みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

寒の戻りって

2006-03-30 23:47:14 | Weblog
やつですネ。
この季節は、三寒四温とはよく言ったもので、寒くなったり暖かくなったりの繰り返しで少しずつ春になっていく。
来週からは、一年中ほとんど気候の変わらないメキシコに行く。帰ってきたらきっと春本番ぐらいかナ?

でも、それにしても今日は寒い。
夜行ったyumiのコンサートが終わり外に出た瞬間「う~さぶ」という感じで、コンサートの客がすべて震え上がっていたようだった。

yumiというまだ芸大在学中のフルーティスト。ソニーが「萌え系フルーティスト」として売り出しているのでどんなモノかと聞きに(見に?)行く。
CDそのものは聞いていたので、どんな演奏かはある程度想像はついていたのだけど、しっかりした低音と伸びのある高音、とフルートの理想的な音をしっかりと持っている子。まあ、さすが芸大生とは思ったのだけれども、最後まで聞いていてわからなかったのは、ソニーはこの子をどういう風に育てたいと思っているのだろう?
「ハンガリアン田園幻想曲」や「カルメンファンタジー」など、フルーティストの定番楽曲が並んだ演奏会を見ると、普通にクラシックのソリストにしたいとしか思えないのだけど、それならあの「萌え系」キャラは無理がある。
今日のコンサートで一番萌え系キャラとしてふさわしかったのは、アンコールでやった自作の『メルヘンな風』という曲。ヤマハ出身の子なら誰でも作曲はできるが、この曲もいかにもヤマハ出身ということがわかる曲。でも、一番あっていた。
クラシックの演奏も大変上手なのだが、上手だというだけでまるで学内演奏会のような優等生の演奏。あの演奏と萌えキャラはマッチしない。しかも、フルートの定番の「主題と変奏」のような作品を演奏するとどうしても足をふんばってしまうので、いくら萌えキャラの彼女でも演奏中のカッコはあまりブリっこにはならない。しかし、アンコールのあの曲は、今日のコンサートの中で唯一「萌え」ていた(ように見えた)。
要するに、内田光子にしたいのか?西村由紀江にしたいのか?
どうみても内田光子にはならないと思うし、西村由紀江にした方が売る方も買う方も納得できるのに...(でも、ひょっとしたら、本人は内田光子になりたいのかもしれないけど)。

で、もう一つ驚いたことがあった。
客の過半数が男性。しかも、年輩が多い。
休憩でトイレに行った時、男性トイレに列ができていた!
普通、列ができるのは女性トイレだろうが。
これも、「萌え」キャラのせいなのだろうか?

栄光とハングリーさ

2006-03-29 00:14:52 | Weblog
っていうのは、いつも同じところにあるような気がする。
どんな世界でもそうだけど、成功する人には常にハングリーな気持ちがあると私は思っている。
ロシアの男子スケートの王者プルシェンコにしても、メトロポリタンオペラの歌姫アンナ・ネトレプコにしても、テニスのシャラポワにしても、ロシア出身のスーパースターにはすべてハングリーさが根底にある。
今のロシア自体が貧しいからこそ、そこから成功したこれらの人たちの原動力に「貧しさからの脱却」というモティベーションがあったことは間違いない。

先日ネトレプコにインタビューして驚いたのは、彼女が自分が成功してたくさんのお金を手にいれ、それを友人たちに分け与えていることだ。親や兄妹といった身内に成功したお金を仕送りしたりする例はよく聞くけど、友人にまで分け与えるとは...。
そして、その理由を、彼女はさも当たり前のように言った。「だって、みんな貧しいから」。
貧しさやハングリー精神が成功するための原動力になることはスポーツの世界ではよくあることだ。特に、ボクシングのように、過酷な減量やトレーニングを強いられ、顔や身体を殴られて痛めつけられるスポーツにはことさらハングリーな気持ちが必要なのだと思う。
日本のカーリングの女性たちも、スケートの荒川選手にしても、ジャンプの原田選手にしても、スポーツの世界で栄光をつかむ人たちの影には必ず過酷な生活と努力がある。それがなければ成功も栄光もあり得ない。
音楽の世界でも本当に成功する人は、ハングリーな人だけ(物質的な意味だけじゃなく、精神的にもハングリーでなければならない)。
エンタテインメントの世界というのは、貪欲に栄光をつかみ取りたいという意志がない限り、絶対に成功できる世界じゃない。
さっきのネトレプコにしても、オペラを勉強したいけどお金がないから、オペラハウスの掃除のアルバイトをして歌をいつも聴いていたという。それぐらいのハングリーさを持っている人若い人が今の日本にあまりいないのはナゼだろう?
別に、成功しなくってもいいと思っているからだろうか?
適当に人生楽しんでいければいいと思っているからだろうか?
きっと、みんな自分は貧しくないと思っているからだろうナ...。

