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最初のクルマ

2024年01月25日 | ノスタルジア
多分20代半ば、免許取ってしばらく経ったころ。職場の先輩が車買い替えるからとタダで譲り受けたパブリカ800。

廉価な車ということもあり、運転席もリクライニングなし。それどころか少し傾いており、どこでか忘れましたが、溶接してもらったり。おっかなびっくりで夜の道を走ったり、砂利道でスピンしたり、ずいぶんこので練習しました。

以降カローラ、マークⅡ、キャラバレ(アメリカで)、シビック(アメリカ、これは初めての新車)、セフィーロと乗り換え、この10年以上、タイムズカーシェアのお世話に。なにせタイムズの駐車場まで自宅から100メートル、車所有する必要もありません。

アメリカ品質というかアメリカ製のシビックは作りがイマイチ。ドアの取り付けが若干ゆがんでおり、新車で早々修理に。ボストンで買いましたが、なんか遠方から技術者を呼んで修理したらしい。

1万2千ドルくらいだったと記憶しますが、まる2年以上毎日乗って、ほぼ1万2千ドルで売れました。2年間ただで乗ったみたい。日本車(一応)の人気はすさまじい。

半世紀前のことになりますが。

2024年01月23日 | ノスタルジア
学生の頃、原動機付自転車の免許を取りました。筆記試験のみ。免許を取得してまず買ったのスーパーカブの中古。買った自転車屋さんが登録を済ませてくれたので、取りに行き、そのまま乗って帰りました。それまでだだっ広い大学のキャンパスで友達の90CCとか、350CCのバイクは借りて乗り回してはいましたが、公道デビューはスーパーカブが初めて。当時は怖いもの知らずでした。セルなんて無かったのじゃないかな、当然キックスタート。


サイドスタンドをかけ損ねて倒したこともありますが、慣れてない頃は結構重く感じました。90キロ前後ですけどね。

その後、スズキハスラーとか、ヤマハRD50とかにも乗りました。




このうち、ハスラーは友人に譲り、二人して房総半島を(ほほ)一周しました。「俺たちは房総(暴走)族だ!」と叫んで。

この2台はツーサイクル(カブはフォーサイクル)で、ガソリンにオイルを混ぜて燃焼させるため、オイルを常に補充する必要がありました。また、そのため排気ガスのにおいが強く、甲高いエンジン音と排気ガスのにおいがツーサイクルの特徴でしたね。

ケンとメリのスカイライン

2024年01月05日 | ノスタルジア
年末に銀座の日産ショールームの前を通ったら、なんと!あのケンとメリのスカイラインが展示されていました。72年の車ですから、丁度半世紀。

あまりにも懐かしく、写真オーケーとのこと、撮りまくりました。





なんたってボリューム感ありながら、なぜかシャープなリアビュー。






正直、今の車はここまで美しくはない。ほとんど芸術品ですね。


初代1972年製の車の内装とタイヤはそのまま、外装のみ塗装し直したそうでう。札幌の美瑛に有名なケンとメリーの木が実在していると思います。撮った写真どこかにあるかもですが、探しきれません。「ケンとメリーの木」でググればいくらでも出てきます。

柏飛行場の跡に

2021年11月22日 | ノスタルジア
本記事は現地の案内掲示板の文字をスキャン、解析したものが元となっています。

千葉県立柏の葉公園の隣の東大柏キャンパスと国立がん研究センター東病院、そして少し柏の葉キャンパス駅(つくばエクスプレス)寄りに財務省税関研修所・関税中央分析所、県警機動隊本部、警察庁科学警察研究所(科捜研!)。これらはすべて旧陸軍飛行場の跡地を利用したものです。

日中戦争(1937·昭和12年~)の開戦前後から、 帝都· 東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、陸軍による飛行場設置が1937年に決まり、 翌年11月頃完成しました。実戦部隊の飛行第5戦隊が移駐し、飛行機の点検·整備をする航空廠(しょう)柏分廠も竣工し、柏飛行場は第一線の飛行場となりました。



滑走路(かっそうろ)は当初1本だけでしたが、何度も行われた拡張に伴い、最終的にはコンクリート舗装の1500メートルと未舗装の計2本となり、 飛行場面積も約1.8倍になっています。 南の地域には、 本部·将校集会所·兵舎弾薬庫などの建物があり、 南西には格納庫や気象観測所も設けられました。1942(昭和17)年には、 ダンプカーやパワー·ショベルを使用した、機械化による飛行場設営の実験も行われています。

