爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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拒絶の歴史(35)

2010年01月30日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(35)

 夏が近付き、上田先輩が休みになって地元に戻って来た。彼は、ぼくの幼馴染と交際しており、二人の距離は離れてしまっても彼らの関係は繋がっていた。彼は、いつも車に乗っていたいらしく、ぼくと裕紀を誘って、海に連れて行ってくれることになった。

 ぼくらは早朝、彼の車の後ろの席にすわっていた。上田さんの横には、智美がいた。あまり、最近は会っていなかったため彼女が大人びた感じになっているので驚いた。性格もしっかりとしてきて、彼に対していろいろと世話をやいていた。この面は、昔から知っている彼女のようだったかもしれない。

 道中はみなでさわいで、あっという間に視界に海が入って来た。きれいな波の音が、窓をあけた車の中にも聞こえて来て響いていた。それと同時に潮のにおいもぼくらの鼻に届いてきていた。そのすべてが興奮させる要因になった。

 それぞれ男女に別れて、水着に着替えた。ぼくは裕紀の身体をながめた。ほっそりとした首と、華奢な手足がその年代特有の青さをも備えていた。しかし、日々大人になり、それはいつか消えてしまうのだろう。ただ、ぼくの脳裏にこの瞬間が永遠にとどまってほしいと願った。

 2人で手を繋いで海の中に入っていく。それは儀式のように、ぼくらに緊張を強いた。だが、だんだんと奥にむかって歩くと気持ちもほぐれ、波の揺らぎに合わせて、自分の身体を海水に浮かべた。裕紀はぼくの肩につかまり、同じように身体を大自然にあずけた。

「こうしていると、なんか安心する」と言って、彼女は強い日差しがまぶしいのか目をつぶった。彼女の濡れたまつげが意外と長いことを発見する。彼女の顔の造作ひとつをとっても、自分はまだ知り尽くしていないのかという不安を自分に与えもした。しかし、またひとつずつ見つければいいや、と海の流れの中で自分は決意していたのだ。

 海から出て、4人で食事をとった。食事といっても簡素なものだが、開放的な気持ちと空腹が、それをおいしいものと変えてくれた。

「大学、どうですか?」とぼくは、上田さんにたずねる。
「新しい友人ができて、彼らを通して視野が広がるという楽しい気分だよ」
「芸術家志望みたいな人が多いんですか?」
「そういう大学だからね」そういえば、と言って彼はバックからカメラを取り出した。ぼくと裕紀を海を背景にして並べ、彼はうるさく表情の注文をして、シャッターを押した。ぼくも、次には逆にそれをあずかり、智美と彼の写真を撮った。

「きれいに撮ってよね」と智美は言ったが、「現実以上のものが写り込むわけないじゃんか」とぼくは否定した。上田さんは不服のようで、現実の一部は、よりきれいに印象付けられるのを求めているといったニュアンスのことを言った。ぼくは、よこを振り向き、裕紀の自然なほほえみを残せるなら残したいと思ったので、それも間違いではないような気もした。

 またひと泳ぎしたり、砂浜にねそべったりして、午後の時間はゆっくりと流れていった。ぼくは、日ごろの身体をぶつけ合う練習の時間を遠いものと考えていた。こんな毎日も面白いだろうなと思うが、その反面、あと数ヶ月の貴重な瞬間の積み重ねのことも同時に愛おしいと思っていたのだろう。

 ぼくらは簡単にシャワーを浴び、身体の砂を落とした。赤くなった身体が、今日の楽しさの刻印のようにも感じていた。

 再び、車に乗り込み、家に向かいだした。途中にざっと雨が降り、その後、きれいな虹が鮮明に窓から見え出した。それも一瞬のことで、直ぐ太陽は地面にかくれた。裕紀は疲れたのだろう、ぼくの肩を枕代わりにして寝息をたてた。それはぼくに安堵感をあたえた。そのためか、ぼくもうとうとし気がつくと見慣れた町並みに戻ってきていた。

「みんなの声が聞こえなくなって、ちょっとさびしかったよ」と上田さんは言ったが、それを本心のように感じられないほど、彼は車の運転がすきなようであった。

「出来上がったら、写真を撮りに来いよ。当分、こっちにいるから」窓を開けて、彼は率直にいった。「はい、分かりました」と、いつまでも関係が壊れないように、ぼくは上田さんの愛情のうちにとどまるよう願っていた。

