爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(48)

2013年04月29日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(48)

 歩いている。信号で停まる。歩道橋を渡る。家の近くになった。ひとに会う。
「川島さん、こんにちは。こちら、うわさのお嬢さん?」

 そう言ったのは、加藤姉本好きであった。そういう趣味を有しているのが想像つかないほど、なんだか、少し派手な服装をしている。夜な夜な遊び回ることに執念と意気込みを感じているような容貌だった。
「加藤です」彼女は由美に手を差し出す。
「由美です。七才です」

 加藤姉は笑う。「本を買ったんですか? 今度はどんなのを?」ぼくが持っている袋には書店の名があり、その袋も角張っていれば証拠は明らかである。
「ぼくの分と、由美にはバラの栽培の本」
「あら、渋い」
「パパも同じことを言った。朝顔の次に花壇に咲かすものが必要だった」
「お庭があるのね?」

「庭というほどの大層なものじゃないよ」ぼくは言い訳がましいことを述べる。花を愛で、金魚を愛おしむ文豪。その金魚はとなりの家の久美子がくれ、それを夜店ですくったのは、この本好きの弟であるはずだった。
「だけど、お姉ちゃんは、どこのひとなの? パパのクラスのひと?」
「お姉ちゃんはただ本が好きなだけで、パパの本もたまたま読んだの。パパの才能、由美ちゃんは知っているの?」
「知ってるよ。パパだもん」
「意外と敵は内側にいて、味方は外にいるもんだけどね」

 レナードとマーガレットはまだ教会の前のベンチにすわっていた。こうしてふたりで居る時間も残りわずかになってきているのだが、それをふたりは有意義な会話で埋めようとも思っていないらしかった。反対にたくさんのことを語り合いたい欲求の裏返しとして、ふさわしいきっかけをつかめず、ずっと沈黙が支配しているのかもしれない。その沈黙も重苦しいものでは決してなかった。ただ緩やかに雲が流れていった。耳を澄ますと鳥が鳴いている音が通り過ぎていくように耳を撫でた。
「次に家に行ったら、もう一枚の絵も完成です」
「もう片方は?」
「すでに船便で画廊に送りました」
「じゃあ、どこかに飾られる?」

「運が良ければ」
「誰かが買うかもしれない」
「運が良ければ」

「運が悪ければ・・・」マーガレットはその絵が誰かの手に渡り、その所有者の居間か寝室で自分の分身が一生を過ごすかもしれないという事実を奇妙なことのように感じた。だが、それは誰もわたしだと思わないのかもしれない。画家が生んだただの女性像。人類を二分する片方の側に所属する一員としてしか意味のない存在。わたしという個性は必要ではないのだ。もしかしたら、誰の顔でも良かったのかもしれない。マーガレットは、いままで見てきた女性の肖像が誰であるかを確認することさえ怠った自分の好奇心を恥じた。いや、マリー・アントワネットぐらいはいただろう。だが、その顔は逆に名前がきちんとあっても、顔としては思い出せなかった。豪華な衣装と、反対に華奢な身体つきの持ち主としてしか。
「一生、自分のもとに置いておきたいようなものはないの?」
「あとで後悔するようになるかもしれないけど、自分の能力は見て評価されないことには始まらないから」

 レナードは自分で放った言葉を信じようとしていた。だが、舌のうえには苦味のような嘘っぽさも残っていた。
「川島さんの次の作品は?」
「いま、執筆中」
「途中でも読んだらダメ?」
「そうか、先ず誰かの評価を気にするということも考えていなかったな」ぼくは、唖然としていた。プレゼンされる自分の作品。
「どんな字なんですかね? コピーを取ってくれません?」
「字も、キーボードで打ち込んでるだけだし、コピーもなにもプリンターで印刷するだけだよ」
「味気ない。でも、気が向いたら読ませてください」

 活字中毒の女性はそう言うと去った。背中も布が覆う部分が少なく、彼女が自室で大人しく本を読んでいる姿を想像することを簡単に阻んだ。ぼくは別の部類の想像をすることを自分から抹消しようとしていた。
「あのお姉ちゃん、パパに期待している」
「そうだね」
「久美子ちゃんの初恋に顔が似てた」

「ほんと?」
「似てたよ。髪の長さと服装が違う。ママがテレビに出てる文句を言う若い女の子みたいな格好だったから」
「ママは、ママだよ」ぼくはどちらに立場を置くか決めかねている
「そして、パパはパパだよ。ママにも完成するまで本は読ませないと言ってたのに・・・」
「そうだったかな」
「自分の胸に訊いてみて」小さな妻。そして、遺伝子。

 マーガレットは完成された自分の肖像を想像していた。来年は顔や雰囲気も変わっているのかもしれない。いつか妻になり母になった自分のことも思い巡らしていた。その息子や娘の絵や写真をたくさん残そうと考えていた。つまりは思い出は記録の数なのだ。忘れることの多い自分のそそっかしい性分では、手元にのこる歴史が必要なのかもしれない。他の誰かにとっては価値がなくても、自分や家族にとってはそれは貴重なものなのだ。それを表現するレナードの能力や右手の技量も同じように貴重なものなのだろう。マーガレットは横にすわるレナードの手や腕を見た。昨夜の汚れなのか、絵の具のあとのようなものが点々と付着していた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(47)

2013年04月27日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(47)

 昼ごはんも終えて外に出る。快晴の空。汗ばむ身体。
「パパ、ちょっと本屋さんに用事があるから、遠回りするよ」
「いいよ」

 世の中の動き。その尺度をどこに求めるのか。本屋の陳列台。ダイエット方法の流行。賢くなる、見られる生き方。
 ぼくはフランシスコ・ザビエルというひとの名前を背表紙に見つけ、棚から引っ張り出した。恋愛も自分の気持ちの傲慢な押し付けなら、このひとの熱情もそう違わない気がした。宗教と布教という問題。わたしを見つけてくれ。

 それに比べて本というのは穏やかである。慎ましさもあらわしている。本屋に並んで、多少の売り込みの店員さんの紹介の文字もあるにはあるが、それは全体と比較すれば少ないものだった。ただ、じっと手を取ってもらうのを毎日、待っている。いつか、廃刊になりやっと真価が発揮され、高価な値で取引される。それも価値があるならばの話だ。大体はゆるやかな破滅に身を任せている。

 ぼくは立ち読みを止め、新聞の切抜きを取り出し、店員さんに一冊の本を探してもらった。受け取ったものをパラパラとめくり、値段を確かめる。広告のときから知っていたのだが、税の存在もまた思い出した。価格上乗せ税。本は消費なのか。横を見ると、由美はバラの栽培という本をめくっていた。

「随分と渋いものを読んでいるんだね」
「朝顔が育ったから好きになった。夏が終わってもなにか、育てたいなと思って」
「へえ、良い心掛け。買ってもいいよ」

 娘はぼくにその本を手渡した。うまく行かなくてもいいこともあるのだ。難しくなったら、ぼくが手を貸してもいい。しかし、この子を育てるというのも、もっと大きなエネルギーがいった。いや、もう車輪は勝手に動き出しているので、意図しないでも、方向をちょっと調整するだけで自然と育つものなのだろうか。自分が外で働いているときは子育てにあまり参加もせず、協力もしなかったことを誰かに詫びたい気持ちがあった。だが、もう後戻りもできない。

 レナードは教会の薄暗いなかにいた。受胎告知という場面が描かれている絵を、この地で発見して、もう残された滞在期間も減ってきたことから、もう一度だけ見ようと思っていた。女性は驚いている。天使がやってくる。あなたのお腹に子どもが宿りました。それも十把一絡げのような子どもではありません。選ばれた子どもが。まだ娘のような女性は驚愕している。なぜ、自分が。それは恩恵でもあり、責任が伴うものだった。レナードの横にはマーガレットがいた。彼女の感想はどういうものなのだろうか、女性の視点からの意見をレナードは聞いてみたかった。

 暗いなかから外に出た。目は強い日差しになかなか馴染まなかった。教会の前にあるベンチにふたりは座った。
「女性には、男性と違う役目がある。何ヶ月もお腹に子どもがいる。対面するのはもっと後になるが、存在は一体感を迫るものでもあり、やはり、他者であることも認識しなければならない。日々、大人になればなるほど」
「いつまでも自分の所有物ではない?」
「そういうこと」

 ぼくは小さな手を握っていた。いつか児玉さんの娘のようにどこかで働くことになる由美。愛想が良いので人怖じすることはないだろう。計画性や努力を惜しまないところはあるのだろうか。誰も、完全じゃない。このぼくも完全じゃないから。だが、完全さを求めてしまう。
「ぼくもそのようにして生まれた。記憶もないけれど、母の胎内にいた」
「そして、大きくなって、絵の才能を発見する。わたしには何があるのかしら」
「ひとを穏やかにさせる」

「そう?」マーガレットはなぜかレナードの顔をみつけられなかった。それで、ベンチの前の鮮やかな色の芝生を見ていた。「絵が自分には向いているなと気付いたのはいつのこと?」
「もう、分からない。いや、考えてみる。親のいいつけで、となりの家に行くことになったとき、となりの家といっても随分と離れていたから棒切れをひろって、おもちゃ代わりに振り回していた。まだ、雪解け間近の地面がぬかるんでいる頃だったので、試しに棒で、地面に目に見えるとなりの家の全景を描いてみたら、なかなか良くできていたので喜んだ。いいつけもあるし惜しいとは思いながらも、それは消える運命にあるものなのであきらめた。それ以来、家のなかで時間が空くと紙に描いた。学校でも思いがけなく褒められたので、そういう才能の一端が自分にもあるのかなと思って、せっかくの長所なんだし伸ばそうかなとまた勧められるままに描いた」

「誰か才能を引き伸ばしてくれるひとが必要?」
「当初は。だけど、その後は意固地さと頑固さだけが求められていると思う。それが取柄になったり、後悔ができなくなってしまうほどの時間の浪費になるのかも誰も分からない。受胎告知のような形では一般のひとの未来なんか決められないからね。具体的な形では」

 マーガレットは、いまだにエドワードとケンの間で気持ちが揺れ動いていた。それは自分の決めるべき問題であり、その先の未来の責任はその選んだ結果がもたらしたものだとして、受け入れなければならない。いつか、もう片方のひとを思い出すことがあるのだろうか。いつか、時間が経って、そのもう片方のひとに会いたいと思う日がくるのだろうか。このレナードとも、どこかで再会する未来が決められているのだろうか。そう世の中は自分の予想通りにならないことは、マーガレットも薄々は気付いていた。だから、いまがとても大事なんだと思おうとした。

