神戸から徒然なるままに

海と山の自然豊かでハイカラな街・神戸より

イタリアの旅(Part5:最終章)

2012-08-19 13:03:24 | インポート
 イタリア旅行記もいよいよ最終章となった。
 水の都ベネチア観光を終えて、15:20に専用観光バスで古くからの北イタリアの交通の要所として栄えた世界遺産ヴェローナへと向かった。ベネチアから約125km離れていてベローナに到着したのは17:10頃であった。日本語の上手なイタリア人女性のガイドで市街地を散策した。
 ヴェローナは交通の要所として栄え、北アルプスから流れ水豊かなアディジェ川の沿いにある人口約25万人の都市で、中世の13、14世紀にはスカラ家の支配の下で黄金時代を築いた頃のの街並がよく残っている落着いた街である。
 エルベ広場、シニョーリ広場、スカラ家の廟等を観光、散策しながらシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」のモデルとなったジュリエット家の建物とバルコニーと庭にあるジュリエット像を見学した。
 観光客も多かったが、小生は昨年イギリス旅行でストラトフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピアの生家を観光した記憶も鮮明に残っていて有名な戯曲の舞台を目の当たりにして感慨深いものがあった。
 ヴェローナの建物は年代によってゴシック、バロック、ルネサンス様式が使われているが、見事に調和がとられていた。
 また、スカラ家と関わりの建物の上にはM字型の胸壁があり直ぐのそれとわかるようになっていた。
 それから、古代ローマ時代のほとんどそのままの状態で保存よく残っている円形競技場(アレーナ)を観光した。現在でも毎年7、8月には2.2万人収容のヴェローナ音楽祭の野外オペラの会場として使われていると聞いて驚きでもある。
 2時間ほどヴェローナの街の観光と散策をして、最後の宿泊地となるミラノへと向かった。
 ミラノに到着したのは21:00頃であった。夕食はレストランでミラノ風カツレツとワインをとった。雑誌でも紹介されているのでミラノ風カツレツには期待したが、薄く叩き延ばしたわらじのようなもので期待したほどのものではなかった。
 明けて今回のイタリア旅行の最後は、人口約130万人で首都ローマに次ぎ第2位で、北部イタリアにおいては最大の都市で商業、工業、金融の中心都市ミラノの観光地となった。
 午後からは帰国となるので午前中だけの観光であった。
 8:00にホテルを出発して、9:00頃からのファッションの街ミラノの観光である。
 現地ガイドの案内でスフォルツエスコ城からスカラ座、ダンテ像の広場、ガッレリーア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世アーケード商店街、ドウオモを観光散策した。
 スフォルツエスコ城はミラノ最大の城でルネッサンス様式の代表的建築である。スカラ座はヴェローナのスカラ家から嫁いできたベアトリーチェのゆかりの建物だが、現在では外装は地味だが内装は豪華絢爛な2800の観客席を持つオペラの殿堂となっている。
 ガッレリーア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世゛は十字形の商店街にガラス屋根をかけた商店街で重厚でドウオモ広場とスカラ座を結んでおり、十字中央のドームの天井は人々を魅了しミラノの応接間と呼ばれている。PRADA本店はこのアーケードの一角にある。
 ドウオモは幅約93m、奥行約158m総面積約11700m2の大聖堂で136本の天を突き刺すように伸びる尖塔と天井を飾るステンドグラスはゴシック様式建築の一大傑作とたたえられている。
 集合まで少し時間があったので、ウィンドウショッピングとガッレリーア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世アーケードの中にある洒落たカフェで思い出にとカプチーノを飲んで寛いだ(3.5ユーロ)。小さなカップに入った濃いコーヒーを砂糖を入れて飲むのはまたおつなものでもあった。
 午後ミラノリナーテ空港から帰国の途についたのであった。
 イタリアの旅は南から北までほぼ全土を10日間かけて観光と散策で世界文化遺産(イタリアがも最も多い)の14都市を駆け巡る旅であった。
 専用観光バスで移動した距離も全行程2300Kmの及んだ。
 22人のツアーでツアーであったが、2日目位から、お互い気心も知れるようになり、和気藹々と楽しい旅にもなった。
 イタリアは古代ローマ帝国時代から中世にかけて繁栄し世界をリードしてきた国であることは間違いない。
 ただ、政権や支配者がめまぐるしく変わり、陽気なイタリア人の深層には公よりも私優先で身を守る意識があるのかもしれない。
 しかし、今回の旅で訪れた街は歴史と伝統が調和し、落着いた街であった。
 日本で言えば奈良、京都のような街と言えるのではないだろうか。
 建築や橋などの構造物は大理石や石灰岩の石造りで重厚であった。また古代ローマより大規模な建築物を可能としたのはアーチ構造を見出したからであろうと思われた。
 気候も地中海性の気候で温暖で暮らし易いと思われる。
 (この時期30℃を超える熱い時期であり、また全く雨にも遭遇しなかった。
 ただ、移動する専用観光バスは温度調整が不能で車内のエアコンを入れると寒く、薄いセーターを羽織る位で調度良かったのは皮肉なであった。)
 旅行中車窓から見える風景は長閑で牧歌的な田園が多かった。
 食事も朝食はパンとコーヒーがあればよくて、卵や野菜もなく質素であった。
 夕食はパスタ、ワイン、ビール、ケーキ、オリーブオイルでのサラダのようにこれまた贅沢な食事ではなかった。
 (英・仏などのゲルマン民族とは食事の内容は違う。)
   イタリアはエスプレッソ、カプチーノというコーヒー発祥の地であり、コーヒーにプライドがあるのかスターバックスの店は1店舗もない。何故かマクドナルドの店は主要都市にはあった。
 出合ったイタリア人はどちらかといえば意外と素朴でまじめな人が多く、決して軽いチャラッポイ人ばかりではなかった。
 何か日本と共通するものも多く、食事も日本人と合い、馴染み易い国であり国民だとの印象を強くもった。
 したがって、日本にイタめし屋の多いのも頷ける。
 今夏の旅はイタリアの印象を変えてくれた旅となった。
 これでイタリア旅行記は完結である。
 旅とは良いものだと改めて感じた。
 さぁ、次は何処の国をまた旅してみることにしようかな。

