爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(98)

2011年08月28日 | 償いの書
償いの書(98)

 笠原さんが新婚旅行から帰ってきた。そして、もう笠原さんではなく高井さんだった。でも、なぜか、ぼくは急に呼び方を変えることができず、笠原さんと言い続けた。彼女もそのままの呼び方で抵抗がないようだった。
 ぼくは、仕事が終わり、彼女と待ち合わせをする。年下の女性の友人という存在にぼくは次第に慣れていった。そして、掛け替えのないものとなった。
「これ、お土産」

 何が入っているか分からない四角い包みを手渡してもらった。重みを感じても、中身までは想像が到達しなかった。
「そんなに気を使わなくてもいいのに。でも、ありがとう。どうだった、旅行?」
「楽しかったけど、喧嘩もした」ぼくは、その情景を思い浮かべる。彼女はふてくされ、彼がなだめている。いや、逆に彼が表情を冷たくして、彼女が取り繕うとしている。
「そんなもんだよ。でも、いまは?」
「元に戻った。仲直りもできた。近藤さんもした?」

「したと思うけど、ぼくの嫁は優しい人間につくられているから」
「わたしが、優しくないみたいじゃないですか」彼女は、不服な顔をする。
「普通は、喧嘩ぐらいするよ。心配しなくていいよ」
「近藤さんは、裕紀さんに引け目を感じている。いや、負い目って言うの?」
「いつから、精神分析もできるようになったの?」
「あれじゃ、ちょっと淋しがるようなことがあるんじゃないですか?」
「そう? 分からないな」

「過去に別れたって、自分のことがいちばん好きだとはっきり言ってもらえれば、それだけで、幸せに、もっと、幸せになれると思うけど。言えない、なにかのひっかかりがある?」
「誰かが言ってた?」
「上田さんや智美さん」ぼくは、そのように振る舞い、そのように自分を定義されていることに唖然とした。「わたしは、詳しいことは知らない」
「どうやったらいいかは?」

「もっと手荒く扱う。壊れ物をそっと手の平に乗せているような印象があった」
「実際に、ぼくは慎重にしているし」ぼくは、自分のこれまでの人生を償いという部分に当てはめ、閉じ込めてきてしまったことを彼女から知らされた。それには、どうも限界があるようだった。ある部分では自然ではなく、ある部分ではこころのなかの思い出でさえ隠すように訓練していたのかもしれない。
「慎重すぎる」

「じゃあ、笠原さんたちが夫婦愛を成長させていくように、ぼくらもお互いの関係をもっと深く強いものにさせるように働きかけていくよ」彼女は、旅行中の自分の喧嘩を忘れていくようだった。思い出は忘れるものであり、ぼくは何人かの女性との思い出を、こころのなかでは成長させてしまっていた。それは、自分の性分のようでもあり、他の目から見れば、ぼくと裕紀の狭間につまっているような印象を与えていた。ぼくは、裕紀を捨て、雪代を選んだ。その自分の行動のため、必要以上に裕紀のことをいたわるように大切にした。それが過保護な関係を作ってしまったらしい。

「そう、しましょう」
「笠原さんは、ぼくに、いろいろなことを教えてくれるんだね」
「そうですよ。大好きですから」
「結婚した人は、そういう言葉を軽々しく使うもんじゃないよ」
「いいじゃないですか、近藤さんが大好きです。照れます?」
「まあ、それは。何かおかわりしようか?」ぼくは、話をそらす。いままでの話題をあたまのなかで再検討するが、それは、どれも周りの目から見たぼくと裕紀との関係だった。裕紀自身の言葉ではなかった。それを確かめるには本人に訊けば、いちばん良いとも思うが、それが正確なものか、もしかしたら他人の目のほうがきちんと情報を正確に処理しているのかもしれないとも思った。

 ぼくは、家に帰り裕紀に訊く。
「笠原さんからお土産をもらった」
「そう? 何かしらね、中身」
「ぼくは、裕紀に素っ気なかったかね」
「どうしたの、急に」
「彼女たちは、新婚旅行で喧嘩をした」
「緊張したのや張り詰めていたここまでの数ヶ月のたまったものが解けて、小さな爆発をしたんでしょう」
「裕紀も過去にそう思った?」
「わたしは、正直言うと、ひろし君はまたいつか別の女性を好きになってしまうという心配があった」
「ごめん」

「謝ることないよ。これは、わたしの問題。越えるべき問題。結婚しても最初のうちは不安だった」
「でも、言わなかった?」
「言ってしまえば、そうする可能性を誰かが嗅ぎ取ってしまうという恐れがあった」
「誰が?」
「誰か、それは分からない。何か、神秘的な意味で。でも、いままでは、こころを持っていかれてしまうようなことはなかったように思う。そうなんでしょう?」
「そうだよ」
「なら、いい。忘れて」
「ぼくが素っ気なかったという質問は?」
「そんなことないよ。充分もらった」
「なにを?」

「愛情みたいなもの」愛情みたいなもの? それは、愛情なのか、それとも、もっと違うものなのか。ぼくは、笠原さんのお土産を開ける裕紀の手元を見ながら、もしかしたら、その箱のなかにその答えが隠されているような期待をもった。

償いの書(97)

2011年08月26日 | 償いの書
償いの書(97)

 そして、笠原さんも結婚した。ぼくは2次会のパーティーに呼ばれ、着飾った裕紀と出掛けた。そこには笠原さんの職場の先輩であり、ぼくのラグビー部時代の先輩の上田さんも妻の智美といた。

「久し振り、裕紀、痩せたね。逆にひろし、太ったね」と、智美は率直な感想を言った。ぼくはお腹の部分を触り、裕紀は首を垂れ、自分の全身を見ようとした。それから、ぼくの方を向き、ぼくの腕を両手で一周させた。

「ぼくが苦労をかけるから、痩せたんだよ」
「そんなの、嘘だよ」と、裕紀はいつものように否定する。
「笠原がお前に感謝していたよ」
 ぼくは、その存在を探そうとした。部屋の奥のほうで、若い女性たちの華やかな歓声がきこえ、その真ん中にいることを目でみつけた。

 ちょっと離れたところには、花嫁を射止めた高井君がいた。彼の学生時代の友人たちなのだろうか、図体の大きな男性が数人いた。ぼくは、智美と話している裕紀と離れ、そちらに向かった。
「良かったね、今日は」
「あ、近藤さん。ほんとに、ありがとうございます。みんな、近藤さん」
 彼らの何人かは、ぼくのことを知っていた。同県でラグビーをしていた人間のなかでは、ぼくの評判は高かった。
「河口さんと付き合ってた」
「そう、その通り。でも、もっとラグビーで君らを苦しめた存在で呼ばれたいね」
 そこへ、裕紀もこちらに近寄ってきた。
「高井さん、良かったね」
「近藤さんが会わせてくれたお陰です」

