京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

こころの時代、作家・精神科医師 帚木蓬生

2014-03-16 06:44:32 | 定年後生活


今回、御紹介する「こころの時代」は、「“平安の祈り”を求めて」です。





登場人物は、ギャンブル依存症の治療に尽力する作家・精神科医の帚木蓬生さんです。
ちなみに帚木蓬生はペンネームで、源氏物語五十四帖の巻名「帚木(ははきぎ)」と「蓬生(よもぎう)からです。





女優の檀ふみさんがお話を聞きます。





私は以前、 帚木さんの小説を何冊か読んでいました。
お気に入りは『ヒトラーの防具』でした。
数冊見つかりませんでしたが、書庫から出してみました。





本名森山成彬さんは、東大卒業後にテレビ局TBSに入社しましが、2年で退社し、九州大学医学部に再入学します。

フランス留学時代に出会った精神科医師の影響を大きく受けます。
イギリスの精神科医の「お医者さんが処方できる最良の薬は、その人の人格である」という言葉に深く共感します。

またフランス滞在中の経験が作家になる大きな影響を与えました。
1979年『白い夏の墓標』でデビュー、以来医師の仕事をしながら作品を書き続けました。

一方精神科医師としての帚木さんは、多くの精神科医が治療対象として扱わないギャンブル依存症の治療に尽力し、自助グループを設け、「気づき」を通 して治癒の動機づけを助けてきました。





帚木さんがギャンブル依存症の患者にミーティングが効果的であると気づいたのは十数年前です。











だが、 帚木さんは6年前の1998年、急性骨髄性白血病を発病します。





帚木さんは、自らが病気となって、「気づき」の会合の最後に唱和する、「平安の祈り」の意味をかみしめていると言います。

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものを変えてゆく勇気を
そして、二つのものを見分ける勇気を


平安の祈り、私も非常にいい言葉だと思います。


帚木さんは、病院を58歳で退職し、福岡県中間市で『通谷メンタルクリニック』を開業しました。
毎朝2時間執筆し、8時半に出勤する日々が30年続けられ、毎年1冊出版しているそうです。

よき相棒のセラピー犬、副院長の心くん





帚木さんは各地の講演で、ギャンブル依存症の恐ろしさを説きつづけます。
「どんな徳目のある人でもギャンブルをやっていると人間性を失っていく訳です。どんな人間でも、思いやり、寛容、正直、謙虚を失います」と。





今、カジノが一部で叫ばれていますが、これについても 帚木さんは強く警鐘を鳴らしていました。



知恩寺の富士桜開花

2014-03-15 05:54:30 | 2014桜

一昨日は一日中雨が降り、風も強く荒れました。昨日は、余韻を引きずるように、肌寒い一日でした。それでも、日中陽射しも差してきましたので、散歩がてら、百万遍の方へでかけました。向かった先は、知恩寺です。






知恩寺は、浄土宗七大本山の一つで大きなお寺です。浄土宗開祖の法然上人が、念仏の教えを説かれた「賀茂のかわら屋」が前身だそうです。
法然上人が亡くなった 後、弟子がここに住し、法然上人の御影堂を建立しました。 恩を知るお寺「知恩寺」と名付けたそうです。

また、知恩寺は毎月15日、広い境内で「手づくり市」が開催されることでも知られています。毎月、大勢の方で賑わいます。

私のお目当ては、境内の富士桜のチェックです。
ここは毎年、京都市内では早く開花する桜として知られています。

釣り鐘堂近くの富士桜、開花していました。
来週くらいが見頃になるでしょう。























知恩寺をでて、出町柳まで歩きます。
叡山電車出町柳駅の南に長徳寺があります。
ここのオカメ桜も早咲きで有名ですが、先日伺ったときは、まだ咲いていませんでした。
今回は、開花直前でした。あと、1,2日で開花しそうです。
















出町柳には思い出もあります。
若かりし頃、駅前の「柳月堂」という名曲喫茶にときどき足を運んでいました。
当時は、店内に入ると大きなスピーカーがひときわ目をひきました。
店内ではクラシック音楽が流れ、お客さんもリクエストできます。
私も大好きなバッハの曲をよくかけてもらいました。
昔のことですから、もうお店はないかもしれないと思いながら行ってみますと、まだ健在ではないですか。驚きました。











