世にも恐ろしい日本昔話:浦島太郎編

2012-02-20 18:16:02 | レビュー系

今更だがアニメ版を見たので感想的なものをば。まずは「浦島太郎」について。


「正気」とは「幸福」と同義だろうか?と思うことが時としてある。たとえば、ある「美食家」がいたとする。彼はあまりに味にうるさすぎて、ほとんどの料理を(不味いとは言わないまでも)到底おいしいとは思えない。そしてもう一人、ある雑食人間(笑)がいたとする。彼は、何を食べても美味いと感じる。たとえ超がつくほどの安物で、ほとんどの人間が不味いと感じる食べ物であっても。さて、あなたはこの二人のどちらが幸福と思うだろうか?


え、これじゃ単なる好みの問題で「正気」かどうかは関係ないって?じゃあもう少し視点を変えてみよう。ある面食いの男がいたとする。そいつはあまりに面食いなので、高望みばかりして相手から見向きもされない。そういう人間が、ある薬を使った結果、女性全員が絶世の美女に見えるようになり、恋人ができて本人が満足な生活を送ったとする。さて、彼は幸福になったのだろうか?


あるいは、ずっとイライラしている人間とロボトミー手術を受けた人間ならば・・・?「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のごとく、自分の感情を自在に操作できる装置が開発されたとして、それを使うのは以前より幸福になることを意味するのか?


先に断っておくが、これらをもって不快・嫌悪感の契機を根源から断ってしまうことが幸福だ、と言いたいのではない。むしろ、「ソウルイーター」という作品に関する「『勇気』とその内実」、あるいは「まりや†ほりっく」という作品での「いじめ」描写に言及した「鞠也に首ったけ」のように、私はノイズの排除とそれが孕む病理を強調してきた(さらに「ノイズ排除、自慰識過剰、ディスコミュニケーション」では表現規制などにも話を広げている)。


とはいえ、それらの記事を書きながら時に私の頭へ去来するのが、先の「正気とは~」の問いなのである(これは「ザンジバーランドの怪人」で言った「退屈」の件や「沙耶の唄」の考察などと密接な繋がりがある)。飛躍があるように思うなら、こう考えてみてもいい。麻酔をせずに手術して激痛に耐えるのと、麻酔をして眠ったままで手術するのは、前者の方が正しく知覚できているという点で幸福なのか、と(そういやB'zの歌に「疑り深いヤツになっちゃったのは、週刊誌のせいじゃないお前のせいでしょ。でも真実を知ることが、そう全てじゃない」なんて歌詞がありましたナ)。


もしかすると、あなたはこれを空疎な問いかけと思うかもしれない。そう、フーコーの言う「生ー権力」なども抽象的な話にしか聞こえないように。まあ過度に身体性に訴えた私の喩えが悪いのかもしれないが、その場合はDの・・・じゃなかった「紀子の食卓」や「マトリックス」、「オープンユアアイズ」などを見るのをお勧めする・・・


なーんてね。ここで賢明な読者諸兄は最低でも三つの反論を思いつくだろう。

1.「幸福」自体の多様性

2.選択の自由を未来永劫奪われることの問題点

3.浦島太郎が置かれた状況がある意図に基づいた明確な罠であるという事実

全て妥当性があるが、私が今までの話で言いたいのは、不快なるもの(ノイズ)の排除の構造と必然性であり、かつそれに気づかせる困難さなのである。まあ物語をそのまま解釈すれば「うまい話には裏がある」というあたりだろうが、私はナショナリズムなども含めた埋没の構造と覚醒の問題(cf.自由からの逃走)を提示する作品として興味深く見させてもらった次第。


さて、浦島太郎は虚ろなままあそこに留まり続けて死ぬのと、現実を知って死ぬのと一体どっちが幸せだったのだろう・・・あなたは、どう思いますか?


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