爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(33)

2013年03月31日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(33)

 ぼくらは玄関で児玉さんを見送る。となりの家の前では久美子が父の車の洗車をしていた。

「先生のまわりには可愛い女性がたくさんいるのね」と、児玉さんは言い残して去った。久美子もいつか児玉さんぐらいの年齢になったときに初恋の男性に会いたいと思うのだろうか。金魚すくいの名人。いや、その少年がずっと横にいる生活だってありえるのだ。

「洗車か、偉いね」ぼくは素朴に働く女性は美しいものだと思っていた。
「クラスのひとですか?」久美子はまだ見えた児玉さんの背中を目で追い、そう訊いた。「先生と呼ばれていたから。これね、これをするとお小遣いにもなるし、それに、もう少しでわたしも乗れるんです」
「そうか、もう免許を取る年齢になるんだ。あの小さな女の子がね」
「また、それを言う」彼女はホースの水をこちらに向けた。だが、ぎりぎりでぼくらにはかからない。
「車の免許。そうだ、パパは免許もなく本を書いているんだったよね」

「大体の行いは、そういうもんだよ。義務教育といって、由美も学校に通わなければならないし。義務と忍従」
「いつか、わたしもなんかの免許を取れる?」
「それは、宿題もきちんと、たくさんすれば取れるよ」
「また、それを言う」由美は久美子の口調を真似た。

 ぼくらは、しばらくして日課の公園までの散歩に行く。水沼さんが日陰のベンチに今日もいる。
「ハロー、由美ちゃん」由美は照れくさそうにして、それには答えなかった。普通に日本語でこんにちは、と直きに言った。それから、
「きょう、パパのところに女のひとが、本の生徒が来たんだよ」と付け加えた。
「まあ、やらしい。うらやましい」
「でも、おばちゃんなんだよ」
「わたしとどっちがおばちゃん?」
「たっくんのママのがうんと若い。学校にくるママたちのなかでいちばんきれいだし」
「由美ちゃんは口がうまいのね」感心したように水沼さんは微笑む。
「パパ、口がうまいって、なんのこと?」

「ひとを褒めるということだよ。お世辞ともいうし、二枚舌」
「パパは、言葉に対して誠実なのか、たまに失礼になるのよね」水沼さんは少女のようにふくれた。彼女も初恋の男性に会ったりしたいと思っているのだろうか。ぼくの妻も?

 マーガレットは自分の像のためにかしこまった姿勢から開放されると、いつも以上によくしゃべっていた。テーブルでお茶を飲みながらレナードのスケッチ・ブックに描かれた新しいものを見ては単純に褒めた。

「誰でも、紙と描くものがあれば、できるんですよ。それを止めるものはなにもない」
「だって、誰でも、こんな風にはうまく描けないでしょう?」
「うまく描く必要がありますか? 自分の内面の思った通りのそのままが表現できる方が大切ですよ」
「そこに到達するまでには、でも、長い訓練が必要になるのでしょう?」
「好きなことを毎日、こつこつとただつづけるだけですから、訓練だとも、ましてや苦難なんて思っていない」レナードはそう口にしながらも、支援者や協力者がもっといてくれたら、自分の才能も花開くのが早まるのになとも思っていた。だが、それは別の問題でもあるようだった。いまは、やはり自分の才能を見極め、こつこつと積み上げていこうと考え直した。
「毎日、するほど絵が好きではないな」と、マーガレットは自分の真情を吐露する。
「じゃあ、なにがいちばん?」

 そう質問されてもマーガレットには正解も、うまい返答もでてこなかった。だから、もう一度スケッチ・ブックに目を落として、その質問をなかったことのようにした。しかし、それはいつまでも風化しないだろうという気持ちもあった。生きている限り、その答えを見つけなければならない。目の前にいるレナードは既に見つけている。ケンやエドワードは何に対して一本気でいられるのだろう。母は、どうなのだろう? 結婚以外に自分のしたかった、追い求めるべき何かがあったのだろうか。しばらく目をつぶってマーガレットはそう思案していた。

「子どもの目は美しいものを感じ取り、それを素直な気持ちで打ち明ける」と、ぼくは水沼さんのベンチの横にすわって、独り言のように口に出した。「それを率直に毅然と受け入れるのが大人の役目なのでしょうね?」
「遠まわしに謝っているんですか?」水沼さんのふくれっ面は、もうなくなっていた。
「謝るもなにも、学校に来るママたちのなかでいちばんきれいなのは水沼さん、ただひとり」
「奥さんじゃなく?」
「ぼくにとっては、彼女」
「それが、二枚舌じゃないの?」

「そうでしょうかね」ぼくは、ぼんやりと空を見上げる。空も美しいし、雲も美しい。雨もさわやかさをもたらすものであれば、虹も美しい。美しくないのは不信の念だけなのだ。「口がうまいと言われた由美の今朝は、ケーキをうまいと思った。お客さんがもってきてくれたんですけどね」
「家まで来られるんですね。書き方のご相談?」
「書き方というより、対象との接し方。取材とでもいうんでしょうかね、インタビューとでもいうんでしょうかね」
「なんだか、遠まわし。もったいぶっている」
「水沼さんは、誰かにもう一度会いたいなとか思うひとっていますか?」
「思わないひとなんているの?」

 ぼくには不思議と思い付く人間が念頭になかった。会いたくない人間なら数名いた。いや、もっといた。反対に自分のことを、どこかで慕いつづけているひとがいるのだろうか。ぼくの熱烈なるファン。次回作を喉から手が出るほど待っている。それを想像しようとしたが、散歩に連れて行けとジョンに頼まれているのが本当のところのようであった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(32)

2013年03月30日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(32)

 朝から大掃除をしている。お客が来るのだ。我がクラスの熱心な生徒が。

「本が所狭しと、足の踏み場もないぐらいに雑然としていた方が、先生ぽくっていいだろう?」ぼくがそう提案するも即時に却下された。
「それはあなたの美学で、けっしてわたしの美学じゃない。それに家が汚いと妻の評判が悪くなるのよ。そういうものよ」そう言って、鏡の前で自分の顔を美学の範疇に収めようとしていた。青のまぶたの美学。赤の唇の美学。マスカラの美学。

 熱心に、吸い込む筒を動かせば動かすほど、ジョンが掃除機本体を追っかけて、吠え立てた。妻はその間に玄関から優雅に出て、由美は送りがてら花の成長を見届けている。朝顔の青。

 しばらく経って玄関のベルが鳴る。高齢の方の朝は早い。ぼくは迎え入れる。手にはケーキなのだろうか、四角い箱があった。

 ぼくはそれを直ぐに皿に開け、キッチンのテーブルに置き、由美に言いつける。スプーンをタクトのように前後に揺さぶりながら。
「大事な話があるから、これを食べて、ここで静かにしててね」
「分かってるよ、パパ」彼女は上の空でもある。「このケーキ、わたしもママも好きなんだ」
「そう。冷蔵庫に飲み物もあるからね。くれぐれも・・・」
「分かってるよ」

 部屋に戻ると、ジョンは児玉さんの足元に寝そべっていた。掃除機との格闘も終わり、いくらか疲れているのだろう。そうだ、どんな会話の内容が待っているのだろう。わたしも、彼女も創作家の端くれなのだ。そして、彼女は切り出す。
「川島先生は、どれぐらい取材をするんですか?」
「ぼくは、別にノンフィクションを作りたいわけでもないから、ほぼ、まったく」

「しない?」彼女は不服のようでもあり、当然という顔付きでもあった。「わたし、自分の自伝を壮大にしたいなと思って初恋のことを書いていたら、どうにも、そのひとに会ってみるべきじゃないかと。年を取ると、厚かましくなりますね。会っても、あの時は、うつむいていた少女がね」
「ほう、おもしろそうですね」つづきは、どうなるの? と、物語の本性を見極めたい根が張り巡らしてきた。
「住所をもとに調べてみると、もともと、住んでいたところから引っ越してもいないので、家まで行って来ました」
「パンドラの箱を開けちゃったんですね」

「まだまだ」児玉さんは否定した。その際に、少しだけ開いた扉から小さな片耳が見えた。
「由美、耳が見えてるよ」途端に扉は閉じた。「それから、会った?」
「いえいえ。洗濯ものがベランダにそよそよと翻っていて、もうそれが少年や青年のものではないので、ちょっと躊躇して、ベルを押す手をとどめてしまいました」
「そうなんだ。もう会わない?」

「いいえ。行くべきか、このままであるべきか、どっちが正しいのかその相談」児玉さんは華奢なカップの中味をすする。それだけは妻がこれを使って、と丁寧に洗ったものだった。彼女の美学。「書く素材としては、どちらが正解かしらね」
「会って、その印象を書くこともできるし、会わないでそのままの淡い状態を残すことも正しいですよね」だが、なぜ、彼女はぼくのところになど相談をもちかけてきたのだろう。ぼくは、初心者であり、恋の方もたくさんの記憶があるわけでもない。ぼくは、妻と由美とジョンを置き去りにして、無我夢中の恋に飛び込んだ自分を想像する。その予感がしたのか、ジョンは眠ったままの姿で小さく吠えた。「金魚もいる」
「え?」
「いや、こっちのこと」

 マーガレットの母であるナンシーは自分の娘が絵筆によって白い布にとどめられていく姿を見ている。その顔は親子であるため当然なのであるが、自分の若いころに似ていると感じていた。彼女は銀行員と結婚をした。それは都会の町に引っ越してきてから叔母にすすめられてすすんだ話で、その前に初恋のひとがいた。赤い頬が印象的な細身の素敵な青年だった。話し方も無骨で、教育もそれほどはなかった。だが、教育の有無でひとを好きになったりするわけでもない。訓練も事前の練習もなくひとを好きになる。ひとに与えられた本能なのだ。彼女は、彼を選んだときの結果を想像しようとした。どこかの田園で彼と暮らしている。大きな雷が鳴り、ある日、家の前の大木を真っ二つに雷光が裂け目を入れる。雨が上がったあとの太陽がそこにたまった水に照射する。これが、幸せなんだと実感する。怖いこともあるけど、過ぎ去れば思い出になるのだ。

「80%ぐらい、完成しました。あとは、微調整」

 レナードがそう言ったので、ナンシーは現実に引き戻された。マーガレットはこころのなかで完成に近づくということを残念に思い、ナンシーはその絵はすでに完成されていると感じていた。これ以上、どこを手直しする必要があるのだろうか。

「完成って、どこにあるんでしょうね?」ぼくはため息混じりにそうもらした。「児玉さんは会ってみたい、それとも、思い出をきれいなままで残したい?」カメラの宣伝みたいなセリフだなとぼくはあきれる。もう一つあきれていることは、質問をまた質問で返したということだった。だが、相談なんてものは頭の整理の一環で、根本的には、相手の腹のうちはもう決まっているのだ。
「会ってみようと思います。もう、わたしも主人がいないので。誰に迷惑をかけるわけでもなし」

 ぼくは、想像する。初恋の相手。ある日、自分の前にあらわれる。もう、自分にとってプリンセスでもない。面影はあるのか? それとも、残酷なまでに無慈悲な誰にとっても平等な時間は、見知らぬ女性にその力によって変貌させてしまうのだろうか。