車折神社の河津桜開花

2014-03-14 06:05:43 | 2014桜

先月末に待ちきれず、車折神社に河津桜のチェックに行った私ですが、案の定咲いていませんでした。その時の記事です。

その後、ぶり返したような寒波で一気に真冬に戻りましたが、ここにきてやっと暖かくなり、春めいてきました。

まだ早いかなと思いながらも、一昨日、車折神社に足をのばしてみました。
なんと、河津桜が開花しているではありませんか。
まだ10輪程度ですが、この桜が咲くと京都にも春が来たと実感できます。
やっと待ちに待った河津桜の開花です。


御覧ください。
















こちらは、枝垂れ梅です。






今日も高校生の修学旅行でしょうか、お目当ての俳優の朱色の玉垣を探していました。





一昨日は京都市の最高気温は18度になり、春が来たと思ったのですが、昨日は一日中雨でした。本日も気温は低めの予想です。
本格的に春めいてくるのは、来週のようです。
皆さまのところは、いかがでしょうか。












満開の枝垂れ梅 京都の城南宮

2014-03-13 06:05:09 | 京都めぐり


先週の寒かった日々が一転、春らしく暖かくなってきました。
昨日、満開の枝垂れ梅を見に、城南宮に行ってきました。






城南宮は、京都市南部の伏見区にある方除の大社です。
よくテレビでも取り上げられる、曲水の宴が行われる場所であり、1861年の鳥羽伏見の戦いの決戦の場でも有名です。




平安の昔、白河上皇が院政の拠点とすべく1086年に、鳥羽離宮を造営した場所にあります。鳥羽離宮は、優美な御殿や壮麗な御堂が建てられ、遷都のようだと評せられるほど賑わいをみせたそうです。大きな池を掘り島を築きました。

現在は、社殿を取り囲むように神苑(楽水苑)があり、枝垂れ梅が美しい「春の山」や「平安の庭」、「室町の庭」、「桃山の庭」、「城南離宮の庭」と趣きの異なる5つの庭となっています。
特にこの時期は、枝垂れ梅を見る人でいっぱいになります。

私は混雑を避けるため、庭園拝観開始の朝9時に入りました。

前置きはそれくらいにして、美しい満開の枝垂れ梅を御覧ください。

































































































久しぶりに満開の枝垂れ梅を満喫いたしました。
天気に恵まれた平日に来れるのは、退職者ならではのことだと思っております。






















続『日本画家たちの戦い』日曜美術館

2014-03-12 06:17:29 | 美術・博物館

『日本画家たちの戦い』日曜美術館の続きです。

彫刻界に新しい息吹を吹き込んだ平櫛田中です。





その作品「禾山笑」です。













椅子に座る人物は、禅僧西山禾山です。
実に豪快でユーモラスな彫刻です。


田中36歳の作品、「愛犬」






「活人 箭」






当初この彫刻には弓と矢がありました。
しかし、この彫刻に「こんなものでは、死んだ豚も射れません」と指摘したのは、明治の美術会を牽引した岡倉点天心でした。





さらに天心は田中に、「売れないものを作れ」と言います。
田中は、本当に作りたいものを作ればいいと思い悩みます。
そのとき、浮かんだのが、時の禅僧西山禾山でした。
大物政治家や人気力士まで教えを請いにやってきたという禅僧です。
田中も難しい仏の教えを楽しく分かりやすく説く姿を作品にしたいと思い至ります。






田中は西山禾山の臨済録の提唱を聞き、仏教的テーマを題材にした「活人箭 」「法堂二笑」「尋牛」などを数多く制作しています。



次に大正から昭和にかけて活躍した画家たちです。


前田青邨 (1885~1977)「茄子図屏風」です。
琳派を思わせる屏風です。















安田 靫彦 「項羽」

安田 靫彦(1884年~ 1978) は、大 正~昭和期の日本画家で、 前田青邨と並ぶ歴史画の大家です。青邨ととも に、焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わりました。





放送以外の作品も紹介します。

「飛鳥の春の額田王」1964





「黄瀬川陣」1940~41










そして戦後、画室を血みどろの戦場と例えた小倉遊亀(1895年~2000)です。
歴史画や花鳥画など、従来の伝統的なテーマではなく、現代を描いた小倉の世界は、既存の日本画の常識を越えるものでした。
歴史画や花鳥画ではなく、身近な日常の風景を描いたのです。