さて、柏の葉公園とは少し離れますが、国道16号の十余二工業団地交差点そばに、こんぶくろ池自然博物公園があり、アスファルトの臨時舗装のような曲がりくねった道路で一号近隣公園に続きます。こんぶくろ池自然博物公園を突き切ると、ほぼ地続きですので、一号近隣公園はこんぶくろ池自然博物公園の一部ともみなされます。このアスファルト道路から少し入ったところ(写真右の奥)に掩体壕の跡が残っています。掩体壕とは、戦闘機を隠し、爆撃·爆風から守る施設です。 掩体壕には有蓋(ゆうがい)掩体壕と無蓋(むがい)掩体壕があり、土手で築かれただけの無蓋掩体壕は風化しやすく、あまり見られなくなりました。





空襲がひんぱんになる1944(昭和19)年夏頃から誘導路や掩体壕が造られ、この近辺では、朝、 飛行場から掩体壕まで戦闘機を運びだし、タ方に戻す兵隊たちの姿が見られたといいます。 戦闘機は上空から見えにくいように、木の枝や緑のネットで覆われました。

柏歴史クラブの調査では、 柏飛行場関連の掩体壕は、6か所残ってたのがわかっていますが、そのうち4基は開発地区にあり、こんぶくろ池自然博物公園内にあった2基が保存されました。写真の掩体壕はその一つであり、土手が低くなっているものの、ほぼ完全な形で残っています。



柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。 秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、 B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。 1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、 年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、 完成前に敗戦となり、 柏飛行場にあった軽滑空機·重滑空機·実機の計4機とも、 すべて燃やされてしまいました。



秋水の燃料庫はまず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001.年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。そして公園の範囲にあるため、柏市が保存してくれることになりました。地図の赤丸の場所です。2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しています。公園内に保存されているのは、そのうち3基です。現在は保存のため埋め戻され、立ち入ることができません。



このように、のどかな柏の葉公園や東大柏キャンパスは人を殺すための広大な施設の跡に建てられた、そのことを忘れてはいけません。

中高校生のころ、シャープペンシルは大流行した。

2020年12月28日 | ノスタルジア
今からほぼ半世紀前以上前、中学生のころ、当時存在したモリソン万年筆の安価版は学生でも手が届く値段だったことや、ぺんてるがシャープペンシル市場に乗り出して大量生産が軌道に乗ったこともあり、田舎でも万年筆、シャープペンシルが大流行、みんな持っていました。

当時のシャープペンシルは回転繰り出し式と言ってシャープの創始者早川徳次さんによる「早川式繰り出し鉛筆」式であり、つまり0.9ミリ前後の芯を、先の細い管で芯を挟み込んで固定します。通常筆記時は軸を回転させると管が下上して芯を出し入れします。すでにぺんてるがノック式を市場に出していたみたいですが、高校生の手に届く値段ではなかったのか、町の文具屋さんでは見かけませんでしたね。

回転繰り出し式シャープペンシルの構造はものぐさ博物館の記事をどうぞ。

筆者の文具好きはこのころから始まりますので、年期が入っています。大学生のころはわざわざ秋葉原まで出向き、ドイツのゲーハー(Geha)万年筆を手に入れたりして悦に入っていました。高校、大学と特にパーカーに夢中。パーカー45とか、懐かしいですね。ちなみにパーカーは現在多分イギリスの会社ですが、生まれはアメリカです。だから個人的イメージはまだアメリカのブランド。

社会人になってしばらくたち、パーカー180が世に出ました。1970年代末。写真のように使えば中字、180度ひっくり返して反対側を使えば極細字と使い分けることができました。



デビューは華々しく、純銀とか宝石で装飾した高級品もあり、細身で女性には好まれましたが、男性にはちょっと使いづらく、また細身ゆえのインクのぼた漏れが多く、数年で市場から姿を消しました。ずいぶん長く持っていたと思いますが、いつの間にか紛失、写真の一番上にあるパーカー180は数年前中古カメラショップでほぼ新品を購入。狂喜。

