歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・唐招提寺 境内に窯跡 整備時の補修用の瓦を焼く

2018年02月26日 | Weblog
 奈良市の唐招提寺で修復中の御影堂(みえいどう、重要文化財)の敷地を発掘調査していた県立橿原考古学研究所(橿考研)は22日、かつて見つかっていた瓦を焼く窯跡が奈良時代末~平安時代初頭(8世紀末~9世紀初頭)に築かれたとわかったと発表した。
 御影堂は1650年に建てられた興福寺旧一乗院の宸殿で、1964年に唐招提寺に移築された。前年の63年、県教委が用地を調査し、瓦窯跡が出土したが、調査期間が短く、詳細な時代は特定できなかった。その後、樹脂を塗って埋めずに床下で保存されていた。今回、御影堂の昨年春からの修理に伴い、同研究所が昨年10月から再調査し、出土した土器などから年代を特定できた。
 唐招提寺は鑑真(688~763)の創建で、鑑真の死後、金堂や東塔などの伽藍整備が本格化した頃の瓦を作るために使われたとみられる。記録に残る最後に造られた建物は810年の東塔だったとされる。
 窯跡は「有畦式平窯」で、全長4・2m、最大幅2・2m。薪などを入れる焚きた口や、平瓦を積み上げて築いた窯の本体の側壁などが出土した。瓦が出土したが、どの建物に使われたかは不明。
 調査地には瓦窯跡は1基しか見つからなかった。
 現地は御影堂の保存修理事業が続いており、説明会はない。
[参考:2018.2.23読売新聞、朝日新聞、産経新聞]

関連ニュース・情報
2017.11.9 興福寺再建用の瓦窯発見 南都焼き打ち後に生産
 興福寺(奈良市)の旧境内で、1180年の南都焼き打ち後に再建用の瓦を焼いたとみられる窯の跡が見つかった。調査地は興福寺五重塔から約400m北で、県庁の裏側。明治初期まで寺の敷地だった。出土した瓦の特徴から興福寺用の窯と断定した。見つかった窯跡は9基。「有畦式平窯」と呼ばれ、1つの窯の内部にあぜ状の土台が数カ所あり、その上に瓦を置いて焼く構造。中世では一般的な窯という。[参考:日経新聞]

唐招提寺


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安城市・別郷廃寺跡 白鳳時代〜奈良時代の鴟尾片が出土 唐招提寺に匹敵の大きさ

2013年10月08日 | Weblog
 安城市教委は、西別所町の別郷(べつごう)廃寺跡から、古代の鴟尾の破片が出土したと発表した。 同寺は奈良時代の一地方寺院と考えられてきたが、相当規模の格式や勢力を持っていたものとみて調べる。
 鴟尾の破片は、6〜7月の市教委の発掘調査で、土器や瓦などが大量に捨てられた穴から見つかった。 高さ20cm、横52cm、厚さ9cm。 県内で鴟尾の破片が発見されたのは7例目だが、最大という。
 金堂の鴟尾の右側面の破片で、瓦と文様から白鳳時代〜奈良時代(675-720頃)(注1)のもの。破片の大きさから鴟尾全体の高さは120cmほどと推定され、奈良時代に建立された唐招提寺(奈良市)の金堂の鴟尾(高さ119cm)に匹敵するという。
 鴟尾の破片は3日から13日まで、同市安城町の市民ギャラリーで展示されている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

 (注1) これまでにも別郷廃寺では、7世紀後半に建立された西三河最古の寺院・北野廃寺(岡崎市)から出土する素弁六弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、北野廃寺の建立とさほどかわらない時期に建立が開始されたとみられていた。

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奈良市・唐招提寺 7~8世紀の大型多尊せん仏の破片が出土

