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吉原遊郭に祀られる弁財天に参る

2018-05-31 16:55:56 | 東京散策

浅草七福神巡りでは、吉原遊郭に関連する弁財天を祀る「𠮷原神社」が存在する。

吉原神社
江戸時代、郭には守護神として五つの稲荷社が存在していた。廓の入口である大門(おおもん)の手前にひとつ、そして郭内には四隅にそれぞれ祀られていた。
その後、明治5(1872)年に、これら五つの稲荷社が合祀され、吉原神社と名付けられ当初は大門手前に祀られていた。
関東大震災を経て昭和9(1934)年に現在地へ遷座された。その際に廓外の吉原弁財天を合祀した。但し本宮(もとみや)はそのまま残した。




吉原弁財天本宮・花園池(弁天池)跡
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3(1657)年の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋人形町の吉原遊郭が移された。以来、売春防止法の施行(昭和32(1957)年)までの340年間、巨大な遊郭新吉原の歴史が始まった。特に江戸時代には、遊女を描いた美人画や遊女の髪型が町娘の間で流行したり等、様々な風俗・文化の発信源となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主や遊女たちの信仰を集めた。
池は、花園池・弁天池と呼ばれたが、大正12(1923)年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死した。
境内の築山には、溺死した人々の供養のため大正15(1926)年に観音像が造立される。また、花園池は昭和34(1959)年埋立てられた。










吉原遊郭跡
見返り柳
京都の島原遊郭の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったことから、「見返りの柳」の名がある。

衣紋坂
日本堤より五十間道に降り大門に至る坂。遊客がこの辺で衣紋をつくろうところからくる。

新吉原遊郭
明暦の大火以降、日本橋人形町の元吉原から幕府の命令によって浅草浅草寺北の新吉原に移転するにあたり、1万5千両(現代換算で15億円)を付与したり、風俗営業の銭湯を200軒取り壊し、夜間営業の許可など便宜を図った。
その吉原は吉宗時代の調査では、8千人余が居り、その内遊女2,105人、禿(かぶろ、かむろ=童女)941人がおよそ2万坪の郭に存在していた。
遊郭は大門口一カ所の出入口で、周辺はおはぐろドブが回らされている。但し臨時に使用するはね橋が7or9カ所用意されていた。遊女の棺はここから出たと云われる。







山谷堀と今戸橋
江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。猪牙舟とは、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。江戸市中の河川で使われたが、浅草山谷にあった吉原遊郭に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。長さが約30尺(およそ9m)、幅4尺6寸(およそ1m40cm)と細長く、また船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋でまさに「おだいじん」遊びであった。界隈には船宿や料理屋なども建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった。乗舟は神田川の河口柳島あたりだが、神楽坂から神田川を下って新吉原に行った明治の文化人もいたようだ。
明治時代に入って遊興の場は吉原から新橋などの花街に移っていった。
今戸橋は隅田川から入って最初の橋で、大門までのおよそ700mには9つの橋が50~150mおきに架けられていた。
今は、埋めたてられて「水と緑の憩いの公園」となっている。








訪れた日:2017.12.30


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