「あと一週間もすれば、また学校か」ぼくは独り言のように口走った。
「お昼、あそこで食べるの?」
「やっぱり、そうかな。でも、家でも食べるよ。ジョンの相手をしながら」
「本を書いて?」
「そう、本を書いて、棚に並べてもらって。バラを育てる方法ほど役には立たないかもしれないけどね。由美も役に立つとかを抜きにして、いろいろ勉強しないとダメだよ」
「するよ。パパが苦心することもないぐらいに勉強して、いっぱい働くよ。もう生活の心配をすることもないぐらいにお金を渡すよ。休みには遊んでもらわないといけないから。ママは外で働くのが好きだから、どうしようかな」ぼくは成長のあらわれの基準をもっていなかった。それで、黙ってただ歩いていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(46)

2013年04月27日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(46)

 ぼくは読み終えた手紙をまた折り目どおりに畳み封に戻した。それから、引き出しにしまった。再び読み返すときはあるのだろうか。考えてみれば手紙という形態はつくづく不思議なものだ。肉声でもなく、そこにひとはいない。ただ文字を媒介にして思いを伝達させる。記号もなく、イラストもない。しかし、本も似たようなものだ。ひとは時間をつかって文字を書き、それをまた時間をつかって本を読む。誰に頼まれてもいないのに。孤独を楽しむためにひとりになり、そこで誰かの熱意の証を読む。

「初恋か」と、ひとりだと思ってぼくは声にだした。だが、後ろには由美がいた。
「どうしたの? 初恋って、なに?」
「ひとを初めて好きになること。自分以上に愛することかな。由美はいるのかな?」
「久美子ちゃんは、初恋?」
「さあ、どうだろう? そうかもしれないし、もっと、もっと前に好きなひとがいるのかもしれない。今度、訊いてみれば? それで、パパに教えて」
「でも、デリケートな問題だからな」と、由美は首を傾げ、虫歯でも痛むような表情をした。

 マーガレットは手紙を読んでいた。その筆跡はエドワードらしいものだった。アラビア数字を扱うことになれたひとの文字。二十六文字の組み合わせで手紙の内容があらわれ、十種類の数字をつなぎあわせることで情報が補足される。あと数日でここを去るのに、会ってとにかく話せる立場になるのに、マーガレットはその紙の束をうれしいものと実感していた。

 最近の出来事が綴られている。その裏面には、淋しさのようなものが内包されていないかマーガレットは探していた。だが、なかなか見つからなかった。可能ならば、その表情を見ながら会話したいと思っていた。顔を見たい、体温のあるものを近い距離で感じながら話したかった。そこには、手紙のような遠慮もなく、嘘もいっさい入り混じらない気がしていた。だが、何度も読むうちに、これも楽しい接触の方法だとも思っていた。

 その数日前にエドワードはポストに手紙を投函した。その前日に書いたものだ。ポストに入れるまで躊躇していた。自分の感情をその細い横穴のなかに放り込んでしまうほどの勇気と、恥じらいとの決別が必要だった。

 マーガレットは手紙をしまった。これほど、自分の感情を押し殺した文もないものだと感じていた。好きだ、とか、愛しているという数語の文字を敢えて使わない意思が分からなかった。

 前日のエドワードは何度も文をひねくりまわしていた。ただ、愛という文字を書いてしまえば済む問題なのは分かっていたが、そう簡単に持ち出すのはあまりにも安易であった。

「ちょっと、大きな声だな」リビングから節回しをつけた由美の声がする。
「初恋の唄をつくったの」
「ママが帰ってくるまで、忘れないでいられるかな」
「大丈夫だよ。メモしてるから」
「メロディーには譜面というものが必要なんだよ」

「お仕事終わったら、教えて」
「教えられないよ」
「どうして?」
「譜面に書き記す記号が分からないから」
「本を書いているのに?」
「それらに関連性はない。まったくの別の問題。いとこでも、兄弟でもない」
「誰が知ってるの?」
「音楽の先生だろう。譜面が読めても、唄がうまいか分からないけど。せめて音は外さないか」

 マーガレットはハミングしていた。それは幼いときからの嬉しさを表す証拠だった。母はそのことに気付いていたが、あえてそのことは告げなかった。彼女はむかしもらった手紙のことを考えていた。夫になるひとが旅に出る前に手紙を残してくれた。その不在の間、何度もくりかえし読み返した。それだけしか、彼のいた痕跡を証明する手立てがなかった。直ぐに声が聞こえる機械でも発明されればよいのにと、そのときに思っていた。母は家のなかを見回す。そこに便利な黒いものがあった。なぜ、その小さなものが距離を縮める役割を担っているのか理解はできなかった。だが、便利さの恩恵にはあずかることはできていた。

「パパ、お腹もすいたよ」
 ぼくは時計を見る。もう、そんな時間か、と思い立って、席を立った。

 歩いて近い距離にあるいつものファミリー・レストランに行った。接客するのは児玉さん。彼女の母は、初恋のひとに会いに行った。娘はそのことを知っているのだろうか?

「お姉ちゃん、初恋のひとっていたの?」
「どうしたの、由美ちゃん? そうね、もちろん、いたわよ。恋って、素敵なものよ」彼女は演技が過多な女優のような口調で話した。
「どういうひと?」
「背が高くて、野球がうまくって」
「相場が決まってるよ。メガネをかけて、本の虫というのは若い頃には人気がないよ」
「ひがんでるんですか?」
「パパは、ママが初恋のひと?」
「どうかね」

「ひとり娘には大問題ですよ。答えに注意がいりますから。じゃあ、注文を通してきます。でもね、由美ちゃん、恋って、とっても、素敵なものなんだよ」

 そうだろうか? 恋なんか傲慢さを最大限にアピールするものでないのだろうか。自分の気持ちを勝手に伝え、好きになってくれとも頼まれないのに、好きになり、だから、わたしのことをこれから頭のなかにも目のなかにも片時も忘れないぐらいに居させてくれ。そして、デートに連れ出してくれ、好きだとたまには言ってくれ。責任をとってくれ。エトセトラ。

 児玉さんの若い方は、初恋のひととの間には産まれなかった。由美も産まれる必要があった。それにはいまの妻が産まれる必要があった。義理の父と母はぼくにもう少し優しくする方法を学習しなければならない。譜面を読み込むように。

 料理が来た。初恋って、いったい、なんなのだ? これからも六十億か、七十億の初恋が雨後のたけのこのように染み出してくるのか。なんだか、やりきれないものだ。でも、好きになったりしなければ、ぼくの職業のテーマも大部分が失われてしまう。ボヴァリー夫人は、ともかくも誰かを好きになるのだ。違反すれすれで。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(45)

2013年04月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(45)

 妻はもう仕事へ出掛けた。一通り片付けも済ませ、由美は食卓を勉強机にして、宿題の追い込みをしている。ぼくは部屋に戻り、指を動かそうとしている。だが、すらすらとよどみなくは動かなかった。すると、外をバイクが停まり、一時的にエンジンの音が聞こえ、また走り去った様子だった。朝の九時ごろ。配達員の一日。

 由美は玄関のドアを開け、ポストの中味を点検したようだった。またドアがしまり、独特の足音をさせこちらにやって来た。

「パパ、お手紙が入っていたよ」
「便りがないのは、良い便りとむかしから申しまして・・・」落語家みたいな声音をつかい、ぼくは手紙を受け取った。見覚えのある筆跡もあり、印字された住所と名前のものもあった。見覚えのあるものは、児玉さんの字体だった。彼女に何か頼んでいただろうか? 由美は、そのまま後ろの椅子にすわっていた。
「開けてみないの?」
「開けるよ。きれいな文字で感心させられるように、由美もなるといいね。それだけで、賢く思われる。得だよ」
「見た目で判断したらダメだって、ママが言うよ」
「そういうママだって、きれいな洋服が好きだろう?」
「そうね」

 珍しくおとなしく意見を受け入れた。ぼくは封を開けた。長文の手紙が出てくる。ぼくは読まない訳にはいかない。物語のつづきを。そうか、彼女は初恋のひとに会うとこの前に宣言していたのだ。そのことをすっかり忘れていた。どうも、その報告らしい。クラスの前で発表するには生々しい題材だ。

「先日、決めていたことを実行することにしました。わたしには夫はいません。他界するまで彼のことを愛しておりました。別の男性のことなど考えてもみませんでした。だが、いまになると自分を鏡のように映していた夫がいなくなると、わたし自身の存在がぼんやりとしたものになっていきます。解決策もなく、仕方なしに自分のことを覚えていてくれそうなひとを探そうとしました。過去のわたしのある一日を正確に覚えてくれるひとが、わたしには単純に必要なのかもしれません」
「そうだろうね」ぼくは独り言をいい、コーヒーを飲んだ。

「わたしは電車に乗り、自分が育った土地にまた出向きました。ビルは乱立し景観を変えてしまっていますが、そうした新しいパッケージを剥いでみると直ぐに慣れ親しんだ景色が思い出されてきます。そこに立つわたしも、まだ十代の半ばです。今度こそは思い切って玄関のベルを鳴らすことを躊躇しませんでした。出て来た男性は直ぐに彼だと分かりました。相手は、わたしをどこの誰だか覚えていないようです。なにかの勧誘に来たおばさんのように、うっとうしいような少し失礼な態度を取りました。いままで読んでいたらしい新聞紙を無造作に握ったままの姿でしわの寄ったズボン。少し傷んだ靴下。目に映るものはロマンスを介在させないものたちで溢れていました」

「幻滅の瞬間」また、コーヒーを口にふくむ。

「わたしは名乗ろうかどうか考えました。でも、ものの数秒です。機転を利かしたのか、ただ恐れていたのか、わたしはなくなってしまっているそばの友人の家の方角を指差し、あの家の住人はどこかに引っ越してしまったのか訊ねることにしました」
「ほう。現実はつまらないものだね」
「彼はていねいに答えてくれました。段々とこの目の前にいるわたしのことを思い出している様子が垣間見られます。その友人の知り合いということは、あの子と同一人物ということもありえるという感じでした。その行き先を告げた後、もしかして、○○さん? と訊いてくれました」

「ばれちゃったのか」
「わたしは、そうだと答えました。彼はすこし嬉しそうな表情を浮かべ、お互いの近況を伝え合いました。同窓会が何度か行われ、わたしの家には何らかの理由で届かずに漏れているということも判明しました。彼は幹事のような役目を果たしていたので、もともと昔からリーダー気質なのでしたが、わたしの連絡先と住所をメモするため、奥に紙とペンを取りに行きました。わたしはそれらを受け取り、自筆で書き込みました。彼はわたしの旧姓でいままで呼んでいましたが、急に児玉さんかと自分を納得させるようにぼそっと言いました。これで無縁でもないし、逆に完全なる再会の喜びというものもない中間の位置に立ったことになります」

「まあ、スタートはね。それぐらいでしょう。物語はつづいて行くと。彼女にも書く題材に困ることはなしか」

「川島先生も突然の来客に備えて、いつも身だしなみには注意をはらい、家にいてもひげを剃り、頭にはクシをきちんと通し、万全の体制でいてください。そういうひとつひとつの配慮が文章にもあらわれてくると思いますよ」
「最後は警句で終えると。やっぱり、むかしのひとだよ」