これも社会人になってからで、数十年前ですが、多分中古で買ったと思いますが、パーカー70スターリングシルバー。最近紛失して、出てきません、画像は借り物。これは胴体が純銀のため大変重く、実用品よりは装飾品、もし見つかったとしても多分黒ずんでおり、黒い部分は多分漆のため、剥がさずに磨くの、すごく大変のような気がします。



ついでに現在所有のペン類を紹介。一番上のパーカー180より時計回り。



プラチナ万年筆:形式名不明。確か30年ほど前いただいたもの。長年放置が原因で内部機構にインクのかすがつまり、3日ほどかけて清掃、乾燥。動態保存。

パーカーIMボールペン:最近いただいたもの。

パイロットオートマックシャープペンシル:自動芯出し機構の草分けの一つ。

クロスボールペン:多分いただきもの。

パーカージョッターボールペン:買ってから20年は経つと思います、現役でよく使います。パーカーのボールペンは最初中字が入っていますので、IMとも、細字に換えています。

オートno-nocシャープペンシル:自動芯出し機構の草分けの一つ。最近自動芯出し機能のペンをそろえるために購入。

ぺんてるオレンズネロ0.3:自動芯出し機能としては後発ですが、0.2、0.3、0.5と揃っています。パイロットとオートは0.5のみ。

ロットリング600 3 in 1 マルチペン:重厚さにひかれ最近購入。ボールペンの芯はジェットストリームに換えています。

その間にボールペンのインクは発展を遂げ、油性から、水性、ゲルインク、エマルジョン、そして油性ながらスムーズなジェットストリーム系へと。あとフリクション系。フリクションはずいぶん揃えましたが、インクの色の薄さがどうも気に入らす、今は一本も持っていません。油性では結局パーカーのquinkflowが一番使いやすいと思います。quinkflowって、多分quick flowからの造語でしょうね。

以上、簡単ですが、文具フェチの忘備録でした。

大正末期ごろの横浜新港埠頭

2020年11月29日 | ノスタルジア
佐倉にある国立歴史民俗博物館展示より。

[縮尺:1/200]

横浜新港埠頭

横浜築港第1期工事(明治22~29年)では、いまだ船舶の繋留施設・税関施設、船舶と鉄道との連絡が
不備であった。政府は明治32年に第2期工事に着手、万トン級を含め13隻が同時に接岸可能な水深6~10m、延長2025mにわたる岸壁を築造した。岸壁に沿って鉄造上屋がたち並び、鉄道が導入され、煉瓦造の倉庫やクレーンも完備された。工事は大桟橋の拡張を含め、大正6年に完成し、関東大震災(大正12年、1923年)によって壊滅的打撃を受けたが、早期に復旧された。(説明文より)



左に見えるのが赤レンガ倉庫群。今の赤レンガ倉庫群はあまりにも観光地化され、風情も何も、という感じですが、40年ほど前、横浜で働いていたころはまだこんな感じでした。花火大会をレンガ倉庫群のそば、波打ち際で鑑賞した記憶さえあります。ドローンが進化した現在、俯瞰写真を手に入れるのはさほど難しくありませんが、当然昔にはありません。ジオラマで残されていることは大変貴重だと思います。

流山市市制施行50周年記念映像(おまけ:空撮映像)

2020年10月27日 | ノスタルジア
都心から一番近い森のまち、流山市の歴史がわかります。登場する赤城神社はこの記事でも紹介しています。前半は流山の地名の由来など面白いのですが、後半は写真構成中心で、つまらなくなります。



歴史ではなく、現在をご覧になりたいなら、このドローン映像がいいですね。有朋社・ドローン事業部作成です。近藤勇陣屋跡や、利根運河、ここでは紹介されていませんが浅間神社など、ノスタルジアに記事が豊富にあります。

アクセサリー作りは抽象的思考の始まり

2020年10月22日 | ノスタルジア
歴博(国立歴史民俗博物館:佐倉)の展示です。



説明によりますと、原始時代から装身具(アクセサリー)は作られており、様々なアクセサリーを作る過程で具象から抽象へ、思考方法も進化したようです。身近なものを単純化する、デフォルメしてアクセサリを作るところから抽象的思考は始まったのですね。