今日、埼玉の小学校のジャズのフルバンドの演奏を聴いた(小学生がフルバンドをやるんだよ)。
『スイング・ガールズ』よりもはるかに上手に、そしてカッコよく演奏する少年少女たちだった(ほとんど少女だったが)。
みんな、それほど長い間楽器を練習したわけではない。映画の『スイング・ガールズ』の子たちと同様、1年とか2年足らずの子たちが大半。それで、あれだけの演奏をしてしまう。
指導している先生がかなり変人だけど、かなりアツイ人だった。自分の私財を投じて、子供たちに楽器を買い与え、そして楽器のそれぞれの専門家に指導を頼んであれだけのモノを作り出している。
ある意味、私と同じで、お金は自分のために使うモノではないと思っている人かもしれない。
私もお金を自分のために使うよりも人のために使う方が好きだ。というより、そうすべきだと思っている。
自分の生活が汲々としている時はそうできないけど、ちょっと余裕ができるとすぐ人のために使ってしまう。むしろ、それのほうが楽しいし嬉しい。
「お金は天下の回りモノじゃ~い!いつか自分に戻ってくるだろう」ってなぐらい呑気なヤツですから私は。

いつも、自分をハングリーな状態においておきたい。あまり余裕のある生活はしたくない。
いつも何か満たされない状態においておかないと「それを満たしたい」という渇望感が出てこない。この渇望感こそが、生きるエネルギーだと思っているからかもしれない。
おそらく、私にとって一番耐えられない生活が、楽隠居のようなノンビリした生活だろう(こういう生活は私にとっては堕落以外の何ものでもない)。
そんな生活になったら、きっと三日で死んでしまうに違いない。
だって、今日満たされないからこそ、明日満たしてやろうと思う意欲が湧いてくるわけで、だからこそ、明日生きられるんじゃないのかナ?

人間にとって

2006-03-26 23:18:50 | Weblog
一番大切なことは何か?といつも考えている。
それこそ、仕事をしている時も、料理を作っている時も、人と話しをしている時も、TVを見ている時も、それに、こうして何かを書いたり考えている時も。
逆に、そうしなければ、何一つできないんじゃないだろうかとさえ思う。
特に、私はいろいろなメディアやいろいろな場所で文章を書くことのプロだ。そのプロがモノを書く時に一番先に考えなければいけないことは、「人間にとって一番大切なことは何か?」ということだ。
それは、どんなことがテーマの文章であっても、それを明確にしない限りすべてウソの文章になってしまう。私にはそんな気がしてしょうがない。

私が考える「人間にとっての一番大切なこと」とは、「自由」と「責任」の2つしかない。
人間が自由にモノを考え行動できること。これ以上の素晴らしい権利はないし、これが守られる社会こそが人間にとって理想的な社会だとも思っている。
でも、同時に、その「自由」には必ず「責任」が一緒になければ何の意味も持たないとも思っている。
私は仕事としてモノを書いている以上、そこに責任が発生するのは当たり前。でも、そうでなくても、自由には必ず責任が果たされなければならないはずだ。
インターネットが普及して、今私がこうしてブログに何かを簡単な形で自由に書き込めるようになってきて、いわゆるプロのモノ書きでなくても「自由」に自分の意見や考えていることを発言できるようになってきた。
でも、そうした自由をみんなが得られたおかげで、もう一方の大事なこと、「責任」はまったくどこかに置き去りにされてしまったような気がする。
プロとアマチュアのモノ書きの根本的な違いは、何を書くかといった内容の違いではなく、書いた内容に対して「責任」をとれるかどうかの違いだと私は思っている。
私は、自分が雑誌や本で書いたことの一字一句に対して責任を持っている。どこをどう突っ込まれても反論できる、あるいは、受けてたつ覚悟でモノをいつも書いている。
だから私はどんなことも自由に書けるんだと思っている。
レコード会社から頼まれたからあるアーティストのCDを誉める文章を書く、なんてことをこれまでの人生で一度もしたことはない。したくもない。そんなことをするぐらいだったら、そんな仕事自体引き受けない。
私は、それが、たとえ、こういう仕事とはまったく関係のない「独白」のような文章でも、一字一句の責任は取るつもりで書いているし、そうするのが当たり前だと思っている。
でも、今世界中にどの瞬間も飛び交っているインターネット上の文章に対して、どれだけの人が責任をとる覚悟で書いたり情報をのせたりしているのだろうか?
インターネットという、こういう通信網に自分が発言するということは、自分の電話が盗聴されているのとまったく同じだという自覚をみんな持っているのだろうか?
いまこうして書いている私のこの文章は、世界中のどの人もどの機関ものぞくことができる。つまり、盗聴されていると同じことだ。それを承知で私は書いている。だから、誰がどう突っ込んで来ても、それに対する用意は自分の中にあるし、知られて困る情報は一切出さない。当たり前のことだ。

