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コンピュータ25年の歩み(その2)

2005年12月10日 | よしなしごと
さて管理人が最初に使ったオフコンはシステム3の後継機種システム34。ハードディスクはLPレコードみたいのが1枚内蔵されており、多分30メガバイト(30ギガバイトの間違いではありません!)だったと思います。プリンターは活字トレインの代わりに活字ベルト(スチールベルトに刻字したもの)を使う、小型のライン・プリンターで、やはり数年間、次の機種に入れ替わるまでは英数字、カナでのシステム構築でした。

当時、パソコンの世界を席巻していたのはNECのPC98××シリーズ。この機種に初めてハードディスクが内蔵されたときは、すげえーと驚いたものでした。たかが10メガバイトですが。またワードプロセッサーも高価、東芝の2代目ワードプロセッサーはTOSWORD JW-7というシリーズでしたが、購入したフロッピーモデルでも1台200万円ほどしたと思います

NEC、PC98××の牙城は1984年にIBMがパーソナルコンピュータPC/ATを発表するに当たって、崩落を始めます。当時の大型から中型コンピュータ業界におけるIBMの圧倒的シェアを背景に、またIBMがPC/ATの基本アーキテクチャを無償公開したことから、世界中のコンピュータメーカーが互換機製造に右に習え、現在でもほとんどのコンピュータ(アップル社を除く)はIBM PC/ATのエミュレートモードで作動しています。つまり今のパソコンの基本スペックは20年前に完成されていたことになります。


時を前後してIBMはIBMマルチステーション5550を発表、これはオフコンのワークステーション・モードとスタンド・アローンのパソコンモードがキー一つで切り替わる優れもの。漢字対応。多分ATOKだったと思います。ただ当時漢字はROMに内臓でフォントなど、選択肢は限られておりました。この状態は1990年のDOS/V発表まで続くことになります。DOS/Vの発表でPC98××の牙城は完全に崩落。


ハードディスク400メガバイトに
感激したものでした
管理人の職場ではすこし前にシステム34から後継の36に切り替え、コンピュータシステムの漢字化に取り掛かっていましたが、当時の漢字キーボードはキーが300程ついた大きなキーボード、キー一つ当たりに漢字が9つ割り振られており、テンキーの1から9に対応、テンキーを押したまま、一つのキーを押すと、対応した漢字が入力される、という大変な代物。そこで早速マルチステーションに飛びつきました。


同時に例の活字ベルトを使ったライン・プリンターを漢字対応のシャトル・プリンターに入れ替え。これはどういうものかというと、そうですねドット・マトリクスプリンターの印字ヘッドを横に長くし、斜めに何本もピンを植えたもの。ヘッドの幅がほぼ15インチありますので、横にすこし往復運動(これをシャトルという)するだけで、一度に1行分漢字を印字することになります。これは結構早かったですね。シャトル・プリンターはレーザー・プリンターと違い、複写が取れますので、現在でも結構使われていますね。

システム開発はIBM社が開発した報告書作成向けのプログラミング言語、RPG
Report Program Generator)で行いました。データの入力、演算、印刷など、必要な処理の種類に応じて仕様書が用意されており、仕様書に適切なパラメータを記述してアプリケーションソフトを作成するものですが、通常は画面より直接ソースを入力しました。1500行も書けば結構複雑なアプリケーションも作れます。写真はその仕様書の一部。RPGは次に触れるAS400などで現在も使われています。報告書作成向けの言語ですので、初期は画面周りに弱かったのですが、RPGⅡ、RPGⅢ、RPG400と、かなり改善されました。

90年代初頭のAS400 重ねてある
ハードディスク、一つで1ギガくらい

システム34、36はメンテナンスのしやすい機種で、34も36も正面、側面のパネルは簡単にあけることができます。36の場合前面パネルを開くとメモリーなどのモジュールを納める、棚になっていまして、我々は1つずつ取り外し、掃除機でホコリを吸い取る、てな荒っぽい掃除をよくやっていました。筐体の中も結構スペースがあるので、掃除機の先をつっこんだりして……

さて、システム36は後任者の手によって、AS400(旧システム38)へ移行。AS400はものすごい技術革新、コンピュータの小型化の波の中でも生き残ってきたIBMの中型機の主力で、導入当時は大きな本棚くらいの大きさがありましたが、現在は机の片隅で稼動しています。(続く)