(写真上段):左:ヴェローナ市街地、中:ヴェローナスカラ家ゆかりの建築、右:ジュリエット家とバルコニー
(写真中段):左:スフォルツエスコ城内、中:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通り、右:ドウオモ
(写真下段):左:ドウオモ内ステンドグラス、中:アレーナ(ヴェローナ)、    右:車窓からの田園風景

   

    

       
     

ロンドンオリンピック閉幕!

2012-08-13 11:21:15 | インポート
 7月28日に開幕したロンドンオリンピックは8月13日閉幕した。
 日本のメダル獲得数は金7個、銀14個、銅17個の合計38個となり、アテネ大会を抜いて史上最多となった。金メダル獲得数では第10位、メダル獲得数では第6位という結果は面目躍如であった。金メダルが予想より少なかったが、全メダルの獲得数では予想を大きく上回り、選手諸君は大いに良くがんばったと言えよう。
 「世界で1番を目標としてどんな意味があるのですか」というとんでもないことを言った(事業仕分けも出来ずに税金の無駄使いをするだけの)どこかの党のバカな女性代議士は一体どう思っているのだろうか。
 どのような分野(世界)でも世界第1位を目指すことは大切なことで、国民のモチベーションを揚げ、国民を強くし、国民生活を向上させ、強いては国力を発展させていくのである。
 今回は毎日TVのライブで深夜(明け方)までじっくりと観戦することが出来た。
 連日のようにメダルを獲得し、国旗が掲揚される様子は日本人として誇らしかった。
 日本選手はそれぞれの競技でよく戦ったと思う。
 まずは女子選手の活躍である。金メダルで4個、全メダルで17個と十分に男子を凌いでいる。大和なでしここにありであった。
 次に、競技別には次のような感想を持った。
 特に今回は水泳陣は素晴らしかった。メダル獲得数は11個で水泳日本の復活となった。
 地味であったがレスリング陣が大奮闘し実力を発揮した。女子と合わせたメダル獲得数は6個で、その内金メダルは4個で日本レスリングの存在感を示した。
 情けなかったのはお家芸柔道陣である。鬼神と化したような松本薫選手のがんばりで辛うじて金メダルは1個だけを獲得したが、全メダルの獲得数は7個で、メダルを獲得出来なかった階級が7階級もあった。すなわち半数の階級はメダルにも届かなかったのである。特に柔道の柱である男子重量級の惨敗はお家芸である柔道日本の崩壊を象徴するものであった。選手、協会の関係者は一から見直して、世界で戦える日本柔道陣を再建しなければならない。
 色々な競技をライブで見て、今回最も感銘を受けたのは女子100m平泳ぎ決勝の鈴木聡美選手の力泳であった。
 決勝は第1コースでそれまでのタイムも第1位通過の選手より2秒は遅れていて、注目もされておらず8位通過でまずメダルは100%ダメと思いながら見ていた。ところがスタートでフライングのような状態となりしばらくの間があって再スタートとなった。これが彼女には幸いしたのか、これまでがリセットされてリラックスで泳げたようで特に折り返してからの泳ぎは抜群でぐんぐんと順位をあげて第3位で入線したのである。記録も予選タイムを2秒以上縮め自己記録の更新したのではなっかたか。その最後50mの泳ぎは非常に印象的であった。  その後の200m平泳ぎでは銀メダル、400mメドレーでは銅メダルと大活躍であった。それも100m決勝のスタートのやり直しから彼女にメダルの女神が舞い降りてきたように思われてならない。
 オリンピックはスポーツの最大の祭典である。
 今回、ロンドンという成熟した都市での開催で、多くの金をかけずに今までのストックを活用して上手く運営がなされていたように思った。
 また、TV映像から見る限り、落着いた街並とオリンピックとがよく調和していたように思った。
 スポーツは理屈抜きで我々に夢と感動を与えてくれる。
 ロンドンオリンピックでスポーツの持つ素晴らしさを再認識することが出来た。
     

