Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

矢野弾左衛門 と 車善七

2008-04-21 | Japan 日常生活の冒険


塩見鮮一郎の文庫本を二冊続けて読んだ。士農工商以下の階級として江戸時代に固定化された、階級について、それぞれが江戸のどこに住んで、どんな役割を果たし、武士を頂点としたヒエラルキーにどのように組み入れられて統制されていたかがよくわかる二冊(、、という言葉は、ワープロ変換ができなくなっているようだが、これも言葉狩りだろうか?)。



階級は、制度に不満を持つ農民以下の階級の空気抜きに使われることにより、体制維持において存在意義があった。そういうことは、教育現場で繰り返して教えられた気がするし、最近読んだ「カムイ伝」にもそのような場面が頻繁に出てきた。ところが、階級内での統制がどのように行われていたか、つまり頭の矢野弾左衛門と頭の車善七がそれぞれの階級の頂点として存在していたことはあまり知られていない。弾左衛門に至っては、扶持は一万石、金融業を営むことで財力は五万石の大名並み、江戸のを支配下におき、車善七ら頭との間には長く相克があったことなどは全く知られていない。今や詳細を教えすぎることがタブーなのかもしれないが、背景を知ることでいろいろな誤解も説けるような気もする。

驚いたのは、弾左衛門の邸宅と役所が当初は今の日本橋近くにあったこと、家康の江戸入城・江戸市街地の拡大とともに、鳥越、さらに浅草へ移されている。弾左衛門の支配するや猿飼(猿回し)もこれに従い、鳥越、さらに浅草周辺に移されている。特に車善七の邸宅と役所には、吉原遊郭の南に隣接した土地が与えられたことは興味深い。浅草出身の渥美清が演じた「フーテンの寅さん」こと、的屋の車寅次郎、その名も(否定はされてはいるようだが)車善七の名から命名されたのかもしれない。なにより的屋という仕事も、もとは身分だったそうである。

大阪について調べてみたが、こちらのはの支配を受けず、天満、道頓堀、天王寺、鳶田(飛田)にあった「四箇所垣内」というに集められていたらしい。現在も遊郭?の残る飛田は別として、いずれもの居住区からは遠く、現在の賑やかな商業地に位置していることは驚きである。

という存在は、何を生業にしていたのかよくわからないでいたが、要は「勧進(寄付)」の名のもと「乞食」をして暮らしていたらしい。そして、町民階級から施された喜捨の代償に市区から排出されるクズ(ときには行き倒れの死体であったりもする)を拾い片付け、地方から流れてくる浮浪者を捕え収容することで、近世大都市の浄化に一役買っていたのである。



話は変わるが、金庸の小説「射英雄伝」「神侠侶(邦題・神剣侠)」に「東邪 西毒 北丐 南帝 中神通」と呼ばれる五人の武術の達人が登場する。この中の「北丐」洪七公は丐幇と呼ばれる乞食集団の幇主(頭領)であるが、おそらくは中国における頭のような存在だったのだろう。と納得してしまった。

大政奉還から明治維新にかけての権力体制の移行は、大きな動乱など何もなく粛々と行われたと教えられ疑うことなく信じていたが、実はそんなことはありえず、江戸・東京の混乱は相当のものだったらしい。これは少しショックである。薩長土肥軍は菊の御紋を旗印に江戸を落として会津へ進軍する間、各地で掠奪、放火、暴行、蹂躙を繰り返したらしい。そのため江戸に住んでいた大名、旗本、御家人、僧侶、大店など富裕階級は早々に逃げ出して、新首都東京に残ったのは、主人を喪って浪人になった下級武士、逃げ場のない一般町人層、地方から不法に流入した浮浪者、そして政府軍として組織された薩長土肥の兵士たちだった。人口は半減し、武家屋敷や自社仏閣は半ば廃墟と化し、市中はゴミと死体で溢れていたのが現実。ここに「勧進」という交換によってと町人の共存するシステムは崩壊しようとしていた。解放令が出されると、階級の存在自体が否定され、乞食に対しては近代帝都東京にあるまじきと撲滅運動すら起こる。近代警察や刑務所が創設され、彼らの生活環境は激変してしまった。


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
弾左衛門 (iina)
2008-07-14 15:33:18
「猿まわし」に弾左衛門のTBをありがとうございました。
かすりましたね。
実は、iinaも興味を抱いた人物なのです。
折角のご縁なのでと、今日にいままでアップした弾左衛門をまとめました。
6編もありました。
返信する
猿と馬の関係 (tomotubby)
2008-07-14 22:02:41
「車善七」の本で読んだとき、猿は馬の守護神で、猿回しの芸は馬の厄病除けの祈祷の役割を果たし、であった猿飼は馬医の役割を果たしていたという話に興味を持ちました。

斉天大聖・孫悟空が天帝から天界の厩舎の管理をする弼馬温という職を授かったこと、天竺への取経の旅でも三蔵法師の乗る白馬の轡をとるなど可愛がっていたことなど思い出しましたからです。

このような猿と馬の関係はインドにおいて生まれたらしいですが、詳しいことを知りたくなりました。

ただ、頭は死馬を司るから、因縁のある猿飼頭を傍に住まわせたという説はこじつけのような気がします。死牛だって扱っていたわけですから。
返信する
こんにちは (iina)
2008-07-15 17:53:37
コメントをiina宅に貼付させてもらいました
乞食さえ頭の許しが要ったというのは驚きです。
陰陽師も配下に置いたのも意外でした。
また、フーテンの寅さんの名が車寅次郎というのは、ご指摘のように
車善七と縁繋がりかも知れません。
もっとも、車善七のことは、脇役に出てくる程度しか知りません。
猿と馬との関係等々の原典をたどるのも面白そうです。
風水とか星座にもつながるのでしょうか。
どうも、生活するうえで必要だけど、穢いことを請けて暮らした虐げられた人々が生まれたのでしょうか。
返信する

コメントを投稿