「良い手紙? それとも、悪い手紙?」由美がいたことも忘れていた。文字の虜になりやすい自分だった。
「やぎなら、食べてしまうような内容だよ」
「きれいな字なの?」
「そうだろうね」ぼくは児玉さんの娘の文字を想像する。彼女はレストランで小さな機械に頼んだ品を打ち込んでいる。昔ながらにレシートに書き込んでほしいと思った。その筆跡でぼくは彼女への評価を左右させる。「さてと、パパは仕事をする。由美の冬の服のために。由美は宿題をして」
「はーい」愛想が良い娘の理由はどこにあるのだろう? やはり、女性たちは服への誘惑にいちばん弱いのだろうか。ぼくの物語はすすみそうになかった。画面には空白が、荒漠とした砂漠のような状態そのままになっていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(44)

2013年04月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(44)

 由美は新しい服を着ていた。まだ、それがぴったりと合うには、もう少し涼しくなる必要があるようだった。しかし、我が子ながら連れて歩けば、どんな詐欺でも可能にしてくれるような愛らしさをもっていた。口を開かなければだけど。限定される愛らしさ。

「パパ、玄関に新しい靴があるよ」娘は目敏く見つけた。まあ、急に新しい靴が脱いであれば、分かりそうなものであるが。
「買い物に行ったの?」その母の弁。
「映画を見てね、ひとりで食事をして、靴を買って」ぼくには秘められた生活がない。
「独身みたいね」
「たまには悪くないよ」ぼくは妻の手にたくさんの袋があることを見つける。「由美の分だけでもなさそうだね」
「これでも、一人娘だからまだまだ甘えられるのよ」

 ぼくは妻のクローゼットの中身を想像する。見たことはないが満杯に近い状態になっているのだろう。外で仕事をするにはきれいな服が必要で、髪型にも気をつけ、化粧もそれなりに流行を追わなければいけない。「おばさんが迫る」という脅威に対抗するため。だが、客観的に見ると、母と子はどこかのデパートのチラシにもなりそうな容貌をいまでもしていた。ぼくだけが場違いな世界にいる。それで、妻がデパートの食品売り場で買ったらしい惣菜を皿に盛り付けている間、我が宮殿に入り、文字を埋めることにした。

 レナードの片腕には布にくるまれた絵がかかえられていた。約束をしていた絵が完成したのだ。酒場の壁面を飾る一枚。殺風景な場所にいくらか鮮やかさがもたらされるかもしれない。その絵は古びた漁船の操縦席からの眺めが描かれたもので、木製のささくれだった操舵輪が絵の下部を占めていた。酒場に居ても彼らの所属する海を象徴するもの。レナードはその絵に満足感をもっていた。

 店主により壁に乱暴に釘が打ち込まれ、絵が吊るされた。左右の高低の調節が行われ、店主はカウンター内に戻り、その絵を確認した。

「悪くないね。でも、ひとが混んできたら、ここからはお目にかかれない。いつも、いつも目に入るようだったら、この店の売り上げが少ない証拠だからな」
 レナードは薄く笑う。酔って画家の存在そのものを見下したお客は当然のこと、いまは船に乗っているはずだった。彼がこの絵を見て、自分の才能をどう評価するか知りたかった。だが、待ち合わせをする仲でもない。さらに、この地にいる己の時間も減ってきていた。

「仕事のことを忘れるために、ここに来るのに、可哀想な気もしましたが、いちばん、落ち着くところも船の中なのかもしれないと思って、これを題材にしました」
「別の絵を持って来てくれる風変わりなひとが来るまで、そこに飾っておきます。いや、となりもまだまだ空いているか。それで、謝礼は?」
「いらないですよ。ただ、画家というものが女性のヌードだけを描くものではないことだけを認識してもらえれば」
「そんな絵がここにあっても良いのかな。でも、もっと雰囲気が荒ぶれてきてしまうか。そうだ、どうぞ」

 背後の棚からグラスを取り、店主は酒を注いだ。レナードは小さく例を言い、のけぞるようにして飲んで、また空になったグラスに茶色い液体がなみなみと注がれた。

「これで、充分。昼の酒はそこそこに。これから、まだ仕事が残っているもので」
 そう言い終わるとレナードは店を出た。片手には薄汚れた布だけが残っていた。彼は丸めてズボンの尻のポケットに突っ込んだ。あの絵が風化し、ずっとそこにあったようになればいいと思っていた。誰も注視しない。素晴らしい絵だとも思わない。ただ、ここにあるのが誰しもが当然だと思える日が意識もないままに来るのだ。それまでは、新しいものがあることに抵抗があり、波風があり、ざわつく。ひとは馴染みの酒場に新鮮さなど求めていないのかもしれない。いつものカウンター内の顔に、いつもの酒。なじみの船乗りたち。漁師たち。来年も、再来年も。

「あなた、できたわよ。くれば?」
「おっ、豪華だね」
「手をかけた料理というわけにはいかないけど、たまには奮発するというのも良いものでしょう」
「ママ、奮発するってなに?」
「景気よく、お金を出し惜しみしないこと。たまにね」

「たまにとは思えないけど・・・」こう発言する娘のきびしい経済感覚はどこから来たのだろう?
「大人はそとの世界でちょっと疲れて、どっかで隠れてたまってしまっているストレスを発散しないと病気になっちゃうの」
「そして、翌日、二日酔いになったりするんだよ」
「そのパパは、じゃあ、うちにいるから病気にはならないんだ? たまらないんだ?」
「新しいものを作るということは大きなエネルギーがいるものなんだよ。これでも」
「パパは野良犬みたいに元気なのよ。いっしょに生活してても風邪も引かないし、病院にも行ったことがない。健康保険もいらないのよ、本当は。ジョンの方が治療代がかかっているのよ。予防注射もあるし」
「注射、きらい」

 いま、まさに現場に立たされたような様子で、由美は肩口をつかんだ。防御は最大の攻撃なり。

 壁にささった釘。そこに自分の絵が定位置を決めた。レナードは部屋に戻り、この夏に増えた絵の数々を梱包し懇意にしている画廊に船便で送る手続きをした。そこにマーガレットの肖像もある。二枚のうちの片方。彼女たちは途中の出来で一枚を既に選んでいた。あと数日でそれも仕上がる。そのために現実の人間を見る必要ももうないほどだった。ただ、自分はあの場所に通うことだけを求めているような気がしていた。愉快な談笑。その結果として満足の行く絵が整った。レナードは書類にサインし手放してしまった絵のぬくもりを忘れるようまた日差しのもとに出た。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(43)

2013年04月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(43)

 電車に乗って、町に出て、映画館に入った。子どもの視線を対象にしない大人の満足を得させるものを見るのは久し振りのような気がした。汗ばんだ身体も、空調の正しく効いた室内の座席にいることで不快感は解消され、これ以上の幸福などないという気持ちにさせた。さて、内容といえば・・・。

 主人公は後悔に包まれている。その無言の表情だけで、そのすべてを表している。幼い子どもを事故で失い、妻を置いて逃げるように別の場所で生活をしている。流れ者を好む女性がいて、いっしょに暮らすようになっていたが、ここも、この関係も永続するものではないということを互いが認識しているようだった。疑いもなく。かといって直ぐにきっぱりと関係を絶つわけでもなく、永遠性を帯びさせる何かしらの誓いも、ふたりは求めていなかった。世の中に投げ出されたふたり。そして、画面は元の妻の近況の場面になる。

 彼女は新しい生活に踏み出そうとしている。仕事の内容は同じだったが、別の会社に勤めはじめ環境を変えた。好意をもつ男性もいたが見向きもしなかった。いくつかの誘いを波風が立たないように断り、だが、次第に彼女の生活が陰でうわさにのぼるようになる。夫を表向きには忘れている素振りをしていたが、(実際にいない存在としか普段は思えない)仕事から帰り料理を作ると、いつも分量が多いことに気付き、半分以上を皿からゴミ箱に放り込み無駄にしていた。それは学習しないということではないようだった。あえて儀式のようにそのことを繰り返していた。スーパーでの買い物の場面になる。やはり、ひとりにしてはたくさんの食材をカートに入れてしまっていた。顧客に会った帰りにいつもの馴染みとは違う遠いスーパーでも同じことをした。レジを抜け、カートごと駐車場にもっていく女性。それから、車内で待つまだ離婚していない夫が別の車で片腕を窓から出して座っていることに気付く場面になった。

 彼らのそれぞれ停めた車は二、三台分ぐらいしか離れていない。声を掛け合わない訳にはいかないぐらいの距離だ。無視する理由もない。かといって話す内容も思い付かない。ふたりの間は段々と狭まってきた。

「仕事で? その服装似合っているよ」もう目と鼻の先にいる長年連れ添った女性に、男性は、相手も知っている昔の面影を残したままそう言った。
「ありがとう。この近くに?」
「そう」すると、ふたりの後ろに小さく見えるスーパーの出入り口から蓮っ葉な女性が同じようにカートを押してくる姿が写り込んだ。徐々に彼らに近寄ってくる。まだ新しい女性は気付いていない。車を停めた場所を忘れてしまったようにキョロキョロしている。しかし、話す内容の費えたふたりは離れた。新しい女性は男性が暇を見つけて口説いていると誤解してなじった。日焼けした片腕が弱々しい華奢なこぶしで叩かれる。元の女性の車が発車する。曲がる際に彼の車に女性が乗り込んだのが見えた。バック・ミラーにその姿が写っている画面に切り替わる。そこで、ブランコに乗る子どもの背中を押す過去の母親の映像になった。ぼくは号泣していた。なにかが壊れてしまったように涙も、また鼻からも液体が止まらなかった。

 洗面所で顔を洗い、痕跡を消そうとしたが目はまだ真っ赤だった。泣いた後には空腹がやって来た。ぼくは店に入り、注文をして待っている間にノートを出した。

 レナードは絵をプレゼントした子どもと遊ぶようになっていた。ブランコの背中を押し、絵を描く方法を教えた。古くなって処分に困っていた画材もあげた。彼の部屋の荷物は段々と整理されていった。服もトランクにしまわれるものも増えた。かといってたくさんのものを準備し、用意している訳でもない。新しい土地で必要なものはまた買い足せばいい。いらないものは処分に悩む時間さえ惜しんだ。過去の堆積が多くなり、そのことに愛着をもつこと自体、成長を妨げるものとして恐れた。しかし、いつかそういう呪縛に甘んじてしまいたいとも思っていた。その象徴がブランコに乗る小さな背中を軽やかに押すことであり、絵を教え大傑作にならなくても自分の影響が誰かに目に見える形で伝わることだった。稚拙であればあるほど、なお良かった。