拒絶の歴史(34)

2010年01月24日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(34)

「もう高校を卒業した後の志望校は決めたの?」
「なんとなくですけど、建築を学びたいとは思っているんです」
「うちにも、その学科があるのは知っているの?」
「まあ、多分そこも希望のひとつには入っています」
「そう、良かったね」

 河口さんはそう言って、紅茶がはいっているカップを掴んだ。彼女の指はほっそりとして、それだけで触れたものすべてがきれいに映えていた。

「そこは、ラグビー部とかないの知ってる?」
「もう、続けることはないでしょうから」
「なんで? もったいないじゃない」
「人より抜きん出るほどの才能がみつけられませんでした」
「キャプテンでいながらも」
「それぐらいで止まりです」
「やってみないと分からないよ。しかし、近藤君の人生だしね。とやかく言われたくないよね」
「そんなこともないですけど」
「東京にいるあの人はどうなんですか?」ぼくの胸中にわだかまっているものを吐き出すように言った。
「あの人、怪我してから急に弱気になったのよ」
「でも、好きなんですよね」
「東京には、可愛い子がたくさんいるらしいわよ。近藤君も東京の大学に行きたい?」
「河口さんがいてもですか?」
「あなた、本気で言ってるの?」

 ぼくは、返事をしなかった。ただ、視線を目の前のコーヒーのスプーンに向けただけだった。ぼくは、その島本という人が理解できないように感じた。こんなにきれいで魅力的な人がいるのに、他の人へ思いを配分するようなことは、自分はしないだろうと思った。そのとき、そう思った事実は、自分に照らし合わせて考えてもみなかったという現実が待っている。ぼくには、裕紀という子がいて、彼女以外に気持ちが傾いている自分を棚に上げていた。

「本気じゃないんだ?」
「いえ、本当です。もし、ぼくだったら」
「ぼくだったら? ごめんね。追求ばっかりして」彼女はにっこりと笑った。自分のためだけに笑ってくれたと考えると、ぼくは幸福な気持ちになった。「それでも、今年はラグビー頑張るんでしょう?」

「ええ、はい。全国大会にはどうしても出たいですから」
「そうなら、もっと応援しないといけなくなるね」
「それは、こころ強いです」
「そういえば、わたしの写真きれいに撮れてる?」
「もちろんです」
「現実とどっちがいいと思う? あれは、なんか手を加えられたあとのわたしなのよ」
「写真は、しゃべりませんから」

 また、彼女は笑った。ぼくは、こんなにひとの笑顔がぼくのこころを動揺させる事実を知らなかった。そして、彼女の口から出る言葉のすべてを記憶したいと思っていた。さらに、もっと会話を中断せずに話し続けたいと願っていた。

「ここね、ひとりで住んでいるから電話をかけてね」と、彼女はスケジュール帳の一部を切り取り、ぼくに渡した。ぼくは、それを受け取るのを戸惑った。こんなに自分の気持ちと世界が関連だって動いているとは思ってもみなかった。

「家で、いっぱいご飯をたべて、もっと強いたくましい男になってね。それで、誰にも負けないチームを引っ張っていってね」彼女はそう言い、レシートを取り席をたった。「カメラの前で微笑むと、アルバイト代が入るのよ。そういつも、笑っていられる状況ばかりじゃないし、しんどいなとか思うけどね」

 ぼくは、ほかの女性のことを忘れようとしているし、過去の自分と決裂しようともしていると思っていた。だが、そうはっきりとテストの点数が出るようには、自分の気持ちの採点は難しく、正解か不正解の判断も自分は知らなかった。

拒絶の歴史(33)

2010年01月17日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(33)

 ぼくらは、初夏のころ練習試合を多く組み、そこで連戦連勝をしている。下級生は純粋に自信をつけ、レギュラーのメンバーも同じような態度をとった。しかし、まだまだ矯正する部分は多く残り、そのことに対して目をつぶってしまうであろう風潮をぼくは恐れていた。だが、やはり勝利というのは気分の良いもので一試合ごと勝つことが義務付けられているにせよ、その責任が重くなるたびに、その後の開放感もひとしお大きかった。