十八世紀は大衆の時代。十九世紀は天才の時代。二十世紀はプロフェッショナルの時代。二十一世紀はアマチュアの時代と言われている。
道具が整備されれば、さほど専門的な技術を持たなくても大抵のことは普通の人でもできるようになる。今や、ビデオカメラの性能が進歩したおかげで、素人でもちょっとした映画は作れるようになった。同じように、シーケンサーなどのソフトのおかげで今や小学生だってプロ顔負けの音楽作品が作れるような時代だ。でも、待てよだ。
小学生がバッハ並の作曲をしたって、彼や彼女らが自分の作品に責任を持てるのか?
家庭で勝手にいろんな番組を編集して新しい「オリジナル番組」を作りあげたその「作品」に彼や彼女らは責任を持つことができるのか?
このインターネット上に、今どんな情報や文章がどんな形で飛び交っているかなんて、およそ誰も管理はできないだろう。そんな無秩序な状態に対して唯一秩序を保つ方法があるとすれば、それは一人一人が自分の「自由」に対して「責任」を持つことぐらいしかないのではと私は思っている。
無責任に飛ばす情報や文章は、時に「暴力」と同じぐらい危険だ。というか、一発の弾丸よりも深く相手に致命傷をおわせることだってできる。

どんな人も自分発することばの一つ一つに「責任」を持って欲しいと思う。
それがない限り、ある人の「自由」は、ある人の「自由」を脅かすことになるのだから。

野球シーズンが

2006-03-22 21:56:05 | Weblog
始まると、毎日大リーグ中継にかじりつく私は、この数日はWBCの日本チームばかり追っていた。
当然、決勝戦は中継で観ていたので、他の仕事が進まず、後が大変(ハハハ、当たり前か?)。
まあ、それよりも野球自体が面白かったので「まあ、いいか」だ。
TVとかでは、連日、優勝のこととかイチローがなぜあそこまで熱く燃えるのかといった話題ばかりだが、自分がイチローになった気持ちになれば、彼があそこまで燃えるのは、ある意味、当然だと思う。もともと人気のないパリーグにいて、大リーグに行っても、優勝から縁遠いマリナーズというチームなのだから、巨人、ヤンキースという松井とはえらい環境が違う。
松井が日本チームに入らなかったことや、他の日本人大リーガーが軒並み日本チームに入るのを拒否した環境の中での出場なのだから、彼の心の底にあるモノは、まったく関係のない私でも容易に理解できる。
単に自分をスターにするためだけだったら、松井みたいな生き方の方が正しいのだろうけど、イチローという人は、純粋に野球が本当に好きなのだと思う。だからこそ、野球が人気のあるスポーツになって欲しいと願うのだろう。違っているかもしれないけど、私はそう思っているし、そう思いたい。
私は、音楽が好きだからこそ、音楽全体のことをいつも考えたいと思っている。
若い人たちは、口々に「音楽のない人生なんて考えられない」と言うけれど、それって、ある意味、商業主義的な音楽に踊らされているだけという感じもする。
音楽というのは、ヒップホップだけでもロックだけでもジャズやクラシックだけでもない。人類は、その誕生の瞬間から今日まで長い間ずっと音楽を作り育ててきた。それは、紛れもない事実だし、人間は呼吸をしていること自体がリズムであり音楽なわけだから、そういった根本的な視点から音楽を広く見てもらいたいと私はいつも思っている。
ロックだジャズだと言う前に、音楽というのは、西洋音楽だけではないし、楽器がなくても音楽は作れるし存在しているモノだということを今一度思い返してもらいたい。
別に音楽療法だなどと大袈裟に叫ばなくとも、もともと音楽は人間の心を癒すし興奮もさせるモノなのだ。
そして、世の中のあらゆる宗教に音楽は欠かせないモノ(音楽を持たない宗教はこの世に存在しない)。戦争にだって音楽はあったし(軍楽隊とは一体何をするもの?)、男と女の恋にだって音楽は必要。
そんな音楽を心から愛しているモノとしては、超マニアックな楽器の世界や狭いジャンルにこだわり続ける人たちの音楽のとらえ方は、あまりにも可哀想だなと思う。
音楽って、人間が発明した表現方法としては最も自由で直接的なモノなんじゃないのかナ?と私は思っているからだ。これほど、ストレートに人間の喜怒哀楽を表現できる手段って他にはないんじゃないかとも思う。
イチローは野球を通して人生を見つめ、そして語っているような気がする。
私は、それを音楽でやりたいし、逆にそれができなきゃ本当の音楽家とは呼べないのでは?とも思っている。
これって、けっして言い過ぎではないと思うけど....ナ?
(イチローの発言が韓国で問題になったけれども、あの彼のことばって、本当は韓国を挑発したかったのではなく、実は日本人の野球に対する考え方を挑発したかったのでは?...と私は思っていいるのだが)。