「ラグビーのスタンドにいましたね、以前。思い出しました」別の男性がいった。若い男性は、どこでもきれいな存在を見つけようとする。そこに裕紀がいて、ぼくらの感情に当てはまったわけなのだ。
「もう、ずっとむかし。半分のころ」裕紀は、なにかを思い出したかのように言った。ぼくらは、あれから倍も生きたのか。ラグビーで身体をぶつけ合った少年たちもきちんと家庭を作るようになる。
「こんなきれいな奥さんがいるから、余裕で笠原さんみたいな子を紹介できるのか」と、別の男性も感想を言う。「ぼくにも誰か、紹介してくれません?」
「うん、いいよ」ぼくは安請け合いをするが、そんな機会が来ないことは、両者が知っていた。裕紀だけが、そこを離れるときに、

「ほんとに?」と心配げに訊いた。
「いや、社交辞令だよ。ぼくには何のリストもない」と、両手を振って潔白であることを証明するような仕草をした。

「笠原さん、良かったね。きれいだよ」ぼくは小走りに寄ってきた彼女にそう伝えた。本当に彼女は輝いていた。その輝きは永遠のものだと思いたかった。だが、今日が輝けるピークであるかもしれないとも思っていた。子どもの誕生がいつかあるかもしれず、その子が成長するのを妨げることができない以上、ぼくらはいずれ下降する。体力や気持ちの衰えがあり。
「あのとき、失恋の悩みをきいてもらった近藤さんに感謝しています」
「そんなことあったの?」と、裕紀は記憶のなかを模索するような表情をした。
「そういえば、あったね。でも、こんな未来がきた」
「悩みをきいてあげた?」裕紀は、それに拘った。

「あとで、説明するよ。誰かに打ち明けないと、次のステップに行けないことが多い」
「わたしも、誰かにひろし君との思い出を聞いて貰いたかった。もっと、たくさんのひとに」
 笠原さんは困ったような表情をして、隣のひとと話し出した。彼女の親戚らしかった。そして、ぼくらとの距離が段々と開いた。
「ごめん、するべきことはしなくて、しなくてもいいことをたくさんした」
「別にいいんだよ。わたしたちのときも思い出すね」
「輝ける日」
「わたしと結婚してよかった?」
「良かったよ。もちろん。なにと比較してもいいのか分からないし。裕紀は?」
「わたしも高校生のときに大好きだったひとと結婚できた。彼のある日をしらないけれど、物語としては最高の部類でしょう。失ったものを探す旅」

 その裕紀の口から漏れ出た言葉は、映画のストーリーのようだった。しかし、失うことをしたのは、世の中の悪のせいでもなく、ただのぼくの心変わりだった。彼女にまったく罪はなく、探さないという結論を下すこともできた。そうするとぼくのこの10年近くなった幸福はなかった。ぼくは、一体、誰を選べばよかったのだろう?
 そこに少し酔ったラグビー部員だった青年が寄ってきた。
「近藤さんとゆうきさん」
「そうだよ」
「ラグビーでも一流だったけど、女性に手を出すのも一流だった」
「ちょっと、失礼だけどね」ぼくは、怒った方がいいのか、笑った方がいいのか、決めかねる表情で答えた。「そういうなら、一流の女性を選んだ、と言って欲しいね」

「すいません、憧れの裏返しです。評判の可愛い子が、近藤さんにスタンドで笑顔を見せていた。ぼくらにはしてくれなかったし、ラグビーでも敵わなかった。なんだか、ずいぶんと差があるような気がしてました」
「そこまで言うと納得するよ。これでも、懸命に練習したからね」
「でも、応援してくれるひとは、少しぐらいはいたんでしょう?」裕紀は酔った客をなだめる店員のような表情で優しくきいた。
「すこしはいましたけど、平凡さをパッケージしたような子でした」
「普通の子がいいのよ。そういう子と長くずっと」

 ぼくらは、当然のように長く居続けることができなかった。その平凡な関係を根底から崩したのは自分であった。ひとが結びつく運命の場にいると、ぼくは思索することが多くなった。だが、ぼくと裕紀はふたたび会い、長く暮らしてきたのだ。それも、また運命であり、物語の成り立ちとしても理に適っているような気がした。

償いの書(96)

2011年08月21日 | 償いの書
償いの書(96)

 体調が優れないという裕紀を置いて、ぼくは、大きな駅までゆり江を見送りにいった。彼女の大き目のバックを代理でぼくは持っている。その重みは、ぼくらの過去の重みなのだと考えようとした。
「最近、多いんですか?」ゆり江は裕紀の体調を気遣った。
「いや、昨日、はしゃぎすぎたんじゃないの」
「ごめんなさい」
「謝ることないよ。あんなに楽しそうに振舞っていたんだから、生活に彩りがあって」
「ひろし君は、いつも平気なんだね。わたしと会うとき」
「平気じゃないよ、もちろん」
「顔にも出さない、変化を」
「ラグビー部のキャプテンで訓練されたんだよ。焦らないこと、動揺を見破られないこと。これでも、弱小チームを強く引っ張っていった自負がある。ぼく自身も勝てないと思っていることを探られたくなかった」その微細な動きでぼくらの特色は全滅する恐怖があった。チャレンジ精神を崩壊させるもの。その恐れ。
「そうか」
「そうだよ」

「そして、わたしはいつも二番手」ぼくは、彼女の顔を見る。彼女の瞳はあのときのままだった。ぼくはそれに見詰められると、自分の平常心が崩れる恐さがあった。あの少女をぼくは無下に苦しめていたのだ。未来が必要な時期に、安定した未来を求めている女性に、ぼくはその場しのぎの嘘の楽しさしか与えられなかった。
「ごめん、ほんとにごめん」
「責めてないよ。わたしはあのときのことを思い出すのが大好き。裕紀さんを苦しめられたひとと共に過ごす時間にも快楽を覚えていた。それも、嘘。ひろし君が、あのときのひろし君が好きだった」
「ぼくも、そう言えたら良かったのにね」
「でも、言わなかった」
「でも、言わなかった」

「ひろし君も自分自身を許していいよ。勝手に好かれて、勝手に捨てたとでも思えば。できないだろうけど」
「戻ったら、仲良くやれる? 旦那さんと」
「喧嘩と言ったって、東京に遊びにいったぐらいに思っているよ。それに、わたしもあそこしか帰るところはないからね。10年も前に戻って、ある男性を無理にでも奪える機会もないし、その実力もないし。元気でね、ひろし君」
「ゆり江ちゃんも。また、来るといいよ」
「今度は爆弾発言をするかも」
「しないよ」

「いや、するね」と言って、笑って彼女は改札を抜けた。バックは思ったより重そうに映っている。ぼくは支えることもできず、昔も支えてこなかった自分を恥じている。裕紀とゆり江が親しい関係を続ける以上、ぼくらの関係は内緒のままであり、また仮面のようなもので自分のこころを隠して接するしか方法はないのだろう。

