1920年のソ連・コミンテルン戦略の完成

2017年10月04日 | 歴史を尋ねる
 表題は物々しいが、あくまで江崎氏の仮説を通して、歴史的事実を見ておきたい。そもそもヴェノナ作戦は、アメリカ陸軍が、ナチス・ドイツに対抗するためにローズベルト政権が共産主義を掲げるソ連と組むことは支持したが、ソ連を信用していた訳ではなく、そのため、ソ連がアメリカに対してどのような工作を仕掛けてきているのか調べるようになったのが、その始まりだった。当時はソ連の内情はほとんどよくわかってなくて、共産主義とは民主主義の一つだと誤解する人も多かった。そもそもソ連・コミンテルとはどういう組織で、何を目的にしていたのか、江崎氏はいう。コミンテルンは1919年、ロシア共産党のレーニンの主導によりモスクワで創設、1943年まで存在した、ロシア共産党主導による、共産主義政党による国際組織のことだ。その目的は、世界各国で資本家を打倒して共産革命を起こし、労働者の楽園をつくる、というものだった。恐ろしいのは、共産党に逆らうと労働者の敵と認定され、問答無用で逮捕され、強制収容所に送り込まれたり、殺害された。このコミンテルンというのは通称で、実際に名称は第三インターナショナルである。第一インターナショナルは1864年、欧州の労働者、社会主義者がロンドンで創設した。趣意書はカール・マルクスが起草した。組織内分裂によって1876年崩壊した。第二インターナショナルは1889年、パリで創設された社会主義者の国際組織で、ストライキやテロといった直接行動でなく、選挙による議会進出によって労働者の条件改善を目指したが、1914年第一次大戦の勃発によって崩壊した。しかしこの影響は残り、民主社会主義政党として、その後も活動を続ける。一党独裁のコミンテルン、共産党とは一線を画している。

 この第一、第二の崩壊を受けて、ソ連のウラジーミル・レーニンが世界の社会主義政党とのネットワークを構築し、世界の共産化を目指したのが、コミンテルンだった。コミンテルンのユニークな点は、世界各国に共産党を設立するだけでなく、その別動隊を構築することで、大衆の組織化を図った。特に労働者と教員の組織化を重視した。そのために専門の別動隊を設置、その一つがプロフィンテルンだ。1921年7月、モスクワで創設され、第二インターに加盟していた労働組合を切り崩し、労働者を再組織化しようとした。しかし共産党は各国の治安当局にマークされて、自由に動けないことが多かったので、労働組合を偽装しながら、秘かに各国で工作活動に従事した。
 もう一つの別動隊がエドキンテルンで、こちらは教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である。レーニンは、世界共産化のために学校を共産党の活動家養成の場と位置付け、そのために教職員の養成・組織化に力を入れた。日本でも戦前、エドキンテルン日本支部が秘かに結成されて、その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する社会主義者と組んで設立したのが日教組で、正確には、1929年10月、関東小学校教員連盟が結成され、1930年8月、全国組織として日本教育労働者組合結成され、これが日教組の母体となった。エドキンテルンは戦後教育インターナショナル(EI)に合流し、EIは現在172か国で約3000万人の教職員が加盟する国際機関で、国連のユネスコとも連携している、と江崎氏。コミンテルンというと、共産党だけを思い浮かべる人が多いが、実際は、労働組合、教職員組合などの別動隊があり、その裾野は想像以上に広い、と。