桜の便りも

2006-03-17 12:12:03 | Weblog
チラホラ。
でも、今日は春の嵐の吹き荒れる一日。
<春の雪>とか<春の嵐>っていうタイトルは、よくストーリーとかコピーでも使われるのだけれども、これがなかなか風情のある響きで私は大好き。
春というのは、ホントは天候が定まらなかったり、雨や風、そして大気に大きな幕がかかり視界も悪くなるのでそれほどいい季節ではないはず。でも、それにもかかわらずこの季節が私たちにいいイメージを与えてくれるのは、それが、冬の暗さから私たちを一挙に解放してくれるからだろうと思う。

相変わらずいろんな仕事をかかえているが、今年は、特に2つのビッグ・プロジェクトを実現せねばならず、その問題で、夜も時々興奮して起きる時がある。
身体は相当疲れているのでベッドに横になった途端バタンキュー。でも、夜中に目をさますこともしばしば。元来、いったん寝たら朝まで起きないタイプなので、自分でも「なんで?」と思うことしきり。
多分、ナチュラル・ハイの状態なのだと思う。頭の中でやるべきこと、やろうとしていることなどがグルグル回っていて、それで興奮して起き上がってしまうのかナ?と(笑)。

今年10月オープンするテーマパークでもイベントのプロデュースが私の大事な仕事。パレードをどうしようとか、劇場のショーをどうしようとか、このイベントには誰をブッキングしようとかあれこれ考えていると、頭の中で具体的な映像が浮かんできて、セリフまで聞こえてくる。時に、関係者にダメを出している自分の姿まで....
ハハハ、けっこう病気かも?

フルフルの渋谷DUOでのライブも正式にブッキングされ(6/6)、そのステージの演出から進行が私の頭の中で何度も何度も反芻される。メンバーが出る瞬間の音と照明、そしてポジション、立ち位置、そして、ラストの曲と照明、ダンスなど、さまざまな映像が頭の中でフラッシュバックされるので、「こりゃ、ハイになって当然だわな」と自分でも納得する。かなりテンぱってる最近の脳内環境ですナ(たまには休ませないと脳が悲鳴をあげるかも?)。

これまでに数え切れないほどいろいろなモノをプロデュースしてきたけれど、それが実際に形になるまでが一番大変な道のりで、そこに至ってしまえばもうどうってことはないし、世間の人もそれを当たり前のように受け入れてくれる。
今が、正念場。ですね。
頑張ろう!

明日から、弟子たちと伊豆で合宿。
ハハハ、こっちはかなり息抜きじゃあ~い!

こんなに

2006-03-13 23:33:19 | Weblog
寒いんだったらもうちょっと厚着をしていけばよかったと思うほど寒い朝だった。
朝早くから丸の内界隈を歩いていると、ビル風がビュービューと来て思わず震え上がる。でも、オフィス街なので、時折信じられないほど薄着をしたOLが通ったりしてそれにもびっくりさせられる。思わず「ウソ~!」と叫んでしまうほど、ダ。
だって、半袖で今にも雪が降りそうな天気の中を歩いていくなんて正気のサタじゃないでしょうが?(寒さにとびきり弱い私としては、本気でそう思ってしまう)
でも、それなら最初から厚着をしていけばいいじゃないと思うだろうが、ふだん天気予報をまったく聞かない見ない人なので、今日の天気は?今日の温度は?という情報は、家から出たとこ勝負。でも、今日は見事にハズれた!