 休日だったので、ケーキを買って家に戻った。裕紀はベッドで寝ていた。だが、直ぐに目を開け、こちらに歩いてきた。

「大丈夫? 身体」
「ごめんね。わたしも送りたかった」
「駄目だよ。ぼくらふたりで大事な話もあるから」
「奥さんが病気で寝込んでいる間、逃亡するとか?」
「そう。メキシコへの国境を越えて。ふたりは質素ながらも新しい生活を作る」
「絶対に、追いかけるよ」
「ぼくらは、コロンビアやアルゼンチンまで逃げる」彼女は不安そうな顔をする。
「嘘でしょう?」

「嘘だよ。誘ったけど、断られた。向こうで、大切な旦那さんが首を長くして待っている。それで、ぼくは泣きながらケーキを買って、嫁のもとに戻ってきた。そんなことがなかったように。パスポートはあった場所にこっそり入れとくよ」彼女に笑みが戻る。自然な赤みが頬に浮かび、健康そうな表情になった。
「子どもでもいれば、ひろし君はベッドで物語を永遠と紡ぎ出せるパパになれたよ」
「コロンビアに逃げる話を、子どもに?」
「それとは、別の話」彼女はパジャマ姿で裸足の足の裏を見せていた。アクセサリーも何もなく、髪は乱れたままだったが、ぼくはその姿も愛していたのだ。永遠という時間の感覚がそこにはあった。そう思いながらも、この瞬間にしかないものも確かにあった。

 窓から風が入り、カーテンが揺れた。遠くで電車がレールの上をすべるような音が聞こえた気がした。それとは違う電車に乗っているひとりきりのゆり江を思い浮かべた。なぜ、彼女はここに来る気になったのだろう。もちろん、裕紀とは友人だし、東京にそう知り合いが多いわけでもないが、ぼくはその問題を探ろうとした。それから、トイレに行くと、脱衣所にはゆり江が着たであろうパジャマがあった。ぼくは横目でそれを見て素通りした。トイレから出ると無意識にか、こらえ切れず触ってしまった。

「雪代さんのところに帰らないで」と、一度だけ若い彼女は言った。ぼくはその自分勝手な聞き分けのない言い草に腹が立った。だが、もちろん、自分勝手なのはぼくだった。どうにか、慰めたりして家に戻った。雪代は素敵なままでぼくの数時間前のことを知らない。それ以降、ゆり江は、そうした言葉を出さなくなった。犬が飼い主に叱られることをしなくなったように、口を閉じた。

 ぼくは、そのときより鮮明に彼女のこころの動きが分かるような気がした。そして、過去の自分もゆり江の態度も許そうとした。
「何時ぐらいに着くのかな?」
「あと一時間ぐらいじゃないの」その時間だけ、ぼくらは遠くなり、また過去も一時間遠くなる。遠くなっても、ぼくは思い出し、反省し、消せない過去があることを猛省する。

償いの書(95)

2011年08月20日 | 償いの書
償いの書(95)

「ゆり江ちゃんが東京に遊びに来た」
「また、なんで?」ぼくは、その名前をきくと、かすかな動揺が体内に起った。
「旦那さんと喧嘩して飛び出してきちゃったんだって。無鉄砲」
「それで」
「説得して帰るように言った」
「一日ぐらい、泊まればいいのに」ぼくは、その子に会いたかったという自分の気持ちを押し殺しながらも、そう言ってしまった。「そうすれば、反省するでしょう、相手も」
「そうかな。わたしたちも喧嘩するのって、訊かれた」
「それで?」

「それでばっかりだよ。わたしの旦那さんはできたひとだから、喧嘩しないと言っておいた」彼女は、本気でそう思っているのかと勘繰った。ぼくは、できてもいないし、優しさに溢れているのは裕紀の方だし、そして、実際には、無論、ぼくらも喧嘩をした。「いいひとと、結婚できて良かったですね。わたしも、ひろし君みたいなひとと結婚すればよかったと言われた。それで、でしょう?」
「うん」

「わたしが先にいなくなるか、ひろし君がわたしを嫌いになったら、そうしなと言った。じゃあ、そうすると返された。憎らしい口調で」しかし、笑って言った彼女には、憎しみなどは微塵もなかった。「会いたかった?」
「まあ、少しはね」
「きれいになったよ」
「そうだろうね」
「好きだった?」
「なんで?」
「なんとなく」
「だって、妹の友だちだよ。幼すぎる」

「それは、昔でしょう。いまの2歳の差なんて、関係ないでしょう」
「だから、昔は幼いと言ったんだよ」
「いまだったら、分かんない?」
「なんか、しつこいよ」
「わたしたち、喧嘩しないと言ったのに」
「ごめん、ただ、ぼくたちの結婚が何年つづいたと思ってるんだよ」

「そうだね。でも、会いたかった?」と言って、彼女は笑った。「ほんとは、いるんだよ。ゆりちゃん」と言うと、隣の部屋のドアが開いた。「びっくりした。わたしたちも喧嘩するんだよ。証人になって」
「こんばんは」と言って、その子はでてきた。それは驚きだった。「帰ろうと思っていたんですけど、裕紀さんが一日ぐらい居れば、としつこく迫ったので、なんとなく、こうして。迷惑でした?」

「全然。いてもいいよ」
「きれい、きれいと言われたら出にくいのに」
「でも、きれいだもん。ひろし君も好きになるでしょう」
「前からきれいだよ」ぼくは、無防備さの方が、逆にたくさんの感情を隠せるような気がした。
「わたしの旦那は、前より冷たくなった」

「多かれ少なかれ、誰でもなるよ」ぼくらは立ったまま話していたが、椅子のあることに気付き、ゆり江を座らせた。
「ひろしさんもなった?」
「なったような、なっていないような」
「冷たくなってないよ」と裕紀は即座に否定した。

 ぼくの感情は多くのことを望み、また多くのことを消化しようとしていた。もし、仮に裕紀も雪代もいない世界があるならば、ぼくはこの子を選んでいたのだ。その選択は、しかし、絶対に起ることもないのだ。なぜなら、ぼくの前には裕紀と雪代がいたからだ。

「喧嘩は大丈夫なの?」
「大したことないんです。戻れば、また、いままで通りになります」
「小津映画みたいだな。我慢して、戻ってらっしゃい」
「わたし、ずるいんです」

「ゆり江ちゃんがご飯、作ってくれた。ねえ、食べましょう。ひろし君も違った味付けも食べたいでしょう?」
「そうだね」ぼくは冷蔵庫の前にすすみ、ビールを取り出し、グラスを3つ食器棚からテーブルに並べ、液で満たした。「喧嘩は、本来、愛情であるべきなんだよ」と、どうでもいいことを言って注ぎ終わった。「では、淋しい旦那さんのひとりの夕食に。ぼくの前には美女がふたり」ぼくは、なんとなくおどけないとやっていけなかった。彼女らもグラスを持ち上げ、口をつけた。そのふたりは、期間の差こそあれ、ぼくと関係のあったひとたちだった。高校生の裕紀が先ずいて、ぼくらは別れ、ぼくは愛する交際相手がいながらもゆり江と恋をしていた。彼女もいなくなり、裕紀と東京の真ん中で再会した。ぼくは、その自分に起った時間の流れをビールの酔いに手伝わせながら、反芻していた。悪くない人生じゃないか。
「おいしいね」
「わたしの旦那は、なにも言わない」
「ぼくだって普段は言わないよ。期待を持ちすぎなんじゃない?」
「期待しない人生って、あります?」ゆり江ちゃんは勝気な一面を見せる。「誰かと生活するってことは、期待の連続じゃないですか」

