中国共産党の偽装投降(西安事変)

2017年02月18日 | 歴史を尋ねる
 掃共戦が大詰めを迎える中、張学良東北軍の動向は不安材料を増すばかり、掃共の挙も台無しにしかねない状態で、1936年12月2日、蒋介石は南京から洛陽に飛び張学良に実情を質した。張は西安で明日にでも変が起こるかもしれない、ぜひ西安に来てほしいと要請、周囲が引き止める中4日西安に飛んだ。西安の空気は明らかに異様で、待ち受ける将校たちが口々に、掃共戦について意見があると要求した。7日張学良に掃共の強化を指示。西安では共産党に扇動された救国会、学生連合会のデモ隊が省政府に押し掛けた。10日張学良が報告に来たが、張学良を叱責、11日多数の軍用車が移動して来て、張の下で政治工作している藜天才が面会を求めて来た。彼らがこれほどまでに深く毒されていることを知り、痛切に訓戒を与えた。この夜の宴会ですべての日程を終わり、翌12日南京に帰ることにした。明け方5時半、着替えを始めたとき突然表門前で銃声、西安事変はこうして幕を開けた。

 「蒋介石監禁」のニュースは衝撃波となって内外に伝わった。国内では蔣委員長擁護、反乱軍非難の声が嵐の様に巻き起こった。日本では新聞が中国の分裂を予想し、事件はソ連共産党とが張学良と結んで起こしたものだと書き立て、ソ連の新聞は日本の帝国主義者が仕組んだものだと応酬した。米英両国はきわめて好意的で、西安事件ショックによって、公債の暴落など市場混乱の兆しが生まれると、すばやく中国に対して金融安定のための援助を声明、市場を安定させた。
 中国共産党の幹部がたてこもる陝西省・保安の洞窟に、西安事件の第一報が飛び込んだのは12日「深夜であった。これを朗報と受取り、人民裁判を叫ぶ者も少なくなかった。毛沢東の意見は殺蔣抗日」であった。彼は張学良の東北軍、楊虎城の西北軍と共に三位一体の軍事委員会を組織し、国民政府と対抗しようと訴えた。しかし取りあえず本家・ソ連共産党の指示を仰ぐことに決まり、モスクワに電報が打たれた。一方、張学良も、事態の成り行きに困り果て、政府が討伐令を発したことを聞き、共産党に助けを求めた。15日、周恩来、葉剣英らが大雪のなかをウマで西安に向かった、蒋介石を連行して戻れと毛沢東の指示を受けて。ところが中国共産党から相談を受けたスターリンは、毛沢東の殺蔣抗日に反対であった。スターリンは共産軍が政府軍とまともに一戦を交えることによって、壊滅的な損害を被ることを恐れた。一説によると、スターリンの手元へは、ベルリン駐在のタス通信記者から、当時ドイツで病気療養していた汪兆銘が総裁のヒトラーと会見、この11月に調印した日独防共協定に、中国も加入するという約束を取り付けたあと、急いで帰国したという情報が入っていた。汪兆銘と張学良はもともと仲が悪かった。仮に汪兆銘が政権をとると、張学良の立場は追い詰められる。また親日家の汪兆銘が日本、ドイツと結び、アジアとヨーロッパで反共、反ソ行動を展開する恐れもあった。スターリンは中国共産党に指示を発した。「連蔣抗日政策をとり、十日以内に蒋介石を釈放せよ」 スターリンの電報に接した毛沢東は、顔が真っ赤になり、悪態をつき、足を踏み鳴らして起こったと伝えられている。

 12月22日、監禁されている蔣介石の部屋に妻の宋美齢が入って来た。西安に来た宋美齢は張学良にあった。それから周恩来にも会った。そして「委員長は共産党に対しても寛大な心を持っている。もし悔い改め、善良な民となれば決して過去はとがめないだろう。真の愛国者であるならば、実行不可能な政策は放棄し、中央の指導の下に誠意をもって協力すべきだ」と説き、西安の関係者にも伝えてほしいと依頼した。24日夜、周恩来は宋美齢のほかに蒋介石にもあったという。その席で「事件の平和解決をのぞみ、蔣校長を全国の指導者として擁護する」という共産党の方針を告げたという。
 監禁14日目の12月25日、事態は一挙に動き、宋美齢と共に無条件で南京へ帰ることとなった。