イタリアの旅(Part4)

2012-08-10 13:54:47 | インポート
 イタリア旅行も終盤になってきた。
 プラトーのホテルを9:00に専用観光バスで出発して、「花の女神フローラの町」で世界遺産フィレンツエ歴史地区の観光に向かった。
 9:50頃にはフィレンツエの街が一望できる小高い丘のダヴィデイ像の複製が立っているミケランジェロ広場に到着した。
 この広場からアルノ川越しにドウオモ、ヴェッキオ宮殿など落着いたフィレンツエの街並が一望された。
 ここから市街地に入り、ヴェッキオ宮殿、世界で3番目に大きなドウオモ(サンタマリアデルフィオーレ大聖堂)、シニョーリア広場、最古の橋ベッキオ橋、ウフィッツイ美術館周辺などをゆっくりと散策した。
 フィレンツエは現在では人口36万人で観光客賑わう都市だが、中世にはミラノとローマを結ぶイタリア随一の商業都市として、また15世紀にはルネッサンス発祥の地として栄え優雅で落着いた街並と彫刻やレリーフが街のいたるところに見られ、興味のある人にとってはまるで天井のない美術館にいるような気分を味わうことことが出来る。
 アルノ川にかかる街で最古の石造のベッキオ橋は橋上家屋で有名で現在では金銀細工の店がぎっしりと建ち並んでいる。
 グッチやフェラガモのブランドはフィレンツエ生まれである。
 フィレンツエでは昼食もしてゆっくりと散策してから、14:30頃に次の観光地ベネチアへと向かった。
 約250kmの長距離移動でベネチア・メストレに到着したのは19:00頃であった。
 ベネチアに入る手前で関所のような所があり入国税のようなものを徴収された。
 夕食はレストランでカルボナーラと白身魚(タラ)のソテーであった。
 ベネチア・メストレのホテルを9:20専用バスで出発して、今日、まずは世界遺産ベネチア観光である。
 トロンケットの駐車場にバスを降りて、本島にあるサンマルコ地区にはここの港から水上バス(ヴァボレット)での移動となった。
 水上バスでの移動は15分ほどで、洋上からサンマルコ寺院地区や対岸のサンジョルジョマッジョーレ教会などの施設が目に入ってくると水の都ベネチアに来たという思いが高まるから不思議であった。
 上陸後、ベネチアングラス工房やベネチアン刺繍の工房を見物した後、数少ないギリシャ正教の聖堂としてモザイク模様が荘厳な(普段は室内は消灯しているが12:00に30分ほど室内が点灯する時間帯に)サンマルコ大聖堂を見学した。
 それから、時間に制約もあり30分の水上都市の運河をゴンドラを体験した。カンツオーネ(?)の歌を聞きながら生活の臭いのする運河をゆっくりと揺られながら水上を散歩するのもまた趣がよかった。料金は60ユーロであった。水の都ベニスの雰囲気を楽しむことができた。
 その後、自由行動でサンマルコ広場、ドウカーレ宮殿、ため息橋、ブランド商店街などを散策した。
 サンマルコ広場は世界で最も美しい広場といわれ、ここをモデルにして日本でも広場を造っている所もあるようである。この広場の一角にある老舗カフェのフローリアンは映画旅情の舞台でも有名となったが、ヨーロッパで最も古い喫茶店として有名でカプチーノ一杯が12ユーロはするがそれだけの価値はある。
 ベネチアはアドリア海の根元に位置し、159の運河、400以上の橋、117の島からなる水上都市で東西貿易の中継地として巨大な富を築いたといわれ海運王国の名残はサンマルコ寺院などに見られる。  ただ、ベネチアは水上都市であるが故に洪水や大きな満潮の時など水位が上ると街が浸水するという悩ましいところもあるが、元気な活気のある港町には間違いはない。この時の案内ガイドさんはアントニオ何某という方で日本語はべらべらで解かりやすい愉快なガイドであった。但し物価は他都市と較べて全は高い印象はあった。
 ベネチアでは昼食にイカ墨パスタを食べ、ゆっくりと散策した後、この日はベローナへと向かった。
 いよいよイタリアの旅も残りはベローナとミラノだけとなった。
 次回のブログでこの2つの街を紹介して、イタリアの旅の最終とする。