 それでは、コミンテルンはどのようにして世界を共産化しようとしたか。世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、共産党一党独裁政権を樹立することである。世界共産化を成功させるには、レーニンは「敗戦革命」という大戦略を唱えた。敗戦革命とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争するよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて武装した共産党と労働組合が権力を掌握するという革命戦略だ。各国の共産党は、資本主義国家同士の対立を煽る➡資本主義国家同士で戦争を起させる➡資本主義国にいる共産党員は、労働組合と共に「反戦平和運動」つまり自国が戦争に負けるよう活動する➡戦争の敗北したら、混乱に乗じて一気に政府を打倒し、権力を奪う。レーニンの凄いところは、各国でマルクス・レーニン主義の理解者を増やし、共産党を大きくする方法では共産革命を起こすことが出来ない、ということをりかいしていたことだろうと江崎道朗氏はいう。日本にとって不幸だったのは、このコミンテルンの謀略の重点対象国が「日露戦争を戦った日本」と、「世界最大の資本主義国家アメリカ」だったことだ。二つの資本主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、コミンテルンにとって最重要課題であった、と。1920年12月6日「ロシア共産党モスクワ組織の活動分子の会合での演説」(レーニン全集第31巻)で、日本とアメリカの対立、イギリスとドイツの対立を徹底的に煽ることで、ヨーロッパとアジアに共産主義国家をつくろうというのが、レーニンの世界戦略であった。1921年コミンテルン・アメリカ支部としてアメリカ労働者党(のち共産党に改名)が設置された。

 ローズベルト大統領は1941年3月、ラフリン・カリー大統領補佐官(ヴェノナ文書ではソ連のスパイ)を蒋介石政権に派遣して、本格的な対中軍事援助について協議している。翌4月、カリー補佐官は、蒋介石政権と連携して日本本土を約500機の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。この日本空爆計画に、ローズベルト大統領は7月23日、承認のサインをした。
 エドワード・ミラー著「日本経済を殲滅せよ」によれば、7月26日、財務省通貨調査局長ハリー・デクスター・ホワイト(ヴェノナ文書ではソ連のスパイ)の提案で在米日本資産は凍結され、日本は実質的に破産に追い込まれた。さらにホワイトは財務省官僚でありながら11月、ハル・ノートの原案を作成、東條内閣を対米戦争に追い込んだ。かくして、1941年12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌々日、12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すという1920年のソ連・コミンテルンの戦略が、21年後に現実のものとなった、と江崎氏。
 共和党フーヴァー大統領回顧録の翻訳本が2011年11月、日本でも発刊された。この回想録でローズベルト大統領の戦争責任を次のように追及している。①ローズベルトの最大の過ちは、1941年7月、スターリンと隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。ローズベルトは、腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ、日本が報復のための戦争を引き起こすことになる、と警告を受けていた。 ②日米平和交渉で、近衛首相が提案した条件は、満州の返還を除く、すべてのアメリカの目的を達成するものだった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。皮肉なものの見方をするならば、ローズベルト大統領は満州という重要ではない問題をきっかけにして、もっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州をソ連に与えようとしたのではないか。 ③共産主義は、アメリカの国境の内側では活動しないという、狡猾な合意が約束されたが、守られることはなく、48時間後には反故にされた。共産主義の機関車とそれに乗った共産主義の乗客が、政府と高いレベルに入り込み、第五列の活動が全国に拡がり、ローズベルトが大統領であった12年間の長きにわたって、国家反逆者の行為が続くことになった。
 
 このフーヴァー回想録の発刊と歴史研究におけるアメリカ保守派の復権は、明らかに連動している。アメリカは戦時中から、ローズベルト民主党政権の下でリベラル派に牛耳られてしまって、戦後長らく、アメリカの保守派は肩身の狭い思いをしてきた。共和党のフーヴァー大統領は無能な大統領だという評価が一般的だあったが、本書が発刊されて、ようやくローズベルト大統領の戦争責任を追及出来るようになった、と。具体的には、連邦議会が設置したシンクタンクで、ヴェノナ文書を含むソ連共産主義に関連する資料が次々公開され、またヘリテージ財団と提携した共産主義犠牲者追悼財団では、東欧諸国、キューバ、チベットやウイグル、北朝鮮の実態を調査するとともに、コミンテルンとローズベルト大統領の責任を追及している、という。
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