「世間」と向き合うこと:無意識の同一化傾向と内省

2008-01-27 21:23:04 | 抽象的話題
では、前回の内容を受けて「世間」(≒社会)や共感について述べよう。


ここに阿部謹也の『日本人の歴史意識―「世間」という視覚から―』という本がある。そこでは日本と西洋が比較され、日本人が「世間」という基準の中に生きている一方、歴史は傍観者的に見ていることが指摘されている(要するに、歴史の中に生きていることが意識されていない)。


著者は最後に「世間」と向き合えと言っているが、それは実現しないだろう。まずそもそも、著者は「世間」と向き合うメリット、あるいは向き合わなければならない理由を提示していない。おそらく、不合理な大学人事の例を挙げることによって自分の主張に説得力を持たせたつもりなのだろう。なるほど確かに、そういった不合理な「世間」と距離を取ることは重要であるように思える。しかし、それだけではあまりに漠然としており、単なる気分で終わることを避けられない。ゆえに、読者が「世間」と向き合おうとしても、著者の期待する方向からは外れると予想される。この本を見た読者は、おそらく「集団に埋没したらダメだ。集団から距離を取らないといけない」としか考えないだろう。


しかしながら、この世には「世間」と完全に隔絶して生きている人は少なく、大多数は自分自身が「世間」の構成員であることを免れ得ない(※)。ゆえに、「世間」から距離を取ることは自分と距離を置くことでもあるのだが、この本を読んだ読者にその事実が意識されているとは思えない。なぜなら、ほとんどの人は、「世間」の不合理性や同一化傾向には気付いていても、自分自身の不合理性や同一化傾向には無自覚だからだ(もしくは気付かないフリをしている)。その最も顕著な例が、何の疑問も抱かずに共感の語を使っていることや(これは言葉の曖昧さと表裏一体である)、西欧化・個人主義化していると言われる若い世代が非常に日本的な「空気」という言葉をよく使っていることについて、自他ともにそれが同一化傾向の表れだと意識していないことに他ならない(「空気」という言葉も何と曖昧なことか!)。


ことほどさように、個人レベルでの無意識の同一化傾向には根強いものがあるが、そういった個人の集合体こそ「世間」に他ならない。ゆえに、自己と距離を取れなければ、「世間」から距離を取ることも不可能なのである(個人と「世間」は地続きなのだから。あるいはそういう意識もないのだろうか?)。もし仮に自分を見つめる事なく「世間」から距離を置いたとしても、それはただの独善的な態度でしかなく、その結果は孤立にしかならないだろう(=自立、独立ではない)。


「世間」と向き合うためには、まず自分と向き合うことが不可欠である。そしてそのためには、自分が「まとも」であるという認識を一時的にでも捨て去った上で、自分の不快感などを分析していかなければならない。そうして出てきた具体的な疑問「世間」への疑問へと拡大する……


この一連の過程こそ、「世間」と向き合う行為に他ならないのである。



「世間」と個人の関係は、満員電車と乗客の関係に似ている。
満員電車を煩わしく感じる人は私を含めて多いと思うが、満員電車の側(外的要因)だけに煩わしさの原因を帰するのは誤りである。なぜなら、自分もまた満員電車の構成員なのであり、その状況を生み出している当事者に他ならないからだ。この事実を果たしてどれだけの人が自覚しているのだろうか。
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