また4月の頭にメキシコに行かなければならない。できれば、行かずに問題を解決したいけどやっぱ行かないと解決しないかナ?(そういえば、今日の野球はメキシコと韓国はどちらが勝ったのだろう?日本がアメリカに負けたことは知っているけど....)

このところ、いろんな問題(別の種類の問題なんだけど)で若い人(二十代、三十代ということ)の対応で頭を痛めている。
レコード会社の人間、TV局の人間、ミュージシャン...。まあ、いる場所はそれぞれ違うけど、もうちょっと大人の対応をしてもらいたいナと思う問題がたて続け。
経験がないと言ってしまえばそれっきりなんだろうけど、それだけの問題かナ?という気もする。
やっぱ、保身、わがまま、自分勝手、頭の悪さ、といった悪いことばばかりが思い浮かんでしまう。
そして、自分のその時代のことを思い出そうとする。
自分だって、その年代には経験は確かにになかったわけだけど、何かちょっと違うような気もする。
今日もレコード会社の人と話していたことだが、私がこれまで自分で行ってきたことの一つに、権力にこびない、大きな会社にこびないっていうポイントがあるんだけど、これって、自分としては一番大事な哲学だったような気がする。
自由業で生きていく人は、仕事欲しさに権力や大きな組織におもねる人が意外と多いのだけれど、私は絶対にそれだけはしたくなかった。
「会社が大きいことがナニ?」「権力持っている人がナニ?」という姿勢が崩してこなかったので、相手の組織の大きさや社会的地位には惑わされたことはない。その代わり、明日仕事がこなくなる覚悟だけはいつもしていたし、現に来ない時もあったけど、まあ、そこは根が楽天的だから、「まあ、なんとかなるさ」でここまでやり過ごしてきた。
現に、何とかなってんだから「まあ、いいか」だ(ハハハ)。
でも、カッコイイ生き方だけはスタンスとしていつも持ってきたつもり。
私のカッコよさ。それは、私がいつも言っている通り、「潔よさ」以外にはない。
潔く生きること、それ自体がカッコいいと私はいつも思っている。だから、いつもどんなシチュエーションでも自分が責任をとることが一番カッコイイ生き方だと思ってきた。
特に、こんなエンタテインメントの世界に生きていると、仕事の公式がまったくない。いつも賭けのようなものだ。右か左か、どっちが正しいかなんてことは誰にもわからない。何がヒットして何がヒットしないかもまったく誰にもわからない。ただひたすら自分の考えと信念を信じていくしかない。
それでうまく行かなかった時、責任をとる覚悟だけはいつもできている。でも、うまく行かない確率が高いモノに賭けるほどバカではない。十分勝算のあるモノにしか手は出さない。
楽天的ではあっても、石橋はキチンと叩いて渡る主義だ。
いろんなことをやってはきたけれど、ショーより面白い仕事はない。
そう確信している。
舞台は人々に夢を与えるモノ。この虚構の世界があるからこそ、人は現実の世界を生きていかれるのではないのか?
今でも、そう思って毎日生きているのだが....。
ショーほど素敵な商売はない。