「由美、プリンセス、こっちにおいで。話は大体、終わったから」
「はい」誰が教えたのだろう、美しい響きの返事だった。
「途中のことは、聞いてなかったよね」
「聞いてないよ。だって、静かにケーキを食べてたから」
「おいしかった? でも、先生にはこんな可愛い女の子がいたのね。もっと、きれいな子に育てるためには、たくさん稼げる本が必要なのかもしれませんね」

 ぼくの次回作は、ミステリーかサスペンスにしようと誓った。ぼくは、殺意をいだいた主人公になり、ある日、崖に立つ彼女の背中を・・・。いや、止めておこう。背中を優しく揉んだのだった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(31)

2013年03月25日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(31)

 由美は夕飯前の時間に、寝そべってジョンと遊んでいる。ぼくは机のまえに居場所を作る。自分の能力を妨げるものなど、なにひとつないのだ。穏やかな日々。刺激がすこし足りなかったが。

 エドワードはそろそろ一日の業務も終わる時間に、投資のことで外国のひとと話していた。彼は勧め、相手は提案を気に入りながらも、油断するものかという表情も時折り浮かべていた。旨味を味わいたいと思い、同時に世の中は騙し合いの場なのだとお客は考えていた。エドワードは話しながら、なぜ、彼はそうも疑り深い人間なのだろうと興味を抱いた。エドワード自身も猜疑心の多いひとびとに囲まれて育ったが、自分はその影響をあまり受けなかったと認識していた。

 エドワードは通常つかっている言葉ではないので、なめらかと呼べる表現には程遠かったが、それなりに善処をした。相手も段々と打ち解ける。その壁は言語が崩したのではないようだ。エドワードの真摯な態度と、いくらか表面に自然と浮かぶ楽観さが原因だったのだろう。だが、彼は席を立ちそのお客を見送ると、いわれのない疲労を感じていた。この気持ちを何かで溶かしたかった。それは陽気な遊びでもなく、大騒ぎすることでもなかった。ただ、自分が望んでいる暖かな家庭に戻りたいという気持ちでできあがっているようだった。

「ママ、お帰り」と由美が玄関で言っている。ご飯が炊ける匂いもキッチンからしている。香ばしさは一時間ほど前の準備が重要だったのだ。ジョンも可愛く吠えた。愛してくれるものと、敵対するものを的確に見極めている。誰が、その能力を植えつけたのだろう。
「きょうも、良い子にしてた?」
「うん。ママ、メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」

「あら、そんな言葉も覚えたの? わたしの夫は何年も言ってくれないのに」
「でも、パパから教わったんだよ」
「そうなの。本の書き方を外で教え、言葉の使い方も娘に教える。自分ではどちらも実践しない気なのかしら、ね」

 もしかしたら、刺激というのはこの世にまぶす必要がないものかもしれない。頭でっかちの自分。今日の平安も棚上げになるのだろう。世の中で生きるにはそれなりに摩擦が生じる。妻はそのなかで息を吸い、夫は指先だけで自分の世界を作った。そこに君臨する王であり僕であった。ストレスはほとんどなく、ただその世界が小さなことを恥じた。大きな戦争に従軍する自分。それを記録し発表をすると、社会は喝采を浴びせる。

「パパもくれば?」
「あなた、いるんでしょう? その塹壕からでてきなさいよ」

 司令官が命令を告げる。それが役目だから。配下には若き女性兵士と、獰猛なドーベルマンがいる。ぼくは投降する。両手をあげ、携行品はすべて処分して。パソコンの電源をすみやかに落として。でも、もうちょっとすすみそうだ。

 エドワードはそれからひとり町を歩いている。いくつもある窓には明かりが灯っている。夕飯のにおいもする。談笑があり、ささやかないさかいもあるはずだ。自分にはどちらもない。だが、いつか作れるのだ。そういう希望を口笛に変えた。すると、家の前につながれている犬が吠えた。

 後ろを見ると、ジョンもぼくを探している。それが彼の役目なのだ。全員が揃うことを望んでいる。ぼくはしょぼしょぼとした目頭を抑え、リビングに入った。

「なにか、手伝おうか?」
「お、優しさをアピールした」妻はエプロンを腰に巻いている。有段者のように。「その大根、おろしてくれない?」
「いいよ、魚? 焼き魚かな?」
「そう。安かったから」

 若き兵士は皿や箸を並べている。児玉さんの娘の方も幼き日から、このように手伝っていたのだろうか? そういえば、母はうちに来て相談があるとも言っていた。いったい、何だろう? あとで電話でもしてみるか、とぼくは白い幅のある輪を削りながら考えていた。

「もういいよ、それぐらいで。全部、つかう必要もないんだから」司令官はさまざまな場所に目を配っていた。

 ぼくらは食卓を囲む。部屋のはじではジョンも自分の分け前をもらっていた。直ぐに食べ終えてソファの横で寝そべっていた。安楽しか知らない表情をしている。
「児玉さんのお母さんが相談があるので、うちに来たいと言っていたんだよね。何だろう?」
「部屋、念入りに掃除しなきゃ」
「これぐらいで大丈夫だろう。充分、きれいだよ」
「分かんないわよ、ひとの口って。あなた、教室にいったときにひどい女房をもらったって笑われるかも」
「猜疑心が強すぎるよ。だけど、あとで電話するよ」

「由美がいるときにしてよ。それも噂になる。知らない女性がうちに来たって・・・」
「その言葉、知ってる。パパ、なんだっけ?」
「瓜田に靴を納れず」と、妻が言った。
「違うよ。あやうきに、なんとか」
「君子、危うきに近寄らず」ぼくは答える。
「それ。ママのはどういう意味?」
「畑とかで屈んで靴のひもを直すと、野菜泥棒に間違われて、ライフルで撃ち抜かれるって話よ。バン!」指先で拳銃を作り、妻は大きな音を発した。驚いた犬が途端に目を覚ました。「ごめんね、ジョン、びっくりした?」
「ジョンにとっても、ここは戦場なんだよな」
「ジョンにも、って、いったいどういうことよ。わたしが戦場から帰還した晩のひとときをもっと祝うべきじゃない」

 それぞれ、安息の意味が違う。ぼくは食器洗浄機のふたを開け、中を使ったもので満たす。音がする。明日のためにきれいになるのだ。母と娘は家事からも解放され、寝そべってじゃれ合っている。ぼくは電話をかけようとしてそばまで行ったら待っていたようにそれが鳴った。また、ジョンが目を覚ます。ぼくは片手で受話器を持ち、もう片方の手でそれがもうひとつの受話器でもあるかのようにジョンの耳を触った。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(30)

2013年03月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(30)

 何度も滑り台を往復している娘と水沼君という男の子。飽きるということ自体を知らず、未来も過去も認識としてないようだった。ただのいまという現実。そこを楽しむこと。だが、お腹も空いてきた。
「由美、パパはお腹が減ったよ」
「いいよ、バーイ、たっくん」チャオ。アルベデルチ。
「きょうは英語の日なんだ」
「そういうこと」歩いていると、いろいろなものが目に入る。由美は、それをひとつひとつ英語ではどんな言語で表現するのか質問する。ぼくには分かるものもあり、分からないものもある。マンホール。ウーマンホール?

 そして、いつものファミリー・レストランに到着する。
「ハロー、お姉ちゃん」なじみになった店員の児玉さんに由美はあいさつをする。
「ハロー、由美ちゃん。どうしたの? 外国のお友だちができたとか?」ぼくは経緯を話す。彼女は笑う。その単純さを生活に持ち込める能力を笑う。彼女にはある種のマニュアルが強いられる。その受容と破綻。

 ケンは地元に帰っていた。そこは大都市とは違い、のどかであり、かつ周囲と密接に関係し合う社会だった。そこにいる友人たちがケンの話している様子になじめず、都会風のイントネーションになったといっては嫌悪感を示した。ケンは指摘されるまでそのことには気付かなかった。それで、慣れ親しんだ言葉を使うときにすら意識して元に戻そうとする意志が働いた。

「先生はいつもの?」
「それでいいよ」児玉さんは手の平のなかにある小さな機械を指先で押し、奥に消えた。
「ひとの好きになるものって変わらないの?」と、由美が訊く。「パパ、同じものばっかり食べている」
「由美ぐらいなら、まだ、変わるよ。苦くて食べられないものの、ある日、あれ、おいしいってなるから」
「そう。例えば・・・」
「いかの塩辛とか」
「うえっ」と彼女はいやそうな顔をした。
「パパもママも好きだからね」

「わたしも好き」と、児玉さんが料理を運びながら、自分の意見を述べた。「そうだ、今度、母が先生の家に行って質問があるとか」
「個人的なことかな。来てもいいけど男女が同じ部屋にいるとまずいので、由美がまだいる夏休みならいいよ」
「母の年でも」
「お母さんでも。君子危うきに近寄らず、というしね」
「なに、それ、パパ?」
「賢い人は、疑われるようなことをそもそもしないということだよ」
「由美ちゃん、となりのテーブルの料理を覗かずにね」と、児玉さんが笑って言った。
「だって、あれも、おいしそうだった」

 ケンはその後、地元の友人たちとサッカーをして喉の渇きを潤すためにパブに行った。親しんできた料理が出されると、より空腹が深まったような気がしてきた。段々と意識もしないでもとの言葉を話しているらしい。だが、ラジオから流れてくる地元のイントネーションはきちんと客観的になると、違和感が生じた。それも泡の飲みものを口にする度に忘れていった。

 それから、女性の話になる。ケンの気に入っている娘はどういうタイプなのか問われる。彼は思案する。マーガレットしかいないのは確かだ。だが、そのことについて口にしてしまえば陳腐化してしまう可能性もあることを恐れた。かといって、話したくないという訳でもなかった。

「由美ちゃん、宿題は順調なの?」減ってきた水をコップに注ぎながら児玉さんは訊ねる。由美は食事に夢中になっていた。
「児玉さんも苦しめられた方?」
「苦しめられなかったひとなんかいるんですか?」
「まあ、いないけど。夢にも見る?」
「テストとか宿題とかノルマとか締め切りとか。いやなものがたくさんありますね。ね、由美ちゃん」
「そろそろ、終わるよ」
「ほんと? 早いのね」
「まだ、残ってるじゃないか?」
「あれは、パパの分のノルマ」

 児玉さんは笑う。そして、別の席の給仕に行った。

 ケンはマーガレットのことを口にする。友人たちもからかいながらも聞き耳を立てる。彼らには地元の幼少のころから知っている女性しかいなかった。いずれ、そのうちのひとりを選ぶことになっている。だから、彼らはケンが話頭にあげている女性のことを必要以上に美化した。その反面、そこにはうまくいかない要素も含まざるを得なかった。この慣れ親しんだ食事のように、それぞれの手垢がしっくりと溶け込んだカウンターをもつパブのようなものを選ばない場合には。