2013年03月22日 | Weblog
 唐招提寺と橿原考古学研究所は21日、鑑真和上坐像が安置されていた唐招提寺旧開山堂(奈良市五条町)の解体修理に伴う地下調査で7~8世紀とみられる大型多尊塼仏の破片1点が出土したと発表した。 創建時の同寺には塼仏多数が飾られていたらしい。
 出土した塼仏片は縦約12cm、幅8cm、厚さ4.5cm。眷属(けんぞく=仏の従者)などが刻んであった。 表面には漆が残り、一部金箔も確認された。 製作当時は焼き固めた粘土に漆を塗り、さらに金箔を張っていたとみられる。
 同寺に伝わる阿弥陀如来と従者を表現した同じ図柄の塼仏片(昭和4年に国重要文化財、縦約28㎝、幅約16㎝、厚さ約6.6㎝)と焼け具合が異なり、同じ型で制作した別個体とみられる。
 唐招提寺は天武天皇の子、新田部親王(?-735)の邸宅跡に759年に創建された。 同研究所は、塼仏は、もとは新田部親王の念持仏ではと推察している。
 出土した塼仏は、3月23日(土)~4月7日(日)の期間中、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館無料ゾーン(橿原市畝傍町50-2、で展示される。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、「史跡唐招提寺旧境内(旧開山堂)発掘調査の概要(資料1)」(平成25年3月21日唐招提寺・奈良県立橿原考古学研究所)]

唐招提寺で「せん仏」片見つかる 天武天皇の子・新田部親王所有か(産経新聞) - goo ニュース

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 今回出土した大型多尊塼仏片は、(資料1)では参考とする下図に二光寺廃寺(御所市西北窪、7世紀後半)で出土した大型多尊塼仏を使用している。
 二光寺廃寺出土の大型多尊塼仏は、2006年6月に江戸東京博物館で開催された「発掘された日本列島 2006年」で出展されていた。今回の出土品とは顔の部分がダブル。二光寺廃寺出土品には年号銘があり、694年製作の可能性が指摘された。 また、遣唐使らが中国から持ち帰った仏像がもとになっているのではとみられている。

過去の関連ニュース・情報
2011.7.7 唐招提寺 寺創建以前の、新田部親王の邸宅時の築地塀が出土
 新田部親王の邸宅だった時代に造られた高さ約4mの築地塀が出土
2009.10.14 唐招提寺金堂 堂内の構成部材94%が創建当初のもの 修理終え11月に落慶法要
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明日香村・檜隈寺跡周辺遺跡 平安後期の巨大柱根、幢竿支柱跡?

2012年04月05日 | Weblog
 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区の整備に伴う奈良文化財研究所の発掘調査により、明日香村檜前(ひのくま)の檜隈寺跡周辺遺跡で、平安時代後期(10~11世紀)の直径約0・7mの巨大な柱根2つが並んで出土した。 太さは奈良市の唐招提寺金堂の列柱並み。檜隈寺(7世紀後半)を氏寺にしたとされる渡来系氏族・東漢(やまとのあや)氏の子孫が儀式で立てた「幢竿(どうかん)支柱」跡の可能性が高いという。
 同寺の金堂跡から南東70mで、1辺1・5~1・8m四方、深さ1.2mの柱穴2基が2m間隔で出土。内部に高さ約0.7mの柱根が残っていた。
 方位や位置などから創建時ではなく、寺の塔跡に10~11世紀に建てられた十三重石塔(重要文化財)に関連する柱とみている。
 「日本書紀」には620年、各氏族が柱を立てるのを競う儀式で東漢氏の一族がひときわ太く高い柱を立てたため、「大柱直(おおはしらのあたい)」と呼ばれたと記されている。(注1)
 調査現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:2012.3.30 読売新聞、2012.4.4産経新聞]

(注1)日本書紀・推古天皇二八年(620)
 冬十月。以砂礫葺桧隈陵上。則域外積土成山。仍毎氏科之。建大柱於土山上。時倭漢坂上直樹柱謄之太高。故時人號之曰大柱直也。
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奈良市・唐招提寺 寺創建以前の、新田部親王の邸宅時の築地塀が出土

2011年07月07日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が6日、奈良市五条町の唐招提寺境内の寺の敷地の北限に当たる場所で、平城京の東西を貫いた四条大路に面する築地塀の一部(幅2・2m、高さ0.7m、長さ4m分)が見つかったと発表した。 塀に葺かれていたとみられる奈良時代前半の瓦も出土し、759年に鑑真が同寺を創建する以前、新田部(にいたべ)親王の邸宅だった時代に造られた高さ約4mの塀と推定した。
 築地塀は、粘土と砂質土を交互に突き固めた版築技法が確認でき、塀跡の南側には形を整えるため塀の壁に板を押し当てた柱穴の列も見つかった。 築地塀は奈良時代に造り替えられた形跡がなく、寺創建時にそのまま利用したと推定でき、創建当時から同寺境内の北辺が変わっていないことも裏付けられた。
 現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

