祭囃し編覚書~小泉暗殺、罪の在り処など~

2008-12-12 02:22:24 | ひぐらし
前回の「祭囃し編覚書~家族に関して~」に引き続き祭囃しの覚書。同じような話題をいくつも連続で書くのはアクセス数の観点からはあまり望ましくないが(笑)、早めに載せる必要のある項目があったのでそのままいくことにする。


◎北条家に関する魅音なりの努力=部活
魅音は、園崎家の方針ゆえ、村に対しては何もできない分、学校の中には理不尽なルールを持ち込ませないようにしている。以下は魅音と悟史の会話。

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「沙都子が辛い思いをしている一番の原因はウチにある。…その娘の私が、沙都子の周りをうろちょろすることは、その、…空気の読めてないことなのかなって。」
「そんなことないよ。魅音はそれくらいがちょうどいいと思うけどな。」
「何よそれ。私ゃ無神経な方がぴったりだっていうの?」
「むぅ、そういう意味じゃないよ。…その空気というのが、沙都子から笑顔を奪っているのなら。…そんな空気なんか全然気にしない人じゃなきゃ、沙都子に笑顔は戻せないって思ってるから。」
(中略)
「その空気が、沙都子をひとりぼっちにしているのに…?だから魅音も、沙都子をひとりぼっちにするのかい…?」
(中略)
…私には、私の世界のやり方で、大人の世界の理不尽に対し講義することができるんじゃないか。
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というようなやり取りがあり、部活が始まる(部活については「鬼隠し編再考:昔の魅音はなぜ部活で勝てなかったのか」も参照)。ところで、「空気を読む」とは状況把握能力の意味でよく使われている印象を受けるが、当然のことながらそれは日和見にもなる。それはどこまで自覚されているのかしらん(「世間」と向き合うこと)。



◎綿流し=穢れを払う儀式
この部分で述べられていることが最後のシーンへと繋がる。まあとりあえず原文を引用しておこう。なお、祭囃し編と母親に関する記事も参照。

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雛身沢は、穢れを払う里。罪を赦す(ゆるす)。赦す里なんだ。
(中略)
「悪く言うと、穢れを誰か一人に押し付けて引責させるわけだな。」
罪や穢れは、消し去らなければならない。だから人は、罪や穢れをとにかく誰かに押し付けて、その人ごと切り捨てることで、穢れを消し去ろうとする。でも、だとしたら、穢れが生じる度に不毛な責任の押し付け合いが起こる。…それはとても醜いもので、人の世に鬼を見るのだ[「醜」は鬼を含む]。だから、人ではなく、…綿に穢れを押し付けることを考えた。
(中略)
誰だって生贄にされたくない。だから必死に醜悪に、罪を押し付けあう。その生贄役を、人でない物に代わらせる、禊。穢れが人の死以外の方法で、許される。人を許せる存在は人以上の存在だけだ。
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◎小泉の死⇒トミーの忠告⇒定期監査
アニメ版では、葬式のその日に会議室に呼ばれプロジェクトの終了を宣告されるという急な展開になっている。鷹野自身が「こんな日にそんな話をするなんて…」と言っているため、これが計算されたものであることは疑い無いないが、会議室にそぐわない喪服によって鷹野が「終わった」ことを印象付けるのが狙いだろう。もう少し深読みすれば、この場面転換によって政変の急激さ(状況の変化)を演出しているとも考えられる。

…というのは真面目な話だが、小泉の急死にヒントを得て後に以下のようなことも書いている。掲載した当時(暗殺の動機とサイコロの1)は念のため伏字にしたが、ここにおいて完全版を載せることにしよう。なお、この記事は元次官宅襲撃からの連想(何しろ暗殺対象と同じ名前)で書いたものである。

同志諸君
三四様の尻を触った小泉は死ぬべきである。そう思った私は、入江を篭絡した時のメイドスタイルで暗殺を決意した。とはいえ、世間が騒がしくなっており、また尻だけであることに免じ、慈悲深い死を与えてやろう。さあ、このコガラシ特製ドリンクを飲むといい…かくして罪人は死に、三四様は塞ぎ込まれることとなった。これはまたとない勝機であったが、野村のヤツが割り込んできた。鷹野様に必要なのはお前のような女狐ではなく、保護者であり父親なのだ(これは前掲の「祭囃し編と母親」の記事に繋がる)。にもかかわらず、野村は傷心の三四様に取り入り、三四様は彼女を受け入れてしまわれた…なるほどこれはサイコロの1だ。しかし、三四様の生い立ちを考えれば、目を覚まして差し上げることは容易であるばかりか、マニフェストディスティニーなのだ。近日中に野村の「解体」を実行することにしよう…

これをお台場の砂浜を歩きながら考え付くあたりに自分のイカレ具合を再確認する思いだが、まあオツムが立ち行かなくなったら椎茸栽培研究センターへ隠居でもするさ。だって俺は加藤清正なんだから。くけけけけ。


さて、これでカケラ紡ぎの部分は大体目処が立った。あと一回くらいで昭和58年6月の話に移れるだろう。ああでもカケラ紡ぎの意図と効果についてもっと踏み込んで述べる必要があるんだった。こりゃ年内に終わらないかもしれんな…ま、いっか。

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