作品を「読む」ということ~特に作品が「読めない」理由について~

2006-10-08 19:36:51 | レビュー系
前にも書いたことだが、人と会話していると、相手がこちらの発言の意図などに対して実に色々な推測をめぐらせていることに驚かされる。私はものぐさなためたいていは何も考えてないから、「よく会話しながらそういったことをいちいち考えていられるものだ」と感心する。これは嫌味で言っているのではない。というのも、相手がどんな意図で発言しているかによって言葉が同じでも中身は全く違う意味になったりするわけで、それゆえおそらく最も重要なファクターと言えるからだ。


このように相手の発言の意図を探る行為は、言い換えれば「発言者が何を言い(主張し)たいのか」を読みとろうとすることに他ならない。そして私の今までの経験から言えば、ほとんどの人が驚くほどに「発言者が何を主張したいのか」を考えているのである(ただし自分の発言が相手にどんな印象を与えるかということについては、より考えない傾向にある気がする)。


それにもかかわらず、これが作品のレビューという形になった途端、「作者が何を意図しているのか、主張したいのか」という視点が欠落し、作中の出来事や人物についての感想だけが垂れ流されたりするのは不思議なことである。相手の発言に対する日常の姿勢からすれば、作品に対してもまず最初に「作者が何を意図しているのか、主張したいのか」という点に注目するのが当然のように(少なくとも私には)思えるからだ。もちろん私が今まで接してきた人たちと(一般に)レビューを書いている人たちがイコールにならないのは理解している。しかしそれでも、今まで会話において感じてきた支配的な傾向が、レビューという形態になるとほとんど表れないのが私には理解できないのだ。というのも、動的な会話に比べて静的なもの(本、ゲームなど)の方が考える余裕があるわけで、会話の時以上に「相手の意図」をじっくり「読」もうとするのが当然のように思うからだ。


以上が私の感じている根本的な疑問だ。これを学問的な方向に突き詰めていけばおそらく解釈学やテクスト理論といったものに行き着くのだろうが、ここでそれを扱う意図も能力も無い。ただ、今まで積み重ねてきたこのブログの文脈からは、「読め」なくなるファクターの一つが、繰り返し述べてきた「感情移入」「共感」という虚構にあるとは言えるだろう。それによって、本来は客体であるはずの存在に埋没(ないしは自己を投影)してしまい、結果として動的な会話などよりもよほど扱いやすいはずの静的なものを「読め」なくなってしまうのだと考えられる。しかし、会話の中で相手の発言の真意を測るのが最も重要な行為であるのと同様に、作中の出来事や展開、人物設定などから作者の主張を推測するのもまた最も重要な行為であると思う。


こういうことを書くと、「それでは無味乾燥になってしまう。感情の赴くままに作品に触れればいいではないか」という批判が出るかもしれない。しかしそれは全く的外れなものである。なぜなら、私は「作者が何を意図しているのか、主張したいのか」が最も重要な視点だと言ってはいるが、それに終始せよと主張しているわけではないからだ。だから例えば、筆者の主張を読み取った上で、それに対して論理や人生経験、生理的嫌悪感などに基づいた賛成・反対意見を述べるのを全く否定するつもりはないし、むしろ(そこにこそ読み手の個性が表れるという意味で)鑑賞の醍醐味だと考えている。だからわかりやすく私の主張を書けば、「土台をしっかり固めた上で考えろ」ということなのだ。土台も無く、底なし沼の上に色々なもの(感想など)を乗せていってもただ沈むだけのことだ。だからまず「作者の意図・主張」という土台を作っておくべきで、そうすれば、色々な出来事や人物設定などの意味づけなり感想なりが、単発のものとして沈むことなく、積み上がっていくだろう。


また以上のようにして土台を作っておけば、次のような反応が出てくる可能性が生まれる。すなわち、「作者の言いたいことも、そこに必然性があることも理解できる。しかし私にはその論理を受け入れることができない」といったものだ。そういった感情を押し殺してはいけない。なぜならそこにこそ、実は自分自身を分析・理解する端緒があるからだ。理屈ではわかっても受け入れることのできないもの…そこには生理的嫌悪感や思い込み、人生哲学などが介在している。それを無意識や混沌の中から引きずり出す作業によって、自己の新たな側面を知ることになるだろう。そしてこの過程もまた、作品と触れる醍醐味の一つと言えるのではないだろうか。


感情的な部分、あるいは感性を否定する必要は全くないが、それを十全に生かすためには「作者の意図・主張」という土台が必要で、ゆえにそれを「読む」ことが最も重要な行為になってくる。その行為を経て作品理解の土台ができた後であれば、様々な個人的意見も沈まずに積み重なっていくだろう。さらにそこから、感情的に受け入れられない部分などが出てきた時、それを今度は自らの分析・理解に生かすことができる。


結論。「作者の意図・主張」という土台を作ることによって、作品のみならず自己の分析・理解にも繋がるのである。



なお、「感受性と読解力のどちらを優先すべきか」という議論や意見に対する私の見解はここで述べた通りである。

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7 コメント

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はじめましてですが (ymd)
2006-10-10 08:17:59
この事について、最近自分も考えているわけなんですが、僕は、まあ作品の何を愛する、もしくは好むのかなんだと思います。

最終的には作者が好きになればいいと思うのですがね。
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賛成でござる。 (かわぴょん)
2006-10-10 22:15:31
こちら、かわぴょん。



 私も『作者は作品の中に居る』(作品は作者の考えが反映した物だし、作者の知らない事は書けないし)と考えてるので、今回の記事に賛成でござる。
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Unknown (ボゲードン)
2006-10-12 01:27:30
>ymdさん



その意見はよくわかるのですが、「最終的に作者が好きになれればいい」とは私は考えません。というのも、感情的に受け入れられない作品もまた自分にとって有益なものとなりうるからです。あるいは論理的に受け入れられない内容に関しても、自分の考えを反論と言う形でまとめたりする契機になると思います。





>かわぴょんさん



なるほど、それはいい言葉ですね。今後の参考にさせていただきます。

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Unknown (ymd)
2006-10-12 13:17:34
そのような方向でなら良いとは思うんですけどね。



でも、もったいない気もします。
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遅ればせながら (ボゲードン)
2006-10-18 00:54:14
そうでしょうか?私はもったいないとは思いません。例えば中世キリスト教社会の異端審問の精神は到底好きになれませんしね。また一般的にも、理論は受け入れることができても感情で反発するという反応はしばしば起こるものです。



作品を(どのような形であれ)何かしらの「糧」にするという方向性ならば賛成ですが、それは少なくとも「作者を好き」になることではない…私はそのように考えます。
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度々すいません (ymd)
2006-10-27 22:21:43
そうですね。意見が変わるようですが、自分の思っていることはそのような言葉が近いように思います。好きになる、というよりは、理解しようとする、の方が近いんでしょうか。

ボゲードンさんも語っているように、どうも上辺だけを評価されていることが多い気がするので
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Unknown (ボゲードン)
2006-11-06 19:19:52
それなら同感です。
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