 しかしながら、うらやましいのでもある。若者の特権は世界をひろげることであり、その結果として世界を狭いものと判断するように。誰も海の向こうまではいかない。だが、マーガレットは海の向こう側にいた。秋になれば再会できる楽しみも膨らむ事実もあるのだが、会えないというのは単純にさびしいものだ。

「ジョン、どうしてるかな?」と満腹になった由美が言う。それで、ぼくらは児玉さんが会計してくれるのを待ちながら、ジョンの特徴を並べ立てる。ひとは言葉で認識するものなのだろうか。胸のうちにある感情も言葉なのか、それとも、気体のようなものなのだろうか。ぼくにも、ケンにも、それは分からない。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(29)

2013年03月23日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(29)

 ぼくらは散歩をしている。由美の夏休みも後半に入っている。公園までの道のり。妻は仕事へでかけ、夫は娘の手を握り歩いている。すると、見慣れない外国のひとがきょろきょろとあたりを見回している。それから、ぼくは声をかけられた。

 こうした場合、おおよそは方向が分からなくなって、道に迷っている状況なのだ。ぼくは目的地を確認し、指でその方向を指して、何語かの外国語を用いた。お礼として感謝の言葉を述べられる。サンキュー。娘はその大きな背中に手を振る。

「パパ。英語がしゃべれるの?」
「英語とも呼べないよ」
「何ていったの?」
「ここを真っ直ぐ行って、3つ目の信号を右に曲がる。それだけ」
「もう一回、言って」
「ゴー・ストレート。スリー、うん、違う。サード・シグナル。ターン・ザ・ライト」
「それで、通じるの?」

「通じたね。分からなかったら、もう一回、誰かに訊いているかもしれないけど。ママなら、もっと詳しく説明できると思うけどね」ぼくは、親切のあと味を噛み締めている。「アン・ドゥ・トロワ」
「それは何て言ったの?」
「フランス語で、1、2、3」
「数字も外国は違うんだ。テレビのリモコンもそう書いてあるの?」
「そうなんだろうね。でも、数字は数字だからやっぱり、1とか2だろうね」

 公園までの会話がいつもとは違ってくる。彼女は未知のことを知りたがった。
「ひとつだけ、英語を覚えるとしたら、どれがいいの? ハロー?」
「由美も知ってるんだ。それなら、メイ・アイ・ヘルプ・ユーがいいよ」
「どんな意味?」

「困っているひとに手を貸してあげるんだよ。困ってるみたいですけど、お手伝いしましょうか、って」
「由美も学校でしたことある。粘土しまうの手伝った」
「偉いね。むかしね、笑い話があるんだ。飛行機で気持ちが悪くなった男の子がいてね、それでも、となりに困っていたおばあさんがいたので、お困りのことはないですか、と訊いたんだよ。優しいね」
「そういう場合はなんて返事するの?」
「どないやねん、どっちがやねん、って言うんだよ」

 由美は小さな声で練習するようにそう言った。これは、覚えなくてもよい言語だった。無駄話をつづけているといつもの公園に着いた。

「ハロー、おばちゃん」
 そこには水沼さんがベンチに座っていた。「こんにちは、由美ちゃん。どうしたの、留学でもするの?」
「もう、日本語に飽きちゃったの」
「パパは、日本語と毎日、格闘しているんじゃないの?」
「そうですよ。いま、道を訊かれて答えかたら調子にのって」

 レナードは船乗りがたむろしている酒場にいた。日常に聞きなれない言葉が飛び交っていた。彼はその言葉を通して異国に対する興味を駆り立てた。自分は定住者ではなく、放浪者に近い存在なのだと考えていた。強い酒をあおるとその勢力は脳のなかでひろまった。海にただよう流木なのだとレナードは自分を理解する。いや、手紙が納められコルクの栓をされたビンに似たものなのだ。それはいつか海岸沿いに打ち上げられ、興味ある子どもが拾う。レナードはその中身のことを考えていた。それは手紙である必要もない。自分で描いた小さな紙の絵でもかまわないのだ。すると、空き瓶を一本もらって、カバンのなかからスケッチ・ブックを取り出してさらさらと絵をカウンターで描き始めた。ものの数分で終えて、くるくると丸め、ビンの口からそれを入れた。筒の中に入ったものは何か分からない。そのビンをレナードは気の良さそうなひとりの船員にあずけ、次の目的地の途中のどこかの海上で投げてくれと頼んだ。そして、一杯酒をおごった。

 その船員の感謝の言葉をレナードは聞く。ひとなつっこそうな風貌の彼はそれからももっと話したい様子だったが、レナードにはうまく聞き取れない。彼は、まだまだ海の生活が長くつづくので、彼の妻か最愛の恋人にでも、もしかしたらひたすら寄港を待っている母にでも送るのだろうか、自分の顔とレナードのスケッチ・ブックを交互に指差し、そこに自分の似顔絵を描いてくれ、という趣旨を示す身振りをしているようだった。レナードは簡単にその願いを受け入れ、これまたさらさらと描き出した。何人かの同じ船の乗員たちが彼の背中越しにその絵を見て、感嘆の声をあげる。自分はこの絵を描く才能があれば、どの世界の都市でも暮らせるのだ、とレナードはさらに未知なる場所を夢見た。

 ひげが少し伸びた顔。酔いでいくらか赤くなっている。絵と同じ顔が握手をもとめて、レナードは要求に応じる。あどけなさとは反対の力強い手。船員は切手を貼るような仕草をして、ポストに入れる真似もした。それを誰か特定のひとが受け取り、別の絵はビンのなかで所在無くただよう運命になるのだ。それは自分に近いとレナードは思っていた。

「危ないよ、たっくん」水沼さんは滑り台の上で奇妙な形でぶら下がる自分の息子に声をかけた。彼の手には棒状のものがあって、片手をあげる姿は自由の女神でもあるみたいだった。彼はそれを放り投げ、奇声を発して豪快にくだってきた。由美も次にそこに立ち、両手を高く掲げ背伸びをした。ぼくはエッフェル塔のことを考えていた。妻との新婚旅行。ぼくは地図とのにらめっこをつづけ、彼女は塔の下のベンチで足をぶらぶらさせていた。ぼくは彼女のどこにいちばん惹かれたのだろう。彼女は母になり、妻の役割を充分に果たした。優秀な会社員でもある。ぼくは、その夜、エッフェル塔が見えるホテルで彼女の体内に由美の命の種をその最愛なる女性に植え付けたのだ、と考えようとした。しかし、実際のところはなれない赤ワインでいささか酔い過ぎ、ベッドでぐっすりと前後も忘れ眠っていた。由美はいつ宿ったのだろう? それを覚えているのは塔だろうか、それとも、引越し前のアパートだろうか。ぼくは何も知らないようだ。しかし、由美は塔のようにてっぺんでそびえていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(28)

2013年03月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(28)

「パパ、久美ちゃんの秘密を黙っているかわりにクッキーを口止め料でもらった」三人で夕飯を食べている際に由美が妻に告げた。
「なんだ、由美。おしゃべりだな」
「だって、秘密を言ってないよ」
「そういうもんじゃないよ。秘密があること自体を黙っていないと」
「秘密って、なんなの?」と、妻が興味津々の表情で訊ねる。
「ほら、こうなるんだよ」
「何それ。仲間はずれにしないでよ。それでなくても、昼間は外でひとりで働いているんだから」
「どうする、由美?」

「だって、クッキー食べたもん。ジョンも」彼女は悲しげな様子を示す。だが、これも演技に違いない。演じない女性などいるのか? わたしは、大人しく慎ましい女性とあの秋の日、結婚を誓ったのではないのか。あれは、無効なのか?
「板ばさみ」
「板ばさみってなに?」
「ふたつの間に挟まれて、両方の幸福を考えて、困ること。ママは、両親と夫の間に挟まれて毎晩、泣いているとか」娘の問いに答える母。ぼくの分はもう充分に果たした一日だった。
「泣いてるの?」

「ママは、いびきをかいてぐっすりと寝ているよ」
「失礼ね。あなた、変な動物みたいなにおいをさせているのに」
「板ばさみと、むじゅんは、じゃあ、同じ?」さすが賢い娘。
「ちょっと、違うね。二つの圧力に屈するのと、両方の長所を競うんだから」ぼくは自分の解釈に困惑している。そうなのか?
「同じでしょう。夫と自分の家族の間に挟まれるのも、夫の良さを知りながら欠点にも目をつぶるんだから。でも、これ、少し、変ね。そうだ、由美、久美子ちゃんの秘密って?」
「我が家のにらまれるカエルちゃん」

 マーガレットはわざわざ自分から望んで狭い領域に入り込んでしまっているようだった。エドワードの魅力を断ち切ればケンとの友情が継続し、反対にエドワードの善良さにそのまま屈すれば、ケンとの間にはひびが入るだろう。そうした人間関係の束縛から自由でいられるレナードの朗らかさを好ましいものに思っていたが、彼も彼なりに犠牲にしたものがあるのだろう。以前も、そう言っていた。だが、わたしはそのふたりを本当に好きなのだろうか。それは、どちらにより比重がかかっているのだろう。自分自身でも直ぐには判断できなかった。また、理性で答えるのもまた難しそうだった。どちらが、より強引にわたしを求めているのだろう、とマーガレットは少し顔を火照らせながらその考えをもてあそんでいた。

 その仮面のしたにあるものを見抜かれないと思いながら彼女はレナードが動かす絵筆のまえですわっている。しかし、優秀なる画家の筆致により暴かれないものなどあるのだろうか。レナードは、今日の彼女のかもしだす雰囲気がいつもと違い、一貫したテーマで望んでいた作品が乱れつつあることに不満だった。自分の技量が少ないからだとも思い、同時に自分の筆が遅く完成までの道のりが長くなっていることも原因だった。だが、それにも期限がある。実際のモデルがいなくなれば、絵は終わりには至らない。モナリザも決して微笑まない。

「きょうは終わりにしましょうか」自分は完成することを逆に怖れているのかとレナードは考えていた。終わりになれば、この家に通うこともなくなるのだ。
「どうして?」マーガレットは姿勢はそのままで口だけを器用に動かした。
「表情のしたに隠されている言えない秘密があるみたいなので」
「秘密?」
「ぼくには、分かりません。だから、そういう未知の感情をその文字で表現するしかなかった」
「ないですよ、特には」

 母のナンシーはテーブルに座りながら両者のやり取りを聞いていた。ひとに言えないものが秘密であり、暴かれるのも秘密であった。もぞもぞとうごめくものが秘密であり、太陽のもとにあらわれるのを怖れるものも秘密であった。

「わたし、言わないから」由美は、母から押される気持ちを必死にはねのけていた。ジャンヌ・ダルクになる素質がある。生爪を剥がされても口を割らないだろう。だが、視線の先には金魚が尾をゆらし泳いでいた。妻もその視線の先を追う。ふたりの視線が空中でぶつかり合う。

 結局、娘は口を閉ざしたまま寝た。ぼくは扉を半分だけ閉め、彼女の寝顔をうかがった。
「金魚のことなの?」と妻が訊く。
「金魚と人魚のこと。人魚をすくうこともできる男の子がいるんだよ。外で楽しそうに話しているのを、ぼくと由美が見かけてね」

「秘密でもないんでしょう?」
「最近の高校生の付き合いに秘密もなにもないよ。戦前のもんぺ姿の少女じゃあるまいし。ただ、クッキーをくれたときにからかって口止め料と訊いただけなんだよ」
「そうなの。うらやましい時代」
「由美も金魚みたいに、いつかすくわれるのかな」ジャンヌ・ダルクみたいな仕事もあるのかな。女の子にとって、どちらが幸福なのだろう。

 レナードが去った後、母と子の間を沈黙が支配していた。何も質問がなく、どんな回答もないという沈黙ではない。たくさんの疑問がうずまいている静けさであり、多くの言い訳を宿した空間であった。

 もう一度、子ども部屋をのぞくと小さな寝息がきこえた。矛盾を覚え、板ばさみを知った一日。夏は多くのことを教えてくれ、いくつも成長の芽を花開かせてくれる。ぼくはベッドにもぐり込む。妻がぼくのにおいを点検するためなのか鼻を小さな動物のように動かしていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(27)

2013年03月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(27)

 ぼくはキーボードを裏返しにして隙間のゴミやかすを取ろうとした。どうしても中に姿がありながらも完全には取り除くことができない。ぼくの才能と同じように。結局は掃除機を持ち出して、勢いよく吸った。その途中でジョンは掃除機に吠え立てている。我が躍動する愛犬。やっと、きれいな状態にもどって安心する。機械の威力をまざまざと感じて、また、電気屋さんのにこやかなる営業力を恐れた。口車に乗る?