 食事を終え、あまりにも古びた靴のことを思い出した。大人はサイズの変化も乏しく、着られなくなることなどない。また、ぼろぼろになるまで買い足すことを躊躇しなくてもよい。それがおしゃれという資本主義の洗礼であり、経済の成り立ちであった。誰かは、ぼくの本か、洋服のどっちを買うかを選ぶことで迷っているのだろうか。そう考えると、近い未来には敗北しか待っていないような気がした。直ぐに見栄えとして反映されるもの。と、頭の片隅に少しだけ残り、満足や笑顔や悲しみの想起に、ささやかながら役立つもの。どちらが、より素敵なものなのだろうか。

 それで、ぼくはまっさらな靴を履いている。店員さんは笑顔で屈み、購買意欲を誘う。かかとに彼女のきれいな指が挟まれる。ぼくは、自分の体内と縁を切った古い靴を憎悪するように眺めた。あれが、ぼく自身なのだ。

 マーガレットは秋に着る服を試着していた。この地の陽気に映えるような色合いだった。暫くすればグレーの空に包まれる自分のいつもの居場所に似合うかどうかなどは念頭に置かず、ただこの日の気分を優先させた。そして、うれしいこの気分だけで今後の人生を乗り切りたいと漠然と思っていた。彼女は新しい服が入った袋を持って店の外に出た。まだ、夏が終わるということが信じられないほどの強い外気だった。まぶしげに彼女は顔をしかめ、この服を着た自分を誰に見てもらいたいのかだけを考えていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(42)

2013年04月19日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(42)

「あなた、ご機嫌だったわよ、やっと、見つけたって、呪文のように何度も繰り返して、昨夜。楽しいものでも見つかったの?」
 妻はすでに外出の準備をしている。翌朝。日曜の朝。
「そうだったのか、憶えていないけど」ぼくは佐久間さんと加藤さんと本談義で盛り上がっていただけなのだ。その後の彼らとの話題も道中も分からない。「どっか行くの?」

「由美の秋物の服を買ってくる。色褪せた夏休み用のシャツやブラウスやスカートばかりになってしまったから。去年のものは小さくなったから着られないし」
「そんなに大きくなったんだ。それで、ご両親も?」
「お財布を頼りにしてるからね」悪意もなく素直な表情で妻が言った。夫の稼ぎは新しい洋服もむずかしいのか。「ジョンの散歩も終わっているから、朝寝坊をつづけてもよし、机に向かうのもよし」
「起きるよ。送るよ」

 玄関の前で、「行ってきます」と、由美は軍人のように敬礼した。昨日、向こうのおじいちゃんになにか言われたのだろう。洗脳される幼児。それに応対するようにジョンは一声、吠えた。

「今日も思いがけなくひとりになった」ぼくは、映画の主人公のように独り言をわざわざ口に出してみた。すると、電話が鳴った。妻が駅に向かう途中で言い忘れたことを思い出したらしい。電話が終わっても無意識に操作をつづけた。すると、昨夜、ぼくは加藤さんの電話番号を登録していたらしいことを発見する。行われたのは、どの瞬間だったのだ。別人ではない。過去に登場する加藤さんという知人でもない。その証拠に「加藤姉本好き」ときちんと間違わないような名前になっていた。ぼくには一抹の後ろめたさがあった。

 マーガレットの母のナンシーは洋服を縫っている。そして、編んでいる。その作業をしながら考え事もしている。自分が結婚したときに着た純白のドレスのこと。いつか、似たものを娘のマーガレットも着ることになる。それは近い未来だろうか。横にいるのは誰なのだろうか。おそらくエドワードなのだろう。だが、それは相変わらず母の願望にとどまっているに過ぎなかった。もう数回しかレナードは娘のもとに来ないと先日、告げた。ああいう男性の妻になるひとはいったいどういうタイプなのだろう、と想像の羽をさらに拡げた。風来坊の芸術家に、一生をともにする妻などそもそも必要なのだろうか。急に思い立って絵の対象を探しに行ってしまうようなひとをじっと待つひとなど稀有な存在ではないのだろうか。いや、現代の女性たちは、いっしょに同行して楽しむような娘たちばかりだろうか。ひとりのひとに、ひとつの場所で添え遂げた自分を過去の遺物のように感じていた。縫う手も止めず、ナンシーは考えつづけていた。

 ぼくの頭は空っぽでありながら、いろいろなものが無駄に詰まっているようにも感じられた。まだ暑かったが外に散歩することにした。母と、その両親と洋服を買いに行く由美。どのようなものを着せられるのだろう。それは滑り台を汚れも気にせずに履いて滑れる類いのものであろうか。他所の家のベランダに由美と同じようなサイズの洋服が風にあおられひるがえっていた。自分が着た子ども時代の服はいったいどこに消え去ってしまったのだろう。どこかに貰ってくれるひとがいたのか。自分にはなにも分からなかった。

 マーガレットが野菜をかごに入れて戻って来た。母は縫う手をとめた。もう身体的に大幅な成長をしない女性になった。この子をひざにのせて愛おしんだ夫の姿。あれはもう何年も前になる。わたしが最後の瞬間に思い浮かべる映像は、もしかしたら、あれかもしれない、とナンシーは考えていた。
「どうかしたの? ぼんやりとして」
「あなたのこの夏の肖像画も終わってしまうのね。毎年、ああした画家さんがいて、あなたのここでの成長を年毎に残してくれたら良かったのになと思って」

「感傷的過ぎるわよ」
「感傷ぐらいしか残されていないのよ、もうこの年にもなれば」
「まだまだじゃない。来年も、再来年もここに来るんだし」
「あなたは別の家族をもっているかもしれない」

 マーガレットは返答もしなかった。この夏の間、口に出されることは少なかったがその圧迫は絶えずあった。最初のうちは圧迫としか感じられなかったが、いまでは受容と挑む勇気がでてきた。それはレナードの前向きな思いの影響かもしれなかった。考えていることで満足して立ち止まっていると、絵は形となって表れない。生きることは行動するということと同義語なのだ。行動とは判断の結果であり、判断とはイエスとノーの繰り返しのことなのだ。その連続の過程が生きるということで、若いうちはその判断が多くあった。その渦中にマーガレットもいるのだ。

 ぼくは、汗を大量にかいている。自動販売機の前でどの飲み物にしようか長い間、迷っていた。うしろに由美ぐらいの女の子が並んだ。ぼくは彼女に席の順番をゆずる。
「どうぞ」
「届かないから、その黄色いの押して」彼女はある品物を指差す。ぼくは、押す手前で指をとめ、「これ?」という風に確認の視線を彼女に向けた。その少女はこっくりと頷く。すると、下から飲み物がでてきた。「これ、開けて」

 ぼくはいったん受け取り、カンのふたを開けた。そして、小さな手にまた戻した。
「ありがとう」
「どういたしまして」

 そこに彼女の母親らしきひとがやってきた。ハンカチで額の汗を拭いている。
「おじちゃんに開けてもらった」
「すいません」
「優しいお兄さんはカンを開けることを求められていた」
「え?」
「いいえ、こっちのことです」ぼくも同じものを購入することにした。夏の午前。由美も妻の両親にきちんとお礼を言えるだろうか。その子の父は彼らに感謝をすることをためらっていた。彼らが理想とする義理の息子はどういうものなのだろう? 孫を養う頼れる父はどういうタイプなのだろうか?

 ナンシーは小さなマーガレットと夫の映像を忘れ去ることができなかった。茹でた豆を剥きながらも、ポテトをつぶしながらも、なにをしてもその映像が目の前にあった。レナードは頼んだらそういう絵も描いてくれるのだろうか。しかし、もう時間がなかった。思い付いた日が遅いということを何度も経験してきた。これもひとつだ。頼むこともなく、もし、自分にそうした才能が与えられているならば、最初の絵はその情景にするだろうと決めた。しかし、決めたとしてもどこにも現実の世界にはあらわれてはくれなかった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(41)

2013年04月18日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(41)

 雨の勢いが急に増したので商店街のアーケードに逃げ込み一時的にしのいだ。しかし、ものの十分もしないうちに傘が邪魔になるほど雨雲は去ってしまった。ぼくの思い付いたアイデアのように。あのとき、捕まえておくべきだったのだ。そして、形あるものとして残して置くべきだったのだ。残念ながら、もうない。次の雨雲の到来を気長に待つか。

 ひとりでいるのも淋しくて、相手をしてくれそうなひとを探した。子ども時代なら、いきなり家のドアを叩くことも歓迎された。大人には何事も準備が必要だ。計画をして、待ち合わせの場所を決め、その未来の出来事のために時間を逆算した。カレンダーに仰々しく丸をつけることもなく。遠足間近。運動会まであと三日。

 ぼくは携帯電話をいじっている。今日、メモリに追加されたばかりの佐久間さんがいた。彼は、ひとりでいるのだろうか。試しに電話をかけてみた。
「妻と娘が、妻の実家に行ってしまって、お酒でもたまにはゆっくり飲もうかと思っているんだけど、ひとりもなんだしなと思って」
「いいですよ。どこですか? 待ってて下さい」彼にいる場所を告げて、ぼくは待つ運命になった。そして、わずかな時間で彼はやって来た。「傘、必要なくなりましたね」手ぶらの佐久間さんは、ぼくの手に握られている傘をあわれなものでも見るように眺めていた。

「ごめん、昼も夜も付き合わせて」
「いいですよ。八月の土曜の夜にはビールが似合いそうですから。ここ、どうですか?」彼は商店街から宅地に抜け出た場所で光りを放っている一軒の店を指差した。
「たまに来るんですか?」
「そうでもないです。けれど、ほんのたまに」佐久間さんはそう言いながら躊躇もない様子で重そうなドアを押した。

 ケンは友人とテニスをした後に、パブに入った。奥に座っていたので相手からは分からなかったが、マーガレットと親しい男性が店でなにかを購入して出て行ったのが遠くから見えた。ぼくがマーガレットに会えないのなら、彼も同じように接することができないと、友人と話しながらケンは考えていた。しかし、会話が楽しかったので直ぐにそのことを忘れた。テニスのあとの爽快な汗と渇きをビールによって体内と口内の潤いを取り戻していた。友人同士の気楽な語らいがあった。夏の夕暮れが窓のそとに見える。サッカーを終えた少年たちがふざけながら歩いている。恋の心配なども皆無なように、女性たちの視線も意識しないで、別の理由であるスポーツ後の高揚でひげもないきれいな頬がそれぞれ上気していた。

「では、クラスの生徒と先生の立場を離れた記念に」佐久間さんはグラスを捧げる。彼も読書家だった。その話に加わるべく店員がいた。彼はその話題に向いている女性とお勧めのものを提供し合うために、たまにここに来るようだった。ネーム・プレートがつけられないままカウンターに置かれていた。「加藤」と堅い感じの筆跡で記されていた。
「弟さんいません?」ぶっきらぼうな口調であることに自身で驚きながらぼくは訊ねた。
「います、高校生の。知ってるんですか? 夜、町を見回りする役目とか?」活字中毒者をついに発見した。努力もいらなかったけど。その女性の声はこういう類いのものなのか。だが、ぼくは、久美子を簡単に売ることはできない。
「そんなことはしていないけど。まあ、なんとなく。ぼくの売れない本の読者がどこかにいそうでね」
「ぼくが、そもそも、加藤さんに川島さんの本を紹介したんですよ。見つけられない原石。無冠のチャンピオンだって」佐久間さんの言葉に反応したぼくはビールを吹き出す。

「石の裏に眠れる、丸まることを願う虫」テーブルの上をおしぼりで拭きつつぼくは返答した。
「お茶らけないでも大丈夫ですよ。ぼくがそのクラスに通って、受けた印象を話しました。本はともかく、おもしろい先生なんだよ、脱線するときがとくにって」と、佐久間さんは感想を付け加えた。
「そして、わたしは、本屋さんに注文した。バイト代を握って」加藤さんは本のページをめくる動作をした。さすがに板についている。
「そう」それから、三人で本や文章の話をする。こんな場所が近いところにあったのか。いや、ぼくは遅くなった昼寝の真っ只中にもぐりこんでしまっただけなのか?

