので、余計に他の人と比較して「何でまだこれぐらいしか回復していないのだろうか」とつい思ってしまう)。
「それ」が三年前の今日何の前触れもなく突然起こったのと同様に、これからもいつ何時何が起こるかわからない。
昨日は防災の日で至るところで防災訓練が行われていたようだが、もし万が一私と恵子の目の前で大災害が起こったらどうすれば良いのか。
これもいつも考えていることだ。
「おぶって避難するしかないな、でも軽くてよかったよ」。
恵子にそう冗談めかして言うとかすかに彼女の顔が微笑んだような気がしたが、その表情は以前とはまったく違う。
私たちの脳の中で何が行われているのかはまだ本当に私たち人間は解明していない。
恵子の脳の出血がどれだけのダメージをもたらしたのかは私たちにも未だによくわからないし、きっと医者にも(研究者にも)それほどよくはわかっていないのだろう。
恵子の身体半分が麻痺してしまったことは確かだが、彼女が受けたダメージは単にそれだけではない。
ほんの少しの刺激で涙が出たり、右の耳の聞こえが悪くなったり、すぐに「暑い」「寒い」を交互に繰り返す環境変化への過敏な反応など、いくらでも(異常は)出て来るのだが、私が一番懸念するのは、「喜怒哀楽」の反応が以前よりはるかに鈍いのではないかということだ。
それもいつも同じ調子ではなく、調子が「いい時」と「悪い時」が微妙にあったりする。
ただはっきり言えることは、以前よりも「笑わない」し「怒り」もしないし、「驚き」もしないということ。
一緒にいる私でも感情の起伏がなかなか読み取れないのだ。
いろいろ調べたり同じ病気の人に聞いたりしても、こうした変化は別に一律に同じように現れるわけではないらしい。
結局、みんな症状は違うということ、それしかわからない。
なので、恵子のこうした症状をどうしたら治していけるのかと思っても、いわゆる(担当医師である)神経外科の医師にとってこれは、ある意味「専門外」なのではないかと思う。
おそらく、「心療内科」の医師の方がより適切な指導をしてくれるのかもしれない。
これまで起こった三回の転倒も彼女の「ある悩み」が直接の引き金を引いていた。
つまりは、心的要因が身体的パニックを引き起こしたものだと私は今でも思っている(それが「心療内科なのでは?」と私が考える理由だ)。
つい先日もこんなことがあった。
彼女を入浴させ、洗い場から脱衣スペースへいざ上がろうとする時彼女の足が突然止まってしまったのだ。
洗い場と脱衣スペースの間には5センチほどの段差がある(どこの風呂場でもこれぐらいの段差はあるはずだ)。
しかし、そこにはとても掴み易い場所に二カ所手すりがついている。
いつもだったらそこをつかみ若干の躊躇はあっても問題なく移動はできていた。
しかし、この日はまったく事情が違っていた。
何度も何度も上がろうと試みていることはよくわかるのだが、彼女の足がまったく動かない。足が上がらない。
動かそうと試みていることは彼女の膝の動きや微妙な動きでわかるのだが、足はピタっとそこに留まったままだ。
彼女の身体をかかえて移動させてしまうのは簡単だが、それは絶対にしたくなかった。
いったん、そうやって誰かに助けられてしまうと「ああ、この動作は自分ではできないんだ」と脳が覚えてしまうことを恐れて私はどんなに動作が遅くても彼女の手助けはしないようにしている。
なので、ひたすら辛抱強く待った。
しかし、十分待っても二十分待っても彼女の足は一向に動く気配がない。
私は、意を決して彼女を無理矢理かかえ脱衣場へと移動させた。

この後、二人で話しあい原因を探った。
絶対どこかに「そうなった理由」があるはずだからだ。
やはり、原因は彼女の脳の中にあった。
彼女は、来週に迫った骨折の定期検査の結果を恐れていたのだ。
6月の検査で医師に言われたひとことにその伏線があった。
レントゲン写真を見ながら何気に言った医師のことばが彼女の脳裡にトラウマのように居座り続けていたのだ。
X線写真というのは、けっして骨の細部までは見せてくれない。
いろいろな病気の「カゲ」のようなものを映し出すことはあっても、けっして「骨の中身」まではっきりと見せてくれているわけではない。
なので、医師も「~の可能性があるネ」といった曖昧なことを言う。
別に自己弁護でも何でもないだろう。
整形外科の医師として、X線写真だけでは本当に判断できなかっただけなのだろう。
しかし、患者とその家族にしてみると、医師のことばというのは、ある意味「神のことば」にも等しい場合がある。
「え~?うそ、ホントですか」と突っ込みを入れてもその「神様」にも確信がないのだからそれ以上突っ込みようがない。
仕方なく、その「不安」は、患者とその家族が背負い続けることになる。
「そうか、恵子はこのことばをずっと引きずっていたのか」。
骨折はしたものの息のあう療法士との出会いによって恵子の回復は思ったよりも早く順調に見えたのに、恵子はこのことをずっと悩み続けていたのだ。
退院直後はかなり回復していたように見えていた。
しかし、それ以降彼女の身体の調子は悪くなる一方で、夏の終わりのこの時期最悪の状態になっていた。
しかも、その原因は「暑さ」だけではなく、こんな「心理的要因」に影響されていたのだ。
「そんな歩き方じゃダメだよ」といつもダメを出してばかりの私だが、こうした彼女の心の動きにもっと思いを寄せる必要があったのでは…。

「介護する人」と「介護される人」との間の駆け引きは、「何かをする、される」という関係だけではけっしてないということを心にいつも留めていたつもりだったが、何か大事なことをどこかに「置き去り」にしてきたのかもしれない。
ふだんからお年寄りのケアや認知症の方に対するケアを「相手目線」でしようとしている自分なのに、こんなに身近な人間の「目線」にすらなれないなんて…。
いつも恵子が「自分じゃ何もできないのが悔しい。全部やってもらっちゃって」と訴えるたびに「いやあ、俺が全部やるのは別に何でもないよ。それよりも一所懸命治ることだけ考えればいんだよ」と応えるが、ひょっとしたら、こんな私のことば自体が彼女には負担になっていたのかもしれない。
どんなに努力してみても本当に「他者の気持ち」になることはできない。じゃあ、それで諦めてしまえば良いのかというと絶対にそうではないだろうと思う。
人間というのは、一人では生きていけない以上、他者との関わりの中でしか生きられない。
その中でも最も身近な人、最も大事な人の心を思いやることだけは忘れないようにしたいし、その方法も一つじゃないんだろうナ…と思う。きっと。