「パパ、掃除?」まだ口のなかで、もぞもぞと何やら動かしている様子の由美が訊いた。
「ここにゴミが入って気持ち悪かったからね」
「お皿、もってく」小さな背中が消える。ぼくは指を動かすことも忘れ、ぼんやりと久美子と金魚すくいの少年との会話を想像する。あの年代の自分はなにに興味をもっていたのだろう? 趣味というのもそれほど幅広くはなかった。本を読んでいる。それはひとりになることを強いられる作業だ。会話を遠ざけ、恋人との仲を一時的に疎遠にする。ならば、水泳もそうだ。ひとりで水中で身体を動かしている、息継ぎをするときだけ空中に顔を出す。だが、一日中、水のなかにいられるわけでもない。もちろん、本だって一日、ずっと読んでいられるわけでもない。その為に、世界にはしおりがあった。手もふやけて水のなかの暮らしの限界を告げる。

 秋にでもなれば、彼らはゆっくりとデートをするのだ。遊園地だって選択として良い場所だ。躍動する高低差の激しい機械が前後左右にひとびとを揺らす。絶叫する若者。

 ケンとサイクリングをしたときの情景をマーガレットは思い出していた。秋のさわやかな空気が身体のすみずみまで新鮮なものとして行き渡る。車輪の下には夏の疲れに耐え切れなかったように落ち葉が散り始めていた。彼らは前後になりながら、ときには真横で会話をしながら進路をすすめた。

 銀行家のエドワードとはこういう楽しみが得られなかった。彼はもっと落ち着いて、家のなかで寛いだりするのが好きだった。マーガレットの若いエネルギーはときにはこのように放出する必要があった。それに、同じ行為をして喜びを分かち合うということも彼女は好きだった。

 丘の中腹で自転車を止め、見晴らしの良い場所で市街地を見下ろしている。

「あそこから来たんだね」とケンがその町を指差した。新しい大陸に到達でもしたような達成感のある声だった。振り返った彼は、今度は後方を見る。「でも、あそこまでまだまだありそうだ」

 キーボードの調子が良くなった。自分の思考が脳で生まれ、指に伝達して、ピッチを叩く。それが画面に移る。自転車のバランスを取ることも脳はでき、転がったときの痛さも覚えていた。先日、水沼さんちのたっくんが泣いていた。横には横転した自転車があった。

 マーガレットはケンの活力に負けないように必死に自転車を漕いでいた。だが、同時に優雅さも忘れたくなかった。自分は、負けず嫌いなのかしらとスピードを止めないまま考えている。それに比べてケンは楽しそうに口笛を吹き出した。彼は、自分の力を出し切るという段階までは行っていないのだ。余力がある。それでも、彼はわたしを追い越さない。後押ししてくれるようにわたしの背中を見ているのだ、とマーガレットは感じていた。

 やっと、頂上に着く。市街地はさらに小さなものとなった。いくつかの煙突がのどかにパイプをくゆらす老人のようにゆっくりと白い煙を吐き出していた。
「パパ、さっきの口止め料って、なに?」

 ぼくは山の景色を忘れる。「誰にだって、秘密があって、つい、その秘密を望まないひとに知られてしまって、でも、秘密は秘密のままであってほしいから、その見返りとして何かをあげる」
「クッキーとか?」
「そう。クッキーとか」
「食べちゃったら。もう、秘密を守らないといけないの?」
「いけないんだろうね。口外しちゃいけない」
「口外ね」その意味が分かっているとも思えないが、由美はその言葉を口にした。「ジョンも一口さっき食べたからね。久美ちゃんのこと秘密だよ」娘は命令口調で愛犬に諭すように言った。さらに、もう一度。「ね、秘密だよ」

 マーガレットはケンとの仲を母にも打ち明けていた。勉強を競い合う仲でもあり、知らないことを教え合う間柄でもあった。母は二者を比べている。安定した生活と若さの盛りの思い出。その若さを失う前に、ひとりの男性から慕われなければいけない。

 マーガレットはいつまでも町の景色を見ていた。ケンは飽きてしまったかのように両手を岩肌に着け、その前方の急な斜面を登り出した。それから、大きな声を出し、眼下の町にまで届くように言葉を発した。彼女には声が割れてしまっていたので、聞き取れなかった。自分の名前のようでもあったし、見知らぬ都市の名前でもあったようだ。地面に横たわっている自転車はその秘密を知ってしまったかのように、車輪を小刻みに回している。いつか、この回転も止まるのだ。どこで止まるかも分からない。ただ、もう一度、漕ぎ出すこともできる。すると、秋の空の雲行きが怪しくなってくる。下りは楽だろうな、とマーガレットは安心したような目を向け、ケンの名前を呼んだ。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(26)

2013年03月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(26)

「パパ、マーメイドが立っているよ、あそこ」由美は失礼にあたると思ったのか、小さな指をそちらに向けずに反対にあごでしゃくった。
「行儀悪いな、そういうの。パパ、嫌いだな」ぼくは、不快に思いながらも興味をひかれ、目をユミがあごで指し示した方向に向ける。「ほんと? 由美、視力が良いのかな。パパには見えないよ。でも、矛盾した表現だね、立っている人魚」
「むじゅんって、なに?」
「辻褄が合わないこと」
「なに、つじつまって?」

「疑問が多いね。答えられるかな」ぼくは思案する。優しい妻。ぼくの本が山積みになっている。その前でサインをしている。それはただの願望という範囲だった。辻褄って、なんだ。「何でも突き刺せるフォークを作ったとするね、それとは別にどんなものからも守る堅い殻をもった虫がいるとするね。どっちが強い?」
「分からないけど、何だか残酷な話だね」
「残酷ってなに?」ぼくは、娘をからかった。

「由美が訊いているんだよ、もう。でも、人魚って、男のひとはいないの?」
「考えたこともないけど、動物の下半身をもった人間は神話にいるんだよ」
「気持ち悪いね」彼女は想像したのか苦いものを食べたような表情をした。悲しきケンタウロス。
 ぼくらが話しながらそのまま道をすすんでいると久美子の背中が見えた。我が隣家のマーメイド。
「いたね、人魚」

「男の子としゃべっている。下は普通の足」娘は安堵した様子を浮かべる。それから、大きな声で久美子の名前を呼んだ。
「なんだ、由美ちゃん。びっくりした。お散歩なの?」
「そう、パパと。パパいつか4本の足をもった動物になるの。顔と手はそのままで」

 そばにいる高校生の男子が笑った。彼もいつか娘の疑問攻めにあうときが来るのだ。それまではデートを慎み、勉強でもしていなさい。それを怠ると、いったい、どうなるのだろう?

 ぼくらは挨拶程度に済ませてすれ違い、またぼくと由美は家の方にすすんだ。「金魚を夜店ですくったのはあのひと?」
「そう。青春の金魚。上手だった」
「人魚もすくったりできるかもね」ぼくは自分の言葉を恥じていた。それで、自分がケンタウロスになった姿を想像して静かに歩いた。ぼくはキーボードに文字を打ち込み、想像力があれば、そして枯れなければ、それは困った状況でもないようだった。最悪ではない。だが、妻はいやがるだろう。窮屈そうにベッドの横に寝そべっている夫。「これで、どうするの?」と彼女は顔をしかめる。「あなた、最近、獣くさくない?」と、それとは別にこの前に告げられた。その影響があらわれた想像だろうか。それとも、ぼくは、本気でその半分だけの動物になりかけているのだろうか。

 レナードは、前足を高く掲げた馬を模写している。それは躍動の表現であり、うまくいけばいななく叫び声すら聞こえるようになるのだ。筋肉は皮膚のしたに隠され、血液が際限なく流れている。それらにとって命があるということは動き回るということと同義語なのだ。過去の天才が依頼をうけて自分の天分を粗布のうえに封じ込める。

 彼は知人を通じて紹介された貴族の館でそれを見ていた。スケッチ・ブックを片手にわずかばかりの時間を無駄にしないように手を動かしていた。こうした傑作がこの地にあることはうわさとして耳にしていた。だが、それをこんな間近で自分で見られるとは思ってもいなかったので、興奮し感激していた。それでも、微細な筋肉も描き逃すまいと決心して集中の糸を切らさなかった。

 ぼくの集中は玄関のベルが鳴ったことで中断する。
「はい、どちらさま」ぼくは目の焦点が戻ってこないため、腕で強引にこすった。背中には由美が追い駆けてきて、ジョンも同じようにした。獣くささの原因はここだったのか? やはり、自分だろうか。ぼくらをするすると由美が追い越し、玄関を開けた。
「久美子ちゃんだ。パパ、まだ変身してないよ」
「今夜の満月あたりかな、すると。これ、貰ったんで、少し、由美ちゃんにあげようかなと思って」
「口止め料?」ぼくは、若さに嫉妬しているのだ。
「やだな」
「パパ、何それ?」
「後で説明するよ」
「説明しなくていいですよ。後ろめたくもないですから」照れたように久美子はドアを閉めて、立ち去る音がした。袋の中からクッキーのにおいがする。
「開けて、食べな。もうちょっと、パパ、仕事に精を出すから」

 レナードは翌日、マーガレットの肖像にさらに絵の具を足していた。一段落すると、スケッチ・ブックを取り出して昨日の馬の絵を彼女らに見せた。
「なかなか、入れないんでしょう? そういう場所」
「絵を見ることに夢中だったので、憧れとか遠慮とか配慮を忘れていました」
「しかし、見事ね。筋肉があって、躍動感があって」