 ぼくらは、そのような諍いを何度かした。ゆり江の以前のアパートは小さく、大声を発することを警戒しながら生活していたが、ぼくの煮え切らないことに嫌気がさすのか、彼女はなんどか詰め寄った。そうされても、ぼくは雪代と離れられなかった。

「きちんと、気持ちを伝えるといいよ」と、裕紀はぼくらふたりを制した。まるで、彼女が第三者のようだった。ぼくは、このように自分の感情が高ぶることを喜んでいた。優しい裕紀と接するのとは別の感情が、その小さな衝突によって芽生えた。ぼくが、長年会社員をやる前の、スポーツ選手だったときは、エネルギーの発露と称して、このような感情を歓迎していたはずだった。

 ご飯を終え、ゆり江ちゃんはお風呂に入り、裕紀のパジャマを着た。ぼくはその姿を見て、仮にあった生活がどういうものであったか模索した。だが、どうしても、ぼくは裕紀を失うことはできないのだ。過去にそうして、ぼくは酷く悲しんだ。あの感情をもう一度、もつぐらいなら未来はぼくにはいらなかった。

償いの書(94)

2011年08月16日 | 償いの書
償いの書(94)

「ここなんかどうでしょう? シニョーラ、マドモワゼル」ぼくは肩越しに笠原さんの顔をのぞき込み、そう言った。まだ新しい部類に入るマンションの一室のカギをぼくは開け、笠原さんにスリッパをすすめた。彼女は新しく生活をスタートさせる。自分だけが住んできた家とは別の、誰かが存在する場所へと。愛があり、喧嘩も、多少の喧嘩も生まれる場所。
「仕事をしている近藤さんも素敵ですね。見直した」
「そう言っても、安くしないよ。ギリギリまでしてあげるけどね」
「やっぱりだめ? でも、そんなに権限がある?」
「それは、笠原さん次第。冗談だよ。だけど、権限がそこそこはある。これぐらいまでなら」

「いや、ほんとに素敵ですよ。このひとは騙さないという安心感みたいな雰囲気があるもん。貴重なものを紹介してくれそうなね」
「ぼくは、その雰囲気を使って、彼氏を紹介してあげた」
「でも、たまにはその雰囲気で騙す?」
「たまにはね」
「今回は?」

「自分と裕紀が住むなら、どこがいいかな? と考えている。もうちょっと若くて、ふたりともフレッシュさに満ち溢れていたら」
「充分に若いじゃないですか?」
「でも、何かをスタートさせる時期じゃない。継続はさせる力はあるけど」
 彼女はいくつかの扉を開け、部屋に消え、窓の外を眺めたり、軽くドアを叩いたりした。さらに、クローゼットの寸法を測り、そこにきちんと並んだ自分の洋服を思い浮かべているようだった。
「素敵ですね」
「素敵だよ。だけど、ぼくは、もっと大きな仕事に関わるようになってしまって、単純なひとの新しい家に住む喜びみたいなものに触れる機会が減ってしまった」
「好きだった?」
「好きなんだろうね。これでも昔はきちんと建築を学び、誰かがぼくの設計した家に住んでもらいたかった」
「今でも遅くはないんじゃない?」

「向き不向きがある。上田さんと同じように、ラグビーが好きだったとしても、どこでも守れるものじゃない」
「ふうん」彼女は自分の生活を追い求める方が楽しいようだった。
「ここに、彼も住むんだろう?」
「ひとりじゃ広すぎるでしょう? 突然だけど、誰かひとりを永遠に愛し続けることは可能かしら?」
「できると思うよ」
「近藤さんはそう思ってる?」
「頭では」
「でも?」
「そうしたいと思っている。それが真っ当なことだと思っている」
「まじめなんですね」
「頭では。家具は彼の店のものを?」

「そうする予定です」彼女と住む男性は仕事で家具を扱っている。ぼくらの業務とも関係があり、たまに話すことがあった。ぼくらは同じ地域に住み、年代もほぼ一緒で、同じようにラグビーに打ち込んだ。それだけで、ぼくは彼への採点が甘くなるが、それを差し引いても魅力の多い人間だった。そこには、島本さんの面影があった。ぼくはライバルゆえに彼を尊敬し、そして、恋の敵として憎悪した。島本さんより数歳、年下の彼は、その女性関係の噂をききつけ、尊敬することもなく、ただの軽い先輩として認識していたようだった。そのひととの接し方で、このようにある問題の見方が変わった。ぼくと島本さんとの隔絶はある場合は尊敬になり、ある女性を介在させると憎しみに化けた。

「笠原さんは、彼をずっと愛し続けられると思うよ」
「そして、ずっと家賃を払う」
「それで、ぼくのボーナスが上がる」
「上田さんが、近藤さんはお金より愛情で動くひとだと言ってましたよ。それが魅力でもあり、ある意味、防御を知らないボクサーのようだとも」

「それで、何人かを傷つけてきた。同時に自分も悲しんだ」
「そうでしょうね。それが、惹きつける魅力でもあるんでしょうね」と言い、ぼくの後方を見るような仕草をした。「ここもいいですね、決めようかな。あと、何軒かあるんですか?」
「あるよ」と言って、ぼくはカバンから何本かのカギを取り出し、わざと音を出すように揺すった。「そう、せっかちにならずにぼくと付き合うといいよ。もう、金銭なんか度外視して紹介するよ」
 それから、何軒か見て、結局はぼくも一番目に見せた部屋が気に入り、彼女もまったく同じ意見のようだった。
「彼の意見を訊きたいと思うので、それからでも回答は遅くないですか?」
「彼もまた見るといいよ。責任をひとりで負うより、分け合った方がね。今日、これからは?」
「買い付けに走っているみたいで、無理です。近藤さんは?」
「時間は充分にある。どっか、行こうか?」
「行きましょうか」

 ぼくは車を置き、待ち合わせの場所に向かった。ぼくは数少ない異性の友人をもった。それは、ぼくの年齢が上がったこととも関係があり、また、彼女が上田さんの会社の女性ということも随分と影響した。ぼくの人間関係のもくろみの甘さが友人たちに迷惑をかけた過去があった。それを繰り返すことはぼくには許されておらず、彼らももうぼくを許容することはないだろう。