「川島さんのもっとも好きな言葉は?」しばらく経って佐久間さんが訊く。人生論を求めるまじめな気質。
「あらゆる差別を、自分のベストを尽くさない言い訳にしない。黒人のテニス選手の言葉だよ」
「差別とか、いじめに遭ったんですか?」金魚すくいの姉がつぶらな瞳できいた。一度も読書をしたことがなさそうなきれいな白目だった。いや、青かった。透明さを含む青。
「いいや、一度も」本当のことを白状しないわけにはいかない。同情をしてもらうために、一度ぐらいは差別されておくべきだったのかも。
「つまんない」
「ベストを尽くすか、尽くさないかが大事なんだよ」
「じゃあ、いつもベストを」

「そうしたいけど、なかなか。毎度、適温のビールにたどり着けるわけでもない世界だよ。ぬるかったり、冷えすぎたりでベストはないよ。しかし、ここは最高だね」ぼくはグラスを握る。本の話題とビールを楽しむ世界へようこそ、とこころのなかで言った。

 ケンは酔い始めていた。マーガレットのことを話すために、先ほどのひとがここに居てくれればいいのにとさえ考えていた。自分の知らないマーガレットの性格の一部を彼は持っているのかもしれない。また、反対にあの男性が見たこともないマーガレットの愛嬌ある表情を自分は脳にコレクションしているのだとも自負していた。だが、酔いが深まりつつある状況では一定して不動のものなど何もない気がした。そう思いながらも、友人が足取りもままならない状況でふたつのグラスをゆらゆらと運び、横揺れに頑迷に耐える表情で何度か背や椅子にぶつかりつつ時間をかけてケンの前まで歩いて来た。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(40)

2013年04月18日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(40)

 家の前まで来ると、駐車スペースに車がなかった。二日酔いの妻を心配していた自分は、余計なことに頭を奪われていたようだった。カギを開け、冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出す。由美もいない。犬もいない。仕事にこの有意義な時間を充てれば良いのだろうが、そういう気も不思議と起こらなかった。

 エドワードはサッカーを見終わってから、パンとビールをパブで買い、部屋にもどった。ひとりの静かな時間を過ごすことに懲りごりとしていた。家というのはにぎやかさがあってこそ、家であるのだろう。静かなのは深夜のひとときだけでいい。その際にも隣で小さな寝息が聞こえるほうが安心するのだ。ひとりで別の家族と育った彼は、そういう家族観に達していた。

 ぼくは家にいる。もし、由美やジョンを奪われた自分は、どうなってしまうのだろう。時間は有り余るほどあるので、自分の能力を燃え尽くすように偉大な傑作を書き上げるのだろうか。そういうことにはなりそうもなかった。ぼくは喪失感の虜になり、なにも書けない。書こうともしない。ただ、失われたものを取り戻すべき嘆くのだ。

 空想にも飽きたので、家の小さな花壇に水を撒くことにした。容赦なく照りつける光り。それも、朝晩は秋の気配が漂うようになってきた。読書の秋。食欲の秋。ぼくは、ホースを片手に空いた手でウエスト周りをさすった。

 そこに久美子が自転車でやって来た。
「お帰りなさい。今日もスイミング?」
「はい、いつものように」自転車は止められ、彼女はヒレではない足ですっくと立った。
「今日、バスケ少年にあったよ。金魚すくいをボールに替えて。そうだ、名前、なんて言うの?」
「加藤くん」
「そう。加藤くんね。意外にもぼくの本を読んでくれているそうだね・・・」自負心という角砂糖を運ぶアリにも似た自分。プライドとジョイ。

「彼のお姉さんが活字中毒みたいなひとで、何でも読むんです。どんなものでも買わずにいられなくて、さらに、読まずにいられない。だから、家にあったんでしょうね。どんなものでもあるから」
「久美子ちゃんは、ときどき、正直すぎるきらいがあるね」ぼくは撒きすぎていた水を止めた。才能の浪費。ピンとキリ。どんなものも、お任せ下さい。「でも、ぼくのことは知っていた」

「わたしが話したから。身近なひとのものの方が頭に入りやすいと思いません?」
「裏切らないといいけど、どんなものでもあるお家なのに」ぼくはその姉に、いや、姉の蔵書に興味が湧いた。「久美子ちゃんはセールスの才能があるのかね。埋もれた商品を掘り起こして。何て、説明したの?」
「隣の可愛い子のお父さん。この前、会ったひとだけど、書くというより、目の前で笑わせてくれることに向いているおじさん」

「正直であることの美徳にも程度というものがあるんだよ。じゃあ、また」ぼくは、今日、うるさいクラスのなかのひとりを大道芸人みたいだと思っていたのだ。彼は、やはり、ぼくの間違いなき生徒だったのか。自分は書くという行為に根本的に向いていないのだろうか。違う、どんなものでも書く。文字こそが碑文にもなり、法律の条文をなし、伝達にもっとも適し、歴史がもたらす劣化にもさらされない唯一の耐久あるものなのだ。
 レナードはらくだが描かれた絵をとなりの子にあげた。母親はそのことに感謝し、父親は水浸しの部屋を食い止めてもらった事実に礼を言った。反面、慣例の薄い子どもは白いキャンバスが生まれ変わっていることに驚嘆の声をあげた。

「時間、かかった?」
「そうでもないよ。目に映るものも描けるし、そこにないものだって、どんなものでも描けるように訓練しているからね」
「いつか、こんな風に描けるようになれるかな?」
「なれるかもしれないね。でも、途中であきらめなければだけど」

 レナードは画家を志すことを何度もあきらめようとしていた。畑を耕して、実際に収穫物を手にするというのが妥当なまわりの社会の基準だった。しかし、いまのレナードはらくだの絵で笑顔と尊敬の眼差しを手に入れた。このひとりを喜ばすことが、もっと大勢に拡がればいい。いや、ひとりで充分なのかもしれない。ひとりの完全なる満足こそが永遠性につながるのだ。ひとりのこころを根底から打たないものは、どんな価値もないのかもしれない。

「どんなものでも描けるの?」
「大体はね。目に見えるものであれば。この世に存在するものであれば。例えば、月。屋根。空」レナードは上空を指差した。さらに思いつくまま、考えつづける。暗闇、静けさ、驚き、静謐。ただの状態というものも描けるのかもしれない。しかし、それは第三者の胸を奥底から捉えて放さないものだろうか。レナードにはまだ答えがなかった。

 明かりもつけないまま部屋は段々と暗くなる。テーブルに夕飯は両親と食べてくるので、ひとりで何か食べておいて、というメモが置かれていたことを思い出す。ぼくはシャワーを浴びて、新鮮なシャツに袖を通す。娘をもつ面白いおじさん。いつから、ぼくはそんな役回りを与えられてしまったのだろう。しかし、きれいな衣服に似合う上品な靴が玄関にも下駄箱にもどこにもないことに気付いた。佐久間さんは、まだスーツを大切にしているはずだ。社会の役割を果たす一員にもどれる日を思い描いて。その準備に必要な道具たち。ぼくは自分の部屋を思い出し、キーボードぐらいか、大切にしているものは、と自嘲しながら汚れたスニーカーを履き、玄関のカギを閉めた。途端に雷雨になり、また傘を取りに行った。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(39)

2013年04月16日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(39)

 ぼくらは店を出て、帰り道が同じということで初めて佐久間さんとふたりで歩いていた。

「川島さんは慕われていますね。児玉さんにも狭山君にも、川崎さんにも」彼の顔には憧れという表情が浮かんでいた。「うらやましいな。ぼくは会社時代に誰からも慕われなかったし、誰からもからかわれなかった。喧嘩の相手にすらなれない」

「狭山君にも慕われてますかね、客観的に見て」ぼくは腑に落ちない。
「好きじゃなかったら、あんなに生意気な態度も取れないもんですよ、なかなか。喧嘩するほど、仲がいいとも言いますからね」
「そういう相手がいなかった、佐久間さんには?」
「いないですね。透明人間のように誰の視線も勝ち得ない」
「ここに来て、じゃあ、良かったと?」
「それは、もう」

 エドワードは休日の町の中をひとりで歩いている。マーガレットの家に招かれることもない自分は、どうやって暇をつぶすのか手段も計画もなく、途方にくれていた。彼は孤独を感じている。部屋に戻ろうかと思った矢先、見知った顔を見つけた。学生時代の恩師だ。彼はなつかしさがこみ上げ、自然と手を振ってしまった。いつもの何事も行動に移す前に思案をする彼にとってはとても珍しいことだった。だが、その相手は怪訝そうな顔をしていた。自分の後ろに誰か知り合いでもいて、この未知の男性はそのひとに手を振っているのだろうと思い、振り返ってみるも、背中には誰もいなかった。

「お久し振りです」エドワードは成り行き上、立ち止まってそう言った。相手の名前を告げたので人違いであるはずもなかった。相手はその不意打ちらしい親しげな様子にたじろぎながらも話の接点を見つけようと焦っていた。自分の職業柄、教え子であるということに見当をつけたが、引越しも多かったので近所づきあいをしたひとの方向でも、空想のその場面に彼を置いて探した。しかし、自分の研究のことを持ち出したので、教え子であることが直ぐに知れた。

 エドワードは不快であった。いや、不快という言葉は妥当でもなく、ぴったりとは当てはまらない。自分の存在の薄っぺらさが直接的に理解できた。早くこの状態を打破したかった。それには家庭という安住の立脚地を探すことを再び考え出して、そこに住まわる自分を思い描いた。それは、だが未来だ。その後の現在の家までの道中、彼は知り合いにも挨拶されないように伏し目がちで歩いた。