 ぼくは手を止める。若さがある。それは筋肉の張りで証明されるのだ。久美子の肩甲骨には水泳用の筋肉が張り付いている。血があって、管は新鮮なままだ。キッチンの戸棚が開く音がする。皿に載せられたクッキーが由美によって運ばれてくる。
「どうぞ、パパ」

 ぼくの文章は躍動感を得られないまま遅々としてすすまない。ため息をつく。いななきすら聞こえず、か細い吐息で終わる。齧って落ちたクッキーのかすがキーボードの間に挟まる。歯の間にも挟まった。ぼくの躍動感はいったいどこに消えたのだろう。

Untrue Love(130)

2013年03月18日 | Untrue Love
Untrue Love(130)

 あれからもまた時間が経った。何回もの熱帯夜を過ごし、秋の落ち葉を足のうらで踏みしめる。また今年。ことしもまた。咲子がいなくなって十年以上も過ぎていた。

 ぼくはビルのなかにいる。空調がきちんと自分の仕事を果たしても、そとの灼熱と呼べる日差しを見ると、「暑い」という言葉が自然と口からこぼれた。さらに例年より室内の温度設定は高めのようだ。冷え過ぎとの女性たちからの苦情もあった。それも、あと、数週間で夏休みになる。避暑という言葉を頭のなかでカキ氷のシロップのようなものとして想像する。だが、当分は暑さのなかにいる。冬はほんとうに涼しさや寒さを迎えてくれるのだろうかといらぬ心配をして。

「山本さん、いろいろ誘ったら結構みんなビールを欲しているみたいで、人数が多くなっちゃいました。だから、店予約しましたから。外出とか、これから、なかったでしたっけ?」
「ないよ。この暑いのに外を出歩かせないでくれよ。そうか、妻に電話しておこうかな」

 ぼくは、そう言いながら部屋を出た。手には電話があって、その前にビルの一階の機械で現金を引き出した。何人ぐらい来るのか分からない。だが、たまには仲間の近況を聞くのも悪くない。外を見る。夕方になっても太陽は衰えそうになかった。夕立でも降らないかなと期待して空を見上げるも、その予感すらまったくない。まさに彼の時代なのだ。ぼくらを干上がらせ、冷たいビールを報酬として与えてくれる。

 ロビーでいつみに電話をかけた。彼女の珍しい気だるそうな声が耳に入った。
「きょうは、用事がなかったからソファに横になっていたら、いつの間にかウトウトしちゃって。用事?」
「いや、飲み会ができて、ちょっと遅くなりそうだとね、伝えておこうと」
「あまり、飲み過ぎないでね」

 ぼくは、若い頃、彼女がカウンターの向こうにいて、その彼女が用意してくれたグラスで飲みものを口にしたときのことを思い出していた。ぼくは家ではなぜだかその情景を忘れていた。
「ほどほどにするよ。何か急に必要なものある?」
「ないよ」そう言いながらもどこかでためらっていた。「いまね、むかしの夢を見ていた」
「どういうの?」

「仕事、大丈夫?」それは話が長くなることの前触れなのか。でも、ぼくの返事も待たなかった。「そこにね、咲子ちゃんが出てきた」
「咲子が? 彼女、何か言ってた?」
「わたしのこと忘れないでねって。でも、いまさっきまでわたしすっかり忘れていた。申し訳ないなと思って」
「みんな、忙しいんだもん。忘れるよ」だが、ぼくもこの日に彼女の幻影を取り戻していたのだ。
「写真、どっかにあったかな?」
「あるよ。彼女がバイトを辞める前に、キヨシさんといつみといっしょのが」
「そうか。分からないから、帰ったら、今度、探して」
「うん」でも、ぼく自身がその保管場所を思い出せなかった。ただ、それを飾っていた若き自分が過ごしてきたアパートの一室にあった日に灼けたカーテンの褪せた柄の色彩のことだけが鮮明に浮かんでいた。その部屋に置かれてあった写真。

 連絡をすませたぼくはエレベーターに載り、部屋に戻った。
「奥さん、許してくれました?」
「うん。飲みすぎないでねって」
「一途なんですね」
「誰が?」
「山本さんに決まっているじゃないですか。ここでふたりで会話をしているのに」
「ぼくが一途ね・・・」
「反対意見でも。最近、気になって仕方がないひとがどこかにいるとか?」
「いないよ。まったくいない」
「じゃあ、一途決定ですね」

 ぼくはその解釈に不本意だった。いや、過剰に評価されていることがむず痒かった。ぼくは、あの日、木下さんとユミのことも捨て切れずにいた。咲子の死をきっかけに継続することを怠るようになった。あれがなかったら、自分は誰かひとりだけに専心して愛することなどできなかったのだ。一途にさせたのも咲子であり、ぼくの青春の日々をすぱっと終わらせたのも彼女が遠くない原因であった。

 仕事も終わり、十二人もの会社の人間が奥の座敷に陣取っていた。一番、年長がぼくであり、いつの間にかぼくに与えられる役目も変わっていった。若い彼らは男女間の友情という議題で意見を交わしていた。成立するという側と、そもそもそんな感情は下心の有無で膨らんだり、しぼんだりする風船のようなものでしかないと主張する側がいた。ぼくは、静かにビールを空けるペースを守りながら、聞くでもなく、聞かぬでもなくという感じでそこにいた。

「順平先輩の意見はどうですか? やっぱり、ないですよね。好きか嫌いかだけですよね。男女間なんか」彼は少し酔っていた。その為に来ているのだからとがめる必要などまったくない。ただ、となりの座敷にまで響きそうな声のボリュームを少しだけ抑えてほしかった。

「やっぱり、あるだろう。あのひとと恋愛感情などいっさい抜きで、もう一度会って、無駄話をして大笑いしたいなとか」
「一途な山本さんにもいるんですか?」
「そりゃ、いるよ」ぼくの念頭にあるのはユミだった。彼女との肉体的な接触など間に挟まずに、ただ、昔話に花を咲かせたかった。だが、世間の目はそうは見ないだろう。恋の再燃という言葉でぼくの行動を定義するかもしれない。さらにいえば、ぼくは早間と友情関係を持っていると思って大学の時期を過ごしてきた。だが、あれは友情などではなかったのだ。どういう風に規定すれば良いのだろう。その場で、相応しい言葉は直ぐに出てこなかった。

 ぼくが黙っていると彼らの話題は突然、変わっていた。飲みながら酔ったひとの話題が急速に変更しないことなど起こりえない。次から次へと焼畑農業のように場所を探す。それで、頭を占めている暑さの拘束から逃れられるなら目出度いことだった。

 数時間経って、飲み会もお開きになる。途中まで同僚たちといっしょだったが、乗換駅になると徐々に減った。するとひとつ開いた座席にすわれた。ぼくは目をつぶる。この電車がいつみの元に戻してくれる。可能であれば、二十年も前に過ごした夏休みに戻してくれることも願っていた。ぼくは土手を歩いている。遠くから咲子が歩いてくる。ぼくはすれ違う際に、会釈以上の声をかけるべきなのだ。「君は東京にくるべきじゃなかった。地元にも大学はあるはずだ。車でぼくを、アパートにたどり着けなくなったぼくを決して迎えにくるべきではない」だが、どれもその当人には届かない。あれは、ぼくが作った夏の少女という題材のモデルだったのだ。それでも、いつみも同じく今日、夢のなかに咲子を見つける。いた人間がいなくなり、いなくなった人間がまた現れる。ぼくは一途であり、どうしようもない浮気性であった。また何度も何年も灼熱の日々を越えれば、見方も変わってくるのだろう。美化という調味料をほんのちょっとずつだが加えながら。

(終)

Untrue Love(129)

2013年03月17日 | Untrue Love
Untrue Love(129)

 あれから四年が経った。ぼくは二十七才になったばかりだった。あれ以来、誰かと緊密な関係を作ったり、維持したりすることを自然と避けるようになってしまった。喪失の予感に脅え、それならば最初から失う原因を作らなければいいと実際に覚悟したわけでもないが、安易にそう思っていた。当然、女性ともそうだった。

 だが、あの濃縮され、かつ凝縮された三人との関係をこれまでの不在の時間で均してみれば、そう悪い状況でもなかった。彼女たちとの思い出は、ぼくにとってはカギがきちんと閉められて保管されている宝のようなものだった。稀にしか取り出さないが、防腐剤もいらず、あらゆるものからの劣化や腐食や錆からも遠去けられている。だから、宝とも呼べたのだ。しかし、扉は開かれるようにできている。予期もしていない日に。

 ぼくの会社の製品がトラブルを起こし、毎日、行いつづけることが求められている仕事に穴を開ける原因となってしまった。未然に防ぐことができず、最小の事態で収まったが、結果は信用を失い、ぎくしゃくとした関係を作った。会社同士での大きな部分での謝罪は済み、あとは担当者間での小さなわだかまりを取り除く作業が待っていた。その担当の矢面に立っているのがぼくだった。ぼくはその会社の本社まで出向くことになっていた。

 午後からの約束だが、早めに着いた。駅から左側の小高い丘陵のなかに会社があるのだが、反対には海岸もあった。ぼくはこれからの重い任務を考え少しばかり憂鬱になり、気晴らしに食事がてら海岸線で昼の時間を過ごそうとしていた。手にはサンドイッチとペットボトルの紅茶があった。

 ウインドサーフィンを楽しむひとがいた。三十メートル先ぐらいには、女性のような人影があった。ぼくは石の上に腰を下ろし、パンの袋を開けた。謝罪のことも忘れ、ぼくのこころはいくらか高揚していた。世界はのどかであり、ぼくはその側の一員なのだと思おうとした。それは難しいことではなかった。カモメが空を飛び、小さな飛行機が雲に印しをつけていた。

 食べ終わって、詫びの言葉を考えながらもぼんやりとしていると後方から声をかけられた。

「それ、おいしかった?」
「はい?」ぼくはアマチュアの現実逃避者としてその座にあぐらをかいたり、その場しのぎのぼんやりとのどかな世界の住人であることに満足していたが、ある方向からの不意打ちのひと声により、その仮場のバランスを急に打ち破られて戸惑ってしまった。
「おいしそうに食べていたから、おいしいか、訊いたんだよ」

 ぼくはその声に早く気付くべきだったのだ。声の主に。いや、もっと前だ。あの人影は、土手にすわるあのひとに似ていると勘付くべきだったのだ。
「おどろいた、いつみさん。あ、これ、おいしい」彼女は笑った。「こんな所で何してるんですか?」
「それは、こっちのセリフだよ。こんなところで、海を見ながら、何で、パン食べてんだよ」

 ぼくは経緯を説明する。「うちの会社の機械が・・・」
「その割りに食欲はあるんだな。普通なら、喉も通らないという感じだけど」最後まで内容を聞くと、心配した表情になりながらも、にこやかにそう言った。
「そうでもないですよ。やはり、逃げ出したいぐらいです」
「大丈夫だよ、それぐらい。あとはナボナでも持っていけば」
「はい?」
「お見舞いや手土産はナボナと相場がきまってる」