 それで、友人として笠原さんとビールで乾杯した。

「わたしたちの新居に」
「ラグビーの後輩と、可愛い女性に」と、ぼくも同意した。夜ははじまったばかりで、彼女らの未来もスタートしたばかりだった。ぼくと裕紀の過去と同じように。

償いの書(93)

2011年08月15日 | 償いの書
償いの書(93)

 裕紀が手の指の爪を切り終わったあと、足の爪を切ることに取り掛かろうとしている。その姿をぼくは何度も眺めてきた。彼女は片足を抱え込むようにして膝にアゴを乗せ、足の裏を椅子の端に乗せた。
「切ってあげようか?」
「どうしたの、急に?」
「なんか、バランスが悪く感じられたもので」
「じゃあ、やって。私はもう、自分では動けなくなったお婆さんだと思って」
「かしこまりました。ぼくは、新しく雇われた執事です」

「わたしも夫を亡くして、もう長いんです。彼の顔さえ忘れてしまいました。でも、あなたに似ていたような気もしてます」と言って、裕紀は足を延ばした。ぼくは、彼女の前に椅子を持ってきて座り、ぼくの太腿に彼女のふくらはぎを乗せた。
「伸びてる?」
「それほどでも」
「髪とかも切れるような腕前があれば、全部、ひろし君に任せるけどな」
「明日から外を歩けなくなるよ。でも、できることは、全部、してあげる」

 それでも、彼女は自分の爪がきれいに切れているのか不安なようで何度も点検した。肉眼でも、手触りでも。最終チェックを終えた後、
「うまいね」と感想をもらした。
「爪を切るのに、うまいも下手もないよ。あるべき形状に戻すだけ。時間を少しだけ後ろに回転させるだけ」
「靴下履いて、靴を履いて外に行こうか?」

 それは、子育ての番組の歌のお姉さんが使うような口調だった。リズミカルで、コミカルで。ぼくは手を洗い、自分も服を着替えて表にでた。何気ないこのような瞬間を不思議と覚えている。他者に対して損得の入り込まない自然な行動。ぼくらは手をつなぐ。その組まれた手を裕紀は上にあげた。
「何か、色を塗った方がいい?」
「どうだろう。どっちでもいいけど、いまは水色なんか似合いそうだなと思った」

「ほう」と裕紀は不思議な声をもらした。彼女の全体の一部。爪であったり、吐息であったり。それを、ぼくは覚えて貯め込んでおこうと思った。ぼくは、ある日別の世界にひとりきりで連れ去られ、「お前が覚えている人間だけを再生させてやる」と恐い存在に言われるのだ。取り調べをするひとはモンタージュのようなものを作り、「それで、爪の形は?」と問う。ぼくが、答えられなければ、それは永久に失われるのだ。ぼくは、懸命にパーツを思い出す。爪は、こうだった。髪の色はこんな色だった。目の形はこの小石のような形でした、と具体的に答える。そのモンタージュは人形のようなものになり、そこに命を吹き込まれる。そして、ぼくは動く裕紀と再会するのだ。と、あるレストランで眠る前に物語を望む子どもを相手にするように、ぼくは裕紀に語りかける。

「それで?」
「それでって、もう終わりだよ」
「なんだ、わたしもひろし君をよみがえらせることが出来るかな?」
「じゃあ、目をつぶってぼくのことを伝えてみて。早く、目をつぶって」彼女は急かされたことに緊張した様子でありながらも、両目を閉じた。

「ぼくの全体像は?」
「身長176センチ」
「数字はダメだよ」
「肩幅がフランスパンと同じぐらい」
「フランスパンを知らなかったら?」
「なんか、ルールが多過ぎない?」
「胸の幅は?」
「パン一斤の横ぐらい」
「パンばっかりだな」
「わたしの胸は?」
「グレープフルーツ2個ぐらい」

「それは願望です。別人が作られています。記憶が間違っています」裕紀は、笑った。ぼくも笑いそのゲームを終えた。しかし、それから、ぼくらは小さな諍いのあとに、そのゲームをするようになった。「わたしの足の指は? ひざ小僧は?」とかと言って。ぼくは、その対象をなにか具体的なものに置き換えて覚えることを訓練した。別世界でも、裕紀を作り上げることができるのだろうか? ということに挑むように。しかし、なぜぼくはこのようなことをしなければならなかったのだろう。ぼくらは平穏でありすぎるぐらい、幸福だったのに。

 ご飯を食べ終え、ぼくらはレストランを出た。日曜が終えるまでに遊びきってしまおうという子どもの歓声があり、まだ、これからの時間を大切にしたい若い恋人たちの後ろ姿が夕焼けと一体化しようとしていた。
 ぼくらは大きなスーパーに入り、裕紀はドラッグ・ストアのなかのマニュキアを眺めている。その瓶を爪の横に置き並べ、似合うか、または映えるかどうか計ろうとしていた。しかし、彼女は無言であった。ぼくの感想も求めなかった。それで気に入ったのか、もしくは不服だったのかは判断ができなかった。ただ、ぼくは違うものを探すふりをしてその様子を見つめた。
「なんか、冷蔵庫に足りないものあった?」

 裕紀は我に戻ったようにぼくを探して声をかけた。
「シャンプーがないよ」
「そうか、買っておこう」と言って、マニュキアの瓶の横を、その存在自体を忘れたかのように裕紀は無心に歩いて行った。その背中は隠れ、レジの前に並んでいる頭部だけが見えた。ぼくは、先ほどのゲームを思い出し、彼女を何に例えて復活させればよいのか考えている。だが、そう混んでもいない店内ではレジは素早くすすみ、すると裕紀の姿は間もなく表われて自然とゲームは終わった。

償いの書(92)

2011年08月14日 | 償いの書
償いの書(92)

「あなたは、会うべきじゃないと思っているのね。彼女にも、わたしにも」
 案の定、あるひとの人生を垣間見られる能力を、その不思議な能力を活用して、そのひとはそう言った。
「まあ、その通りかもしれないですね」
「でも、人間なんて会うべきタイミングで会うようにもできているんじゃない。気軽にそう考えてみれば。わたしが、あなたの気持ちに対してお説教でもすると思った? それとも、してほしかった?」
「いや、そんなことはごめんですけど」
「わたしも能力を与えられてしまっただけで、まじめな生き方をしてこなかった。誰かにアドバイスをしたいとは思うけど、自分の過去のことを考えれば、それは自重をしなければならない。自嘲ともいえる。あざける方のね」

 ぼくは、自分の気持ちがぐらついているのを誤魔化すように、そこにいる犬の頭を撫でる。ぼくの気持ちの小さな変化は、結果として大きなものに変わるのだ。ぼくは一度、裕紀を捨て、彼女は留学先に遊びにきた両親を失った。そもそもの原因でもないのだが、ぼくと別れて結婚した雪代は夫を事故で失った。そのことを考えている。ぼくと関係をもつと、不幸が訪れるのだろうか?

