支那事変 孤立する日本

2017年08月15日 | 歴史を尋ねる
 大戦前夜の日本を、蒋介石の眼を通して見ると、その困難さがリアルに良く見える。そして解決方法も見えるのだが、日本は逆の方向にどんどん進んで行った。眼を蔽いたくなるが、でもその一つ一つは歴史的事実であり、逃げずに正面から向き合って、その事実を確認していきたい。
 1941年、泥沼の日中戦争は、五年目に入った。首相・近衛文麿は議会で演説し、「支那事変はすでに五年目にはいったが、いまだに終結の気配がない。すべての責任は一切、私(近衛)が負う。この罪を問うに、まったく免れようがない。いまは全力で現在の局勢を解決して、自分の手で罪をあがないたい」 これを見れば、敵国の日々増加する困難、近衛の内心の悲哀を知ることが出来る、と。1月28日の蒋介石の日記である。日本の軍閥が局勢解決の方法を選んだのは、無謀にも侵略の拡大であった。国際的な経済制裁を受けつつあった日本は、増大する一方の物資の消耗に苦しんだ。新たな供給源を確保するためにも、新たな地を侵略する必要に迫られる。侵略の野望は、このようにして、雪だるまのように膨らんでいく一方であった。
 米国大統領ローズベルトは1月16日、陸、海、国務の三長官と会議を開き、日独両国が米国を奇襲した場合の防衛対策を打ち合わせた。29日、ワシントンで米英の幕僚会議が開かれ、インド、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンを含む極東の安全問題が協議された。2月22日、シンガポールで英、オランダ、オーストラリアによる極東防衛協同作戦会議が開かれた。日本がシンガポール、蘭印を攻撃する公算が大きいとして、協力して防衛に当たることを申し合わせた。所謂「ABCD包囲網」の形成であった。しかし、国際関係を見渡すと、日米が戦えばソ連が漁夫の利を占める不安があった。「しばらくの間、米日戦が防止できれば、中国の目前の戦局には不利になるが、コミンテルンの陰謀は抑えられる。中国のたとえ不利とはいえ、世界永遠の平和から云えば、米日戦は、日ソ戦より先であってはならない。私(蒋介石)は終始、米国がこのたびの戦争に加入することを願ってこなかった。米国には世界平和の柱石を確保し、世界平和回復の重心になって欲しいからである。だがこれも敵(日本)がいち早くその侵略政策を変更するかどうかによってのみ決まることである」(2月22日の日記)ふーむ、余裕の状況判断である。

 松岡はドイツからソ連を経て帰国途中、予定を超えてモスクワに滞在した。北樺太の利権を巡って交渉が対立、4月に入ってスターリンはゾルゲ間諜団からドイツのソ連攻撃準備情報を受け取り、スターリンの態度は一変した。日ソ中立条約は急転直下まとまり、4月13日クレムリンでスピード調印された。仮想敵国同士が俄かに手を結んだことは、世界情勢に大きな影響を及ぼす。4月24日、各地の軍政長官に「日ソ中立条約の利害得失に関する分析」を送り、注意喚起した。①この条約の主導権はソ連にあり、ソ連の対日計画の成功といえる。日本にとって有害無益で、却って失敗の要因を増すだけだ。 ②今後日本が全力で中国侵略に出ようが、あるいは南進しようが、太平洋の連合防衛態勢はすでに出来上がっており、日本は海陸軍はすでに全面的包囲の中で、受け身に立たされている。 ③外蒙共和国と満州国に関する共同声明は、われわれが独立自強し、敵に打ち勝てば失地と主権の回復は当然達成される。 ④日本が東北で動かせる兵力は、たかだか6個師団で、四川に進もうとしても重慶は盤石である。その間太平洋の形勢は変化し、各国は機に乗じて日本の背後を襲う。 ⑤日本の今後の動きについて三つのコースを予測している。1、南進に踏み切る。この場合彼らは全面的に壊滅する。 2、ドイツのソ連侵攻をまって、日本もソ連を挟撃する。 3、南進も北進もせず、支那事変の解決をはかろうとする。中国は四年間の抗戦で日本陸軍の3/4を牽制した。新たに残り1/4が加えられても、日本に勝ち目がない。 この条約は、ソ連には一貫した政策とその総体的計画があるが、日本は抜き差しならぬ窮地にはまり、なおそれに気づいていない。われわれにとって、とくに注意に値するのは、米国が極東で防衛態勢を整えたあとの出方である。米国はその国際主義と中国の門戸開放の目的を達しなければ、決して日本と妥協することはありえないと断言できる、と。うむ、何でここまで見通しが的確なのだ。これに比べて当時の日本の為政者(軍部も含む)の見通しとの格差はどうして生まれるのか。
 日ソ条約締結後の世界情勢に大きなカギを握るのは米国であったが、その米国もすでに国務長官ハルが4月14日、「日ソ中立条約によっても、米国の政策には何らの変更もない」と声明していた。日ソ両国の握手は、むしろ自由民主諸国の結束を促進する結果を生むこととなった、と。

