夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(33)
ぼくらは玄関で児玉さんを見送る。となりの家の前では久美子が父の車の洗車をしていた。
「先生のまわりには可愛い女性がたくさんいるのね」と、児玉さんは言い残して去った。久美子もいつか児玉さんぐらいの年齢になったときに初恋の男性に会いたいと思うのだろうか。金魚すくいの名人。いや、その少年がずっと横にいる生活だってありえるのだ。
「洗車か、偉いね」ぼくは素朴に働く女性は美しいものだと思っていた。
「クラスのひとですか?」久美子はまだ見えた児玉さんの背中を目で追い、そう訊いた。「先生と呼ばれていたから。これね、これをするとお小遣いにもなるし、それに、もう少しでわたしも乗れるんです」
「そうか、もう免許を取る年齢になるんだ。あの小さな女の子がね」
「また、それを言う」彼女はホースの水をこちらに向けた。だが、ぎりぎりでぼくらにはかからない。
「車の免許。そうだ、パパは免許もなく本を書いているんだったよね」
「大体の行いは、そういうもんだよ。義務教育といって、由美も学校に通わなければならないし。義務と忍従」
「いつか、わたしもなんかの免許を取れる?」
「それは、宿題もきちんと、たくさんすれば取れるよ」
「また、それを言う」由美は久美子の口調を真似た。
ぼくらは、しばらくして日課の公園までの散歩に行く。水沼さんが日陰のベンチに今日もいる。
「ハロー、由美ちゃん」由美は照れくさそうにして、それには答えなかった。普通に日本語でこんにちは、と直きに言った。それから、
「きょう、パパのところに女のひとが、本の生徒が来たんだよ」と付け加えた。
「まあ、やらしい。うらやましい」
「でも、おばちゃんなんだよ」
「わたしとどっちがおばちゃん?」
「たっくんのママのがうんと若い。学校にくるママたちのなかでいちばんきれいだし」
「由美ちゃんは口がうまいのね」感心したように水沼さんは微笑む。
「パパ、口がうまいって、なんのこと?」
「ひとを褒めるということだよ。お世辞ともいうし、二枚舌」
「パパは、言葉に対して誠実なのか、たまに失礼になるのよね」水沼さんは少女のようにふくれた。彼女も初恋の男性に会ったりしたいと思っているのだろうか。ぼくの妻も?
マーガレットは自分の像のためにかしこまった姿勢から開放されると、いつも以上によくしゃべっていた。テーブルでお茶を飲みながらレナードのスケッチ・ブックに描かれた新しいものを見ては単純に褒めた。
「誰でも、紙と描くものがあれば、できるんですよ。それを止めるものはなにもない」
「だって、誰でも、こんな風にはうまく描けないでしょう?」
「うまく描く必要がありますか? 自分の内面の思った通りのそのままが表現できる方が大切ですよ」
「そこに到達するまでには、でも、長い訓練が必要になるのでしょう?」
「好きなことを毎日、こつこつとただつづけるだけですから、訓練だとも、ましてや苦難なんて思っていない」レナードはそう口にしながらも、支援者や協力者がもっといてくれたら、自分の才能も花開くのが早まるのになとも思っていた。だが、それは別の問題でもあるようだった。いまは、やはり自分の才能を見極め、こつこつと積み上げていこうと考え直した。
「毎日、するほど絵が好きではないな」と、マーガレットは自分の真情を吐露する。
「じゃあ、なにがいちばん?」
そう質問されてもマーガレットには正解も、うまい返答もでてこなかった。だから、もう一度スケッチ・ブックに目を落として、その質問をなかったことのようにした。しかし、それはいつまでも風化しないだろうという気持ちもあった。生きている限り、その答えを見つけなければならない。目の前にいるレナードは既に見つけている。ケンやエドワードは何に対して一本気でいられるのだろう。母は、どうなのだろう? 結婚以外に自分のしたかった、追い求めるべき何かがあったのだろうか。しばらく目をつぶってマーガレットはそう思案していた。
「子どもの目は美しいものを感じ取り、それを素直な気持ちで打ち明ける」と、ぼくは水沼さんのベンチの横にすわって、独り言のように口に出した。「それを率直に毅然と受け入れるのが大人の役目なのでしょうね?」
「遠まわしに謝っているんですか?」水沼さんのふくれっ面は、もうなくなっていた。
「謝るもなにも、学校に来るママたちのなかでいちばんきれいなのは水沼さん、ただひとり」
「奥さんじゃなく?」
「ぼくにとっては、彼女」
「それが、二枚舌じゃないの?」
「そうでしょうかね」ぼくは、ぼんやりと空を見上げる。空も美しいし、雲も美しい。雨もさわやかさをもたらすものであれば、虹も美しい。美しくないのは不信の念だけなのだ。「口がうまいと言われた由美の今朝は、ケーキをうまいと思った。お客さんがもってきてくれたんですけどね」
「家まで来られるんですね。書き方のご相談?」
「書き方というより、対象との接し方。取材とでもいうんでしょうかね、インタビューとでもいうんでしょうかね」
「なんだか、遠まわし。もったいぶっている」
「水沼さんは、誰かにもう一度会いたいなとか思うひとっていますか?」
「思わないひとなんているの?」
ぼくには不思議と思い付く人間が念頭になかった。会いたくない人間なら数名いた。いや、もっといた。反対に自分のことを、どこかで慕いつづけているひとがいるのだろうか。ぼくの熱烈なるファン。次回作を喉から手が出るほど待っている。それを想像しようとしたが、散歩に連れて行けとジョンに頼まれているのが本当のところのようであった。