「そうなんだ」ぼくも、彼女につられて笑う。「でも、いつみさんはなんでここに?」
「あそこに住んでんだよ」彼女は海の反対の道路の向こうを指差した。「あそこ」
「ここからだと、店に通うの遠くありません?」
「知らないんだ。もう行っていないよ。店もないし」
「え、ないんですか?」
「権利とかも売ったら結構なお金になった。それをキヨシと半分こにしたら、そこそこになったしね」
「キヨシさんは?」
「下北沢で店をやってるよ。同じようなのを、もうちょっと若者向けかな。教えるから、今度、行ってあげなよ。私よりわかくて可愛い店員さんもいるから」

「それで、ここに」
「結婚したんだよ。その報告の直ぐ後で申し訳ないんだけど、離婚もしたんだよ。それであのおうちを貰って、お金も分けてもらって」彼女は照れたような、はにかんだような表情になった。「なんだ、言ってから気付いたけど、私、誰かと別れるたびにお金を半分もらうんだね」
「旦那さんだったひとは?」
「さあ、知らない。少なくとも、あのうちにはいない」
「もう着なくなったおしゃれな服がのこってたり?」

 ぼくらには共通の思い出があった。ぼくがまだ学生のころ、彼女のむかしの彼氏の洋服をもらったことがある。彼女はそのことを覚えているのだろうか。
「え? ああ、あるよ。わたしが何かの記念に買ったネクタイが、けっこう高かったのにな、趣味が合わないとか言って包みも開いただけできれいなままのがある。順平くんなら、きっと合うよ」
「今度、取りに行ってもいいですか?」
「いいよ。今日じゃなく今度。今日はナボナをもって謝りにいかなければいけないんだもんな」

 ぼくは名刺に自分の連絡先も付け加え、彼女に渡した。いつみさんははじめて文字を見るひとのように不思議な様子で凝視していた。

「そこにかけるのがいやだったら、連絡先、おしえてください」ぼくは彼女が述べる番号をメモする。
「順平くんも、名刺なんかもつようになったんだと思ったら、びっくりしてさ」
「働きはじめて、店に行ったときに渡したと思いますよ。肩書きも大して変わらないし」
「そうだったっけ。どっかにあるのかな」彼女は海の方に目を向けた。まだ、波と風に乗っているひとがいた。ぼくもあのようにするするとどこかに逃げてしまいたい気持ちと、この再会を永久につかみたいとも同時に思っていた。
「よく、ここに、きてるんですか?」

「そう、たまに。天気もいいからね」彼女の腕は太陽を浴びているひとの肌だった。「そろそろ、お昼も終わるよ。もし、必要なら駅前に和菓子屋がある。大福がうまいんだけど、会社のひと、甘いの好きなのかな」
「ちょっと、寄ってみます。ありがとう。あとは誠意と大福ですかね」彼女は頷く。書類にはんこを押すようにただ無言で頷いた。「いつみさんは、まだここに? 帰らないんですか?」

「もうちょっとここに座ってる。それで、むかし、好きになった男の子のことを考えてみるよ。あいつ、ネクタイ似合うかな、とか、きちんとお詫びもできる人間になったかなとか」

「なっているといいですね」
 と、ぼくは言い、付いてもいないゴミや砂をはらうようにズボンのお尻の部分を手の平で軽く叩いた。いつみさんは海を見ている。風に揺れて彼女の耳があらわになる。ぼくは歩き出す。振り返ると彼女の背中が小さくなっていた。ウインドサーフィンの帆が波の反射に遭っている。扉がしまらないように、かんぬきがかからないように、ぼくはストッパーの役目となるようなものを探す。だが、もう大丈夫だろう。ぼくらはお互いをどれほど必要としていたか気付いていたのだ。飛行機雲がたとえ消えてしまっても。

Untrue Love(128)

2013年03月16日 | Untrue Love
Untrue Love(128)

 ぼくは大事なシャツに誤って食べ物のソースのしみが付いてしまったかのように、その日の一日の流れを何度も細切れにして振り返った。どうやってもしみが取れないのは、もう知っていたのだが。

 先輩と仕事で少しはなれたところまで新たな顧客に会うために出掛けた。仕事は順調だったが、交通がダメな日だった。帰りの電車で、どこかの遠い駅での事故の影響により、波紋が広がるように外縁でぼくらは待たされつづけた。乗換駅まで来ると、今度は電気系統の問題があるとのことだった。先輩は電話をかけ、妻との約束を破ることを詫びた。結婚記念日が近いということで、この金曜にレストランを予約していたらしい。八時からということだったが、彼の身体がその時間にそこに行くことは不可能になっていた。

「こうした小さな積み重ねをしくじることが、後々、大きな問題になるんだよ。お前も、いつかの日のために覚えておくといいぞ」と、先輩は自嘲的に言った。そして、笑った。彼が小さなころ、野球でもしているときに三振した場面で監督や仲間たちに、チャンスを台無しにした自分を受け入れてもらえるようにこういう笑顔を見せたのだろうということが想像できる表情だった。それは、力の及ばないことにも直面しなければならないという戸惑いとの折衷だったかもしれない。

 ぼくも公衆電話の列に並び、実家に電話をかけた。神奈川の大きなターミナル駅まではたどり着けそうだったが、東京のアパートまでは行けそうにない。ぼくは意に反して二週もつづけて親の厄介になりそうだった。

「それなら、いま、咲子が家にいるから、彼女にね、迎えに行ってもらうようにするよ。車で」と母は行った。ぼくは親に詫びた。だが、こうした貸し借りは後々の大きな問題にはなり得ないだろう。すると、先輩と妻との関係は、やはり他人の延長のようにも思えた。それを非難できる資格もぼくはもっていない。いつか、十年後にでも、ぼくはやはり後輩とこのような立場に置かれたとしたら、そのときにはじめてきちんと理解できるのだろう。その日まで判断は棚上げだぞと、こころの奥の見えない何かに誓った。

 駅までいっしょに来て、そこで先輩と別れた。彼は乗り換えてあと数駅で家に着く。彼らの今夜が楽しいものになるよう、せめて最悪な時間にならないようぼくは祈った。彼は、とにかく憎めない人間なのだ。この日もぼくは一日、楽しい時間が過ごせた。ただ、交通だけがぼくらの気持ちをさまたげたのだ。

 雑踏するなかから逃れるように改札を抜け、少し離れたベンチにぼくは座った。道路も混んでいるように思えた。同じように迎えにくるひとも増えたのだろう。タクシー乗り場にも長蛇の列があった。

 ぼくは電話をした時間と、いままでの経過したものと、この混雑をミックスさせ、大体の咲子の到着時間を予想した。はっきりといえば、他にすることもなかった。別れたばかりの女性を慰めるという身分に自分は向いているのかどうかも考えた。そのような状況に日々、置かれることはない。誰も失恋ばかりして生活している訳ではないからだ。たまにしか起こらない。たまに来る災害のために両親は、倉庫の片隅に非常食などを備蓄したことがあったことを思い出した。父の仕事先から配給されたものだったろうか。賞味期限が来る前に食べたが、まずくて直ぐにやめてしまった。珍しいことというのは、それぐらい手に負えないものなのだろう。

 その当時のぼくは携帯電話も持っていない。ただ約束の場所に、約束の時間を信じながら居続けるしか方法がないのだ。ぼくは、タバコでも吸えたらいいなとか、雑誌でもカバンに入っていないかな、とかどうでもよいことを頭に浮かべた。タクシー待ちの列も減り、期待して来たタクシーの運転手は、お小遣いをなくした少年のように心細い顔をした。ぼくは限界を越えた。財布を見て、家までのタクシー代がもつかどうかを考え、結局はその侘しそうな運転手が行き過ぎる前に、手を上げて停めた。

「きょうは、散々な日でしたね」運転手は早速、そう声をかけてきた。彼がこの道路を何往復かしていつもより多い収入を得たであろうことが感じられた。たまにはこういう恵みがあっても罰があたらないだろうという感じだった。ぼくは返事をしながらも、なぜ咲子は来なかったのか心中でずっと考えていた。

 もし、来たらいっしょにファミリーレストランにでも寄って、夕飯をおごってもよいとも考えていた。しかし、ぼくの実家にいたからにはすでに済ませてしまったのかもしれない。それなら、少し高級なデザートを。彼女の恋は終わったのだから、甘いものをとって太らせてしまうのもぼくの責任にはならない。そんなことばかり想像していたら、空腹の合図が鳴った。運転手はそれを聞きとがめ笑った。それから、うまいラーメン屋の話をしてくれた。

 すれちがう車のなかに実家のものがないか無駄な視力をぼくはつかった。すべてを見られるわけではない。直きに家に着いた。料金を払うと、それほど残ってはいなかった。

 カギを開け家に入ると電気はついているがひとの気配がない。テーブルの上も、なにかをやりかけていたままの状況だった。ただ、テーブルに書き殴った父の字があった。癖があるな、とぼくは最後のしみのひとつであろうことを消せないでいた。

 咲子は車の事故に遭い、病院に搬送されたので、そこにお前も来い、という内容だった。ぼくはまたタクシーを拾い(国道に出るタイミングを失っていたさっきの運転手だった)、ぼくの様子が一変していることと行き先の名称で察しがついたのだろう一転して物静かな口調になった。

 咲子は寝ている。車は大破したと父が平衡を取るように物体のことを話した。せめて、この瞬間だけでも生身のことを忘れたいという願望の声だった。ぼくは、自分の若さがそこで同時に死んだことを知った。彼女が大学に入って東京での楽しみを伝えることを拒んだ自分は、あまりにも狭量だったと自分を憎んだ。さらに、この場面でぼくのずるい三重生活のための身代わりとして彼女は横たわっているのだと認識させられた。ぼくは終わらす努力をしなかったが、彼女がそれを引き換えに果たしたのだ。女性は大事にするものだと無言でプラカードを胸にのせ。

 ぼくから見れば、これは自殺でもあり、ぼくのための犠牲の捧げ物だった。早間から見れば、事故以外の何物でもないだろう。当然、遺書もない。ぼくが駅まで迎えに来てもらうようにしていた途中での事故だったぐらいだから。最後まで、彼は姿を見せなかった。彼女を送る儀式にも彼はどこにもいなかった。彼女はあの小川が見えるきれいな場所で生息することだけに向いている小鳥のようなものだったのだろうか。ぼくは、いつまでも早間を探し、探しつかれて、そう結論に到った。

Untrue Love(127)

2013年03月15日 | Untrue Love
Untrue Love(127)

 水曜の夜に電話があった。電話の声は早間のものだった。彼がこの番号を忘れていなかったことに、ささやかながら驚いていた。それに、彼がかけてきた目的が分かるような気がしたが、あえて促すようにも仕向けなかった。ぼくは、まだ知らない立場を取っているのだ。

「最近どうだ? 仕事、なれた」
「まあまあだよ。でも、どれだけなれたかどうかも日によって変わってくる」と、ぼくはその日の気持ちをそのまま言った。
「そうだよな。分かったと思ったら、また、知らないことが待っているだもんな」
「早間でもそうなんだ」成績もよく、何事にも戸惑ったりしなかった彼も同じだった。「そうだ、この前、紗枝に会ったよ」
「紗枝か、なつかしいな。どう、あいつ、元気だった?」