 裕紀が試合を見ているときはいっしょに喜び、たまに試合会場にいない時は、電話で連絡した。ぼくらは受験も控えており、勉強の時間を増やす必要もあるし、テストなども多くなっていった。彼女の家族は、彼女に一段上の環境を与えたがっていた。親としては、当然だろう。その分、ぼくらの会う時間は少なくなり、こころは離れないようにしていたが、会っている時間と比例して、互いを理解しているというのも間違いのない事実であった。それを払拭するように、ぼくらは電話をしたし、少しの時間でも会うようにつとめた。

 ぼくも、それでも勉強の時間を割いた。それは、眠る時間を削ることを意味しており、だが、意外にも寝不足という感覚はあまりなかった。練習で育んだのだろうか、授業中でも集中するタイミングと、そうでない時間を効率よく分けられた。先生の私的な雑談になると、ぼくはふと気をゆるめた。校庭では若い歓声がきこえ、春を過ぎた匂いが教室まで届いていた。

 一部では、自分の勉強を成立させるために互いをライバル視する雰囲気がどこかに漂いはじめていた。それを感じて、ある一部はぎすぎすし、ある人々は、自分の限界を決めて楽しそうに生活していた。彼らは放課後にはデートをして、机にかじりつく生活を放棄しているようだった。だが、家に帰れば別かもしれない。それを知ることはできないだろうが。

 ぼくは、グラウンドでの競争で充分だったので、できるだけユーモアを介して、互いと接するようにしていた。人を笑わせることは、自分と他人の距離を調節するために必要なものかもしれない、とその頃には考えていた。誰かが笑っているときは、そのときだけ悪意が喪失されている瞬間なのだろう。教室では、このように振る舞い、ラグビー部のメンバーとは、もっと本気で付き合った。そこは、建前でなにかをごまかせるほど余裕のあるところではなかった。もっと本音を要求する場所であった。だから、ぼくは、自分の感情をさらけだし、顧問とも親密に相談したり、いろいろな提案をしたりした。

 この物語は、ぼくの物語でもあり、裕紀という女性の成長過程でもあり、河口という女性への憧れの話でもあった。ぼくは、ある練習を終えた下校時に、また彼女に会った。そこは、町で一番の大きな写真館で、彼女がそこを出てくるときに偶然出会った。あとで、よく話をきくと、そこで美容院のポスターを撮っていることが知れた。

「あ、近藤君」と、きれいに髪をセットした彼女がぼくに呼びかける。ぼくも、なにか返答したとは思うが、もういまでは思い出せない。

 彼女の後ろから何人かの男性が出てきた。大きな機材を肩にぶらさげているのでカメラマンか何かなのだろう。これも、あとできくと、彼女も東京に行くことがあったが、都合が悪いときはこうして、逆に東京から人がくることもあったそうだ。

「お疲れ様、また今度もよろしく」という言葉が飛び交い、彼女らは別れた。名残惜しそうな様子は微塵もなく、それぞれがビジネスに徹しているかのような態度だった。ぼくは、どうしたものか待っているのが当然の礼儀ということで部外者ながら、そこに立ち尽くしていた。

「大学生としては、なかなか良いバイトなのよ」と言って彼女はにっこりと笑った。「たまには、お茶でも飲みに行きましょう」と彼女は駅のほうに歩き出した。ぼくも、そのあとをユニフォームが入った重いバックを担ぎ、急いで追った。誰が、この誘いを断れるのだろうか。

「また、新しいポスターが貼られるんですね」と、会話の空間を埋めるように、ぼくは言った。

「なんだ、気にしてくれていたんだ。それと、最近試合ずっと勝ってるんだね。すごいね」と言ってくれた。ぼくは、その言葉ですべての疲労の蓄積が解けていくような気分を味わうことになった。

拒絶の歴史(32)

2010年01月16日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(32)

 春の連休に裕紀はニュージーランドに家族と行った。そこはラグビーでも常勝をほこっているチームであった。単純にぼくもあこがれたが、二つの家族には違いがあるのだろう。しかし、ぼくは自分の現状を愛してもいた。