ぼくらは玄関で児玉さんを見送る。となりの家の前では久美子が父の車の洗車をしていた。
「先生のまわりには可愛い女性がたくさんいるのね」と、児玉さんは言い残して去った。久美子もいつか児玉さんぐらいの年齢になったときに初恋の男性に会いたいと思うのだろうか。金魚すくいの名人。いや、その少年がずっと横にいる生活だってありえるのだ。
「洗車か、偉いね」ぼくは素朴に働く女性は美しいものだと思っていた。
「クラスのひとですか?」久美子はまだ見えた児玉さんの背中を目で追い、そう訊いた。「先生と呼ばれていたから。これね、これをするとお小遣いにもなるし、それに、もう少しでわたしも乗れるんです」
「そうか、もう免許を取る年齢になるんだ。あの小さな女の子がね」
「また、それを言う」彼女はホースの水をこちらに向けた。だが、ぎりぎりでぼくらにはかからない。
「車の免許。そうだ、パパは免許もなく本を書いているんだったよね」
「大体の行いは、そういうもんだよ。義務教育といって、由美も学校に通わなければならないし。義務と忍従」
「いつか、わたしもなんかの免許を取れる?」
「それは、宿題もきちんと、たくさんすれば取れるよ」
「また、それを言う」由美は久美子の口調を真似た。
ぼくらは、しばらくして日課の公園までの散歩に行く。水沼さんが日陰のベンチに今日もいる。
「ハロー、由美ちゃん」由美は照れくさそうにして、それには答えなかった。普通に日本語でこんにちは、と直きに言った。それから、
「きょう、パパのところに女のひとが、本の生徒が来たんだよ」と付け加えた。
「まあ、やらしい。うらやましい」
「でも、おばちゃんなんだよ」
「わたしとどっちがおばちゃん?」
「たっくんのママのがうんと若い。学校にくるママたちのなかでいちばんきれいだし」
「由美ちゃんは口がうまいのね」感心したように水沼さんは微笑む。
「パパ、口がうまいって、なんのこと?」
「ひとを褒めるということだよ。お世辞ともいうし、二枚舌」
「パパは、言葉に対して誠実なのか、たまに失礼になるのよね」水沼さんは少女のようにふくれた。彼女も初恋の男性に会ったりしたいと思っているのだろうか。ぼくの妻も?
マーガレットは自分の像のためにかしこまった姿勢から開放されると、いつも以上によくしゃべっていた。テーブルでお茶を飲みながらレナードのスケッチ・ブックに描かれた新しいものを見ては単純に褒めた。
「誰でも、紙と描くものがあれば、できるんですよ。それを止めるものはなにもない」
「だって、誰でも、こんな風にはうまく描けないでしょう?」
「うまく描く必要がありますか? 自分の内面の思った通りのそのままが表現できる方が大切ですよ」
「そこに到達するまでには、でも、長い訓練が必要になるのでしょう?」
「好きなことを毎日、こつこつとただつづけるだけですから、訓練だとも、ましてや苦難なんて思っていない」レナードはそう口にしながらも、支援者や協力者がもっといてくれたら、自分の才能も花開くのが早まるのになとも思っていた。だが、それは別の問題でもあるようだった。いまは、やはり自分の才能を見極め、こつこつと積み上げていこうと考え直した。
「毎日、するほど絵が好きではないな」と、マーガレットは自分の真情を吐露する。
「じゃあ、なにがいちばん?」
そう質問されてもマーガレットには正解も、うまい返答もでてこなかった。だから、もう一度スケッチ・ブックに目を落として、その質問をなかったことのようにした。しかし、それはいつまでも風化しないだろうという気持ちもあった。生きている限り、その答えを見つけなければならない。目の前にいるレナードは既に見つけている。ケンやエドワードは何に対して一本気でいられるのだろう。母は、どうなのだろう? 結婚以外に自分のしたかった、追い求めるべき何かがあったのだろうか。しばらく目をつぶってマーガレットはそう思案していた。
「子どもの目は美しいものを感じ取り、それを素直な気持ちで打ち明ける」と、ぼくは水沼さんのベンチの横にすわって、独り言のように口に出した。「それを率直に毅然と受け入れるのが大人の役目なのでしょうね?」
「遠まわしに謝っているんですか?」水沼さんのふくれっ面は、もうなくなっていた。
「謝るもなにも、学校に来るママたちのなかでいちばんきれいなのは水沼さん、ただひとり」
「奥さんじゃなく?」
「ぼくにとっては、彼女」
「それが、二枚舌じゃないの?」
「そうでしょうかね」ぼくは、ぼんやりと空を見上げる。空も美しいし、雲も美しい。雨もさわやかさをもたらすものであれば、虹も美しい。美しくないのは不信の念だけなのだ。「口がうまいと言われた由美の今朝は、ケーキをうまいと思った。お客さんがもってきてくれたんですけどね」
「家まで来られるんですね。書き方のご相談?」
「書き方というより、対象との接し方。取材とでもいうんでしょうかね、インタビューとでもいうんでしょうかね」
「なんだか、遠まわし。もったいぶっている」
「水沼さんは、誰かにもう一度会いたいなとか思うひとっていますか?」
「思わないひとなんているの?」
ぼくには不思議と思い付く人間が念頭になかった。会いたくない人間なら数名いた。いや、もっといた。反対に自分のことを、どこかで慕いつづけているひとがいるのだろうか。ぼくの熱烈なるファン。次回作を喉から手が出るほど待っている。それを想像しようとしたが、散歩に連れて行けとジョンに頼まれているのが本当のところのようであった。