 結果としては、そうなっていた。だが、そこまで自分を責めるほどぼくは悲観的には作られていなかった。もっと、明るい軽やかな希望をぼくは持ち続けたいと思っている。

「そろそろ、現場に行かないと」と言って、会社の前から立ち去ろうとする。
「犬もあなたになつくのね。警戒心が強い方だと思うんだけど」彼女は犬の方を見て、そう言った。犬も飼い主に振り返り、そして、またぼくの方に歩をすすめた。それで、もう一度頭を撫でた。
 ぼくは、車に乗り、カバンの中の資料を点検した。こうした気持ちのときは、なにかが抜け落ちてしまって、忘れがちになるものなのだ。だが、カバンのなかはしっかりと整理されていた。ぼくは安心して車を駐車場から出した。

 走りながら裕紀のことを考えていた。ぼくのもっとも大切なもの。2つとして代わりになれるものがないもの。ぼくは、そうした人間に出会い、結婚できた幸運のことを考えている。だが、若く未熟だったぼくは、彼女を一度、忘れようとした。忘れようとしたが、こころのなかにはいつも残っていた。それは、残骸にはならなかった。いつまでもみずみずしい形でそこにあった。だが、その美しいものからぼくは嫌われているのだと考えると無性に不安になった。その原因を芽生えさせた自分でもあったが、できれば会ってきちんと謝り償いたかった。だが、その一方でぼくは雪代を手放すこともできなかった。ぼくをある段階まで引っ張ってくれたひと。いや、彼女に対しての愛情も、ぼくのこころには残っているのだ。それは炭のようになっていて、少しの風を送られれば再び燃えるような予感があるような気がした。だが、もっと理性的に考えるならば、ぼくの愛は大分前に地元にきちんと置き、葬ったともいえた。それで、ぼくと裕紀との関係は揺るがないのだという結論に達した。

 だが、ぼくのこのこころの小さな変化は、きちんと代償を求めるのだろうという不安感もつきまとった。過去にそうであったならば、未来もそうなりえるのだ。ぼくは、現場に着くまで、その不安が生み出す怪物をいくつか頭のなかで作ってみる。誰かがいなくなること。でも、一体、誰が?

 そのような気持ちでありながらも仕事はうまくいった。思った以上の成果があった。こうして幸福というものは行動を軽率にさせるものであり、また思案を忘れさせる動機にもなった。
「わたしも、もう少し大きな家に引っ越す必要ができた」夕方のぼんやりとしたひととき、喫茶店で資料を整理していると、笠原さんから電話があった。
「そうなんだ。すると」
「手頃なもの、探してもらえます?」
「もちろん、いま大きな仕事を抱えているから、ピックアップは後輩に任すけど、ぼくからもしっかりと頼んでおくよ。そこから、ぼくが選んでいっしょに連れてくよ」

 それは、ぼくとある少女に起った出来事も思い出させた。裕紀のことが好きだった少女。ぼくの人生で三番目の存在に置いた女性。それは人間の気持ちに対して卑劣なことだった。だが、ぼくの前に表れたタイミングが悪かっただけなのだ。裕紀も雪代もいない世界ならば(そんなことがあって良いはずもない)彼女はぼくと一緒に大人になったのだろう。

 ぼくは、自分のいくつかのずるさを考えている。そして、出かけに会った女性のタイミングの話も思い出した。彼女ら3人がぼくの前に表れなかったら、どうなっていただろうと考えている。それは、漂白された人生で、またぼくは掴む場所もきっかけもない漂流者のような気持ちをもった。だが、思いは笠原さんの家に移した。彼女はぼくの地元で同じようにラグビーをしていた男性と会った。会うように機会を作ったのは自分だったが、それはぼくの思いを越えた出来事になっている。島本さんの後輩。笠原さんには雪代のようになってほしくなかった。誰かを失うこと。しかし、本来は雪代にも起きるべきじゃなかったのだ。ぼくは、仲が良いままの雪代と島本さんを憎んでいたほうが、自分の気持ちとしてはしっくりとして、そのバランスの悪い幸福にしがみつき頼ろうとした。

償いの書(91)

2011年08月13日 | 償いの書
償いの書(91)

 会社のなかにいる。そこに電話がかかってくる。誰かと意思を通わせたいという気持ちがあって、その解決策としての電話があった。そこは掛けてくるほうの意思が重要なのか、相手をする自分が重要なのかは分からなかった。
「雪代です」電話を代わると、そう言った。
「どうしたの、急に」
「電話って大体が、急なもんだよ」
「まあ、そうだけど。何か用があったのかと思って」
「わたし、東京にいる」
「また、どうして?」
「わたしだって、東京にいたときの友人がいるし、仕事の用もしなければならない」
「娘は?」ぼくは、彼女がどれほど大きくなったのかを想像する。それは、雪代を小さくしたような印象しかもてなかった。
「連れて来ていない。会えそう? それとも、奥さんに悪い」
「友人として会うんだから、問題ないよ」ぼくは、別れて過ごした期間を考えた。もう8、9年は経っているはずだ。過去のぼくを知る友人として、ぼくは彼女を認識しようとしたが、その考え方は強引なような感じもした。
「前に行った表参道あたり覚えてる?」
「うん、分かる」
「あの近くか、もし店があったら、あそこで今日の夕飯でもどう?」

 ぼくは、予定を考える振りをする。ぼくが、それを断ることはないだろう。それを、雪代は知っているのだろうか。
「遅れそうになるかもしれないけど、必ず行くよ」と伝えて受話器を置いた。ぼくは、すこし呆然としている。この電話がかかってくる前と今では外の世界も大げさにいえば、違うようだった。

「近藤さん、どうかしました?」ぼくは、同僚の方を振り向く。「会議の時間ですよ。会議室、行きましょうよ」
 ぼくは、机の横の資料を抱え、椅子から立ち上がった。何もなかったという風に自分に言い聞かせる形で。
 夕方になり、夜が本格的になる前の深いブルーの空を眺めている。近くに住む未来と邂逅できる能力を持つ女性とすれ違った。彼女はぼくに微笑みかけ、自分がしようとしていることを読み取られてしまうことを恐れた。だが、ぼくは素早くそこを通り過ぎ、ひきつったような笑いが自分の顔に浮かんでいることを想像した。

 歩道橋のよこに雪代はいた。ぼくがもっているきれいな印象の彼女は、さらに大人の魅力を放って立っていた。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いや、ひとりで食べる食事は味気ないよ」と言いながら、裕紀にその立場を与えていることをぼくは忘れようとした。もしかしたら、雪代の頭のなかにもその映像が浮かび上がっているのかもしれない。ぼくらは、変なところでお互いの気持ちが通じることが過去に何度もあった。それで、ぼくは、いまのタイミングでもそれが起るような気もしていた。
「あの店、まだあるんだね、入る?」

「そうしようっか、あの店長、まだ、いるのかな」と、ぼくはひとりごとのように言った。実際に入ってみると、ぼくらが若いときにいた給仕をしてくれた店員が店の奥でしきっているようだった。