人類の(女性とは限らない)美しくありたい、美しくなりたいという欲求は太古からあり、それが人類の精神的成長の源となった、なんて楽しい話ですね。

この欲求がなければ文学とか、哲学とか、神学とか生まれなかったなんて、楽しすぎます。

これはなつかしい、公団住宅

2020年10月01日 | ノスタルジア
日本住宅公団。都市再生機構(UR都市機構)の前々身ですが、昭和生まれには懐かしい名前です。その住宅公団が建設した高層アパート、いわゆる公団住宅の一部を再現したものが歴博(国立歴史民俗博物館)にありました。1960~70年頃のものらしいですが、もう、このあたりの建築になると古いUR賃貸住宅では残っていると思います。改装はされていると思いますが。

日本人の住まいにはふすまは欠かせません。




公団住宅の基本サイズは3DK、ベランダにある物干竿をかけるラックなんか、古いマンションや賃貸住宅などではまだ見かけるタイプですし、洗濯機。これは懐かしい。


見たことのない方のため説明しますが、ハンドルを回すと二つのゴムのローラーが回転、洗濯物をその間に通し搾るというもの。あれです、アレ、コピー機の紙送りローラーみたいなもの。当然洗濯物はしわくちゃになります。それを一生懸命伸ばして物干し竿へ。私の子供のころの洗濯機はこんなものでした。


もう、このあたりになりますと、昭和生まれとしては身近なもの、なつかしささえ感じます。

どのように修復するのかな、尼谷橋

2020年09月22日 | ノスタルジア
今やものすごく珍しい土橋(橋面に土をかけてならした橋)。数年前にもこの橋は記事にしました。やはり痛みが進んでますね。

変わったことといえば、橋のたもとの両側に警告のための看板が設けられていました。尼谷(あまや)橋という名前なんですね。



















反対側、つまり江戸川堤より。向こうに見える巨大クレーン群は建設中の超巨大流通センター。
松戸野田有料道路が10年ほど前無料化され、都内から超便利になったためです。三郷インター→流山インター→松戸野田道路。


看板を立てるくらいだから、当分撤去するつもりもないみたいです。地元の保存要請でもあったのでしょうね、どのように保存、あるいは修復するつもりでしょうか、気になりますね。


手前が江戸橋、向こう側は日本橋

2020年09月19日 | ノスタルジア
歴博(国立歴史民俗博物館)の巨大な江戸時代ジオラマ、完結編。江戸橋の南側を起点に時計回りに一周してみましょう。





江戸橋広小路。明暦の大火(1957年)後、幕府は火事の拡大を防ぐため、一部の町を立ち退かせて、明地(空き地)を設けました。江戸橋広小路もその一つ。


火の見やぐら。木造の数棟は楊弓場(小型の弓で的を射て遊ぶところ)


日本橋西詰より。漆喰で塗り固められているのは土蔵。江戸は火事が多いため火に強い土蔵が必須でした。柵で囲まれたのが高札場で、幕府からのお触れである高札が掲げられました。



 
日本橋東詰めより。軒を並べるのは二階に窓際があるので船宿のようです。


一周して手前が江戸橋。川沿いには荷船が並んでいますので、川沿いに並ぶのは倉庫だと思います。


前にも述べましたが、日本の町並みは木造建築が多いこともあり、どんどん変わっていきますが、道路はそうもいかない。現在も江戸時代の道路がそのまま使われているのは、多くあります。

国立歴史民俗博物館(歴博)ちょい見

2020年09月11日 | ノスタルジア
東京国立博物館、奈良国立博物館などと設立趣旨は異なっても、いわば同等の国立歴史民俗博物館が、なぜ千葉県民の私でさえ不便と感じる佐倉にあるのかは謎。最近まで存在すら知らなかった。確かに佐倉城址には戦前佐倉連隊の施設が広がり、巨大構築物にうってつけだったのは理由の一つでしょうが、誘致合戦とか、政治家の働きかけとか、いろいろあったんでしょうねえ。

それにしてもアプローチが無駄に長い。長崎平和記念公園並みに、エスカレーターつけて欲しいレベル。


正式名称は大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館。歴史学・考古学・民俗学の調査研究の発展、資料公開による教育活動の推進を目的に、昭和56年に設置。展示棟の後ろに巨大な研究棟がひかえます。展示棟は各部屋が年代別に区分され、ものすごく広く、資料も膨大ですが、大事な資料が多いため、たいていはレプリカのようです。(クリックで拡大)