このところ

2006-03-10 10:15:50 | Weblog
たて続けにナチスドイツ関連の映画や番組を見る機会があり、今さらながらヒトラーという人物になぜあれだけ大勢の人間が影響され、人類の歴史まで大きく変えられてしまったのだろうと考えた。
それこそ、ヒトラー関連の書物などは星の数ほど出ているのだろうが、最終的にはヒトラーが実際は何を考え何をどうしようとしていたのかは本人にしかわからない。でも、私がいつも思うのは、人間とはどうしてこれほどまでにいとも簡単に人に操られてしまうのだろうか?ということ。別にヒトラーでなくても、人類の歴史の中では世界中で似たようなことが起こってきたし、今だって、宗教的なカリスマやカリスマっぽい人(まあ、人生哲学や占いなどの本を書いたりする人たちにこういう人は多いけれど)に影響されてその人たちの言う通りの行動をする人たちがゴマンといる。
私は、人が人の意見に操られて行動することほどキケンなことはないと思っているのだが、たまに、私にも「これいい本だから読んでみたら」と、そういった類いの本(いわゆるマインドコントロール的な本)を私に勧めたりする人がいる。「おいおい、話す相手を間違えてんじゃないの?」と言いたくなるのだが、人のいい私は「そうですか。それではぜひ読ませていただきます」と丁寧に対応したりする(私もけっこう偽善者だ。ハハハ)。
まあ、そんなことはいいとしても、やはり私が気になるのは、人間が人間に操られること。
人が毎日自由に生きていかれることほど幸せなことはないはずなのに、自ら自由を放棄する人がいる(放棄しているとは思っていないのだろうが)。これが不思議でならない。
結婚もそうかもしれない。結婚すること自体で人の自由がなくなるなんていう風にはこれっぽっちも思わない。しかし、結婚も他人どうしの共同生活であることには変わりがないのだから、グループ活動や寮生活のように、相手に対する尊重がなければ、お互いの自由な生活は望めないだろう。お互いがお互いの自由を尊重しあって暮らすことが結婚だと私はずっと思ってきたのだが、そうは思わない人も世の中にはたくさんいるようだ。
特に日本の社会では、男性が女性を家の中に拘束しようとする人がけっこういる。これが逆だったら笑い話なのに、なぜに男性が女性を家に縛っておくことが許されるのか不思議でならない。男は仕事でお金を稼ぎ、女は家で子育てや家事をやるから?
だったら、女性がお金を稼げば、男性は家で子育てと家事をやるのだろうか?外出も外泊も許されずに、家の中に縛り付けられるだろうのか?
日本に住んでいるアメリカ人の女性がよく話すのは、日本の男性は結婚前は女性と頻繁にデートしお金もたくさん使うのが、いったん結婚すると、手のひらを返したように、まったく女性を外に連れ出さなくなる。要するに、「釣った魚にエサはやらない」という考え方がこの国には横行していると憤慨する。
まあ、彼女たちの意見ももっともだなと思う。男は仕事、女は家事という役割分担を長い人類史の中では、ある意味、キリスト教が力を持ってきて以降のことだ(だから、そこから派生したイスラム教も、ある意味、男尊女卑の考え方なんだけれども)。多分、十九世紀の産業革命以前まではこの考え方でもよかったのかもしれない。でも、二十世紀に入って、文明や科学の力が逆に男性の存在価値を相対的に低めてしまったおかげで(男が女に唯一勝っているのは腕力だが、機械が腕力にとって変わったおかげで相対的に女性の力は上昇した)、女性の権利意識も本来の姿に戻ってきている。
二十世紀に既に破たんしたはずの男性優位主義を二十一世紀の現在までひきづっている男性もたしかに少なくない。
主婦を家政婦だと勘違いする男もいるし、金のいらない風俗の女性ぐらいに考えるような男もいる。単にバカな男と切り捨ててしまえばいいのかとも思うが、大体において、女性と男性はイコールでもないし、ましてや、男性が女性よりも優れているなんてバカな考えは即刻捨ててしまった方がいい。女性に比べたら、男性にできることははるかに限られている。子供が産めない男にできることは、種つけだけ。もし女性が自分で種をどっかから調達してくれば、男の必要性なんてこれっぽっちもない(シングルマザーの中には、これを意図的にやっている人たちもいる)。あらゆる生物にとって最も大事な仕事は子孫を残すこと。これ以上に大事な仕事はないにもかかわらず、この仕事に男がコミットできる部分はあまりにも少ない。
にもかかわらず、男がなぜこれほどまでにイバれるのか?それは、単に戦争をする能力に長けているからだと私は思っている。地球上に女性だけしかいなかったらきっと戦争なんてものは存在しないだろうと思う(まあ、そうすると、子孫も繁栄しないから、結局滅亡するので、戦争するより悪い結果にはなってしまうかもしれないが)。
女性は、元来戦うことは好まない。戦うことと子供を守り育てることは矛盾するからだ。ある意味、男は女性を獲得するために戦うのだともいえる。そのための能力。それが。戦争であり、仕事なのかもしれない。
だとすると、ヒトラーという人は、男の性の「負」の象徴のような存在なのかしれないな?とも思う。彼は彼なりに魅力があったのだから、あれだけの人を動かして歴史を変えたのだろう。でも、それってあらゆる意味で「負」の方向に動いてしまった。だからこそ、イエスという人物の出現で一つの方向に向かってきた人類史の極限値であるヒトラーの死を境に、人類史は、また本来の方向に戻っていかなければならないはずだと私は思っているのだが。