「川島さんは人気者のグループに属してましたか?」
「さあ、考えてみたこともない。普通にスポーツして、学校帰りに友人たちと無駄話をして」
「恋人ができて、結婚して、娘が産まれて」
「二日酔いに妻はなって、娘はおかしな言葉ばかり覚えて使ってるよ」
「それが、でも、人生ですよね。そういうタイプの小説があってもいいんじゃないですか」
「ドラマティックじゃないですね」
「ドラマなんか必要じゃないんじゃないですか」佐久間さんは思いつめたひとのように前を一心に見ていた。ぼくは彼を家にでも招待することを考えた。だが、その前に説明と了承がいる。独身ではないということは、こういうことなのか。

「お仕事のほうは?」
「探しています。これでも、そこそこ貯金があるんですよ。川島さんは独立する際に、資金はたまっていたんですか?」
「独立というほどのものでもなし、資金をつくって殖やすという類いのものでもないですしね。ただ、食い潰すだけ。いつか、芽が出るという可能性を無駄と知りながらも信じ、種を方々に投げるだけ」ぼくはその仕草をした。その頃には分かれ道に来ていた。彼は左に、ぼくは右に。ぼくは人気者であったのかもしれないという過去を想像し、華々しくゴールのテープを切る映像を思い浮かべた。そのような機会は実際にはない。最後の一文字をびしっと決めたぼく。しかし、やはり、昼寝かなと考えていた。

 エドワードは下宿の横の空き地でサッカーが行われていたので、外での孤独と部屋でひとりでこもる自分を比べ、ベンチに座り屋外でそれを眺めることにした。空き地の中で、ゴールが決まれば片側は抱き合って歓喜し、もう一方は捨て台詞を吐いたり、また悔しがって地面を蹴ったりしていた。キーパーをなぐさめる優しい子もいた。その過程が成長にとって、また、人間らしさにとってもいかに貴重な体験かと羨望の目をさらに向けた。彼らは家に帰っても友人や自分の活躍を両親や兄弟に報告したりするのだろう。そこには憎しみも、いままさにエドワードが感じていた無関心さへの恐怖もなかった。

 ぼくは、バスケットのコートの横を通りかかる。なんとなく足を止めたわけでもないが、自然と目がそちらに向いた。すると、フェンス際までボールを拾いに来たひとりの青年から声をかけられた。娘の友だちにしては大きすぎるし、ぼくの行動範囲からいえば、いくらか幼すぎた。

「こんにちは、川島さん」ぼくの名前も知っている。やっと、気付いた。
「なんだ、久美子ちゃんの金魚か」
「いやな表現ですね」彼は振り返ってボールを待つ友人たちに投げてまたこちらを向いた。「散歩ですか?」
「いや、たまに、本の書き方を教えているんだよ。無免許なのにね」
「ぼくも買いましたよ。まだ、数ページしか読んでいないけど」

「君が?」
「そう、ぼくが。おかしいですか?」
「ううん。ただ、想像してなかったから」
「金魚をすくうだけとか思っていたりとか?」
「バスケもしてる」
「いっしょにやります?」

「まさか」ぼくは、それより我が読者の感想を望んでいた。つまらなかったら、何だか、久美子の名誉や清純な愛らしさまで傷つく気がした。そんなことはあり得ないのに。ちょっとだけ眠気が減った。ぼくは急いで帰ってキーボードを無心に叩くのだ。バスケットをして突き指なんかをしている場合ではないのだ。別れる際の言葉が口からもれ、ぼくは直射日光も避けずに、華やいだ気持ちで家にある架空のゴールに向かっていた。ゴールは、またスタートなり。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(38)

2013年04月14日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(38)

「川島さん、たまにはお食事でも・・・」と、川崎さんに誘われる。今朝、このような展開になるとは予想していなかった。ぼくは同意の返事をして、入り口で待っている。彼女は化粧を直していた。多分、トイレで念入りに。隣の家の久美子と数歳しか違わないのに、女性の変化は大きいものだ。二日酔いの妻は由美の昼食の準備をしているのだろうか。

「お待たせしました」彼女のうしろに数人がいっしょに出て来た。
「君たちも?」
「それは、そうでしょう。ふたりで行けると思っていたんですか?」
 狭山君はぼくのこころの奥を凝視している。
「まさか。そこまで図々しくないよ」本当にそうであろうか。ぼくは歩きながら考えている。

 レナードも考えていた。動物の絵。子どもが簡単には見ることのできないもの。異国の情緒を感じさせるもの。その暮らしのなかで動物と一体感を想起させるもの。レナードはそう考えながら自然と手を動かしはじめた。白いキャンバスに色が塗られる。彼は茶色を選んだ。そして、背中にこぶがある生き物が描かれていた。

 川崎さんの背中にいくつかの顔があった。狭山君と児玉さん。もうひとり、普通のサラリーマンがいた。いや、元サラリーマンがいた。彼は訳があって仕事を辞めていた。ぼくは数年前の決断のことを考えている。娘もいる。生活費はいま以上にかかる。でも、妻に伝えた。

「一度だけの人生だもん、あなたの好きにやったら」過去に彼女はそう確かに言ったのだ。その目論見がいくらか下方修正を求められている。

 その五人でランチを食べることになった。ぼくは川崎さんに次回の発表のことを伝える。自分の書いたものを誰かの判断にゆだねる。真っ白なものが言葉によって映像になり、感情も揺さぶられる。ものを見る観点が自分の身体から少し移動し、他者の視線の元に変わる。だが、普通に生活をしている世界中のすべてのひとに共通点があり、また反対にすべてのひとに独自の経験があるはずだった。だが、私たちの民族は真似がうまい、と世界から評価されている。その面で見下される誤解もあった。正確な理解かもしれない。ぼくは、川崎さんの独自の経験や決意を知りたかった。物事にはつづきがある。

 レナードの手は自然と動いた。らくだの足は砂漠を歩行し、背景には数本しかない木も描かれている。そこには自由があり、さびしさもあった。らくだの命は人間に依存し、人間の未来もらくだの歩みによって保たれていた。レナードは二日酔いも忘れ、自分の成し得たことに満足していた。

「狭山さんの恩師は、ここにいる川島先生なの?」
 川崎さんは静かにフォークを動かしながらそう言った。
「反面教師という言葉もあるぐらいだからね・・・」彼は表情も変化させずにそう答えた。
「いつか、素晴らしい最高傑作を書いて、君もぼくのサインを貰いにくるよ」
「じゃあ、いまからもらっておきますか」と失業中の佐久間さんが言った。彼はいつも場をなごますことを念頭に置いているようだった。
「この支払いの伝票にサインしてもらうだけでいいですよ」狭山君はあいかわらず皮肉な人間のようだった。しかし、屈折した甘えがあるということでは、ぼくの賛同者になる要素もあるのだろう。

 レナードは乾きはじめた絵を見守る。その子どもはその絵をずっと大切にするのかもしれない。反対に、大人になる過程で目標も変更を強いられ、絵の存在も忘れてしまうのかもしれない。しかし、子どものときに約束を守ってくれた隣の家に間借りしていた画家のことは無意識化の思い出としてのこりつづけるだろう。一枚の絵が友情の証として渡され、両者の満足の源となる。彼はプレゼントできる日を想像した。この地にいるのもあと二週間ほどだろう。マーガレットの肖像の二枚も片付く。酒場の船乗りたちのために飾る絵も完成間近だ。いつか、再びここを訪れた日に白い髭でも生やした自分は、回想の記憶をたくさんもてているという確信をレナードは感じようとしていた。だが、未来にはまだまだたくさんするべきことが山積されていた。過去を愛おしんでいる時間などないのだ、と揺るがぬ決意をまた高ぶらせた。

「川島先生は、帰ったら、また物語のつづきを?」

 児玉さんは純粋な気持ちでそう訊いているのだろう。暑いし、疲れたし、少し昼寝でもしようとぼくは考えていた。しかし、答えは、

「多分、そうでしょうね。登場人物がストップしたまま、一時停止を解除されるのを待っていますから」と、雄弁にしゃべっていた。ぼくは発表のために書いているのではない。クラスのみんなの拍手がほしいわけでもない。ただ、頭に浮かんだメロディーを楽譜に写すことと同じ作業を望んでいるのだ。演奏家がいて、コンサート・ホールがあり、チケットを並んで買うひとたちの列ができ、客席で着飾った観客が感動を手に入れる。ぼくの場合、印刷屋に文字の羅列が運ばれ、白い紙を文字で埋める。世界の片隅でそれが大切にされる。動物図鑑でも書いたほうが世のためになるのだろうか。世のためって、一体、結局はなんのことなのだ。ぼくは食後のコーヒーでさえ眠気を消すことがないことを知り、ぼんやりと空想の世界に戻って行った。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(37)

2013年04月13日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(37)

「次は、狭山君の発表をどうぞ」彼はぼくの味方側にはいなかった。ぼくが書いているものを都度、批判した。だが、大きなグループでは文章を愛好しているので同じ側にいた。それから、足取りもゆっくりと悠然と歩いてくる。一体、どのようなものを書いているのだろう。

 彼は前に出ると一息ついて窓の外を見た。ぼくも連られて外を見た。スプリンクラーの名残りなのか虹が出ていた。由美にも見せたいものだとぼくは思っていた。妻の頭痛はどうなったのだろう。

「自分の選んだものが運命なのか、それとも、やはり取捨選択をすること自体、自分の能動的かつ受動的な意味合いで、道を切り拓いているのだろうか。そのことをわたくし自身で判断したいと考えていた。それは、ずっと自分の頭にあるものだった。遠い昔。そこで、母は電車の目の前に立っている老人に席を譲るようぼくに告げ、シートとわたくしの背中の間に手を挟み、座席から降りるよう言葉以外でも促した。わたくしは飛び降りるような形で足の裏を車内の床に着けた。この前に立った老人は、わたくしの前にあらわれる必要があったのだろうか。これも偶然の一部なのか。吊り革に届かないため、ひやりとした鉄の棒につかまりながら幼少期のわたくしは考えつづけていた。あのとき、頑なに譲らないとしたら、母はどのような態度を取ったのだろうか。自分で席を譲ったのか。ただ、不機嫌になったのか。誰も分からない。人間は瞬時の判断をしつづけ、意味付けも後悔も、逆に満足も判断に比べれば、割合としては少なく、数パーセントしか襲ってこない。

 わたくしはある少女に恋をする、彼女はぼくの前にあらわれる必要があったのだろうか。もし、別の学校に通うことになったら、その相手はどこかに生まれてくるのだろうか。それとも、わたくしは恋をすることが不可能な存在になってしまったのだろうか。

 ある画家がモナリザを描く。彼の前にそのモデルがあらわれる必要があったのだろうか。もし、いなかったら名画は生まれなかったのだろうか。いや、そのようなことはありえない。別の種類の名画がきちんと存在するのだ。ルーブル美術館の壁を埋める要求に見合うものとなるものが。