「島本さんのことは、もう大丈夫?」ぼくらを永遠に切り離すことになった存在は、もうこの世にはいなかった。ぼくは、もっと彼のことを憎んでもよかったが、もういないとなると、それはフェアじゃないような気がして、今更、憎しみの感情をもつことすらできなかった。

「大丈夫だよ。気持ちは癒えた」そして、彼女は笑った。ぼくが知らなかった場所に笑うとしわができ、ぼくはその途中の経過を知る権利のなかった自分を、どこかで悲しんでいた。

 食事を終えそうになると、奥から店員がでてきて、ぼくらに挨拶をした。
「むかし、来てくれましたね。いまは、ぼくがこの店を譲り受けています」
「覚えてくれてるんだ」雪代は嬉しそうな声をだした。
「もちろん」ぼくは、誰しも会ったひとは雪代を覚えていることを知っていた。あの、きれいな女性と付き合う幸運をもっている男性は、誰なんだ? という表情も何人かには浮かんだ。「結婚されて?」
「違う。わたしたちは、それぞれ別のひとと結婚した。彼は幸せになって、わたしは、まあまあ幸せになった」
「すいません。あのときから似合っていたものだから。コーヒーお代わりします?」と、気まずさを消すように彼は自分の用件を見つけたことに安堵して、また奥に消えた。
「夫婦だって」
「その可能性もあったよ。再婚しないの?」
「ひろし君、してくれる?」彼女はぼくを直視する。その直視の仕方は、ぼくが16歳ではじめて会ったときから寸分も変わっていなかった。「冗談だよ。可愛い奥さんをもっと大切にしてね」

 ぼくは、自分に訪れなかった自分の可能性が生んだ進むべき道のいくつかのコースを想像する。東京に行かなかったこと。ラグビーで全国大会に出場すること。ぼくらが、結婚したことや、広美という娘がぼくらの間に産まれたことを。ぼくと裕紀との間にも同じような可愛い女の子が産まれたことまで想像した。
「気の利いた返事ができなくてごめん」ぼくは、しばらくして温かいコーヒーのカップをもって、思い出したようにその言葉を継げた。

「でも、またここに来られて良かった。過去の楽しかったころのことや、ひろし君が浮気をしながらもわたしを懸命に愛してくれてたことも思い出した。そうだよね?」
「愛していたし、浮気はしてない」
「また、そんなうまくもない嘘をついて」
「浮気はそんなにしていない」
 彼女は笑みを浮かべる。やはり、ぼくの知らないところにしわが寄った。それが訪れたときに、ぼくは彼女の顔を見詰めているべきだったのだ、と思い始めている。
「楽しかった。ひろし君もまともに成長していた。そのままでね」と言って、店の前で彼女は手を振る。彼女は近くのホテルまでタクシーを拾い、ぼくは地下鉄の駅に向かい階段をくだった。そして、今日一日は本当に起ったことなのか確かめるように改札を抜けた。

償いの書(90)

2011年08月07日 | 償いの書
償いの書(90)

 それから、何日も経って仕事も終わった。前日には働いてきた仲間たちとの飲み会もあって、それぞれの苦労が報われた。翌日にはビルを明け渡すため、相手の担当者と打ち合わせをした。最後には社長もやって来て、そのビルの様子を見た。本社の力は段々と弱くなり、ぼくらがいる東京支社の方が力や発言や決定権も有するようになってきた。ぼくが来て8年ぐらいは過ぎたことになる。その頑張りがこのように成果に結びついた。それは、裕紀と過ごしてきた期間とも重なり、雪代と離れてしまってからの時間とも等しかった。

「支店長からも、お前の頑張りをきいたんで、特別に休暇を与えて欲しいって」
「本当ですか?」
「要らないか、もっと仕事がしたいか?」
「冗談なんでしょう?」
「どっちの意味での冗談かは知らないけど、休暇はあげるよ。裕紀さんとどっか行くんだな」
「ありがとうございます」ぼくは家に着き、そう言われたことを伝えた。
「わたしが行き先を決めてもいい?」
「もちろん、どこでも」

 裕紀は何日か経って旅行代理店に出向き、行き先をバリ島に決めた。ぼくは、そこがどのような場所かを知らなかった。知らないというのは正確ではない。ぼんやりとしか分からなかった。ただ、決めた理由としては、最近のぼくが働きすぎていたようで、もっとリラックスする必要があると裕紀は考えていたようだった。

「ひろし君は、いつもラグビーのときのようにがむしゃらになるクセがある」
「そうかな、でも、それで社長にもかわれているんだしな」
「もう、そんなにがむしゃらにならなくても必要とされているのは分かっていると思うよ」
 飛行機を乗り継ぎ、ぼくらはいまホテルの中にいる。甘い匂いがして、ぼくは日常の雑事を忘れている。裕紀も元気を取り戻し、ぼくらは初日は疲れぐっすりと眠った。次の日は、ビーチにいる。ぼくが、こんなにのんびりとできたのは何年ぶりだろうかと考えている。
「一緒に海に行ったこと、覚えている?」
「行った。可愛い水着を着ていた。それがすべて、ぼくのものだと10代のぼくは考えて嬉しかった」
「ほんと?」
「言う機会がなかったけど、本当だよ。10代の男の子はそういうことを口にするのを恥ずかしく思ってる」
「いまは言えるんだ」
「図々しくなったから」
「たくさん、そういう言葉を使ってきたから」
「そうかもね」

 裕紀は立ち上がり、海の方に向かって歩いて行った。その背中が以前より細くなっているような気がした。だが、その言葉の届かない距離にもう裕紀は歩いて行ってしまっていた。だから、ぼくはその思いを飲むことになる。それから、髪を濡らした裕紀が戻ってきた。ぼくは目をつぶったまま眠りの入り口にいたが、そこから連れ戻されてきた。その行ってしまえた場所にいくらか後悔を残しながら。

「気持ちいいよ。入ってくれば」
「いま、眠れそうだった」
「楽しまなきゃ駄目だよ」
「矛盾してる気がするけどね。疲れを取るためにここにいる」
「気持ちいいから、疲れも取れるよ。ほら」と言って、裕紀はぼくを引っ張った。ぼくは、その後ろ姿を再び、見た。
「裕紀、ちょっと痩せたんじゃない?」
「そうかな、そうかもね」

 ぼくらは、水の中で10代のように振舞った。あの時のように、ぼくらは何の力も経験ももっていないわけではなかった。場所も地元の近くの海岸から、日本を飛び出してきれいなビーチに入れるだけの余裕もできた。だが、このときだけは不思議と無心になれた。その開放感に酔い、ぼくらはお互いを無防備の少年や少女のように感じていた。

 ぼくらは食事を終え、ベッドに横たわっている。長い一日のようだが振り返るとあっという間に過ぎるという理屈をまた思い出している。ぼくは裕紀を両腕に抱き、引き寄せた。お互いの身体は日焼けで熱があるようだった。ぼくは、この何年かの失われつつある自分の情熱を忘れ、裕紀の存在を認識していた。彼女は、どれほどぼくにとって必要な人間であったのかという思いを再燃させた。また、このように毎年のように裕紀と旅行ができたらとその更けた夜に考えている。