「径」






「コーちゃんの休日」
当時のトップス ター越路吹雪を日本画で描いています。





















『日本画家たちの戦い』日曜美術館

2014-03-11 06:27:25 | 美術・博物館

今回の日曜美術館は、『自ら学び 革新せよ ~日本画家たちの戦い~』です。

現在、東京都美術館で日本画の歴史を切り開いた名作が展示されています。
まずは、橋本雅邦と小林古径の作品を御覧いただきます。





橋本雅邦 (1835~1908)明治期の日本画家
「龍虎図屏風」















小林古径 (1883~ 1957年) 大正~昭和期の日本画家
「孔雀」





明治維新以降、西洋からやってきた洋画と区別するべく、今までの流れをくむ絵画は日本 画と呼ばれるようになります。
しかし日本画は、ただ古い伝統を受け継いだものではなく、 画家たちは、常に革新を追い求め、新しい絵画を打ち出そうとしてきました。
今回はそんな革新の探求者たちを紹介するというものです。

最初に登場するのは狩野芳崖(1828~1888)です。





芳崖は江戸末期から明治初期の日本画家です。
伝統的な絵師集団、狩野派に19歳で入門し、雪舟や雪村を学びます。

狩野永徳「唐獅子図屏風」





狩野探幽「二条城二の丸御殿障壁画」





黒船襲来以降、西洋の文化が大波のように押し寄せてきます。
西洋絵画も入り、油絵が脚光を浴びる時代になります。

明治天皇の肖像画も油絵で描かれます。
高橋由一「明治天皇肖御像」





芳崖はフェノロと親交で、西洋画の濃淡、遠近法の表現方法も学び、斬新な日本画を作成します。伝統と革新を体現した画家でもあります。
それが、洋画に は負けない新しい日本画を彼の傑作「悲母観音」です。
生まれて間もない幼子と命を与えた観音を描いています。

「悲母観音 」1888













この作品ができる前、芳崖は初代内閣総理大臣伊藤博文から、「日本画で西洋画のようものが出来るか」と言われます。そこから模索がはじまります。
そして、出来たのがこの作品、西洋の絵の具が使われています。

「仁王捉鬼図」1886






放送で紹介された以外の作品です。
「江流百里図」1885
フェノロサが気に入り、自分のコレクションとして自宅に飾ったそうです。





大正期、新たな日本画を次々と描いたのが、速水御舟(1894~1935)です。






御舟の初期25歳の「比叡山」は、新たな表現を生み出した傑作です。
真っ青な世界を表したのは、日本古来の岩絵の具、群青です。
群青を巧みに使い、明暗を描いています。


速水御舟「炎舞」





「翠苔緑芝」













御舟初期の作品「比叡山」






墨ではなく鉛筆で描かれたスケッチ






放送以外の御舟の作品
「京の舞妓」1920











第一級画家の作品「暮らしと美術と高島屋」展

2014-03-10 06:51:49 | 美術・博物館


京都高島屋の「暮らしと美術と高島屋」展に行ってきました。
当初は、高島屋の紹介かなくらいにしか思っていなかったのですが、新聞各社の報道を見ますと、高島屋の所蔵する美術品の展示が行われていることを知り、行った次第です。

驚かされたのは、並みの美術館と比べ物にならないくらいの美術品の所蔵数です。
しかも、明治以降のわが国第一級の画家たちの作品ばかりです。
見ていて、圧倒されてしまいました。

高島屋の創業は1831(天保2)です。
今回の展示会は、創業以来180年以上の歩みのなかで収集した美術工芸品などの内、670点が陳列されています。

私の好きな竹内栖鳳ら京都画壇の名画、岡本太郎ら昭和期の気鋭作家たちの先鋭的な芸術、味わい深い民芸の陶器、伝統の染織品、ポスターや市電の中づり広告まで幅広く展示されています。

ちょうど、美の京都遺産というテレビ番組で、「美しきを伝える高島屋」が展示会の模様を放映していました。
展示会は写真撮影禁止ですので、テレビ放送とパンフレットから画像を紹介します。

高島屋京都展示会入り口






展示会場










京都高島屋の創業者は飯田新七、天保2年創業です。



明治中頃、貿易部を設け外国人向けの商品を扱い、万国博覧会などに参加します。
数々の賞を受賞し、1910年の日英博覧会には竹内栖鳳らの原画によるビロード友禅を出品し高い評価を得ます。

その後1909年に画家100名に同じ寸法で新作を依頼し、一同に展示した「現代名家百幅画会」をきっかけに、高島屋美術部が設立されます。
多数の画家との交流のなかで、絵画の収集が行われます。


