気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

透明は「ある」

2024-09-14 06:49:23 | 透明を観る
 私は普段、身心を整えるために「透明を観よう」としています。「透明」というと、色がないから何も無いと考えがちですが、そうではありません。眼には見えませんが「透明」はあるのです。「透明色」がついていると考えると少し分かりやすくなります。
 思考するとき、それが「ある」と考えるのと「ない」と考えるのとでは、自分の姿勢が変わってきます。「ない」と考えるよりも「ある」と考えた方が、身心が変わります(より自分らしくなります)。人は「ある」ものに向かうからです。ただ歩くのではなく「ある」ものに向かって歩きます(「ある」ものは、具体的なものだとは限りませんが)。

 あるかないかを、常識や科学などで測るのではなく、どう考えると身心がよくなるのかという基準で測る。あるかないかの証明よりも大事なことは、今ここにある身心の状態です。



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差別心を少しづつ減らす

2024-09-08 07:28:52 | 透明を観る
 私たちは言葉(意味)によって万事を分けています。そしてその「分ける」ことによって差別が生まれます。差別と言っても「人種差別」や「性差別」のような大きなものだけではなく、日常には小さな差別もあります。地位や肩書きで人を分けてみたり、技術・能力の優劣で分けてみたり、美醜で分けたり、利害で分けたりとほとんど無意識にしています。それが単に言葉という記号上の形式的なもので、全くココロ(感情)が伴わないのならば良いのですが、そういうわけにはいきません。必ずココロでも分けてしまいます。本来平等であるはずの人を上下に分けてしまうのです。この程度のことはたいしたことではないと思われる人もいるでしょう。しかし小さな差別が大きな差別になる可能性はいつでもあります。
 
 言葉を使えば、各個人(物)の間には違いができるので、このような差別は当然なのかも知れません。裏を返せば、言葉を使わなければ(言葉が無ければ)、差別は生じません。
 「透明を観る(身心調整法)」では、物事を「透明」にしていきます。結果として物ものがつながり、言葉の生じる(言葉で分ける)前の状態を感じることができます(個人差があります)。そのとき、他者を差別する意識が限りなく少なくなります。
 
 身の回りの差別がそれほど甚だしくなければ、なんとなく無難に過ごせるかも知れません。ヘイトスピーチやsnsなどでの他者への誹謗中傷などは大きな問題ですが、先に言ったように小さな差別は至るところにあります。しかしながら差別しないようにしたり、他人にそれを求めることは大変難しいことです。「透明を観る」のような方法で、自然に差別心を少なくすることもできます。はじめは練習中だけできますが、次第に少しづつ日常が変わってきます。

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気を整えて、トラブル回避

2024-08-31 05:50:46 | 透明を観る
 人間関係のトラブルはいつでも起こりえます。普段顔を合わす家族や職場以外でも、公共の場やSNS上などでも起こります。たとえば被害を受けた(と思った)場合、一方的に相手が悪いこともありますが、そういうことは少なく、多くの場合こちらにも問題があります。といってもそれは具体的な言葉や態度ではなく、こちらの「身心の状態が整っているかどうか」ということと関係があります。常識や科学的な見地から物事を測っていたら、こういうことは分かりません。
 身心が整っていると「そういう雰囲気」が出てくるもので、周りに居る人は、それを感じ取ることができます。「そういう雰囲気」がある人を他者は、攻撃しようとは思いません。「気の質」のようなものが自分より上の者に対しては、悪いことをしようとは思わなくなるのです。単に技術や能力が自分より上だというだけではそうはなりませんが。
 スポーツをしても本を読んでも直接「気の質」は上がりません。物事(万物)が一つにつながっているという意識と感覚を持つことです。普段私も持っていませんので、ときどき身心を整える(気の質を上げる)方法として「透明を観る」をしています。人間関係の問題回避にも役立ちます。

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ラブレターはいつ書くのかではなく

2024-08-25 06:14:30 | 透明を観る
「夜にラブレターを書かない方が良い」というような話を聞いたことがあります。日中は理性が感情を抑制するが、夜は感情が出過ぎるということらしい。酒を飲むと感情が出やすくなるから、そういう感じと少し似ているのかも知れない。しかし感情が乗った方が、気持ちが相手に伝わるかも知れないし、受け手側が理性的な文章(人)よりも感情的な文章(人)を好むこともあるので、何とも言えません。

 ラブレターの成否も一大事には違いありませんが、もっと大事なことは「自分らしい状態で書かれたものなのかどうか」ということです。私の考える「自分らしい」とは、身心が一番整った状態です。そういう「自分らしい状態で書かれたもの」であれば、結果の如何に関係なく後悔はしないものです。人は環境によって自分らしくなれたり、なれなかったりします。親しい人やリラックスできる環境にいれば、比較的自分らしくいられます。職場や公共の場など第三者が多いところでは、多少なりとも緊張して、自分らしくというわけにはいかないかも知れません。苦手な人と一緒にいるときには、自分らしさを失うかも知れません。
  
 「理性的」なことと「自分らしい」ことは、現れ方は似ていますが、そこに至る過程が違います。「理性的」というのは、意識的な働きによるものです。常識や法律や経験などをもとに自分の行動を決めます。「自分らしい」というのは、そういうことを考えなくても、言動が常識の範囲内に収まります。それは身心が整っているから、そうなるのです。 

 常に「自分らしく」いるのは難しいかも知れませんが、ある程度「自分らしく」いるためには、自分を整える術を持っていれば可能です。私は「透明を観る」で、「自分らしさ」を保持しようとしています。
 
 最初の話に戻りますと、ラブレターはいつ書いても良いのです。問題は夜か日中かということではなく、自分らしくあるかないかということなのですから。

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③「すべて 透明」の解説

2024-08-17 06:40:01 | 透明を観る
 今回は「透明を観る」の最後、③「すべて 透明」について解説します。
「すべて」というのは、万物のことです。一つもかけることなくすべてということ。そこには「わたし(自分)」も含まれます。「すべて 透明」ということは、「すべてがつながる(つながってしまう)」ということです(透明には輪郭がありませんから)。「すべてがつながる」ということは、「一つ」になるということです。
 こうして「一つ」という意識(感覚)を持つと、身心が変わります。「透明」はこの「一つ」という意識を持つための手段なのです。

「地球は一つ」だとか「人類は一つ」というような言葉を耳にしたことがあります。しかしそう思う(考える)のは、なかなか難しいことです。それが「透明を観る」をすると、ごく自然に「一つ」だと思えてくるのです(完璧ではありませんが)。

 普段私たちは、物ものが分かれている世界に住んでいます。山があり川があり、電車が通り、花が咲く、そういう世界に住んでいます。こういう世界に生きながら、「一つにつながった(非日常の)世界を、(日常に)取り込むことは、大変意義のあることです。それは「一つ」の世界をユートピアと崇めたり、そこへ逃避することではありません。「一つ」の世界を想像すれば、(身心が整った)本来の自分を取り戻すことができるし、新たに現実(分かれている世界)で生きていく力を持てるからです。

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