昭和軍閥の系譜

2017年01月22日 | 歴史を尋ねる
 何回か軍部の動きについて触れたが、それでも全体像がよくわからないが、岡崎氏の著書に軍部の俯瞰解説があるので、整理して置きたい。
 明治以来海軍は薩摩藩が独占し、陸軍は薩長連合であったが、薩閥の大山巌、川上操六が派閥に恬淡として適材適所主義であったのに乗じて、山形有朋を中心とする長州閥が陸軍を独占した。昭和軍閥の起源は、長州閥に対する反抗から始まる。その起源の一つが、永田鉄山、岡村寧次など在ヨーロッパの陸士第十六期の少壮将校たちの盟約は長州閥打倒を目標とした。山県有朋の死後、長州閥は田中義一が継承、これを支えたのが岡山県出身の宇垣一成で、陸軍主流の後継者になった。
 これに対して反長州閥派は、薩摩出身の上原勇作を中心として陸軍のトップ人事をめぐってしばしば争ったが、田中、宇垣に抑えられていた。その流れの一部が皇道派となった。その意味で革新派の昭和軍閥は概して反宇垣派であるが、時流に乗ってイデオロギー的に武装した。革新派の少壮将校たちは軍の内部に種々の私的グループを作った。昭和3年に石原莞爾などが参加して出来た一夕会、同年に海軍中尉藤井斉が組織した王師会、5年に橋本欣五郎などが作った桜会などであった。これらは、大川周明、北一輝などと接触を持ち、時としては同士として交わった。陸士卒の西田税は、はじめは大川、やがては北の傘下に入る軍内の革新派の拡大をはかった。昭和6年、犬養内閣の成立に際し、宇垣朝鮮総督は陸相人選の注意書きを送った。その時皇道派に担がれている荒木貞夫と真崎甚三郎だけはダメだと、はっきり名指しで書かなかったことを宇垣の不覚だったと後日悔やんだ。

 そこまで内部の事情を知らなかった犬養は、順当な人事であり、軍の若手にも評判の良いと聞いている荒木を陸相に指名した。陸相に就任するや荒木はたちまち宇垣派を閑職に追いやり、省内を皇道派で固めた。しかも当時、荒木の人事を非難する声は内外にまったくなく、荒木がその弁舌で説く革新思想は喝采を受けた。時代はすでに政党政治を去り、革新派の専権を求めていた。政友会が三百議席を占めながら、政党政治は犬養の死をもって終わったのも、この時流のゆえである、と岡崎氏。荒木はその訓話の中で、「最近問題となっている青年将校たちは維新の志士のようなものである。その位は低いが志操は高く、憂国の情は燃えている。それに対して上級の軍人は、藩の家老がお家大切と務めるだけで国全体のことを憂える志操に乏しいような憾みがある。まずこの点を反省して全軍の結束を固めねばならない」と。これでは下剋上を奨励して、命令順守の軍規をなくせと言っているようなもので、その結果、陸軍大臣室には、大尉中尉が臆面もなく出入りし、新年に私邸に訪れた青年将校が一杯機嫌で「どうだ荒木、一杯やらんか」を杯を差し出すのを、無礼を咎めず「ヨシヨシ」と受け、それを見た者が不愉快さに堪えかねて席を辞したほどであったという。こうした機嫌取りは、やがて青年将校たちが荒木に維新断行を迫るようになる。しかし武力による蹶起となると、今度は荒木は抑える方に回る。ここに至って青年将校たちの間では「荒木ではダメだ。口舌の徒に過ぎない」ということになり、過激な自主的行動に走るようになる、と。

 統制派は自ら名乗った名ではなく、皇道派が彼らが敵対する勢力に名づけたものであった。革新という目標については、皇道派と違わないが、それは一部将校のクーデターによらず軍全体の一糸乱れぬ力を背景として、陸軍大臣を通じて閣議で実行させるという考え方であり、永田鉄山、東条英機などがその中心であった。当初つくられた行動計画案は青年将校の異見を反映した暴力革命案であったが、永田、東条のコンビが官僚的統制力を発揮して、憲法体制のままで、国家革新を実施する方式に変えてしまった。また、国家革新はすべての政策にわたるので職業軍人だけでは作れない。そこで各省の革新官僚と結んで政策を作成した。これに参加したのは岸信介、和田博雄などであった。皇道派の青年将校たちは、クーデターまでは実行しても、そのあとの計画を持たなかったが、統制派は、政党政治を脱する革新中央集中体制の具体的な将来構想を持つに至った。これが、やがて東条英機の戦時内閣に実現につながった、と解説する。

 犬養暗殺後も荒木は皇道派の支持で留任するが、病気で辞職した。後任の林銑十郎は満州事変時の越境将軍として、皇道派に期待されたが、林は皇道派の派閥人事に批判的で、永田を軍務局長に任じ、皇道派一掃を決意し、昭和10年7月に真崎甚三郎教育総監の勇退を求めた。真崎は抵抗したがついに罷免され、後任の渡辺錠太郎は天皇機関説の排撃や国体明徴運動にも批判的で、就任の記者会見で、軍人は軍務に専念すれば足ると述べ、二・二六事件で真っ先に乱射乱撃を浴びて惨殺された。真崎罷免の直後から、林、永田を糾弾する扇動文書が各所に配送された。8月、西田税の文書を読んだ相沢三郎中佐は福山市から上京し、永田を軍務局長室で惨殺した。永田を惜しむ声は多い。人間的に東条より一回り大きいとされた永田が軍を指導していれば、その後の各局面で東条と違った結果となったと想像されているから、と。
 昭和11年2月26日、第一師団第一、第三連隊を中心とする将校と兵約1500名は、斉藤実内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を射殺、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、岡田啓介首相邸では誤認して義弟を射殺、牧野伸顕と西園寺公望に対して未遂に終わった。首相官邸、警視庁を占拠した反乱軍は蹶起の趣旨を明らかにし、種々の要求を出したが、その中には宇垣、西園寺公望の即時逮捕、荒木の関東軍司令官任命、陸相による昭和維新の実現があり、皇道派の流れをくむクーデターであることは明白であった。参謀本部作戦課長の石原莞爾は断乎たる処置を主張したが、陸軍省は反乱軍を穏便に帰隊させる方針を取った。反乱軍は、兵を原隊に返し、将校は陸相官邸に自首して縛についた。3月から開かれた陸軍軍法会議は、青年将校17名および北と西田の死刑を宣告したが、同調者であった真崎以下は無罪となった。

 二・二六事件の後、粛軍は後任広田内閣の課題であったが、それは軍の政治関与を糺す方向ではなく、軍内の皇道派に対する統制派の完全な勝利という形をとった。そして軍は粛軍の名を借りて軍部大臣現役制の復活だった。大正初め護憲運動でやっと現役制を廃し、原敬の時には原総理による文官の海相兼任まで達成した政党政治の営々たる努力は、簡単に無に帰した。このとき寺内陸相は「現役制を復活しないと辞職した将軍たちがいつまた復活してくるかわからないから安心して粛軍が出来ない」との訴えに、閣議はさしたる議論もなくその要求を認めた。その翌年、広田内閣の後任に宇垣が大命を拝した時、陸軍の反対で陸軍大臣が得られず、宇垣は組閣をあきらめた。数か月前の改正さえなければ、陸相は宇垣が兼任すればよかった。そして宇垣が総理であれば、その夏の盧溝橋事件がそのまま大戦につながる可能性は小さかった。昭和史にはいくつもの決定的な節目があるが、軍部大臣現役武官制を復活させた広田内閣の決定はその一つの重大な節目であった、と岡崎氏はいう。

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