ビロード友禅壁掛 波に千鳥 大下絵




竹内栖鳳「ベニスの月」







山元春挙「ロッキーの月」





都路華香「吉野の桜」





保津川図





浅井忠「大原女」




横山大観「神州の正気(冨嶽)」





竹内栖鳳「アレ夕立に」1909






河井寛次郎作品










その他画像









洋画展示作品
浅井忠「大原女」1905
藤島武二「風景」
岡田三郎助「支那絹の前」1920
ラグーザ・王「夏バラ」1935
小出楢重「六月の郊外風景」1930
梅原龍三郎「桜島」1935
東郷青児「裸婦」不詳
須田邦太郎「孔雀」1949
中川一政「福浦港風景」1956
棟方志功「弘前参禅寺長勝寺山門」1942 板油絵
岡本太郎「創生」1952

日本画展示作品
竹内栖鳳「アレ夕立に」1909
竹内栖鳳「富士」1893
竹内栖鳳「国瑞」1937
富岡鉄斎「盆踊図」1900
上田萬秋「孔雀」不詳
前田青邨「みやまの四季」
横山大観「神州正気(冨嶽)」1946
大観と下村観山共作「竹の図」不詳 屏風
川端龍子「湖畔の馬」不詳
土田麦僊「鮎」不詳
小野竹喬「秋」1979
堂本印象「みずのほとりの路」不詳
奥田元宗「霧晴るる湖」1987

などです。

最後に、「アレ夕立」ローズちゃん です。
これは、京菓子屋長久堂が制作した工芸菓子です。
高島屋といえば薔薇、かわいいローズちゃんにびっくりです。












喜多川歌麿「深川の雪」世紀の大発見

2014-03-08 06:34:10 | 美術・博物館

喜多川歌麿の幻の作品「深川の雪」が発見されました。
縦2m、横3.5mの浮世絵史上最大級の作品です。

この作品が発見された経緯などは、3月2日の日曜美術館アートニュースで紹介され、さらに5日のNHK歴史秘話ヒストリアという番組で、「大発見 !歌麿の最高傑作 巨大美人画に秘められた真実」でも放送されました。

私はワクワクしながら、作品を食い入るように見ました。
素晴らしい浮世絵の大作・肉筆画です。





















制作されたのは、歌麿最晩年の1802年頃から、1806年と推定されています。
精密な筆使いと流れるような構成、歌麿の最高傑作と考えられています。

登場人物は27人、着物の模様、仕草、表情までかきわけられています。
作者を示す書き込みはありませんが、歌麿自筆の作品と認定されました。

現在確認されている歌麿の作品は2000図以上ありますが、ほとんどが版画です。
肉筆は40点ほどです。





この作品の最も古い記録は、明治12年の「展覧書画目録」です。




歌麿が描いた「雪月花図紙本大物 三幅対」のひとつと考えられます。





歌麿の三部作はその後フランスに渡り、「吉原の桜」と「品川の月」は今、アメリカのフリーア美術館とワズワース・アセニアムにあります。





「品川の月」





右上の月を御覧ください。












「吉原の桜」
















今回見つかった「深川の雪」は、昭和23年銀座で開かれた展覧会を最後に姿を消しました。
以来、その存在はモノクロ写真でしか知られておらず、幻の作品として憶測を呼んできました。
それが2012年初め、古美術商が作品を入手し、64年ぶりに姿を表すことになったのです。
しかし、シミや虫食い、破れ、折れなどがあったため、大々的な修復が行われ、今回公開にいたりました。

この作品は、箱根の岡田美術館に収蔵され、本年4月に一般公開されるそうです。
それにしても、わが国の多くの名品が諸外国に流失したのは、かえすがえすも残念です。
今回の「深川の雪」を多くの人たちに見てもらいたいと思います。