 おそらく、ぼくはあと一年未満で本格的なスポーツへの取り組みをやめてしまうのだろう。その悔いを残さないためにも、いまのうちに頑張れることはすべてやっておこうと考えていた。新しい顧問の考え方がぼくらにも浸透していき、効率的な動きがとれチーム全体のバランスも向上していった。身体も追い求めている理想に近づき、18歳の筋肉としては想像以上に完璧なものになっていった。その分、尽きることのない食欲があり、母の料理は瞬時にしてなくなってしまうことも多かった。

 ぼくが後輩の山下を自分の家で食事に招くと、妹の機嫌が良いことに気付く。彼女は、いつもは気分の波がいくらかあり、不機嫌な顔をして家のなかをうろうろすることも少なくなかったが、彼がいると微妙に笑顔も増え、話す内容も大人びたものになっていった。

 ぼくは、自分がスポーツをして一生を過ごすことはないだろうと自分の価値を決めていたが、山下なら今後の結果では、どうにかなるのではないかと考えていた。大切な宝を育てるような気持ちでぼくは彼を見た。自分が誇れる仕事をして、自分の才能を開花させるという希望を、ぼくは単純にもっていた。それを早いうちに見つけたいとも思うし、もしかしたら山下はもう巡り合ってしまったのかという羨望もあった。だから、彼を後押しするような気持ちも生まれたのだろう。

 ぼくの家族は、全員山下のことが好きだった。あまり他人への評価を口に出さない父も彼のことを話すときは笑顔になり、また連れて来なさい、という言葉を何度も口にした。

 たまたま彼はぼくと同じラグビー部に入り、たまたまぼくと親しくなり、このように彼を家に呼んでいるという現実があった。

 グラウンドを走り回り、この一歩一歩が全国大会に繋がっているんだ、という考えを頭の中で反芻させた。口外しなくても、ぼくのその気持ちをみなが知っており、部外者は無理だと思っているらしいが、チームの全員はそれに感化されていった。若い顧問もそれは不可能ではないという認識の下、指導しているようだった。

 春の身体から放出する汗は、直ぐに乾きそよ風が体内を冷やしてくれた。ぼくらの足や腕や首は太くなり、なにものにも耐えられるような気持ちも同時に与えてくれた。

 裕紀は、旅行先から帰ってきた。彼女は、自分で撮った写真をぼくに見せてくれた。家族が撮ったのであろう裕紀が写っている写真も多かった。ぼくは、それを眺め、彼女の新鮮な愛らしさと美しさが自分のものであるという感動と、このときは自分から離れていってしまうという恐れを微かに抱いたのかもしれなかった。

「この写真をもらってもいい?」と、ぼくは訊ね、彼女がうなずいたのでそれを抜き取り、自分のカバンにしまった。

 彼女はその土地の素晴らしさをいくつも並べ、また直ぐに行きたくなるような気持ちを持っていると告げた。人々はゆっくりと人生を楽しみ、受験とか、なにかの役割に押しつぶされそうとか、社会の競争とかがあまり見られないのどかなところだとも言った。旅行者がすべてを理解することなどできないであろうが、彼女も彼女なりに痛みをもって生きていたのだろう。18歳のぼくは気付かず、もうすこし経っている自分はその言葉を受け止めなかったことを、やはり少しは後悔しているのだろう。

「もし、新婚旅行をするなら、ああいうところがいいな」と彼女は賛嘆の声をあげた。

 ぼくは、もう数年前のその言葉を忘れられずにいた。記憶というものは不思議なもので、その言葉だけが刻印のようにぼくのこころに長い間ずっと刻まれていた。

「そんなにいい所なんだ」とぼくも言った。その言葉が守れるのだろうか、実行可能な宣言を彼女が発したのだろうか、ぼくは注意もせずに返答した。それから、いつも行く公園のベンチを離れ、ぼくらはそれぞれの帰路についた。家に着いて、彼女の写真を取り出して眺めた。10代後半の初々しい女性がそこに写っていた。今後、彼女がずっと幸せであるよう、ぼくはそっと願っていた。願いがどのような効果を発揮するのか、まだまだ知らない自分ではあったのだが。

拒絶の歴史(31)

2010年01月03日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(31)