■参考 続日本紀より
天平7年(735)9月30日 一品新田部親王薨。(略)親王天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也。
天平勝宝5年(753)7月11日 入唐副使從四位上大伴宿祢古麻呂來歸。唐僧鑒眞。法進等八人隨而歸朝。
天平勝宝8年(756)5月24日 和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律濂淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之徳。朕懷罔極。宜和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。
天平勝宝8年(756)6月9日 太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。宜充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。
天平宝宇7年(763)5月6日 大和上鑒眞物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寶二載。留學僧榮叡業行等白和上曰。佛法東流至於本國。雖有其教無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。乃於楊州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆頼之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時榮叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年(752)。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使大伴宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有勅。校正一切經論。往往誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一一以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。
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奈良市・唐招提寺金堂 堂内の構成部材94%が創建当初のもの 修理終え11月に落慶法要

2009年10月14日 | Weblog
 奈良県文化財保存事務所の調査で13日、唐招提寺金堂(国宝)で、国宝の仏像が安置されている堂内(組物と天井部分)を構成する部材の94%が奈良時代末の創建当初のものであることが分かった。
 創建以降、数回の修理が行われながら、仏像周囲の空間は構造的にも当初の姿をとどめていると推測されるという。
 平成12年(2000)から県教育の主導による始まった10年がかりの「金堂平成大修理事業」を終わり、金堂は11月1~3日に落慶法要が営まれる予定である。
解体修理に際して年輪年代法や目視によってヒノキなどの各部材を調査し、時代別の構成材の割合をまとめた。
 盧舎那仏坐像、千手観音立像、薬師如来立像の国宝3尊などが安置されている堂内身舎部分では、天井や上部を支える組物部材など計1284点が当初材で、全体の94%にのぼった。
 身舎外部の庇などの組物部材では当初材は全体の61%で、残りは明治や江戸時代などの改修時に使われた材だった。部材が傷みやすく、取り換えられたと考えられるという。
 唐招提寺は中国・唐から苦難の末に来日した高僧・鑑真が東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)創建。金堂は鑑真の死後8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により建てられたとされる。今回の解体修理では構造補強材が加えられるなどして元通りに復元された。
[参考:産経新聞、唐招提寺HP]

■参考 続日本紀より
天平7年(735)9月30日 一品新田部親王薨。
天平勝宝5年(753)7月11日 入唐副使從四位上大伴宿祢古麻呂來歸。唐僧鑒眞。法進等八人隨而歸朝。
天平勝宝8年(756)5月24日 和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律濂淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之徳。朕懷罔極。宜和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。
天平勝宝8年(756)6月9日 太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。宜充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。
天平宝宇7年(763)5月6日 大和上鑒眞物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寶二載。留學僧榮叡業行等白和上曰。佛法東流至於本國。雖有其教無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。乃於楊州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆頼之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時榮叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年(752)。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使大伴宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有勅。校正一切經論。往往誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一一以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。

■過去のニュース・情報
  2008-11-29 奈良市・唐招提寺 金堂の屋根裏 簡素な叉首組構造と判明
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奈良市・海龍王寺 五重小塔(国宝)に辰砂を原料とした希少な朱顔料を使用

2009年08月13日 | Weblog
 東京文化財研究所保存修復科学センターの調査で12日、海龍王寺(同市華寺町)の「五重小塔」(国宝、奈良時代)の柱に、水銀を含む辰砂を原料とした希少な朱顔料が使われていたことが分かった。
 創建当初は鮮やかな朱色に彩られていたとみられる。朱は古代から宮殿や寺院に施されているが、多くは鮮やかさの落ちるベンガラを使用している。朱顔料が古代の木造建造物で確認された例は少なく、最古級で、重要な成果となりそうだ。
 同寺は平城宮跡の東北隅付近に位置し、奈良時代に開かれたとされる。西金堂内に安置されている五重小塔は高さ約4mで、精巧な造りとなっており、天平期の建立という。元興寺文化財研究所(同市)の「研究報告2008」によると、小塔は後世に修理され、さまざまな顔料が塗装されていたが、塔の最下部分の柱の当初材からは下地の上に朱顔料が検出されたとする。
 朱顔料は、ベンガラに比べ鮮やかだが希少なため部分的に使ったと考えられ、確認例は平等院鳳凰堂(宇治市)や唐招提寺金堂(奈良市)などわずかという。
[参考:産経新聞]