 そして、わたしはこのクラスを受講することを選んだ。当初は無意味なものだと思っていた。書くという作業はひとりですればいいのだ。ライバルもいらない、胸の奥に眠るものを自分で勝手に叩き起こせばいい。しかし、わたくしはここでの数ヶ月に満足している。もし、今後、なにも書かないとしてもある種の経験ができた。恩師にも巡り合えた。恩師の最高傑作はいつか生まれるのだろう。それは運命でもあり、努力でもある。瞬時の判断ではなく、根気のいる作業だろう。よそ見をしないで頑張ってほしい。同じように、わたくしも打ち込むべきものを、ただひたすらに打ち込んで行きたい」

 クラスは静まり返る。

 レナードは水浸しになった床を仕上げとしてぼろ切れで拭いた。配管のつなぎ目をきっちりと閉め、一時しのぎにせよなんとか災難が大きくならないよう防いだ。酔いのことも辛い朝も忘れていた。汚れたズボンで手を拭い、外に出た。今日も鳥が鳴いている。隣の家の子どもが鳥の名前を告げた。

「詳しいんだね。将来、なにになるの?」
「動物と暮らしたい。おじさん、今度、動物の絵を描いて」

 その言葉を母がとがめる。
「いいえ、いいんですよ。依頼がないことには、こちらも将来が心配になりますから。居る間になにか描くよ」

 ぼくはクラスに居ても幻影を見ていた。発注がある、それは素晴らしいことなのだ。静まり返ったクラスは狭山君に喝采をおくる。運命を切り開こうとしている児玉さんはとくに目を潤ませながら拍手をしていた。彼女にこれ以上、火をつける役目など必要なかったのだ。後押しはいらない。もう、決戦が待っている。しかし、狭山君の恩師というのはぼくなのか? こんなに簡単にぼくは騙されてしまうのか。初恋の少女のように彼のとりこになってしまったのか。油断は禁物だ。彼はぼくの味方側にはいないはずだ。いや、ぼくの情熱が伝わった結果なのだ。この仕事を引き受けたことへのご褒美でもあるのだ。

「素晴らしかったですね。掛け替えのない友情。親の模範やしつけ。ひとりの娘をもつ人間としては考えさせられました。文字や言葉を上手に正確にあやつることは文明人の証です。みなさんも、胸に眠っている言葉を叩き起こしにいきましょう。では、さてと、ある一冊の本をきょうも持ってきましたので、読んでみます。いや、声のきれいな川崎さんに読んでもらいましょう」

 ぼくは、ある女性に本を差し出す。彼女は満更でもなさそうに受け取って、ある箇所を読み上げた。

 ぼくは草原にいる。いや、空気のきれいな高原にいる。爽やかな風が通り過ぎ、きれいな鳥の声もする。ディスカッションの内容を考えながら、川崎さんの声に聞き惚れる。彼女はアナウンサーか新聞記者になりたいとの夢を持つ大学生だ。彼女の父がたまたまぼくのことを知っていて、本に詳しい存在だと勘違いも混じって、認めていた。言葉をあやつる人間のところに週一回でも通えば、就職に表立って有利にならなくても、そこそこは役立つだろうと考えたようだ。次は、彼女になにか発表してもらおう。ぼくは他人の評価を期待していた。それに溺れてみたいとも思っていた。彼女の声が止む。代わりに蝉の音がした。レナードはどの動物を選ぶのだろう。川崎さんはどの会社を選ぶのだろう。由美の声は、誰に似たのだろう。妻の母がぼくに厭味を言うときの声にも似ていた。いつまでも高原にはいられない。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(36)

2013年04月13日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(36)

 レナードは重い頭とだるい身体を実質的に感じ、ベッドに横たわっている。昨夜の港に近い酒場での深酒が効いたようだった。雇われている身でもないので、急いでなにかを準備したり支度をする必要もない。だが、この体たらくには自分でもあきれていた。こんなにもやわな存在になってしまったことを、ベッドのなかで恥じてもいた。

「もう、そんなに物音を立てないでよう」内容はとげとげしいものだったが、声は蚊の鳴くような弱々しいものでベッドの妻が言った。
「音なんか立ててないよ」
「その戸の閉め方の音とかよ」片目を毛布のなかから出した。「あら、ネクタイなんかするの?」
「たまにはね。酔って起き上がれない妻の代わりに働いてくるよ」
 家を出ると、となりの家のマーメードが玄関を箒で掃いていた。
「おはよう。すがすがしい朝の完全なる演出」
「あ、今日はクラスの日ですか?」
「そう。物語を書くコツを教えてくるよ。自分が知りたいんだけどね、いちばん」

 彼女はきょとんとした顔をしている。まさか、となりの先生の本を読んでいないのだろうか?
「それで、ネクタイを?」
「うん。タンスの奥から引っ張り出した。その戸の開け閉めがうるさいって、二日酔いの妻が注意した」
「飲み過ぎ?」
「そうみたいだね。外で働けばストレスも多いんだろうしね。たまには、羽目をはずさないと」
「優しいんですね」
「優しくないよ」天に誓っても。「どう、このネクタイ、いささか古臭いかな」
「さあ、どうでしょう。わたしぐらいの年代はネクタイについて注意を払っていないから。一家言をもつほどの感性も、分析もなく」

「むずかしい言葉をつかうんだね」ぼくは、慌てて時計を見る。そんなに悠長に無駄話をしている暇はなかった。「さあ、もう行かないと間に合わない」
「行ってらっしゃい」新妻だった女性に言われた過去を思い出している。彼女は、いまはベッドのなかで死にそうな様子だった。何がその期間に起こったのだろう? わたしは、知らない。知るためにはもっと興味をもたないといけない。

 レナードは横たわった姿勢のまま時計を眺めた。この地でする事柄も段々と消化していった。思いがけなく肖像画のモデルも見つかった。もう一枚のモナリザ。世界はそれを必要としているのだろうか。自分には、いつかそれを描くチャンスと実力が訪れるのだろうか。自分の身体の儚さと芸術の一環とした連続性。歴史にきっちりと痕跡をとどめる。ローマ時代の水道橋のように目に見える形で。

「おはようございます、川島先生」
 クラスの入口に児玉さんが立って待っていた。彼女は初恋のひとに会うというプランをいったいどうする気なのだろう。
「おはよう。さわやかな朝。さわやかな現実。さわやかな文章」ぼくは、ひとに会うことをただただ欲しているだけなのだろうか。部屋に閉じこもってキーボードを叩くこと自体が性に合っていなかったのか。「あれ、どうしました?」
「あれって?」

「あれって、あれですよ」こういう女性のまどろっこしさは、どこにその種子があるのだろう。「ファースト・ラブ」
「ああ、明日会いに行きます」
「決戦の日曜日」ぼくの家に初恋の女性が訪れる。妻と対面する。乱れた髪に、頭痛で苦しそうな表情。ぼくはもっと美人と結婚したのだと自慢したかった。しかし、証拠がすべての世の中だ。「どんな服装で行くか決めているんですか? 会って、良い結果になるといいですね」
「娘のセーラー服、あれ、まだ、残っているかしら・・・」
「不戦勝の日曜日」と小さな声で言い、ぼくはクラスの戸を開けた。

 レナードの家の戸を叩く音がする。数ヶ月しか滞在しない家に訪れてくるひとなどいなかった。そのため家賃もきちんと前払いしてある。部屋も絵の具で汚れても問題なさそうなぐらいの古さだった。冬になれば、すきま風が忍び込むという程度では済みそうになかった。今は早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきた。それで何度も早く起こされた。窓や戸を開け、絵の具の匂いを換気し、歯を磨きながらたまに名もなきその鳥たちに泡をふくんだ口で話しかけた。

 そう思いながらも戸を叩く音は止まらなかった。
 ぼくが話し出しても、クラスのみんなは一週間ぶりの再会による高揚を抑え切れないようだった。彼らは部屋にこもって文字を埋めるという運命を選ぼうとしているのではなかったのか。大道芸人になりたいようなひともいた。だが、数人は真摯な視線を向けている。ぼくは不特定のひとたちに他になにが伝授できるかを想像していた。例えば、ケーキの作り方。裁縫をすること。日曜大工。どれも無理なようだった。

 レナードは重い足取りで戸を開けた。すると、となりの家の主婦が娘を連れて立っていた。
「どうか、されました?」
「水道管が破裂したのか、水が止まらなくなってしまって。生憎、夫は遠くまで出掛けて留守で」懇願する主婦。それに調子を合わせたようなつぶらな瞳をもつ娘。レナードは、部屋の奥にある持ち主のいない工具を引っ張り出した。もう一枚のモナリザは忘れ、ここは火急の問題に取り組むのだ。それがひとの喜びとなるのだ、と自分の行為に夢中になりかけた。

「誰かに書いたものを読んでもらう。頼まれてもいない。流通にのるわけでもない。歴史を揺るがすわけでもない。だが、文字や楽譜は廃れないとぼく自身は思っている。ある種の経験はそれによって共通の財産になる。君が書いたものはだから誰かの真似であってはならない。しかし、文字自体は、突飛なものではなく共通の遊具である必要もある」

 ぼく自身が話していてこんがらがっていた。宿題をはやく披露してもらわないといけない。前を見る。乙女のような表情をしている児玉さんがいた。ぼくは意味もなくネクタイに触れる。結び方は忘れたくても忘れられない。この趣味の好悪を久美子は判断できなかった。いや、大人になりかけている彼女は真実を告げることを優しさにより拒否したのか。児玉さんの初恋の男性は、どんな真実の言葉を漏らすのだろう。窓のそとは青い、これ以上にないほどの快晴だった。スプリンクラーが水を撒いている。と思ったら時間が来たのかピタッと止まった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(35)

2013年04月07日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(35)

 ぼくは逮捕されることもなく、お米を研いでいた。由美はおとなしく机に向かって勉強をしている。ぼくは炊飯器のふたをしめ、いくつかの表示を確認した。この機械が直ぐ先にある未来に向かって自動で働いてくれる。自分の思考もこのように簡単にキーボードを介さないで働いてくれないだろうかと思案したが、まだ無理な注文なので、半分だけ扉を閉め静かな環境で我が十本の指を待ち受ける祭壇に向かった。

 ひとと接することが自分の仕事ではなかった。だが、空想だけのために頭を使うこともためらわれた。物語の主人公たちは一時停止のままで動かないでいる。もう一度、どこかの脳にある再生ボタンを押して、彼らを動かさなければならない。