 4月になって、ぼくは高校三年生になっている。大きな変化として、ラグビー部の顧問が変わった。

 彼は、大学時代に教員免許を取り、その後社会人になってラグビーをしていた。その経歴は華やかなもので、指導も若く熱心だった。ぼくには、必要としていたタイミングで良い人物と巡り合えてきたと思っていたが、彼もその最前列にいる人物だった。練習もハードなものになり、彼も実際にいっしょに汚れ、汗をながし最後には笑いあって練習を終えた。

 ぼくらは、その頃には評判を取ってき始めたため、勉強とスポーツを両方ともあきらめないタイプはぼくらの学校のラグビー部に入り、スポーツに抜きん出た人材は、もうひとつの強豪校にはいった。しかし、ぼくらの新しい顧問が効率的な練習方法を取り入れ、効果があがるような作戦を編み出してくれていた。ぼくらにはいくらか欠けた体力を補うように、より一層頭脳的な傾向に走っていった。それは、短所を長所に変える方法だったのかもしれない。

 妹は裕紀と同じ学校に入っていた。彼女らは前より親しくなり、ぼくがいなくても二人の関係性は成立しているようだった。ぼくは熱心に取り組むと周りが見えにくくなる一面がどうもあるらしく、新しいラグビーが果たしそうな勢いに没頭していっていた。それで、裕紀との時間は配分として少なくなるのは否めなかった。

 春には、練習試合を多く作ってくれ、ぼくらの評判も高くなったので、試合相手も強いチームが多くなった。ぼくらは練習で学んだことを直ぐに実践し、指導者の理想としているものに近づこうと奮闘していた。彼が指揮者なら、ぼくらは完全なる楽器であろうと努めた。たまには見当はずれなこともしたが、一致した雰囲気が失敗を揉み消し、成功の体験はぼくらの共有の財産になってくれた。その成功の数々がぼくらに自信をもたせた。もう、どこのチームと戦っても、なんとか相手のミスを突き、自分らの自信をねじ込んでいった。

 その顧問は、練習が終わった後、ぼくを呼び出しぼくの頭脳に新しい考え方を注入していってくれた。少し前まで、本当の練習を経験していた彼は、それをそのままぼくに浸透させようとした。その期待に応えるべく、ぼくはその考えを自分のものにするように考え馴らしていった。

 それでも、たまに練習がない日は、裕紀と会うことも忘れなかった。彼女は、ぼくの身体が一段と大きなものになったと言った。ぼくの腕に自分の腕をまわし、それを自分の安定する居場所のように振舞った。ぼくも、彼女がそこにいることを当然のことのように考えていた。

 その頃、彼女はある外国人の家庭で英語をまた習い始めていた。ぼくは、その前後時間が合えば、彼女をその家まで送ったり、迎えに行ったりした。着実に彼女は向上を目指し、その計画をひとつひとつ消していった。

「学べるのは語学だけではなくて、料理やお皿なんかも、それぞれ快適なように選ばれているんだ」

 と、彼女は自分の胸に言い聞かすように話した。ぼくは、それがどういうことか当時は分からなかったが、今になれば想像はついた。

 ぼくらは、何をしなくても公園のベンチに座っているだけで話すことが尽きなかった。10代後半の女性は夢が広がり想像の羽根がとどまっていることは出来なかったし、現実的なものを求めようとしている自分にも無限の可能性が目の前に広がっているような甘い錯覚があった。しかし、彼女には親の期待があり、ぼくには、自分の人生を最善なものにしようとする望みがあった。それが交差するかを考慮に入れるには、ぼくらはまだ若く自分の周囲には無頓着であったかもしれない。だが、こうしてこの町のどこかで会えた偶然というものを互いに愛しており、それを永続するものにしようとする努力は、口に出さなくてもしていたのだろうとは思う。それにしても、時間というものは紐のない犬のように、油断をすればいつの間にかどこかを駆けずり回っていた。

「進路にラグビーのことを入れているのか」とある日、顧問は言った。
「多分、高校だけでもうしないと思います」

「残念だな、いくつか紹介できそうなところもあるのにな」と彼はぼくの目を見ずに言った。自分のことを心配している誰かの一言にもっと気持ちよく頷けたら、楽な部分も増えたのになと考えてみるも、それも浅はかな自分の一部だったのだろう。