<備考>
海龍王寺(かいりゅうおうじ)
 奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。藤原不比等邸の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
 飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建された。
 嵐の中唐より無事に帰国を果たした玄が初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に、平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われた。[参考:海龍王寺HP]
 続日本紀・天平神護2年(766)10月20日壬寅に「奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺」と記されるが、正倉院文書では、天平9年(737)に「隅寺」の存在が確認できる

五重小塔 (国宝)
 高さ4.01mの小塔で、創建当時から西金堂内に安置されており、様式が薬師寺の三重塔に類似している。
 細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている。
 限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にあったため、「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられている。[参考:海龍王寺HP]

會津八一の歌碑
 奈良県内には15基の會津八一自筆歌碑が建立されているという。
 海龍王寺にも、その一つの歌碑が立つ。歌は大正19年(1921)に詠まれた。
(原文) しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ
(読み) 時雨の雨 いたくな降りそ 金堂の 柱の真赭 壁に流れむ
(訳) 時雨よ、あまりひどく降ってくれるな。この金堂の柱の真赭(まそお・朱の顔料)がとけて、壁に流れてしまうから。
 海龍王寺は、隅院(角寺)とも称せられている。光明皇后の立願にて建立。光明皇后が僧玄隈の入唐求法の安全を祈り、ここで《海龍王経》を読んだのに起因すると伝えられる。八一が歌を詠んだ明治から大正にかけて、海龍王寺は無住寺で、当時の奈良を偲ばせる。
[参考:新潟市會津八一記念館HP]
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奈良市・唐招提寺 金堂の屋根裏 簡素な叉首組構造と判明

2008年11月29日 | Weblog
 奈良県教委文化財保存事務所は28日、国宝・唐招提寺金堂の解体修理に伴う調査で、奈良時代末に創建された当時の屋根裏が、梁上に斜材を合掌に組む簡素な「叉首組(さすぐみ)」と呼ばれる構造だったと発表した。同事務所によると、屋根裏の構造は、江戸期の大規模修理に伴い、創建時の部材が当初と違う場所で再利用されるなど、大幅に変わっているという。
 金堂は幅約28m、奥行き15m、高さ16m。
 調査では各部材を検証。屋根の四隅の軒を支える「地隅木(じすみぎ)」が、加工跡から当初は大梁(おおばり)として使われていたことなどがわかった。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]
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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土