 西安事変によって、たなぼた式に、最大の利益を得たのは、共産党。事変当時、共産党は延安東方70キロの保安など、山あいにある四つの県を占拠するに過ぎなかった。張学良の東北軍が南下した後を引き継ぎ、一挙に支配地を4倍に拡大、その中に陝北の要地、延安が含まれた。毛沢東らは事変中の12月20日ごろ延安に進出、以来、延安は戦中、戦後を通じて国民政府転覆を策謀する根拠地となった。
 1937年1月、政府軍は掃共戦を中断した。陝西省西安に置かれた剿匪総司令部を廃止、張学良の東北軍を東方に後退させ、顧祝同を主任に任命、共産軍との折衝は政府側が顧祝同、共産側は周恩来であった。その結果、共産党が政府の要求に従って帰順を誓約したのが2月10日、国民党大会の宛てた電報であった。この電報は、①内戦の停止、②言論、集会、結社の自由と政治犯の釈放、③各党派、各界、各軍の代表会議の招集、④対日抗戦の準備、⑤民衆生活の改善を要請し、受け入れられれば、共産党は、①武装暴動方針の停止、②ソビエト政府と紅軍は国民政府と軍事委員会の指揮下に入る、③特区では普通選挙による民主制度の実施、④地主の土地没収政策の停止、約束した。
 国民党大会では「赤禍根絶決議」を以て応え、共産党員を再度受け入れる意向を明らかにして最低条件として、4項目を示した。1、一つの国家に、主義の異なる軍隊が共存することは許さない。2、一国の中に二つの政権が存在することを許さない。3、赤化宣伝は三民主義と相容れない。根本から停止する。4、階級闘争は一階級の利益を条件としており、社会を対立させ分裂させ、互いに殺戮し合うものである。階級闘争は停止しなければならない。
 24日軍事委員長談話を発表して、共産党の要求をほぼ受け入れることを明らかにした。これによってソビエト区解消、紅軍改編の具体的交渉が進行した。これらはけっして容共ではなく、共産党員のすべてを投げ出して降伏するのを認めたに過ぎなかった。しかし共産党にとって、帰順の制約は、勢力伸長をはかり、国民党を内部から切り崩すための偽装的手段でしかなかった。

 4月15日、共産党中央は「全党同志に告げる書」を流し、誓約を一片のホゴにした。
1、今後の任務は国内和平を強固にし、民主権利を争奪し、対日抗戦を実現することにある。
2、中華民族の開放は無産階級及びわが党の責任であり、民族解放運動の中で自己の政治指導の責任を放棄してはならない。
3、わが党の国民党に与えた4項目の保証は、投降ではなく譲歩である。譲歩と妥協は共産党組織の独立性と批判の自由をなくすものではない。全国的な規模で公然と活動する機会を手に入れ、党の政治的影響力と組織力を拡大する者である。
4、過去のおけるソビエト政府と紅軍の闘争の努力は無駄ではなく、誤っていない。
5、わが党の提議した国共合作を国民党は拒絶しなかった。これは国民党の政策が変化し始めたことを証明する。
6、マルクスレーニン主義の原則の具体化をはかって行動の指針とせよ。中華民族の最終的開放は、中国共産党の肩にかかっている。

 この書はいったん秘密文書として流され、のちに公開されたものだが、これを見ると、共産党の帰順が陰謀に満ちていたものであることが一目でわかると、蒋介石は「秘録」でつぶやく。表面上は帰順の姿勢を見せながら、自己勢力の浸透と国民党の転覆を狙うやり方は、孫文が存命中に認めた第一次国共合作当時の企みと、まったく同じものであった。この文こそ、その後の対日抗戦期間中、共産党が機に乗じて宣伝を進め、抗戦勝利後、全面反乱に移るまでの「聖典」とされたものである、と。その実態は、すでに先回りした遠藤誉氏の「毛沢東 日本軍と共謀した男」で触れている。