一応、カテゴリが「ノスタルジァ」ですので、古代は割愛し、近世から現代までを取り上げます。


なんたって目を引くのが江戸時代の江戸橋近辺のジオラマ。てまえが江戸橋、向こう側が日本橋。
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クリックで拡大します。


写真ではこのあたりになります。結構道というものはそのまま残っているものですね。


江戸時代の民家の囲炉裏。最近まで残っていましたが、東日本大震災で倒壊、残っていたものを組み立て、補修したらしいです。こんな立派で巨大な自在鉤は初めて見ました。


戦時中の人生訓。やるせないですね。(クリックで拡大)


戦中の生活をつづった映画「浮雲」のセット、実物。たった3畳一間の掘立小屋。まずしい暮らしがしのばれます。主演は高峰秀子。有名なのは知っていますが、さすがによくわかりません。


こんなほっこりした展示もありました。懐かしのだっこちゃん。友達んちにありました。


たまたま訪れ、しかも午後1時過ぎでしたので、ちゃんと見学するには明らかに時間不足。ざっと見。近いうちに朝早く訪れ、じっくり見学したいものです。









奈良県 五條市の散策 : Walking Around Gojo city(Nara, Japan)

2020年05月20日 | ノスタルジア
生まれ故郷五條市の最近の映像発見。途中(2分18秒ころ)紀ノ川堤防の休憩所が映りますが、我が家はこの辺り(今は堤防の下)でした。今年2月の投稿となっていますが、昨年秋の段階で映像に出てくる餅商一ツ橋は閉店(この目で確認)していますので、撮影はそれ以前かと思います。

五條新町は熊野古道がユネスコの世界遺産に登録されて以来、観光目当てで舗装など、ずいぶん整備されました。狭いので車は一方通行です。アーチ形の橋は幻の五新鉄道(結局完成しなかった五條と新宮を結ぶ鉄道、正式には五新線)の遺構です。

五新線は1922年に着工され、計画断念が1982年。おおよそ100年経った遺構は「旧国鉄五新線(未成線)鉄道構造物群」として2016年に土木学会選奨土木遺産に登録されました。川砂なんか入っていない良いコンクリートは100年以上持つんですねえ。

奈良県 五條市の散策 : Walking Around Gojo city(Nara, Japan)
by Anna Film Production

利根運河の歴史

2020年05月04日 | ノスタルジア
ノスタルジア > 利根運河の歴史

我が家の隣の駅(東武アーバンパークライン「運河」駅)のそばを通り、歩いでてもチャリでも簡単に行けるので、利根運河はなんどもこのブログに登場。「利根運河」で検索してみてください。

利根運河の歴史と現況を読むと、これは立派な明治の文化遺産ですね。とりあえずこの記事だけでも「ノスタルジア」に入れておきます。


風雨にさらされ、結構肉眼でも読みづらいですが…


読み取り成功!

〔利根運河の誕生〕:明治23年、利根川と江戸川を結ぶ全長約8Kmの運河が、
人見寧、広瀬誠一郎らの設立による利根運河株式会社の資本で完成。
※オランダ国のA.T.L.コーウェン・ホルスト・ムルデルー等工師
の設計・監督により施工。(国際的な技術交流の先駆け)
[役割・機能の変遷]
1.利根運河:     利根川の河口、千葉県銚子から遡り、
          従前の関宿・宝珠花を経由しての、北関東・東北・
          北海道の物資の輸送路を 、距離にして約40km、
          時間を3日から1日に短縮した利根運河 。
          明治から昭和の初期にかけて、航路として栄え、
          50 年間で約 100万隻、年平均2万余隻が航行 。
2. 派川利根川:   明治29年の洪水被害を経て、昭和 16年の台風により水堰橋
          が損壊し、航路機能が停止。利根川の洪水分派を目的に国が買収 。
          昭和 18 年 、「派川利根川」(9km)で千葉県知事告示 。
          昭和40年、「派川利根川 」(6.8km)に建設大臣が指定 。
3.流況調整河川:  利根川からの都市用水の補給を目的とする、我が国では初の
         「流況調整河川」として野田緊急暫定導水路(昭和47年に
          着工、昭和51年に完成)の名称・機能を持った 。
4.洪水分派河川:  野田緊急暫定導水路と同時に着手した「流況調整河川」の、
          北千葉導水事業が、平成 12 年3月に完成したのを受けて、
         「派川利根川」の目的・機能は 、初期の「利根川の洪水分派
          (最大 500t/s)」の役割に戻った。
5.今日的利根運河: 昭和60年「 ムルデルの碑」が市民の手で建立される。
          同62年「運河水辺公園」開園。
          平成2年 、利根運河通水 100 周年記念の祝祭が、オランダ
          大使館と地元の3市・産・学・民・県・建設省・関係機関他
          協賛団体により、通年で開催された 。これを契機に、地元の
          市民各位の要望により、「派川利根川」から「利根運河」に、
          政令の改正により名称が変更された。同14年3月運河出張
          所内に「利根運河交流館」開設 。4月1日から一般公開。