毎日毎日

2006-03-08 23:26:34 | Weblog
いろんなことがあり過ぎて「今日は一体何をやったのだろう?」と一日の終わりにじっくり思い返さないと「今日は何を食べたんだろう?」というボケ老人と同じぐらいヤバい状態になってしまう(ハハハ...んナわけないか?)。
私の仕事の場合、プロデュースだとか、作曲だとか、執筆だとか、演奏だとか、結果よりもそのプロセスにいろんなことが多いので「今日は何やった」みたいに箇条書きで書きだせるモノは意外と少ない。曲だって書き上がってしまえば、「一丁あがり!」と「やった」こととして記録できるのだろうが、一つの曲を書くのにもけっこうなプロセスが必要だ。ましてや、プロデュースとなると、その企画立ち上げ(多くは思い付きの場合が多いが)から結果が出るまでに短い時でも数カ月、長い時になると数年かかることもある。
だから、自然、その長い時間の間にはいろんな「事件」が起こるし、起こって当然という感じもする。でも、まあ、たった1、2週間ぐらいの間に、2つも3つも大事件が起こられると、さすがの私も「え~?!まいったナ」という感じにもなってくる。それぐらい、この1、2週間はいろんなことが目白押しだった(「目白押し」ってこんな時に使う喩えじゃないけどネ)。一つ一つ丁寧に誠実に解決していこうとすると、よけいに疲れてくる。
だから、今日みたいにFMかわさきの番組に出演していろんなことを聞かれたりすることがものすごい息抜きになって、「うわ~い、リフレッシュ!」みたいな時間が過ごせて楽しい。
最近はインタビューアーとして、アーティストにインタビューする側になっていたので、今日みたいにインタビューされる側にたつと、いきなり饒舌になってしまう(お前はいつもしゃべり過ぎ!と自分ツッコミ)。
これまでにもいろんな番組には出させてもらったけれど、フルーティストとしての自分を出したのはかなり久しぶりだと思う(以前、FMのパーソナリティやっていた時も、作曲家として出ていたから)。
モノ書きや作曲家としてTVやラジオに出演することが多かったせいだろう。アーティストとしての自分を紹介するのは、初めてのCDを東芝EMIから出した時にプロモーションでいろいろ出て以来かナ?なんて思ってしまうぐらい久しぶり。
今年は、特に、自分のライブがほとんどできないぐらい、プロデュース仕事に追われているので、たまには今日みたいのもいいかナ(ハハハハ)?


この1、2週間

2006-03-04 21:31:09 | Weblog
あまりにもドタバタしたことが多く(全部原因は私は作ったモノじゃないのだけど)、そのすべてを私の決断と采配で処理していかなければならず(生きていれば当たり前のこと...フ~)、そこから逃れるためにちょっと息抜き~!と、久しぶりに伊豆で週末を過ごしている。
幸いお天気に恵まれた週末で、畑仕事をやりながらノンビリ。
でも、やはり伊豆は暖かい。桜の花があっちでもこっちでも。
河津桜はもともと1ケ月ぐらい早く咲く品種。でも、それ以外のサクラもかなり咲いていて、けっこうビックリ(菜の花畑もまっ黄色だ!)。

この間のトラブルをゆっくり振り返ると、結局人間どうしの意志を通じあわせることの難しさみたいなことをつくづく感じてしまう。
人は、みんなそれぞれの「都合」とそれぞれの「つもり」で生きているので、その都合とつもりが時にぶつかりあうのはしょうがないのかもしれない。だからこそ、日本のムラ社会は、お互いの都合とつもりを最初から一致させる形を作っていたわけで、個人の意志は社会や組織の意志に一致させて生きていかなければならない社会だったわけだ(今でもそれに近いところはありますネ)。
でも、私は、人間にとって最も大事なことは「自由」と「責任」だと思っているので、こうした日本型社会に無理に適応したいとは思っていないし、今でも適応はしてないと思っている。私のこれまでの生き方は、自由と責任をどうやったら自分の生き方として反映させていくことができるか、それををずっと考えながら生きてきたような気がする。
自分が「自由」である以上、他人の自由を尊重するのは当たり前の前提。だから、自分が社会生活で責任を果たすのも、他者の自由と尊厳を守るための行為だと思っている。
人間の歴史というのは、いつの時代もどの民族も戦争と争いの歴史だけれども、人間が争うというのは、この「自由」と「責任」のバランスを欠いているからなのではと私はいつも思ってきた。
自分だけが自由でいようと思えば、他者の自由を犯すことになり、侵略や略奪が始まる。自分の責任を放棄すれば、誰か第三者が自分の責任の代わりを果たさなければならず、他者に犠牲を強いることになる。
戦争まで事がオーバーにならずとも、私たちの身のまわりのトラブルや争いごと、ごたごたのすべての原因は、結局、自分と意志と他人の意志の衝突から起こっていること。でも、それを解決する最も迅速でかつ適切な方法は、まず一度を自分の意志を捨てることではないかとも思っている。どのみち、自分の意志と相手の意志がぶつかっているのなら、自分の意志を捨てることによって、争いの種の一つが完全になくなってしまうわけだから、後は、相手の意志をどう見るかだけ。そうして、相手の意志を考えることによって、逆に自分の取るべき態度もすぐに見えてくるような気がする(少なくとも、今回の私の巻き込まれたトラブルに関しては)。
自分の意志で相手の意志をねじふせてしまおうと考える態度からきっと正しい答えが出てこないような気もする。
人が人の自由を束縛したり、人の権利を奪うという行為は人として最も恥ずかしい行為だし、あってはならないこと。だとしたら、まず自分がそういうことをしていないかをチェックすること。ここから始めないと「自由」と「責任」というのはいつまでたっても果たせないのかナ?なんて思っているのだが、こんな抽象的な話しをされても「なんのこっちゃ?」と思っている人も多いだろうけどネ....(ハハハハ)。