 レナードは一日の仕事の量をきちんと消化していたため、自分の気持ちの何かが磨り減っている感じを覚えていた。どこかで静かにこころを落ち着かせる音楽でも聴きたいと思っていたが、この地にそれにふさわしい場所はなかった。反対に、またどこかで船乗りに混じって笑いあって大酒を飲みたいとも思っていた。それで、上着を引っ掛け、外に出た。いまでは、夏のむせ返るような暑さも夜になれば穏やかになり、秋の気配が皮膚にも分かる形で漂って来ていた。

 酒場の扉を開ける。重い扉の向こうには喧騒とエネルギーが充満していた。静かな音楽を聴きたいと思っていたのは嘘のようであった。この見知らぬ言葉も入り混じったノイズも彼には音楽に聞こえた。このどれかひとつの言葉が溢れる土地に自分は秋になったら出向くのだと考えていた。そのときに親しくなったマーガレットや彼女の母と別れる辛さを味わうことになるのだろうが、それも仕方がないと判断していた。自分はまだ落ち着ける環境にいない。まだまだ修行の時期なのだと自分自身を叱咤した。そして、最初のアルコールを勢いよく口のなかに放り込んだ。腹の奥が悲鳴と満足感を同時に告げる。この場所に似合う絵を描く約束をしていた。その途中の絵も同時に進行しており、まだアトリエで完成間近を保ち、彼の手が加わるのを待っていた。

「ただいま」と、玄関で妻の声がした。由美とジョンが迎える声もする。ぼくは、ぼく自身の過程を中断して、また自分の文字が加わる状態でとどめて席を立った。
「お帰り。もつよ」ぼくは彼女の手から荷物を引き取った。「なんか、ビンがあるね」
「仕事がうまくいったから、ワインでお祝いでもしようと思って」
「家で?」
「そう、家で。ほかにどこがあるの?」
「ないけど、ご飯も炊いたからね」
「ゆっくり食べるから」

 彼女は着替え、服装も普段着になった。顔もいくらか穏やかなものになる。ぼくの顔は社会でもまれない所為か緊張感の欠けたような表情をしている。会うのは、行動範囲にいる店員の児玉さんや、公園にいる水沼さんに限られていた。それは対社会とも呼べないように感じられた。ぼくも外界をもっと知るべきなのだろうか?

「部屋、片付いているね。そうだ、お客さんの相談どうだった?」妻は部屋のなかを見回し、二本の指でつまんだチーズをかじった。
「うん、対象との取り組み方だよ。取材というのかね」
「アマチュアなのに? 経費も請求できないのに?」
「それは会社員の考え方だよ。芸術家は内なる衝動との戦いであり、葛藤だからね」
「笑わせないでよ」
「笑わす意図なんかないよ」

「由美は聞いてたの?」
「うん、聞えた。ゴンドラのふたの話をしていた」
「やっぱり、聞いていたのか。大人同士の秘密なのに」
「小さな声じゃなかったから」彼女は恐れるように耳を撫でた。まだ、そこにくっ付いている。
「ねえ、なに、ゴンドラって?」妻は不審そうな表情を浮かべる。話したはずのぼくにも直ぐには分からなかった。初恋のひとに会いに行く。その無垢な期待やチャンスを許してしまうのか。そうか。
「違うよ。パンドラの箱を開けるんですね、と訊いたんだった」

 妻は笑う。誰もが理解できる慣用句のひとつのようでもあった。

「由美、大人には大事なものがあって、そっとしておきたいものがたくさんあるのよ。しかし、好奇心にかられて一回そのふたを開けてしまえば、いろいろと怖いものがでてくる仕組みになっているの。それを、パンドラの箱っていうのね。あなた、もう一本、わたしのビンのパンドラのコルクを緩めてちょうだい」そう言って、新しい冷えたビンとグラスを妻はすわったまま要求した。

「間違った使い方みたいだけどね」と言い残してぼくは椅子を引いた。
「なんで、開けるの?」幼い子の当然の疑問。
「プレゼントの箱、ダメだって言われても、由美は前もって開けない?」
「開けちゃう」

 ぼくはキッチンの奥でコルクにスクリュー状のものを突き刺した。それからひねったり回転させたりして新しいビンを開けた。芳醇な香りが鼻にとどいた。

「どうぞ」ぼくはテーブルまで戻り、立ったままの姿勢で妻の前でワインを注ぐ。
「あなた、困ったらそういう仕事もできるかもしれないのね。頬は丹念にきれいに剃りあげてほしいけど」
「そうかな」ぼくの前にはレナードもいた。彼の太い腕が新しいグラスをつかむ。頬や顔が夏の日差しで赤らみ、無精ひげさえも精悍なものとさせた。由美の片耳もまだ赤いような気がした。しかし、今夜は妻の頬がいちばん赤らむのが早いようだった。ゴンドラを漕ぐひとのようにぼくは自分と航行するものを見守り、揺れる船に身をあずけている彼女を船上から抱えて、ベッドまで運ぶ役目も仰せつかるのだろう。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(34)

2013年04月06日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(34)

「例えば?」ぼくは水沼さんの過去を想像してみる。だが、その間もなく直ぐに返事がきた。
「例えば、親切にしてくれた、親身になってくれた先生とか、部活をいっしょに頑張った仲間だとか。川島さんは、そういうひとには、会いたくない?」
「あの先生には憎まれたな、とか、部活の先輩は厳しかったなとかは思うけど」

「意外と根に持つタイプなのね。こわい」と言って彼女は反対にケラケラと笑った。
「記憶を糧に作品をつくりあげる」と美的な理由を述べ、仮定を正当化させようと小声で言った。

 マーガレットはケンが自分に寄せた親切心のことを考えている。同時にエドワードの包容力のことも思い出していた。そして、世の中は素晴らしいところだという結論にいたった。そのどちらかを選ばなければならない厳しさも同時にあった。だから、世の中は完全な場所にはなりにくいとも判断していた。

「むかしの経験って、役に立つの?」水沼さんは、なぜだか挑みかかるような口調になっていた。
「ここにいるぼくも、同じく水沼さんも経験の集積じゃないんですかね。自分のしたこと、行ったことを忘れちゃうとか?」
「女なんか忘れてしまって後悔しない生き物なのよ」と哲学的な口調に、今度はなった。「でも、先輩や恩師には会いたいとも思っているのね。不思議ね」
「そうですね。あのふたりは、経験より希望や目標が重要になりますよね」

 たっくんは、すべり台の頂上で雄叫びをあげていた。
「恥ずかしさも後ろめたさもないみたい」自分が産み落としたものではないような客観的な意見だった。
「恥ずかしさって、段々と、減ります? 前は男の子の前でうじうじしてたなとか?」
「あら、失礼。いまでも恥ずかしさの固まりよ、これでも」と言い終わる間もなく、大口を開けて笑った。

 ぼくは自分の経験の数々が捨てられた墓場のようなものを想像していた。役に立たない経験の埋立地。そこを意地汚く漁り、自分の物語に使えそうなものを採集する。
「そういうわけでもないけど。結婚してからと、初恋のときの男性の前での行いって、やっぱり、違うでしょう? ガミガミ言うこともなく」
「奥さんはガミガミ言うの?」

「言わないですよ。まさか、うちのに限って・・・」
「ママは言うよ」いつの間にか、由美がとなりで息を弾ませる身体を殺しながら、聞き耳を立てていた。
「パパは、正直ということを知らないのよ、由美ちゃん」
「ほんと」と幼い少女は小さく呟いた。この子に、ぼくの遺伝子はドナウ川のように運ばれて流れたのだろうか。わたしには実感がなかった。預金の残高の数字のように実感に乏しいものだった。

 マーガレットは自分の気持ちに正直になろうと努めていた。朝、目覚めたときから、ひとりでベッドに入る夜の間まで。一瞬の偽りさえ許そうとはしなかった。だが、そうきちんと思い通りにもならない。絵筆に描かれる前で、このレナードというひとは正直ということをどう考えているのだろうかと思っていた。彼が対象にする自然も偽りが入り込む余地のないものだった。時には暴風を吹き荒らし、豪雨をも呼ぶ。それでも全体的に恩恵や安らぎを与えてくれるものだった。海は大荒れになっても、食材を提供する貯蔵庫でもあり、日差しを反射させ、海の鳥を育てる場所でもあった。ごまかしは効かない。すると、偽りとごまかしを持っているのは世界に自分ひとりだけのような気もした。その気持ちに耐え切れなくなり、レナードを送りがてら、いっしょに海岸沿いを散歩した。

「絵を描くことって、自分の気持ちに正直になることでしょうか?」

 彼は声が聞こえなかったように黙っていた。ただ、打ち寄せる波の音がいつもより大きくマーガレットの耳に届いた。
「自分の気持ちだけしか念頭にない時期もありました。偽って生活するには自分の人生って短すぎませんか?」彼の声はそこで反響した。「うちの生活は、そんなに裕福でもなかったので、その常として、親はひとの言い成りになる時間が多かった。子ども心にも彼らを可哀想に思っていました。けれど、相手を突っぱねてまで、自分に正直になる必要もないという心境にいまでは達しています。この海と同じように、自分を受け止めてくれるものをしっかりと守ることも大切なんじゃないですか」

 マーガレットにとって、それは今すぐ役立つ回答でもなかったが、こころの奥にずっしりと届く言葉であることには間違いなかった。自分の思いに捉われ過ぎていることも理解できた。その反面、相手のことを喜ばせることに専念するのも疲労が伴うものだとも感じていた。その相手の主なものは母親だった。彼女の考えにそのまま乗ることは、自分の気持ちと一致しない。いつか、早いうちに回答ができればいいのに、とマーガレットは無言のまま考えつづけていた。その時期の九月は間もなく足早にやって来るのだ。

「秋になる前に次の行き先を決めるの? もう、決まっているの?」
「いや、まだ。風の吹くままに生活するだけだから」

 わたしは、いつの日か、結婚生活の十数年を祝うためにどこか異国に旅するのだ、とマーガレットは想像した。そこである画家の個展に偶然に行き当たる。夫になったひととそこに足を踏み入れる。中はがらんとして少しかび臭い。そこに躍動的な絵が何枚も何枚も並べられている。絵の隅にレナードの署名がある。彼女はあの夏の日の悶々とした生活を思い出す。暗いなかで清潔なハンカチを取り出し、涙をぬぐう。わたしの数々の選択は正しかったのだ、という安堵による涙だったのだ。夫になったひとは心配をして振り返る。「どうしたの?」と優しく訊ねる。彼女は、「少し湿気とカビが目を痒くさせて」と言い訳を述べる。真実ではないものがあることをマーガレットは気付いていなかった。気付くのは表面にあらわれた夫の優しさであった。

「由美もいつも、正直かな? さっき、リビングの扉にその耳が見えたような気がしたけど・・・」そう言って、ぼくは幼き子の耳をつねった。
「痛い。幼児虐待」と、彼女は大声で絶叫した。どこか遠くでたっくんも同じ言葉を真似して叫んでいた。さらに遠くでパトカーか消防車のサイレンの音の幻聴がぼくには聞こえる。