 彼にとっては、もう彼女は過去に所属する人間らしい。その範疇に咲子の存在も含まれて呑み込まれてしまうのも間近のようだった。
「うん、大人になっていた。どこと言っても困るけど、全体から放つ雰囲気がね」
「オレのこと、なんか言ってた?」
「とくには。新しい彼氏がいるとは言ってたけど」
「恋多きね・・・」
「早間もだろ」
「そうでもないよ。お前は?」

「きちんとした関係を築きたいと思っているけど、相手がどうかも、同じ風なのかも分からない」ぼくは、早間に対しても正直であろうと思っていた。しかし、正直になっていない部分も彼に対してだけでもなく、いろいろな場所と場面に多くあった。
「そうか、口にすれば済む話だと思うけどな。言って、うまくいくといいな」
「勇気がないんだろう、オレって」ぼくは、自分をそう把握していた。
「度胸とか、覚悟はオレ以上にあると思うけど」
「誰が?」
「順平がだよ」

 だが、ぼくは新たなきちんとした道を整備する覚悟もなければ、古い線路をそのまま放ったらかしにしていた。そのうちに廃線になり、駅も廃れる。ひとがいてこその町であり、人間関係でもあった。

 それから彼は自分の仕事の話をした。ぼくは友人たちが飛び込んだ社会がどういうものか比較するのにも材料が乏しく返答も窮した。ただ楽しい世界がありそうだと思いながらも、仕事なんかどっこいどっこいだともあきらめていた。ぼくはぼくの世界をただ美しくすればよいのだ。そのうちにその世界に、ひとりのきちんとした女性を呼び込む。そのひとりを多分、ぼくはすでに見つけているのだ。新たな道がないと感じながらも、やはり地道に舗装を整えようとしていた。いびつにならなければいい。限りなく平坦であればいい。早間や紗枝は、新たな土地を取得する勢いがあった。ぼくは土地だけはもう手に入れているのかもしれない。だが、三つの森に、それぞれ三つの稀にみる貴重な生き物がいた。誰かがブルドーザーで、そのうちの二つを破壊する準備をしている。エンジンはかかっているがドライバーはいない。黄色いヘルメットが座席にあり、それはぼくの頭のサイズにぴったりと合うようだった。だが、ぼくはそこに近付きもしない。咳き込むように大きく揺れる車体を止めるためにエンジンを切る働きかけもしない。そのまま、永遠に手を下さない限りガス欠になってくれそうもなかった。

「今度、じゃあ、オレの会社にも資料をもってきてみろよ」

 ぼくが自分の仕事を話すと、彼はそう言った。もう自分に何らかの決定権があるような口調だった。彼らしいといえばそう言えたし、いずれ、そう遠くないうちにそうなる予感も含んでいるのだろう。ぼくは、その小さな縁さえも切らないように決意をしていた。咲子のことはこころよく思っていなくても、やはり、ぼくは会社員でもいなければならない。成功は甘いとも思っていなかったが、苦さをすすんで甘受するほど希望を捨てるには、まだまだ早過ぎた。

「そうだ、言い忘れてたけど、咲子と別れたんだ。聞いてたか?」
「ううん、いま、はじめて」ぼくは平然とうそをつく。見破られる心配もないだろう。また、互いが隠し通す問題でもないのだ。「あいつ、なんか、お前に失礼なことをしたとか、傷つけるようなことをしたのか?」ぼくは、咲子が絶対にそんなことはしないだろうと知りながら、意地悪くそう問いたずねた。
「そんなことまったくないよ。オレが全部、悪いんだよ」

 ぼくは、こころのなかだけで、「そうだよ、お前がすべての責任をつくって、そこから、いつも軽い気持ちで逃げるんだよ」と怒鳴っていた。いや、違う、小さな重い声で叱責を加えていたのだ。「そんなことは、ないだろう。両者がいなければ、挨拶もできないし、恋もはじまらないし、別れも来ないんだから。一方的なものなんて、なにもないよ。中学生の美しい片思いだけで満足できる年頃でも身体でもないんだから」実際に電話を通じて話した言葉はそういうものだった。

「そうはいっても、こういう場合は男が悪いと決まっている」
「次はいるの?」

「まさか、いないよ」だが、きっともう明日にはデートの予定でもあるのだ。ぼくは彼を責めたいと思っている。だが、自分も似たような境遇にいるのだ。数人の女性の美しい部分だけを、ピンセットでつまむように採取しているだけなのだ。相手のすべてを受け入れることを望むほどの覚悟もせず、自分のすべてを押し付けて満足できるほど、愛を知ってもいなかった。その面では、早間も紗枝も正直という面から見れば、どう転んでも勝っていた。

「見つかるといいな、早間にも」
「あの子、傷ついていたらご免な。あんまり話さないと思うけど、なにかあったら慰めてあげておいてくれよ。オレは忘れないから、そうした恩を」と彼は最後に言った。ぼくは、時計を見て、それほど多くもないが家事をする時間があるかどうかを考えていた。

Untrue Love(126)

2013年03月14日 | Untrue Love
Untrue Love(126)

 昨夜は遅くまで紗枝と店にいた。寝不足を解消しようという意図もなかったが、目を覚ますと、もう日曜の半分は終わろうとしている。外は予想通り雨だったので惜しいという感覚もなかった。冷蔵庫のなかにある帰宅途中に買ったスポーツドリンクで眠気と渇きを振り払おうとしたが、なかなか難しかった。瞬時には物事は変わらないようだ。椅子のうえには脱ぎっぱなしの服が散らかっていた。ぼくは靴下を取り上げ、洗濯機のなかに入れようと放り投げたが、壁との狭い隙間に落ちてしまった。ぶつくさ言いながら拾い上げようとしたが、声自体がうまく出ず、のどの奥がからまっていた。それで、また飲み物をのどに流し込んだ。

 紗枝は多少、大人になり、早間の恋は終わった。ぼくに報告する義務もないが、知らないことに対してどこかに腹立たしさを感じていた。だが、知っていたとしても、どう変化するものでもない。別れるのを引き止める努力もしないだろうし、別れて正解だとも思っていなかった。ただ、紗枝が先に知っており、その情報を彼女の口からもたらされて驚いた自分に少しだけ抵抗があったのだろう。ある種の関係に無頓着になっているまぎれもない証明として。

 紗枝は誰を通して知りえたのかは教えてはくれなかった。無口な咲子がぼくに相談するわけもない。もしかしたら、髪を切りながらでもユミにだけは話しているかもしれない。だが、あさるような真似をぼくはしたくなかった。そして、この日曜の気だるい午後の真っ只中にいる自分は、それ以外のことも一切したくなかった。食指が動かないとはこのような状態を指すのかと、まだぼんやりと寝転びながら思っていた。

 テレビをつけて再放送の番組を見た。もし、自分にもこのように同じことをもう一度することができるとしたら、楽しいままの状態が保てるのか、それとも、直ぐに飽きてチャンネルを変えてしまうのか考えてみたが、答えはない。自分はしなかったことを恥じ、してしまって後悔を抱え込んでいるものもあった。いつみさんと土手でキャッチ・ボールをしたときの場面を是非とも再現したかった。それは不可能ではない。だが、降るのを忘れない雨がその考えを押さえ込ませた。

 木下さんと映画を見て、ささやかな幸せに浸かることも考える。物語は重要ではない。かえって映画はつまらなければつまらない程いいのだ。ふたりであきれ、その監督の才能のなさを笑い転げながら話す。いったい、何を訴えかけようとしていたのか? それでも、見所だったものを見つけあう。「あのポストの形、可愛かったね」と彼女が言い、ぼくは空に舞っている凧揚げの情景と自分の思い出を彼女に伝える。重力を意に介さず空中に飛ぶまで、誰かが後方でいっしょに走りながら持っていてくれる。支えるという、あれは美しい形なのだ。ぼくは、木下さんがそれを無心にしてくれる様子を想像する。

 ユミと洋服屋が並んでいる細い小道を歩くことも楽しそうだ。彼女は突飛なものと突飛なものを重ねて自然さに到る。それが彼女だった。彼女といつか南国のどこかのきれいな海のなかで不可思議な色の小魚を見ることを想像する。グレーとか沈んだ色はこの世界にはない。真っ赤なハイビスカスが外にあって、その横をぼんやりと歩く。その未来も望むもののひとつだった。

 ぼくには過ぎ去ったいくつもの美しい出来事があり、まだ見ぬ未来の甘い予感があった。咲子は、どのような過去を早間と作ったのだろう。それは、思い出すに値するものだろうか。もう、反対側の未来はきれいに費えた。物語は終わるようにできており、ガソリンのない車のようにいつか止まる。ドアを開け、その車を置き去りにする。運転席に誰もいない車を別の誰かが必要とするかもしれず、自分も道路に立ってヒッチハイクでもして目的地に向かわなければならない。

 気付くと、ベッドの上でもう一度、眠ってしまっていたようだ。テレビは夕方のゴルフに変わっていた。外の雨もまだ止んでいない。さすがに空腹をおぼえ、ぼくはストックしてあったレトルトの食品を棚のなかで見比べた。

 テーブルの上で頬杖をつき、食べ終わった食器を片付けないままテレビを見つづけていた。明日からまた働けばいまのぼくを占有しているこの考えも閉め出されてしまうだろう。紗枝と会った週末のことも遠くに感じ、早間と咲子の終わった恋のことをもう思い出さないかもしれない。ぼくは、また夏の旅行のことも考えた。ユミと、やはり南の方に行って、美しい景色や海中のなかさえも見ることがプランとしては最上のことに思えた。来週あたり、気が変わらないうちに電話でもしようと計画を立てる。彼女は喜ぶだろうか。それとも、他に予定があるので断る結果になるのだろうか。休みは簡単に取れないと言って計画が頓挫してしまうだろうか。それでも、この日曜に起こった唯一の前向きな考えをぼくは無駄にはしたくなかった。それを遮るものも、ぼくから奪い取ってしまうものも、この日曜の空気のどこにもなかったのでぼくは安心して、想像をふくらませた。

 一日、電話もならなかった。たずねてくるひともいなかった。会話らしい会話をぼくはしないまま一日を終えようとしていた。すると、自分の声というものがどういう類いのものであったのか忘れかけた。それで、試しにユミに電話をかけた。しかし、電子的なコール音を繰り返すばかりで、ぼくは自分の声を認めることができなかった。

Untrue Love(125)

2013年03月13日 | Untrue Love
Untrue Love(125)

「雨に濡れなかった?」と待ち合わせの店の奥にすわって待っていた紗枝が訊いた。ぼくは即答はせずに壁の時計を見た。待ち合わせの時間から一分ほどが過ぎていた。その時計が正確に調整されているならば。