2008年11月11日 | Weblog
 県教委は10日、琵琶湖北端の塩津港遺跡(西浅井町)から平安時代後期(12世紀)ごろに作られた木製の男神像2体と女神像3体計5体が出土したと発表した。同遺跡では昨年、神への誓約文である「起請文」が書かれた木簡55本が出土している。
 神像が出土したのは青木遺跡(島根県出雲市)の1体に次いで2例目で、一度に5体も見つかったのは初めてという。
 神像はご神体と同様に扱われ、本殿の中にあり神官さえ見ることができないとされていた。
 神像は高さ10.5-15cm。服装から3体は女神像とみられる。男の神像のうち1体は平安貴族の礼装で、冠を頂き、手を胸元で合わせた格好をしている。女神像は大袖の袍(ほう)をまとい、髪を肩下まで垂らす。神道には偶像を礼拝する習慣がなかったが、6世紀に伝来した仏教の影響で奈良時代末ごろから神像が作られ始めた。
 瓦や檜皮(ひわだ)のほかに、幣、しめ縄、土師器、土器などの祭祀跡も見つかり、当時の神社信仰の姿を総合的に知ることができる貴重な遺跡とする。鎌倉時代の「春日権現験記絵」に描かれたお祓いの様子と同じように、3本の幣串(へいぐし)としめ縄、土師器皿が堀の中か出土した。
 本殿跡がある区画は、東西約50m、南北約50m。周囲に堀を巡らし、拝殿、鳥居柱、神泉の跡もあった。堀から、仏堂や神殿の柱などを飾る「華鬘(けまん)」や卒塔婆も出土し、神仏習合の実態がよくうかがえる。
 華鬘は仏堂の柱などにかけた団扇型の装飾仏具。花輪を贈るインドの習俗がルーツとされ、中央に垂らした2本の結びひもの左右に唐草文様を透かしたデザインの金属製が多いが、見つかったのは片方の結びひもの部分で中央に据える紐の結び目や先端の房飾りの部分、長さ18・5cm。房には漆のようなものが付着しており、金箔が張られていた可能性があるという。
 県教委によると、最も古い作例は奈良市・唐招提寺の牛皮華鬘(奈良時代末期―平安時代初期、重文)。木製品としては、これまで鎌倉時代に作られた奈良市・霊山寺の華鬘(重文)が最古だった。
 塩津は古くから北陸などの物資を京都へ運ぶ琵琶湖水運の要衝で、平安時代の延喜式に塩津神社の名が見える。
 県教委は、2006年から約3000㎡を調査しているが、今年度も鎌倉や室町時代の遺物は検出されず、遺跡は12世紀後半に突然、土地利用が終わったことが決定的となった。ご神体である神像が堀に放置されたような状態で見つかったこと、瓦や檜皮など建物部材と共に見つかったことなどから、地震などで神殿が崩壊した際に堀に埋まったのではないかとみている。
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。
 15日午後1時半からの現地説明会が開催される。 
[参考:時事通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、中日新聞]
平安時代の神像5体=神社跡を裏付ける-「起請文」の塩津港遺跡・滋賀(時事通信) - goo ニュース

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 元暦2年(1185) 7月9日に大きな地震があったことは、「山槐記」のみならず、「吾妻鏡」、「玉葉」(九条兼実)、「愚管抄」」(慈円)、「吉記」(藤原経房)などに記されている。京都・近江で大被害を受けている様子がうかがえる。
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三井寺 宝冠釈迦如来座像 中世期2例目の脱活乾漆造と判明

2008年08月06日 | Weblog
 大津市の園城寺(三井寺)金堂の宝冠釈迦如来座像が、14世紀から15世紀に国内で作られた脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)の仏像であることが、市歴史博物館などの調査で分かった。
 脱活乾漆像は奈良時代に多く作られ、興福寺の阿修羅像、東大寺の金剛力士立像、唐招提寺の鑑真和上像(いずれも国宝)などが知られるが、中世期の国内製では鎌倉市・寿福寺の釈迦如来座像(室町時代の作)に続く2例目。
 同時期の朝鮮半島製とみられる脱活乾漆像も近くの寺院で見つかっており、博物館は「中世期に古い仏像製作技法を復活させるのが東アジアで流行していたことを推測させる貴重な史料」という。
 宝冠釈迦如来座像は座高約120cm。宝冠は見つかっていないが、かぶっていた跡が残る。
南北朝時代から室町時代に活躍した院派の仏師の作とみられる。
 脱活乾漆造は、大まかに形を決めた塑像を、漆を浸した麻布で包み乾燥させる工程を繰り返して像を形作り、最後に塑像を取り出す製作手法。
[参考:京都新聞]

亀谷山金剛寿福禅寺
 寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この地は、昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願した云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地である。また源頼朝の父・義朝の居館があった所でもある。頼朝が建久10年(1199)に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため、正治二年(1200)に明庵栄西を招いて創建した。墓地には源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔がある。
 仏殿の本尊・釈迦如来坐像は、高さ2.7m。室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。
 本尊は俗に籠釈迦と呼ばれ、相模国風土記稿にも「籠釈迦という、籠にて作り、上に張りたるものなり」と記されている。正月のみ公開している。
 仏殿は1714(正徳4)年に建立されたもので、中央には本尊と両脇侍像として木造の脇侍文殊と普賢菩薩像、そして、鶴岡八幡宮の仁王門にあった仁王像・銅像薬師如来坐像や源実朝像・栄西禅師座坐像も安置されている。

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