続 『コンドルが見た河鍋暁斎』日曜美術館

2014-03-07 06:08:02 | 美術・博物館

前日の続きです。

第二章 暁斎とコンドルの交流

暁斎50歳の時、29歳のコンドルが入門してきます。
きっかけは、明治14年博覧会で最高賞を取った絵を見たことです。

「枯木寒 鴉 図」
『枯れ枝に鴉のとまりけり、秋の暮れ』 という芭蕉の句の世界を描いた作品です。






師弟関係となった暁斎とコンドルの交流は、暁斎の絵日記にも記されています。





週1回人力車でコンドルの家に出稽古に行きます。





食事も一緒に行います。





コンドルは正座が苦手なため、腹這いで絵を学びます。





描き上がった絵を見る暁斎





コンドルが暁斎から受けた指導は、師の絵の観察、師の説明を聞くこと、細部の仕事で師の助手をつとめることがほとんであったと。

コンドル作「百舌図」





暁英という名前ですが、イギリスの暁斎という意味だそうです。





暁斎とコンドルは何度も写生旅行にでかけました。
日光に行くため、上野駅に集合した暁斎とコンドル





「日光地取絵巻」














コンドル作「暁斎先生、日光にて」






第三章 暁斎 驚異の筆づかい

コンドルは暁斎から学んだ技法を丹念に記録しています。











スサノオミコトの九頭竜退治










「鯉魚遊泳図」











第四章 暁斎色彩のマジック

「大和美人図屏風」暁斎の代表作の一つ

























暁斎とコンドルの師弟関係は、暁斎の死で終わりましたが、暁斎は息を引き取るときコンドルの手を握って息を引き取ったとされています。

いかがでしたでしょうか。
暁斎58歳、絵師として円熟期に亡くなりましたが、もう少し長生きしてその後の絵も見たかったという思いです。

放送で紹介された以外の作品を紹介しておきます。

「北海道人樹下午睡図」1886




「花鳥図」1881




「幽霊図」1883






「釈迦如来図」1876











『 コンドルが見た河鍋暁斎』日曜美術館

2014-03-06 06:18:37 | 美術・博物館

今回の日曜美術館は、『 画鬼と呼ばれた絵師~弟子・コンドルが見た河鍋暁斎』です。

私は暁斎の卓越した表現力・技術力にいつも圧倒されています。
間違いなく傑出した天才の一人だと思います。





河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は、奇想天外な発想と卓越した筆さばきで、幕末から明治にかけて 人気を博した絵師です。

海外では“明治日本の巨匠”と評され、北斎に次ぐ人気を誇っています。

そして今回のもう一人の主人公は、暁斎にほれ込み弟子になった 明治のお雇い外国人、ジョサイア・コンドルです。
コンドルは、鹿鳴館、三菱一号館、神田のニコライ堂など、明治東京の街並みを創ったイギリス人建築家です。

コンドルは、日本画の技法を本格 的に学ぶとともに、一緒に日光の写生旅行に出かけるなど人間的にも親しく交わり、暁斎の手を握って最期を看とりました。
コンドルは58歳の時、師暁斎の人生と業績をたたえた本『河鍋暁斎』を著ました。
そこには、天才絵師ならではの人生がつづられています。





第一章 画鬼 暁斎の人生のエピソード
8歳少年の時、大雨で流れ着いた 生首を写生する。
描いたのは暁斎です。暁斎は今で言う絵日記を長年描き続けます。





後に暁斎は、その時の経験を生かした、「幽霊図」です。





15歳の時住んでいた付近が大火に襲われましたが、暁斎は火事そっちのけで炎を写生します。





後年暁斎は、燃え盛る炎を一枚の絵にします。
「地獄極楽めぐり図・地獄見物(二)」





暁斎は7歳で浮世絵師・歌川国芳に弟子入りし、浮世絵の技法と、世の中をユーモラスに表現する視点を学びます。
そして10歳で狩野派の塾に入門します。粉本を模写し、筆づかいを練習、 徹底した修業を積み、暁斎は浮世絵と狩野派、二刀流の腕を持つ絵師となります。

「狩野派塾の様子」





暁斎23歳の時、御殿女中を追いかけ写生し、無作法だと非難をあびます。
暁斎は御殿女中の帯の模様を写生していたのです。
珍しい模様に魅了され、写し取ってきたのです。





「地獄太夫図」
この絵は先日紹介した、クリーブランド美術館展で里帰りしていて、今日本で実物を見ることができます。
暁斎は生涯、着物や帯の模様にこだわりました。















絵師として人気が高まっていた34歳、長野県戸隠神社で見事なパフォーマンスを披露します。
落成した社殿の天井画の依頼を受けます。天井は100坪の広さです。
その時の天井画は昭和17年、焼失しますが、平成15年に復元されました。










人前でのパフォーマンスを得意とした暁斎の傑作
「新富座妖怪引幕」縦4m、横17mの歌舞伎舞台の幕です。
これを人前で一気呵成に書き上げます。
4時間で書き上げたそうですから驚きです。


























