仕事関係ならともかく、知人レベルで「お前は変わってるなあ」と言われたら、俺は即座に肯定する。いやそれどころか、「狂人」である答えさえするだろう。
この返答に多少露悪趣味なところがあるのは否定しない。また俺は、「結果として普通である」ことはともかく、「意識して普通になる」ことにはほとんど価値を置いていないから、「変わってる」という評価自体には何の痛痒も感じないのも事実である(その評価の中身次第ではもちろんよく考えるけど)。しかしこの「狂人」という表現には、(今までの経験から考えて)自分の思考様式が特殊であるという認識が深く関わっている。以下、そのことについて簡単に書いてみたい。
一般的に言えば、人は思いついた様々なことを抑圧したり矯正したり、あるいは捨て去って生きているが、俺の場合は意図的に思考の掛け金を外している(※)。そして、思いついた後で不謹慎だとかくだらないと思ったことでも、抑圧したり捨て去る事無く(殆どの場合)どこかに記録しておくようにしている(この記事など)。このようして、思いついたことをその時点よりは客観的に見返すことができるし、何よりそれを「不謹慎」だと感じた要因などを探る端緒も生まれる。また「覚書」にもあるように、書いておくことで次にその場所から始めることが可能になり、思考の堂々巡りという最も不毛な作業を減らすことにも繋がる。さらには、The Effect of Writingで引用しつつ述べたように、書くという行為を通じて思考の内容はまとまっていくのだし、その過程で周辺の要素(なぜそのように感じるのか等)が芋づる式に明らかになることも少なくないのである。
以上のように、思考に掛け金をかけず、思いついた様々なことを記録するという行為は様々な利点があると言える。もちろん、呆れるほどにくだらない思いつきが生まれたり、昔の記事を読み返してその未熟さやしょうもなさに自分自身があきれ果てることもあるに違いない。しかしむしろ、それを楽しむ余裕を持ち、またこれからの糧にしようとする眼差しが必要だと俺は思うのである。
※
とはいえ、偏見や抑圧などから完全に自由でないのは当然だ。ところで、人がそのように抑圧や矯正をしばしば行うのはなぜだろうか?すぐに思いつくのは「その不道徳さ・不謹慎さなどにおののき、考えること自体が悪だと感じる」という理由であるが、昔自分が思いついたことなどを人に話した時の反応からすると、「考えること≒実行すること」だと無意識に考えている節がある。「普通の人」とかいう生き物は、考えたことは実際に行わないと気がすまないものなのだろうか?だとしたら、その業の深さに同情を禁じえない。まあとりあえず、子供ではないのだから思考(≒フィクション)と現実の境界ぐらいはつけれるようになってほしいもんである。
この返答に多少露悪趣味なところがあるのは否定しない。また俺は、「結果として普通である」ことはともかく、「意識して普通になる」ことにはほとんど価値を置いていないから、「変わってる」という評価自体には何の痛痒も感じないのも事実である(その評価の中身次第ではもちろんよく考えるけど)。しかしこの「狂人」という表現には、(今までの経験から考えて)自分の思考様式が特殊であるという認識が深く関わっている。以下、そのことについて簡単に書いてみたい。
一般的に言えば、人は思いついた様々なことを抑圧したり矯正したり、あるいは捨て去って生きているが、俺の場合は意図的に思考の掛け金を外している(※)。そして、思いついた後で不謹慎だとかくだらないと思ったことでも、抑圧したり捨て去る事無く(殆どの場合)どこかに記録しておくようにしている(この記事など)。このようして、思いついたことをその時点よりは客観的に見返すことができるし、何よりそれを「不謹慎」だと感じた要因などを探る端緒も生まれる。また「覚書」にもあるように、書いておくことで次にその場所から始めることが可能になり、思考の堂々巡りという最も不毛な作業を減らすことにも繋がる。さらには、The Effect of Writingで引用しつつ述べたように、書くという行為を通じて思考の内容はまとまっていくのだし、その過程で周辺の要素(なぜそのように感じるのか等)が芋づる式に明らかになることも少なくないのである。
以上のように、思考に掛け金をかけず、思いついた様々なことを記録するという行為は様々な利点があると言える。もちろん、呆れるほどにくだらない思いつきが生まれたり、昔の記事を読み返してその未熟さやしょうもなさに自分自身があきれ果てることもあるに違いない。しかしむしろ、それを楽しむ余裕を持ち、またこれからの糧にしようとする眼差しが必要だと俺は思うのである。
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とはいえ、偏見や抑圧などから完全に自由でないのは当然だ。ところで、人がそのように抑圧や矯正をしばしば行うのはなぜだろうか?すぐに思いつくのは「その不道徳さ・不謹慎さなどにおののき、考えること自体が悪だと感じる」という理由であるが、昔自分が思いついたことなどを人に話した時の反応からすると、「考えること≒実行すること」だと無意識に考えている節がある。「普通の人」とかいう生き物は、考えたことは実際に行わないと気がすまないものなのだろうか?だとしたら、その業の深さに同情を禁じえない。まあとりあえず、子供ではないのだから思考(≒フィクション)と現実の境界ぐらいはつけれるようになってほしいもんである。
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