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多世界への一言

『世界はなぜ「ある」のか?』より

ひとつの世界が存在することも十分な謎だ。しかし、多くの世界が存在することはどうなのだろう? そのような存在の過剰な氾濫となると、究極的な説明の探求はいっそう絶望的に思える。「なぜ何かがあるのか?」や「なぜこれがあるのか?」といった、ただでさえ手に負えない問いに、「なぜそんなにたくさんあるのか?」という三つめの問いが加わるとあらば当然だろう。

しかし、どうやら多世界仮説は、私がこれまでに出会った思想家の何人かにとっては、じつにしっくりくるようだった。スティーヴン・ワインバーグは基本的に懐疑的な性格だが、この説をためらうことなく受け入れていた。デイヴィッド・ドイッチュ(どちらかと言えば、それほど懐疑的ではない)もそうだった。ふたりとも多宇宙の存在によって、私たちの宇宙に備わっているある種の根本的な特性がさほど不可解なものではなくなると考えていた。たとえばそのような特性として、多宇宙を考えなければ説明のつかない量子的振る舞い(ドイッチュ)や、この宇宙が信じがたいほど生命の存在に適していること(ワインバーグ)が挙げられる。

対照的に、リチャード・スウィンバーンは「一兆の一兆倍ものほかの宇宙」を仮定することを「不合理の極み」だと批判した。それに、多宇宙に感心しないのはスウィンバーンだけではない。科学の偉大な普及者であり、疑似科学を暴いてきたマーティン・ガードナーは、「われわれがいる宇宙以外にも宇宙があるなどということを示す証拠は、いっさいない」と主張した。多宇宙理論は「すべてたわいのない空想だ」と、ガードナーは述べている。そして、物理学者のポール・デイヴィスはこの議論を取り上げ、《ニューヨーク・タイムズ》紙の特集ページで、「われわれが目にするこの宇宙の不思議な特性を説明するために、無数の見えない宇宙を持ち出すのは、見えない創造主を持ち出すのと同じくその場しのぎだ」と明言した。どちらにも「盲信」が必要とされると、デイヴィスは述べた。

私たちは多宇宙を信じるべきだろうか、あるいは信じないべきだろうか? そして私たちがそのどちらを選ぶかによって、なぜ「何もない」のではなく、「何か」があるのかという、さらに根本的な問いに影響が及ばされるだろうか?

こうした問題に踏み込む前に、言葉の意味にかんして押さえておきたい。もし宇宙が「あるものすべて」を意味するならば、当然ながら、そのようなものはたったひとつではないだろうか? それはそうだろう。しかし、物理学者や哲学者が、時空の異なるふたつの領域が「ふたつの宇宙」だと言うとき、彼らが言っているのは一般に、それらの領域が以下のどれかだということだ。(1)非常に、非常に大きい。(2)それぞれが因果的に切り離されている。したがって、(3)直接的な観測によっては、互いを知ることができない。ふたつの領域が別々の宇宙だという論法は、(4)たとえばどちらか一方には三次元の空間があるのに対し、もう一方には一七次元の空間があるというように、ふたつの領域がまったく異なる特性をもつ場合、説得力を増すと考えられる。そして、このケースは存在論的に非常に興味深いのだが、(5)それらが「並行」なものである、すなわち、ふたつの領域に、同じもののやや異なるバージョンが含まれている場合-Jたとえば、それらの領域にさまざまな別のあなたがいる、というような場合-時空のふたつの領域は別々の宇宙だと見なされる可能性がある。

ここに挙げたケースのどれか、あるいは何らかの組み合わせという意味で、多くの宇宙があるという可能性を受け入れる思想家は、そのような宇宙の集合体全体に対して、「多宇宙」(ときには「メガバース」)という言葉を使う。
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