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ワイマール共和国のハイパー・インフレーション

『金融の世界史』より 戦争と恐慌と

「インフレーションは課税手段として、大きな、いわば独占的な長所を持っている。このために、インフレーションは困難なあるいは絶望的な状況において再三再四採用される」(ヴィルヘルム・リーガー、ドイツの経済学者)

一九二〇年代のワイマール共和国(以下ドイツ)におけるハイパー・インフレーションは、第一次世界大戦中、あるいは戦後すぐに発生したものではありませんでした。ドイツが大戦中に投入した戦費は、イギリスやフランスとほぼ同額で、公債残高からみると戦前五〇億マルクに対して、戦後は一五六五億マルクに膨らみました。しかしインフレ率では、ドイツは終戦時点で戦前の二・四五倍であって、アメリカ二・○三倍、イギリス二・二九倍、フランス三・二五倍、イタリアの四・三七倍などと比較すると、むしろ抑制されたものだったのです。こうした事情もあり、ドイツ人は戦争に負けたという認識が薄く、軍は勝っていたのに中央の無能な文官たちの背後からの裏切りの一突きによって負けたという、「短剣伝説」が広く信じられていました。

有名なハイパーインフレは、①戦後の講和会議で天文学的な賠償金案が出された二九年一月、②賠償金額の確定後の二一年五月、③賠償の支払えないドイツに対する制裁として、フランス軍がルール地方に進駐した二三年一月から破綻に至る一一月までの三期において加速しました。この時代のドイツ政権では、今となってはなかなか信じられない事ですが、ドイツマルクの下落が常に先行していたために、国債の中央銀行引き受けによる過剰な紙幣発行がインフレの原因だとは考えていませんでした。物価が上昇しているので、紙幣が必要だと逆に考えていたのです。また産業資本家はその経験から、マルクの継続的な下落によってのみドイツ製品は市場で競争力を保てると考えていました。

正確にいえば、ドイツは戦争中から短期債を中央銀行にとりあえず引き受けさせ、後に長期国債の発行でこれを返済していくやり方でしたが、途中から国債が不人気で販売できなくなり、とりあえずのはずの短期債の中央銀行引き受けだけが増えて残ってしまったものです。この仕組み、が、際限なく紙幣を印刷させたのです。

一九年一月からのインフレでは、マルク安によってドイツ製品の輸出が好調となり、それに伴いアメリカ製品の輸入も増加しました。インフレ率は数倍程度で、当時のドイツは世界経済唯一の推進役とよばれるほど好調だったのです。失業率は低く、株価は名目値で上昇し、ベルリンでは高級ナイトクラブが何軒も新規オープンしていました。借金のできる者、事業家、貿易商は借入で実物や不動産に投資すればインフレにより返済が楽だったので、巨額の資産を作れたといいます。そしてユダヤ人の中にそれが目立ったのが、後のナチスの動きにつながります。一方で高級官僚や大学教授、年金生活者など固定給の中産階級は数倍のインフレによってすでに貧窮を極め、食料の入手さえ困難な状況になっていました。また労働組合は集団交渉力を生かしインフレ率に沿った賃金上昇交渉を繰り返し、知的労働者よりも肉体労働者の賃金が上回るようになりました。貨幣を貯めていても仕方がないことから人々は消費に走るようになり、マルク安から外国人の買い物客を呼び込みました。日本人はカメラを買い漁っていたそうです。

ドイツ国内では都市居住者の中に飢えが始まっていましたが、外国人には贅沢なグルメ旅行のできるパラダイスだったのです。しかし海外から見れば消費の盛んなドイツ経済は好調に見え、これが戦勝国フランスの復讐心に火をつけることになりました。また一時的にマルク安が改善されインフレが収まると、失業率と企業倒産件数が増加することがドイツ人の間に経験的に知られるようになります。インフレは、快感を伴う一時しのぎの麻薬のようでした。

二一年四月二七日に、ドイツの賠償額が確定しました。一二二〇億金マルクを年二〇億金マルクに分割して、さらにドイツの輸出額の二六%の関税を紙幣マルクで支払うというものでした。ここでの金マルクとは、一英ポンド=二〇・四二九で固定された金本位制時代の為替レートでしたが、紙幣マルクはすでにこの時点で一ポンドとの交換に二〇〇マルクが必要になっていました。

ドイツが賠償を返済するためには輸出を増やして外貨を獲得しなければいけませんが、領土の割譲によりその力は既に喪失していたのです。当時の中央銀行であるライヒスバンクに国債を引き受けさせ紙幣を刷り、マルクを売ることでしか、賠償のための外貨を調達できませんでした。マルクは二一年一〇月の一ポンド七一二マルクから二二年末には三万五〇〇〇マルクにまで暴落しました。

フランスのレイモン・ポアンカレ首相は、出身地のロレーヌ地方が普仏戦争と今回の大戦の二度にわたりドイツ軍に蹂躙されたために、人一倍復讐心が強く厳罰主義でドイツとの交渉に臨みました。この時の対処が、後のヒトラーの台頭とフランスヘの執拗な報復につながったといわれています。

二一年一月、ポアンカレはドイツの返済が滞るとルール地方接収のために、軍を進駐させました。これに対しドイツ政府は消極的対抗策に出て、ルール地方でストライキに入ったドイツ人労働者の人件費を国費で見ることにしたのです。政府はこれを中央銀行の国債引受でマネタイズ(通貨を増発)したために、さらなるインフレが進行しました。一月末の為替は一ポンド=二万七五〇〇マルクまで下落し、この時点でマルクの価値は既に戦前の一万分の一になりました。この年が、買い物にいくのに札束を積み込んだ「手押し車の年」と呼ばれる、ハイパー・インフレーションの年でした。
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