 ぼくは、少し日焼けした身体にまたスーツを着た。その衣装が思い出を直ぐに後ろに運んでしまう。また、新たな追い求める仕事があり、片付けなければいけない問題がテーブルの上や引き出しや、メールの受信箱にあった。それをひとつ開いては、またひとつ片付けた。ときには、裕紀の背中を思い出すときもあったが、大体は仕事に没頭した。

「楽しんで来れたか」という社長のメールもあり、ぼくはそれにも返信する。直ぐにまた返信が戻ってきて、また本社に戻る用件が説明され、お詫びのように、近藤君から仕事を減らすことはできないが、また休暇のことは考えます、という内容が付け足されていた。ぼくは、裕紀が次はどこに行きたがるのかを考えている。それはいまの忙しい生活を補ってくれるのかは不透明のままだった。そして、彼女の不機嫌を減らす口実になるのかも天秤のように計っていた。

償いの書(89)

2011年08月06日 | 償いの書
償いの書(89)

 そのころぼくは残業がつづき、裕紀はひとりで夕飯を食べることが多くなった。ある大きな仕事がずっと念頭にあり、それを頭から払い除けるのは不可能なようだった。実際にいろいろなところに出向き、たくさんのひとの意見をきき、なにかを説得し、ある面では押されるかたちでのんだ。

 そういうことを自慢しているわけではない。ただ、後から振り返ると、もっと裕紀との時間を割ければよかったなという後悔がまじった自責の念があるばかりだ。彼女にも悩みや相談したいことがたくさんあったはずだ。それなりの生活を手にするためにぼくはあらゆる場所を飛び回り、家に帰ってスーツを脱ぎ、直ぐに寝た。酒を飲み、その匂いを嗅いでか、となりで裕紀が、「また?」という厭なアクセントで言った。そこには、ぼくらがはじめて知り合った当時の爽やかさは、まったくもって消えていた。しかし、それも仕方がないことだ、とまどろむ脳の中で反省のない意見を肯定していた。

「今日も遅くなるの?」
「多分」翌朝、トーストをかじったままで新聞に目を通し、彼女を見返すこともなく返事をした。
「ちゃんと見て言って。やな、おじさんになってるよ」
「ごめん、これが終わるまではちょっと迷惑をかけてしまう」
「じゃあ、おばさんと出かけて遅くなってもいい?」
「いいよ。ぼくからもよろしくと言っておいて。でも、最近、会えてないな」
「もう、顔も忘れてるよ」

 ぼくは彼女を見る。寂しさがつのったせいか、彼女はぼくに辛くあたった。そうされる理由は当然あったのだが、ぼくもそれでいやな気持ちをもった。ぼくらが望んだ生活とは別のところに進みはじめてしまったようだった。

 彼女は玄関までぼくを見送り、戸を閉めた。きっと、彼女はこの後、テーブルを片付け、午前中に自分の翻訳の仕事をして、午後辺りからおばさんと会い、出かけるのだろう。昼をいっしょに食べ、買い物をして、何かを見たり、会話をしたりするのだろう。そのとき、裕紀はどのような服装をしているのだろう。そして、冷たくなっている夫の悪口を彼女に言い、その意見を求めるのだろうか。裕紀の兄たちはぼくを無視した。その反面、温かく接してくれる彼女のおばさんやおじさんと疎遠になっているこのごろをぼくは通勤途中の道を歩きながら反省した。だが、待ち合わせの場所に着く前にぼくの携帯は鳴り、待ちきれない同僚から意見や発注するものの最終確認を急かされた。そのせいで、ぼくの頭のなかから裕紀や彼女の親類は消えた。見事というほど簡単に消えた。

 だが、昼前の一段落したときにそのおばから電話がかかってきた。主旨は、
「裕紀ちゃんは、まじめな人間だから息抜きが必要なときがあるのよ。子どももいないし、なにかを飼っているわけでもない。ひろし君のことを見つめて生活しているんだから、もっと構ってあげなきゃ可愛そうでしょう?」
「すいません」
「謝らなくてもいいのよ。私の夫もそうだったから。これからは、もっと気をつけてね。わたしより、ずっとデリケートにできている女性だから」と言った後、豪快にガハハと笑った。説教くさい自分の口調に釘を刺して制するようで、この問題の転換のきっかけにもなった。
「ごめんなさい、ずっとそっちにも伺えなくて」
「まあ、わたしたちはあなたたちの味方だから、裕紀ちゃんのお兄ちゃんたちと違って。だから、大切にするものよ」と言って、その電話は終わった。確かにその通りだった。そして、その真実の言葉はぼくに響いた。味方がいる強みと、愛され認められることがないある関係がぼくの前に横たわっている痛みとが。

 だが、ぼくは会うという約束をいつしようか考えながらも、それは先延ばしになることを知っており、また、午後の忙しい時間に入ってしまった。ビルは途中まで建ち、ぼくはヘルメットを被り、進捗具合を訊ねている。大声で話す業者の声に負けないように、ぼくも大声を上げる。

 夕方が近付くにつれ、ぼくは自分のこころが先程の電話の内容に傾き、引っ張られているのを感じる。それで、今日ぐらいは早目に帰ろうと思い始める。それは、少年時代の好きなテレビ番組を見たくて家に引き寄せられるのに似ていることを思い出している。そこにいるのは、両親や、祖父母や妹ではなく、ぼくには裕紀しかいないという現実を再認識させる結果ともなった。

 途中で、ぼくは何度か見たケーキの箱に書かれている店名を探し、そこで見覚えのあるケーキを買った。店員は丁寧に包装してくれている。そして、微笑みとともに手渡してくれた。
「どうしたの? 早いね」それでも8時ぐらいだった。「何これ? 買ってきたの?」
「ずっと、相手もできず悪かったなと思って」
「お詫び?」
「そういうことでもないけど、ぼくと裕紀はふたりだけだから、もっと大切にしないといけないと思っただけだよ」
「おばさんに言われたから?」
「なんだ、知ってんのか。もちろん、それだけじゃないよ。きっかけは与えてくれたかもしれないけど。ずっと、ぼくは裕紀を大切にするというはじめの気持ちを忘れていないけど、なんとなく仕事のほうに重点が置かれてしまってたから」
「分かってるから、大丈夫だよ」と言って、彼女はぼくの手を握った。それは以前より華奢になっているようにも感じられた。「じゃあ、これ、食べよう」

 ぼくは皿にのせられたケーキを無心に食べた。汗ばんだ身体にはビールのほうが良かったが、これも償いの一形態なのだ。ぼくは、彼女を過去に傷つけ、そのお詫びはいつになっても消えないのだろう。甘いものを頬張りながら、常にそう感じているわけでもなかったが、その罪の胞子をぼくはその甘みのなかに感じている。