(写真上段)左:ミケランジェロ広場からフィレンツエ、中:ドウオモ、右:ベッキオ橋
(写真下段)左:サンマルコ広場、中:ゴンドラ遊覧、右:カフェ・フローリアン

      

      

イタリアの旅(Part3)

2012-08-02 09:11:59 | インポート
汗がダラダラと滴りおちる猛暑の中、世界中はロンドンオリンピックに注目が集まっているようですが、こちらはイタリアの旅をもう少し綴っていきます。
 イタリアの旅も6日目に入り、イタリアの中部地方の旅となります。
 プラトーのホテルを8:40頃に専用観光バスで出発して、まずはピサに向かった。9:50頃に専用駐車場に着き、そこからはリムジンバスで移動して世界遺産ピサを散策した。
 広い敷地に大聖堂、礼拝堂などが建ち並び大聖堂の近くにあの有名なピサの斜塔が一際目立って聳え立っていた。
 ピサの斜塔はピサ・ロマネスク様式の大理石の塔で大聖堂の灯篭として1,173年に着工し、建設中から傾き始め1,372年に完成したが傾きを修正することは出来なかった。但し最上階だけが鉛直に建てられている。
この傾きを利用して16世紀末にガリレオ・ガリレイが落体の実験をしたという逸話も残っている。
 傾斜の原因は地盤が鋭敏な粘性土の軟弱地盤ために不等沈下生じたことによる。
 塔は大理石を用いた円筒形で重さ1,445トン、外周の直径は17m、高さは55m、南に4.5m(5度30分)傾いていて、南側に2mも不等沈下している。
 完成後色々と対策がなされていたが、1,990年から2,001年の10年間公開を休止して、北側の地盤を掘削するという改修工法で安定を保つという方法が取られ、監視担当の地質学の先生は2,008年に今後300年間は倒れる危険性はないとの見解を出しているようである。
 しかし外観から見ても塔の傾きは大きく、世界で最も危険な建物のNo.1になっているのも肯ける。
 ピサの斜塔に登ってみました。1グループ40人の毎なので、2時間程待ちました。係員の案内で297段の階段を中間の4階部で一旦外周を廻ってから最上階へと登って行きました。傾いているので気分が変になりますが直ぐに慣れます。最上階からの景色は360度ピサの街を展望できて素晴らしかったです。下りてくるまでは30分ほどで、チケットは15ユーロであった。
 ピサを観光する人は多く、道端の土産物点は多くあり賑わっていた。
 ピサを散策し、昼食後、13:00頃にピサを出発してシエナへと向かった。
 15:00頃シエナに到着した。
 シエナはイタリア中部のトスカーナの丘陵地帯の中心、3つの丘の上にある人口約5万人の街で、13~14世紀には交通の要所で商業と金融で反映した有力都市であった。
 中世の姿を留める旧市街地はシエナ歴史地区として世界遺産に登録されている。
 落着いた街と大きな白い石造の大聖堂のコントラストが印象的であった。
 世界で最も美しい広場の一つとして賞賛されているカンポ広場では、7月と8月には13世紀から続く17中10の地区対抗で名誉をかけて競われる裸馬競馬パリオには多くの人が集まる。観光した時期は7月に開催される競馬の準備で外周の馬場(ダート)の手入れが行なわれていた。
 2時間ほどシエナを散策してから、次に1時間ほど専用バスで移動して、サンジミニャーノを観光、散策した。時間はもう19:00をまわっていた。
 サンジミニャーノは人口は7,000人ほどだが、標高320m程の小高い丘の上にある塔の街として知られている。
 中世の街並を残す地区で50mを超えるような塔が14そびえる美しき塔の街として知られ世界遺産にも登録されている小さな落着いた街であった。
 またこの地方は美味しいワイン の産地でもあるようだ。
 1.5時間ほどサンジミニャーノの古い街を散策してから、カレンツアーノのレストランでミネストローネとワインで夕食をして、プラトーのホテルに戻ったのは21:00を過ぎていた。
 本日もしっかりイタリア中部の中世の姿を残している街(都市)を観光見物した。
 明日からの旅は、残りのフィレンツエ、ベネチア、ベローナ、ミラノとイタリア中部~北部の街(都市)の観光である。
 次からのブログで報告することにする。

 写真:(上段)左:ピサの斜塔、中:ピサ前の観光馬車、右:丘上の街シエナ
  (中段)左:シエナの街中、中:カンポ広場、右:シエナで小型オート三輪
  (下段)左:サンジミニャーノの街並、右:サンジミニャーノの街中の高い塔