当時は書画会というパフォーマンスアートが人気を集めていた時代です。
暁斎は客の要望でその場で絵を描く、席画の名士として有名でした。





39歳の時、書画会で逮捕されます。
理由は、酒に酔って描いた絵が、多くの人々を嘲笑したと言われていますが、真相はわかっていないそうです。
暁斎はむち打ち50の刑を受けます。











しかし、事件のあとも時代を風刺する戯画を描き続けます。
明治5年小学校ができますが、化け物の世界にも学校というわけです。
鬼の子は鬼語、河童の子はローマ字を勉強しています。
「暁斎楽画第三号 化々学校」
















「 暁斎楽画第五号 不動明王開化 」
文明開化の嵐は、不動明王をもまきこみます。





明日に続く

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放送で紹介された作品以外を紹介します。

「地獄太夫図」1871以降
頭蓋骨の上で踊るのは一休和尚です。




「地獄太夫図と一休」1871以降




「達磨の耳かき図」1871以降






「閻魔大王浄玻璃鏡図」1887








ぶらり散歩、平野神社と北野天満宮

2014-03-05 05:51:04 | 京都めぐり



この間の日曜日は、朝から曇り空で肌寒い一日でした。
平日は働いている妻が、「今年はまだ天神さんの梅を見ていない」と言いますので、二人ででかけました。
私は先月8日、咲き始めに一度訪れています。
その時は駐車場も空いていましたが、今回はいっぱいで、駐車場に入る車で大混雑でした。

楼門から入りますと、梅を愛でる方、参拝する方でいっぱいです。


梅は咲き始めが一番美しいのだと、何かの本で読んだことがあります。
私もそう思います。

境内の梅は見頃の木も多く、鼻をくすぐる香りが心地よいです。











早咲きの梅は散りはじめています。






薄いピンク






白というより薄緑の梅






濃い赤の梅






北野天満宮から平野神社に足を伸ばしてみました。
歩いても数分の距離です。





ここは数多くの桜が植えられ、桜が咲き始めますと、お店もでて一日中花見客で賑わいます。夜桜見物に訪れる人も多いです。
ここの魁(さきがけ)桜が咲き始めますと、花見時期の開始です。

今咲いているのは、寒桜と十月桜です。

寒桜です。










十月桜です。









天気予報を見ましたら、しばらく真冬並みの寒さが続くそうです。
皆様も体調管理にお気をつけください。







三十三間堂 春桃会(桃の法会)

2014-03-04 06:22:03 | 京都めぐり

昨日、三月三日は雛祭り、桃の節句ですが、陽数の「三」が重なるおめでたいとされる祝節、重陽のひとつです。
三十三間堂も、三が重なることから、この祝節に因んで「桃の法会」が行われ、当日は無料開放されました。





三十三間堂は今まで数回訪れていますが、いずれも知り合いの京都観光の付き添いです。
ここは京都観光の人気の寺院に加え、無料開放ということで、朝から大勢の人が拝観に訪れていました。





10時には、華道池坊による献華と法要が行われました。





池坊華道家元が、桃一種「御池花」を祭壇の右前で献花されます。
祭壇左横には京都島津の有職雛「七段飾」が置かれています。
作品の展覧、落語席もあります。
目玉は、寂庵主 瀬戸内寂聴さんの青空説法もあります。こちらは大変な人気のようです。

まずは、仏像の拝観です。





いつ来ても仏像の多さに圧倒されます。
仏前には、池坊の方々による生け花が供えられています。
桃の花が多かったように思います。
あまりの人の多さで、押し出されるように進んでいきます。


境内にでます。通し矢や宮本武蔵の映画の舞台となった三十三間堂です。















桜の蕾が膨らんでいます。





午後行われる青空説法の場所です。





境内には梅と木瓜(ボケ) が咲き始めていました。










三十三間堂の拝観を終え、まっすぐ家に帰りました。
朝、妻が仕事にでかけるとき、「今日はお雛さんの日ね」と言って仕事にでかけましたので、私は頑張ってちらし寿司を作りました。