文中の「北千葉導水路」の記事、ありました、こちら


同様に功労者「ムルデル」の碑も、なんとか。


A. T. L. ローウェンホルスト
ムルデル(一八四八-一九〇一)は、
オランダのライデンに生まれた。土木
技師となり、来日したのは明治十二年
(一八七九)ムルデルが三十一歳の時
であった。それからおよそ十一年間、ムルデル
は日本政府のお雇い外国人技師として
利根川、江戸川、鬼怒川の改修や新潟
港、三角港の建設計画等にあたった。
明治二十三年(一八九〇)に完成した
利根運河は、わが国土木史上、屈指の
大事業でムルデルが日本で手がけた
最後の仕事であった。


どうもアプリは白黒反転には弱いようで「利根運河のいわれ」はほとんど読めませんので、写真のみ。クリックで拡大しますので、どうぞ。徳川家康の大事業は利根川、江戸川の大改修であった、その後分岐点である関宿に中州が出来て通れなくなり、運河開削の機運が高まったという、「いわれ」が記されています。



最後に。珍しい明治期の写真。再々掲載。鉄橋の位置は今もそのまま、東武アーバンパークラインが通ります。船がいるのはやや川下というか、江戸川寄り、現在の運河水辺公園あたり。


流山の地名の由来がわかる、赤城神社。

2020年04月30日 | ノスタルジア
ノスタルジア > 流山の地名の由来がわかる、赤城神社。

流鉄線平和台駅から歩いて5分、江戸川沿いの平坦な土地に盛り上がった海抜約15メートル、周囲350メートル余りの小山の上に鎮座するのが赤城神社。






由来を書いた掲示がありました。

赤城神社と赤城山
Akagi Shrine And Mt. Akagi
流山という地名の由来の地
流山にあるこの赤城山は、海抜15メートルのお椀を伏せたよう
な小山で、山頂に赤城神社が祀られています。赤城神社の石碑には、
上州(群馬県)の赤城山が噴火し、土塊がここに流れ着いたと記
されており、“山が流れてきたから流山という地名がついた
とい
う伝説があります。また、別の言い伝えによれば、上州の赤城山
のお札が流れ着いたからともいい、赤城山は、流山の地名の由来
となる面白い伝説がある地です。
赤城神社は江戸時代において、「正一位」という神格を受けた、位
の高い神社です。なお、神社の鳥居にある大きなしめ縄は、氏子
や地元住民が協力して一日で作っており、重さは約500kgも
あります。

急な階段を上って社殿に上がります。


社殿の写真は撮り忘れたため、流山市観光協会よりの借用。有名な大しめ縄も撮り忘れ。地形ばかりに気を取られていました。


女坂。急峻。長い。居合わせた年配の女性二人組、あの坂は嫌だと、頑張って階段を上ってきたくらいです。


流山浅間神社(「旧流山街道を訪ねて」続編)とは直線距離で一キロくらいしか離れていません。富士山と赤城山。なんか出来過ぎの話しみたいですが、浅間神社の築山はともかく、海抜約15メートル、周囲350メートル余りの小山を人が簡単に築けるわけもなく、しかも河川敷に続く平坦な土地のど真ん中。太古の話しです、ありそうですし、流山市民にとっては「あってほしい」話しです。
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