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「瀬谷にあった海軍施設」のパネル展示 終戦70年にあたって-4

2015-08-13 16:49:04 | その他
          
横浜市の瀬谷区役所2階ロビーに於いて地元の歴史を掘り起こすグループが「瀬谷にあった日本海軍施設」のパネル展示を開いている。
期間は戦後70年節目に当たる8月15日を中心とした、8月11日から21日まである。
          

上瀬谷地区一帯は大正から昭和にかけて、広い桑畑の中に雑木林が点在するのどかな相模台地であった。
                    
住宅地は赤で、桑畑は緑で色分けした。

1940(昭和15)年、軍より用地買収の話があり、日本海軍が資材集結所として、施設の建設を始めた。
鉄道引き込み線や各所倉庫群が建てられ、第二海軍航空廠瀬谷補給工場となった。
   
神中線(現・相模鉄道)瀬谷駅から引き込み線が敷かれていた。
引き込み線と道路とは、盛土によって区別がされていた。当時、この道は引き込み線道路と呼ばれていた。
戦後はその盛土に平和の象徴・桜が植えられ名所となっている。引き込み線の敷地は現在歩道となっている。

蓄電池機関車


相模台地には軍の施設が多数建設され、小田急線の北側は陸軍、南側は海軍としっかり棲み分けもされていた。小田急線の駅には「士官学校(現・相武台前)」「通信学校(相模大野)」の名称もあった。
          

                    

軍の資料は機密保護のため、そのほとんどが焼却されたが、戦後に米軍に引き渡された目録から、「火薬庫」と「爆弾庫」があって、火薬庫には信管や落下傘、弾薬庫には爆弾、機銃、プロペラなどがそれぞれ保管されており、横須賀海軍軍需部瀬谷火薬庫も併設されていた。
また、2003(平成15)年になって、特薬庫があって毒ガスを保管していたことも分った。



中央部分が毒ガスを保管した特薬庫


この海軍施設は、アメリカ軍も航空写真を撮り、詳細に分析している。写真には施設ごとに番号が付けられ、「爆発物保管庫」「非爆発物保管庫」「部品倉庫」「守衛所」などの名称が付記されている。
                          

戦後この施設は、上瀬谷通信基地としてアメリカ軍に接収され朝鮮戦争で活躍している。      

今年6月我が国に返還されたが、現在でもわずかながら遺構が存在している。



コンクリート水槽


タンク受け台


使用目的不明の遺構


施設の中心を南北に走る道路を「海軍道路」と呼んでいる。
これは横浜市道路局が1978(昭和53)年「愛称道路」として瀬谷中学校交差点から北へ2,850m、八王子街道間を命名した。
                     

1945(昭和20)年5月23日、現在の区役所付近に焼夷弾が落とされた(横浜大空襲は5月29日)。また同年4月3日には瀬谷本郷原(現・本郷2丁目)に250kg爆弾25個が投下されている。
          


          

今回パネル展示を開催したグループは、1998(平成10)年、南瀬谷小コミスクで「横浜今昔地図くらべ」と題した講演会を機に地図好き仲間が集まり発足した。
瀬谷区共催の「瀬谷区の埋もれた歴史をさぐる2つの講座と現地歩き」を4回開催している。郷土瀬谷の歴史を掘り起こし、これからのまちづくりに役立てるべく活動を行っている。
瀬谷の昔に関心がある方の参加を希望している。

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