ひぐらし公式掲示板と「症候群」の同一性

2007-02-03 02:29:20 | ひぐらし
以前ひぐらし公式HP掲示板:壮大な思考実験場という記事を書いたそこでは、掲示板で見られた「便宜的な思考の枠組みの絶対化」が一般にも通用することを述べたのだが、それは言い換えれば「人は見たいものを見る」という傾向がひぐらし公式HPの掲示板によく表れていたということであった。


ところでその傾向は、一般的なものであるだけでなく、ひぐらし本編の中ではあるものによって象徴されている。それこそが、罪滅ぼし編より表れる「雛身沢症候群」(以下「症候群」)に他ならない。症候群は疑心暗鬼によって生まれ、症状が進むと「見えたものが(認識上)本当になる」という病気である。ここで推理モノの特徴について考えてみると、それは「疑い、推測すること」にあると言える。だとすれば、「主人公の疑心暗鬼≒プレイヤー」の疑心暗鬼なのである(※)。ここで先の「人は見たいものを見る」という傾向を思い出して欲しい。つまり、そうだと考えたらいつの間にかその見方が固定されてしまい、(認識の領域で)「事実化」ないし「現実化」されてしまうのである。これこそまさに「雛身沢症候群」ではないか。もちろん、症候群には被害妄想といった特徴もあって単純に推理する姿勢と同一視すべきではないが、そこに類似性があることは意識すべきだろう。


ところでこれに対し、次のように反論する人がいるかもしれない。すなわち、「推理をする以上疑うのは当たり前のことであり、それで『症候群』とか言われたらたまらない」と。その通りである。しかしその強い結びつきゆえに、ひぐらしが推理するプレイヤーのメタファーとして症候群を出してきているのは疑いないのである(ただ、この構図を製作者側が明示すればかなりの反発が予想されるから、おそらくこれからも言及されないままだと思われる。よってここで指摘しておきたい)。


ひぐらしは最終的に「仲間を信じよう」という主張で締めくくられている。今まで深みのある心理描写を積み重ねてきたのに、最後があまりにも感覚的で道徳的で薄っぺらな内容(なぜそう言えるのかはこの記事などを参照)で終わったのは正直興ざめとは思うし、症候群の設定の都合よさも目につく。しかしながら、症候群には上で述べたような意味が込められており、またそれを前提にしての「仲間を信じよう」という主張であるがゆえに、その内容だけで完全に切り捨ててしまうのはいささか酷だし、公正を欠くと私は考える(もしそういう前提がなければ、情け容赦なく切り捨てていただろうが)。


どうかひぐらしを「ラノベ」としてのみ楽しむ人にはそこに積み重ねられてきたせめぎ合いと深みを知ってほしい。また、逆にその積み重ねを見てきて最後の主張に失望しきった人は、上の構図をとりあえずでも思い出してほしい(少なくとも、それを理解することなしに切り捨てるのは不当だと思うので)。


それだけが、私の望みです。



これに関して、始めは引っ越してきて一ヶ月という事態を全く把握できていない圭一の疑心暗鬼、次に以前の事件や暗部も色々と知っている詩音の疑心暗鬼、そしてプレイヤーが世界の構造について知識を持った後では、事態をよく把握している(というか中心にいる)梨花の疑心暗鬼という具合に、プレイヤーの世界理解度に合わせて立場の違うキャラクターを主人公にあてがっているところが秀逸と言える(レナは、その洞察力や鷹野からの教唆によって、立場的には圭一以上詩音以下であるにもかかわらず、詩音よりも真実近くに到った特殊ケースと言うべきか)。なお、あえて「=」ではなく「≒」を使ったのは、色々な編を見れることに加えて梨花ですから関与できないTIPSを参照できるからである。ゆえに、主人公とプレイヤーは(形式的な問題は言うまでも無く)同一ではありえないのだ。

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2 コメント

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Cogito ergo sum (バイシ)
2007-02-03 15:30:24
こんにちは。私も推理中疑心暗鬼になっていました。
園崎家の関与は疑い得ないとか、大石の思い込みに影響されて、村中が敵だとかおもってました。
まあ、私の場合「暇」以降は、国家の関与は絶対にあると思っていましたが、仮に正解であったとしても、症候群の最も重傷者かもしれませんww

そうするとギーガさんのおっしゃるとおり、結論が陳腐でも、竜騎士の言いたかった事は「ひぐらし」を通じてみると、意味のあることのように思えます。だって、疑心暗鬼のせいで人が死んだりするのですから。

「罪」のレナの思考の変化の仕方の描写は秀逸でした。でもこれが寄生虫の仕業ではがっかりなのですけれども。まあ、寄生虫は極端な行動に走る促進剤とでも考えて、一種の作劇上の装置と思えばそんなに非難することもないですか。(「ガンダム」のニュータイプみたいなものと思えばいいですかね。)
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主張とその方法 (ギーガ)
2007-02-08 00:44:36
「作者が何を主張しているか」という側面だけで見ると、取るに足りない内容だと思っています。ゆえに基本的は否定的スタンスです(だから否定的な記事を書いたわけですし)。ただ、「それをどのように表現しているか」という点に注目すると、そう単純には否定できないなと感じているのです。解決編は、単なる事件ではなく「推理=疑う」という枠組み(≒枷?)そのものの解決(=否定)という構図なのではないかと。そういったことを認識した上で色々な問題点をぶった切るなら、むしろ諸手を挙げて賛成です。


返信になっているかはわかりませんが、一応このように考えています。
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