桜の開花待ち遠し

2014-03-03 07:47:18 | 定年後生活

私は毎年3月に入りますと、桜の開花が待ち遠しくて仕方ありません。
花はどれも好きですが、私の一番はやはり桜です。

余談ですが、以前住んでいた家には桜の木がありましたが、虫が大量に発生し、柿の木に植え替えてしまいました。
柿の木は、娘が小学校に入学する時、亡くなった義父からいただいたものです。
成木し、隔年に数十個の甘い柿を実らせてくれました。

この時期は暖かさと寒さを繰り返し、桜の蕾が少しずつ膨らみはじめます。
まだ咲かないかな、もうすぐかなと待ちわびる気持ちは、青春時代のデートのようです。(笑)

京都で早咲きは、叡山電車出町柳駅の南徒歩すぐの長徳寺のオカメ桜です。
この桜は、寒彼岸桜とマメ桜のかけあわせで、1993年に植樹されたそうです。
他の桜と比べて小振りで濃いピンク色なのが特徴です。

訪れたときはまだ蕾ですが、膨らんでいます。











鴨川出町柳の景色です。





親子が鴨川に敷かれたブロックを渡っています。







市内の公園の桜です。
たまたま通ったときに咲いていました。
寒桜でしょうか。





























春はもう少し先のようです。

2014-03-02 06:46:00 | 定年後生活

京都の桜の開花予想は3月27,28日頃のようです。
先日2月28日、所用のため車で出かけたついでに、車折神社に寄ってきました。
この神社は芸能神社としても有名で、テレビでもよく紹介されます。





平安時代後期の儒学者清原頼業公を祭神とします。
社名「車折」は、後嵯峨天皇が大堰川遊幸の際、社前で突然車が動かなくなり、聞くと頼業公を祀るとわかり、「車折大明神」の神号と正一位の神階贈ったためと言われています。
境内には芸能の分野で活躍されている名を記した、朱塗りの玉垣が 2000枚以上奉納されています。





私が訪れた理由は、河津桜のチェックです。
毎年この時期、静岡県の河津桜が満開とテレビで伝えられます。
そして、暫くして車折神社の河津桜も開花します。
私にとっては、ここが開花すると春が来たと実感できます。
訪れた時は、まだ蕾でした。
また寒くなり、暖かさが戻れば開花するでしょう。











境内には「渓仙桜」という大きな枝垂れ桜もあります。


車折神社から北に車を走らせると、北嵯峨の景色です。






平安の頃から変わらないようなのどかさがあり、私の好きな場所です。
春、野の花を愛でながら散策するのが楽しみです。
このあたりは、歴史的風土特別保存地域になっています。






広沢池は、古くから月見の名所として知られています。
池の一帯は景観保護地区に指定されています。
池畔に立つと小倉山や愛宕山など嵯峨野の山々が見わたせます。







桜の時期、毎年一度はお邪魔する桜守の佐野藤右衛門さんの桜の畑です。
見事な枝垂れ桜にうっとりします。
今年も宜しくお願い致します。














ブログでの出会いと別れ

2014-03-01 06:27:19 | 定年後生活

私は昨年3月退職し、以前からやりたかったブログを5月に始めました。
まだ1年未満のブログ初心者です。
しばらくして、読者登録があることを知り、気に入った方のブログを登録しています。

どこに住んでいるか、年齢もわかりませんが、更新される記事を読んでいますと、読者の方々が非常に身近になってきます。
長い間更新がないと、余計なことですが、お仕事が忙しいのだろうか、病気だろうかなどと思ったりします。
間違いなく、私の定年後生活の「張りと潤い」(よい表現がみつかりませんが)になっています。

私は退職後、主夫見習い者として、不十分ながら家事をこなし、晴れた日は散歩にでかけ、雨の日は家で過ごす生活が一年近く続いています。
日中の合間にブログを書いたり、読者登録されている方の記事を読んでいます。

そんな日々ですが、最近読者登録しているお二人の方がブログを中止されました。
お二人とも最近登録したばかりです。
お一人は、お仕事が大変忙しくなることが予想されるので、ブログを終了されると書いてありました。
香港在住の方でしたが、私は香港での生活状況の記事に興味がありました。
その方は、いろいろなことを非常にはっきりとお書きになる方でした。

もう一人は、理由はわかりませんが、暫くブログを休みますとだけ書いてありました。
御自分の描かれた水彩画をブログにのせておられ、私も美術が好きですので、気に入っていました。

ブログですから、当然お会いしたことはありませんが、これからこのお二人のブログが読めなくなると思うと、非常に寂しいです。

ブログは気軽に出会えますが、別れもあるのですね。