農業国から工業国へ

2014年01月31日 | 歴史を尋ねる

 維新開国後日本の指導者たちが等しく自覚し痛感したことは、欧米の富強の根源は商工業の隆盛にあり、日本が富国強兵を望む限り、農業立国を改めて商工立国に邁進するほかなしということであった、と高橋は結論付ける。日本の開国を迫る欧米諸国の近代的武力を前にして、開国、尊皇攘夷、大政奉還、明治維新と日本の統治システムを模索変更し、新たな政府システムの下で、独立を維持し欧米諸国と伍していく国造りを目指す方向が、明治の人の苦闘であり、高橋の言葉に集約されているように思う。そして高橋が幾度となく力説するのは、商工業がある程度にまで成長発達するまで、農業が国の財政支出を負担し、商工業の成長発達に必要な諸施策の経費まで負担した、商工業への投下資本の供給源であり、近代経済に必要な機械類の輸入も、農産品の輸出でまかない、工業品の需要者でもあり、人的資源の供給者でもあった。そしてこの役割を果たし得たのは、維新以降の農業が少なからぬ勢いで発達したことでもあった。

 こうした農業の寄与によって商工業の第一次的基礎が築かれたが、その後新付加要因に接してみずから発達を加速化させ、自律的発達が顕著になったのは日清戦争以後であった。日露戦後のころになると、農業の発達は減速し始めた。農業に発達条件がこの段階では一巡し、商工業の発達は、農業発達にむしろマイナス的影響を及ぼし始めた。商工業の発達に伴う労働需要は、農村からの労力流出となり、農業労賃の高騰になった。また不在地主を発生させ、旧来の地主機能を喪失させて、農業への新規投資を減殺させた。さらに日露戦後、台湾・朝鮮からの米の移入、満州・北鮮からの大豆の輸移入で農業を圧迫した。日露戦後、明らかに農業国段階から商工業段階に進展した。

 この変化を租税収入の変化から見てみたい。日清戦争前では歳入の70~80%は地租で、明治28~32年平均では58%に急減、33~37年には33%、43~大3年には22%にすぎなくなった。商工税の増徴もあったが、酒税,煙草税などの消費税や所得税の新設、条約改正に伴う関税の増徴などが寄与している。また、大川一司が編纂した国民所得の産業別構成比を眺めると、第一次産業の比重は明治31~35年には過半数を割り込み、その後急速に落ち込む。農業国から工業国への転換は日清戦後であったことがわかる。今度は輸出入の状況を見てみたい。まず農業生産物の国内需給のバランスを見ると、明治21~25年はほぼ均衡していたが、それ以降国内生産で需要をまかなえず、供給力不足となっている。農業関係品の輸出額の比重は明治初期80%、明治20年60%、過半数を割ったのは明治31~35年であった。

 以上により経済構造が農業国から工業国に進展したのは日清戦後のことであり、本格的になったのは日露戦後のことであった。これらは経済価値を基準にしたものであり、有業人口数からみれば、明治時代は依然過半数を占めたが、それが過半数を割るに至ったのは、ようやく昭和の時代に入ってからであった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明治20~46年経済発展の... | トップ | 近代的経営者の登場 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史を尋ねる」カテゴリの最新記事