 米国は民主主義国の兵器廠となるという炉辺談話を発表した直後の1941年1月6日、ローズベルトは議会に武器貸与法を提出した。同法は英国首相チャーチルの援助要請を受けたもので、米国が英国に膨大な武器を無償供与するための法律であった。この法律は、英国に限らず、日独伊の侵略国家と戦う国に、あらゆる軍需品、食糧などを無償で供与する道を開くものであった。2月7日、ローズベルトから派遣された大統領補佐官キューリーが重慶に到着した。彼の目的は、中国の軍事、経済の実情を視察することで、将来の「中米合作」の予備調査といえるものであった。キューリーがワシントンに帰って4日後の3月15日、ローズベルトは「苦難にあえぐ億万の中国人民は、非常の決意をもって国家が分割することに抵抗し、奮闘している。彼らは蒋介石委員長を通じて米国の援助を要求してきた。米国はすでに、中国は当然われわれの援助を受けることが出来ると伝えた」と表明した。ローズベルトが中国援助を最後の勝利を獲得するまで必ず続けると明言したことは、わが抗戦軍に助けとなるものではあるが、それよりも日本に与えた精神的打撃が大きい。今後、日本は中国を滅ぼそうという野心を失うだけでなく、われわれに勝てる信念も、余すところなく粉砕されるに違いない。さかのぼれば満州事変から10年、盧溝橋事件から4年間の苦戦を経て、米国はグァム島の防衛を強化し、ついで武器貸与法案を通過させた。さらに最近はローズベルトが中国援助を声明した。」(3月31日の日記) 蒋介石は日本に与えた精神的打撃は大きいと書いているが、日本の歴史書でこの辺について触れるものがない。しかも、外務大臣の松岡は外遊中で日本を留守にしている。外務省は開店休業なのか、当時の日本の反応について触れたものが見つからない。当時の情報管理が随分偏っていた所為なのか。

 4月26日、ローズベルトから重慶に電報が届いた。「すでに4500万ドルの対華援助を承認した。内容は鉄道・交通機材、トラック、ガソリン、兵器などである。航空機その他については検討中である」 5月6日、ローズベルトは武器貸与法が中国にも適用されることを正式に発表した。フム、これは明らかに日本に対するメッセージである。5月25日、総額4500万ドルの第二次対中軍事援助を承認した。5月27日、国家非常事態を宣言すると共に第二次炉辺談話を発表、海上の自由を守り、侵略に対決する決心を重ねて言明、中国と英国の侵略阻止の戦いに対し、米国は戦闘物資の供給を増加させる、と強調。6月1日、米国は戦争終了後、中国におけるすべての特権を放棄するとの中米間の合意が正式に公表。6月22日ドイツがソ連へ進入。7月25日、重慶で米英中三国の軍事合作会議開催。補給路であるビルマルート確保を協議。8月26日援華軍事代表団を中国に派遣することを決定。

 一方、日米間では、最後の日米関係打開交渉が試みられていた。1941年2月14日、ローズベルトは信任状を奉呈した野村吉三郎を旧友として迎え、率直に日本に対する警戒心を明らかにした。この時野村は「私は日米は戦争すべきでないと心から信じている」と答えた。日米関係は回復し難い道を辿り始めていた。しかし、その原因は日本と米国の二国間だけにあるのではない。日米関係悪化の源は、日本が中国を侵略し、さらにアジアの制覇を目指したところに存在する。従って、日米交渉といいながら、まず解決しなくてはならないのは、中国侵略問題であった。日米間を円満な状態に引き戻せるかどうかは、日本が対中侵略をやめるか、やめないか、その一点にかかっていた。フム、まさしく的確だ。これを正面から向き合う以外に話し合いの道はない。
 しかし野村らの考え方は違って、日米交渉によって、日本の対中侵略を有利な方向にもっていこうと策した、と蒋介石はいう。3月14日に行われたローズベルトと野村の第二次会談では、早速中国問題が持ち出され、野村は「一切の危機の責任は中国の抗日にある。米国が中国を積極的に援助しないよう希望する」であった。これこそ日本が自ら中国侵略を棚にあげた暴論で、ローズベルトは数千年の文化を持つ中国が日本を統治することは出来ない」と切り返した。
 また民間ルートでによる日米交渉「日米諒解案」については、国務長官ハルは回想録の中で「二三日の間、国務省の極東問題専門家と慎重に検討した。われわれがこの提案を研究すればするほど失望が増した。それは調停の余地のないもので、その条項の大部分はみな、烈烈な日本の帝国主義者たちが要求しているものであった」と述べている。このような内容の諒解案は再度修正され、ハル長官と野村大使の非公式会談に持ち込まれた。この日の会談でハルは「米国政府にとって、ただ一つの最高の前提は、日本が征服と侵略の政策を放棄し、平和的原則に戻ることである」と力説して、ハル四原則を示した。そのうえで、米国側が条項の修正、削除、新たな提案を行うことを前提に、諒解案を日米交渉のたたき台にすることに同意した。ハルによると、この時野村は、老獪案がそっくりそのまま米国に受け入れられたと思い違いして喜んだという。野村の英語力が貧弱で、米国が示した前提を十分に理解できなかった。野村の誤った報告で、日本政府は、一挙に電撃的妥協に持ち込めるという希望的観測にとらわれた。その後の経緯はすでに既述済である。6月21日、米国側対案とオーラルステートメントの手交。22日、独ソ戦勃発。日本は政策決定に迷った。ほとんど連日連夜の連絡会議の激論を経て、7月2日の御前会議で「まず南進、情勢を見て北進」という「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定した。1、蒋介石政権屈服促進のため、さらに南方諸域の圧力を強化す。情勢の推移に応じ、適時、重慶政権に対する交戦権を行使し、かつ支那における敵性租界を接収する。・・・。日本は遂に南も北もという、世界をすべて敵とする戦略を選んだ。直ちに南進方面では仏印進駐のため、新たに第二十五軍が編成された。北進方面では、満州国に七十万の大部隊と膨大な兵器を集積、対ソ戦に備える二正面作戦に着手した。ドイツ軍のソ連攻撃で、米国はすぐにソ連援助を声明し、軍隊をアイスランドに進駐させた。対英米戦を辞せずとする日本と、硬化した米国との間では、交渉による解決など、望むべくもない状態となった、と蒋介石。

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