「大丈夫かな。早く来てたの?」と言うぼくの眉には雨粒の感触があった。
「着いたばかりだよ。どうぞ」彼女は左手で座席をすすめる。

 彼女の考えとしては男性は必ず前にいて、女性を迎えるべきだと決めていた。もうこの時点で落第だ。だが、ぼくは彼女に良いところをアピールする立場にいない。いままでも今後も、まったく。
「遅れて悪いね」それでも、気持ちの入らない侘びだけは述べた。彼女は、それについてのコメントもない。
「仕事、もうなれた?」
「そこそこね」
「いつも、会社にへばりついているの?」
「そうでもないよ。いろいろ外回りもしている。紗枝は?」
「会社にずっといる、ガラスの窓から外をみるぐらい。でも、爽快。高い建物だから。やっぱり、身体を動かしてる方が楽?」
「そうだね。戻れば、否応なく頭もつかうから」
「お客さんの前でもでしょう。それでも、大人の顔になったよ。わたしは、どう?」

「社会人の顔。OL」
「彼女、できた?」
「さあ」
「いるといえば、いるし、いないといえば、いない」
「そういうところだね。紗枝はつづいているの?」彼女は大学の最後の年に新たな恋をはじめていた。
「ああ、あのひとはダメだった。いまは、別のひとがいる」
「そう、うらやましいね」
「でも、本心ではうらやましそうとも思っていないのが、表情から分かるよ」

「そうでもないよ」そう言って、ぼくは旅行の雑誌を立ち読みしたことを伝えた。どこかに、永遠の思い出となるような場所があるかもしれないと感じていた。恋が終わろうが、永久に関係がつづこうが、その場所を思い浮かべる度に、自分の輝けるあの日がよみがえってくるような場所。ぼくは、そこに誰かと行きたいと説明していた。紗枝は、黙って聞いている。
「お客さん、ご予算は?」と最後にまぜっかえして笑った。

 ぼくらはお小遣いではなく自分で稼いだお金でお酒を飲んだ。少なくとも紗枝はそうだった。ぼくはバイトをきちんと休まずしていたが、紗枝はそうでもない。継続して働くことに時間を費やす必要もない環境だった。だから、いまの彼女が新鮮にうつった。

「暇な土日なんだ?」
「そうかもね。昨日、アパートまで帰るのが面倒くさくなって実家に泊まったんだ。それで、今朝、部屋に戻って洗濯してたら、電話がかかってきた。今日も明日も実際のところ暇だったから助かったよ。紗枝は?」
「いつも忙しくしてる。でも、ふと順平の顔を見てもいいかなと思ったから」
「虫のしらせ」
「そういうの気味悪いよ」
「1月か、2月に働いてから会うって約束したような覚えもある」
「約束ってほど重いものじゃないけど、覚えてる。何か大事な用があったんだっけ?」
「思い出せない」

「わたしも思い出せないな」彼女は首を傾げた。そうすると、以前の幼稚っぽい彼女が戻ってくるようだった。いつみさんもユミも木下さんもそのようなことはしないとぼくは互いの仕草を照らし合わせていた。ひとによって、より好ましい表情があり、突き詰めれば癖とも呼べるような素振りだった。「あれから、誰かと会った?」
「特にはいないね。時間もなくなってしまったし」
「言い訳がましいセリフを口に出してばっかりいると、つまらないおじさんになるよ」
「怖いね」ぼくは奥から聞こえる歓声の方に顔を向けた。学生らしきひとたちが騒いでいるのだろう。ぼくはあちらにもう戻れない。かといって、ゴールも分からないし、つまらないおじさんにもなりたくはなかった。「紗枝だって、身繕いを忘れたら、急になるよ」

「何に?」
「男性の視線を自分に向けることができない女性に」
「ならないよ」
「なるよ」
「なる前に、格好良くてお金持ちを探しておくよ」
「そうしな。ぼくは両方、もってないけど」
「卑下したけど、そんなの嘘だと自分で思っている」
「思ってないよ。そうだ、紗枝は誰かと会ってる?」
「何人かの友だちと会って、ご飯を食べたり、買い物に行ったり」それから、複数の名前をあげた。その何人かの顔がなつかしく浮かび、何人かは思い出せなかった。そのうちの何人かは、はじめから知らないのだろう。「紹介して欲しくもない? きれいな子もいるのにね。ねえ、誰か、本気に好きなひとがいるんでしょう? どうして、言わないの」

 そのどうしてという意味が、自分になぜ言わないのかと対象を指すのか、どうして、その当人に言わないのかと理由を含んでいるのかの、どちらに重きが置かれた言葉か判断しかねた。しかし、追求する気もさせる気もなかった。どちらもしないのかもしれず、いつか、両方を一辺にするのかもしれない。
「紗枝に匹敵するほど可愛い子なら言いやすいけど」
「土日の休みぐらい、会ってもらったらいいじゃない」
「今度、そうするよ」
「そのときが来たら、わたしも呼んでね。先生が採点してあげる」

「うん」また歓声が聞こえた。酔いつぶれるまで飲まされたあの日々。木下さんと大人の雰囲気をもつ店にはじめて行った日。いつみさんと店以外ではじめていっしょに飲んだ日。それらの記憶がぼくの前に一直線上にあらわれた。数十年に一度の天体の奇跡のように、真っ直ぐと。しかし、紗枝のささやきにも似た声で我に戻る。
「あいつ、そういえば、順平の知り合いの子と別れたらしいよ」
「そうなんだ」紗枝があいつと言うのは早間のことだけだった。あまりにも密接な関係をおくった所為で、他人のときの名前を用いることができなくなってしまったのだろう。ぼくには、そういうひとがいるのか頭のなかで探した。「咲子、大丈夫かな。すると、よりを戻すことも可能になったわけだね。そうしたい?」
「バカみたい」と彼女は言ったが、本心かも分からないし、誰がバカと称されているのかも決め付けることができなかった。

Untrue Love(124)

2013年03月12日 | Untrue Love
Untrue Love(124)

 身支度をすませ、実家を出た。太陽がまぶしかった。アパートがある駅まで電車に乗るとなかは閑散としていた。楽な姿勢でもどれたが、身体はなぜか重かった。目にうつる土曜の午前中の商店街はのどかだった。ぼくは場違いなスーツ姿のままそこを歩いている。のんびりと犬を散歩させる老人がいて、店の前を掃いたり、水を撒いたりして準備をしている店員もいた。土曜のランチのお客をあてにしての行動だろう。だが、ぼくは今日も明日も予定がなかった。

 部屋にもどって洗濯機をまわした。待っている間に窓をあけて、ベランダとの境目に腰掛け、ビールを開けた。ただ、空は青かった。ぼくはそこでぼんやりとしながら実家にあった祖父の遺影を思い出している。最近になってもまだ見る彼の唯一の写真だ。本人はそれにしてくれと頼んだ憶えもない。家族が最終的に選んだものだろう。照れくさそうにしているまじめな顔。それは老人に近いということが相応しいものなのだ。少年や少女であってはいけない。だから、ぼくはそれを準備する必要も、選別される予定もない。誰も決して準備などしないものかもしれない。大慌てで決められるものだ。

 缶が空いて、洗濯機の終わりを告げるブザーが鳴った。その機械の行程は終わっても、こちらの作業はこれからはじまる。ぼくはベランダに自分の分身を干した。風と太陽にさらされ直きに乾くだろう。そうしながらも、ぼくはきょうの予定を考えあぐねていた。

 干し終えると電話が鳴った。不思議なことだが、鳴るまではぼくはそこにあることも忘れていた。急いだからか躓きそうになり受話器をとると、紗枝の声がした。

「休みのお昼にいるんだ? 夜までずっといるとか?」

 ぼくはありのままを告げる。見栄も虚勢もいらない知人がいることを思い出して嬉しかった。それで、夜に会う約束を取り付けた。だが、それまでの時間も長かった。ぼくは玄関にすわり、扉をあけて風を感じながら靴を拭いた。それは木下さんがくれたものだった。数ヶ月だけでその物体は新品であることを止め、ぼくの足の形を模倣した。さらに靴のかかとはぼくがいくらか傾いて歩いていることを告げていた。これも遺影になりえるものかと考えている。ぼくのある種の肖像。その用事もすぐに済む。それから、また部屋に戻って机の上に飾られたぼくといつみさんとキヨシさんと咲子の写真を眺めた。それはいなくなったひとたちの写真ではない。ある日の通過を記念してのスナップだ。髪型が変わり、服装が違っても、そのときの彼らはそこに存在しつづける。ぼくの過去もまたそこにいた。数ヶ月前の過去がだんだんと延びていく。ぼくはあの写真がなければ祖父の印象を薄めさせてしまうのかもしれない。だが、彼らにはその心配も杞憂だろうと思っていた。

 時間にはまだだいぶ早かったがぼくは家を出た。洗濯物はもう乾いていてすでに取り込んでたたんでおいた。その代わりに空は梅雨らしいものになってしまった。明日の日曜は雨なのだろう。きっと、一日家にいて過ごしてしまうことが予想された。冷蔵庫の食料を思い浮かべ、今日の帰りになにかを買い足しておこうと決めた。忘れなければだけど。紗枝と会って、ぼくは楽しい気持ちを抱くだろう。数ヶ月ぶりにあって、どう印象は変わったのだろうか。世間の波を浴びることによって、彼女に大きな変化を及ぼすとも思えなかったが、それなりに大人になっていくのだろう。その回答も間近だった。

 待ち合わせの場所に着くと、雨がぽつぽつと降ってきた。ぼくは傘を広げた。半数ぐらいのひとは持っていなく、ビルに駆け込むひとや、駅の屋根のある入り口に向かうひともいた。ぼくはまだ時間があったので本屋で強まりだした雨を避けることにした。入り口付近の足元の目立つ台には夏の旅行をすすめる雑誌が多く並んでいた。ぼくは行き当たりばったりに一冊を手にする。そこの土地で楽しむ二、三日のプランや大体の予算を見た。払えない額ではない。二倍にしてもそうだった。しかし、予定を合わせることからはじめなければならない。それよりもっと重要なことはぼくはいったい誰を選ぶのであろうかという自分の意思だった。そのひとに断られたら、次はあのひとにしようという問題でもなかった。ぼくは、誰かに訊ね、了承か却下のどちらかを受け止めるべきなのだ。それで、断られたら終わり。そういう簡単な結論を求める時期だった。だが、その選択がいちばん難しかった。先延ばしにすればするほど、ぼくには不可能の分量が増していく気がした。

 自分が誘うだけではない。もし、誘われたとしたらどうだろう。きっぱりと断るのだろうか。もう、学生ではないのだとぼくはその本屋で発見する。遅いかもしれないが、それが事実だった。均等ではない複数の柱をつかってぼくは家を建てようとしているようだった。小さくても、短くても、ひとつの柱を選んで家をきちんと建てようと願うべきだった。そう思いながらぼくは雑誌をもとの場所に戻した。また手にとって、ページをめくればその場所で楽しんでいるぼくと意中の誰かの写真があってほしかった。それがぼくの答えであるべきなのだ。他人任せのなにものでもないが。ふと、壁を見ると時計の時刻は待ち合わせの時間の直前になっていた。彼女はひとりで待つことを嫌った。それをさせないためにぼくは急いで店を出て、傘を差すことも忘れて、走って目的地まで人波を掻き分けて向かった。