やっと

2006-03-02 23:55:40 | Weblog
沈丁花の蕾みがほころび始めた。
秋の木犀と春の沈丁花。いずれも、季節が変わったこと、あるいは変わりつつあることを知らせる花だ。その二種類の花は、いずれも芳香を持つ。そう、季節は香りと共にやってくるのだ。
香りは、人間の記憶を呼び起こすトリガー。夕暮れ時に家々から匂ってくる夕食の香りは、小さい頃の記憶、あるいは、過去のさまざまな体験をいっぺんに思い起こさせてくれる。この記憶の中に、人は悲しみと喜び、幸福と不幸の両方の感情を思い、ノスタルジーを感じる。子供にはない大人だけの感情だ。

先週の平原綾香さんのインタビューの時の軽いショックが私の心の中で未だに尾を引いている。
何か、一人のアーティストをインタビューしただけのことではないもっと大きな感情にけっこう打ちのめされている自分がいる。
それは、家族とか、アーティストとか、男性とか女性とかいった人間の生き方に関わるほぼ理想的な解答をこの21才の若い女性が持っていることに対するショックなのかもしれない。
先週このブログを書いた時は、これから雑誌に書く事柄なので、あまり細かい内容について書くことをはばかっていたが、どのみち来月頭には雑誌も発行されてしまうので、その一部をここで公開してもさほど問題ではないだろうと思う。

私が彼女のことばで最も感心したのは、私が「理想の女性とは?理想の女性とは?」という問いに対する答えだ。
「理想の女性とは、自分の意志がはっきりしている人」。即座にこう答えてくれた。
そして、「理想の男性とは、例えば、カップルがラーメン屋さんに行って、女性が『このラーメンおいしいネ?』と言った時、相手の男性は『うん、おいしいネ。でも、他にもっとおいしいラーメン知ってるよ』と、女性のことばに挑戦的に切り返す人がけっこう多いですけど、私は、女性のことばに、ただ『うん、おいしいネ』とうなずいてくれる男性が理想です。つまり、優しい男性です」と続けてくれた。
自分の意志をはっきり持っている女性を優しく見守る男性。
う~ん。私の求めていた以上の完璧な解答だ。これほど見事な答えが返ってくるとは思わなかった。
そして、極め付けが次ぎの質問。

音楽家にとって、アーティストにとって最も大事なことは?
さすがに、この質問を投げつけた時には、ほんの1、2秒考える間があったが(その他の質問には即座に答えが返ってきていた)、これにも見事な解答を出してくれた。
「伝えたい人を持ち続けること」。
音楽はコミュニケーション。伝えたいことを伝えたい人に伝えていくこと。音楽にこれ以上大事なことがあるのだろうか?
一つ一つのことばを選びながら丁寧に優しく語る彼女のしゃべり口調は(しかも、彼女はどんな時も私の目をしっかり見据えたままだ)、彼女の母親が彼女に常日頃から諭しているという「音楽を奏でるようにことばをしゃべりなさい」ということばをそのまま実践しているようだった。
彼女の倍以上を軽く生きている私が、この21才の女性の物腰、ことばに完全に打ちのめされたような気がして、この日以来軽いショック状態が続いている。
やはり、偉大なのは母親の存在だろうし、女性という存在は軽く男性を越えているナと実感した。

人間が生きていくために必要なことば。そのことばをどうやったら上手に使い生きていかれるかを彼女の母親は適切に娘に伝えることができている。
ことばは人と人とのコミュニケーションのための大事な道具。しかし、この道具を人間が発明する以前からあった音楽を奏でるようにことばを使う。なんて深いことばなのだろうと思う。
これは、まだしばらくショックが続くかナ?(笑)