神戸から徒然なるままに

海と山の自然豊かでハイカラな街・神戸より

神戸の水源池(歴史的建造物)を訪ねて!

2013-10-31 11:49:16 | インポート
 神戸外国人居留地では、1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港した時点で、ある程度の上下水道設備を整えていました。
 今から145年も前のことで、国内の普及率0%の時代です。もちろん西洋の技術で作られたものでした。

  神戸市の水道整備は1893年(明治26年)の 英国人技師バルトンによる神戸市の近代水道計画作成によるところが大きいといわれています。
 神戸市の本格的な上水道事業は明治中期に始り、人口の増加・給水面積の増大につれて順次水源を拡大していきます。
 最初に布引ダム、次に烏原ダム、そして千苅ダムの順にダムが築かれていくのです。

 最初の布引水源池である通称布引ダム(五本松ダム)は明治33年(1900年)完成の我国最初の重力式コンクリートダム(貯水量:417,000m3)です。(写真:左)  次に源平合戦ゆかりの地鵯越の近くに烏原水源池である立ヶ畑ダムが明治38年(1905年)に完成します。粗石・栗石モルタル積の重力式コンクリートダムで、その後拡張され大正4年(1915年)(貯水量1,315,139m3)に今の形になっています。(写真:中)
 これらのダムには英人技師バルトンが計画、設計に関わっています。
 三番目が千刈水源池で北区道場の武庫川水系に、大正8年(1919年)に完成した市内最大の粗石モルタル積の重力式コンクリートダム(貯水量11,612,000m3)で、17門のスライドゲートがあるのは我国最古のダムです。(写真:右)
 年代を経るにつれて巨大な水源が必要とされ、千苅ダムの貯水量は布引ダムの30倍もの規模になります。
 布引ダム、烏原ダムが市街地のすぐ裏手に築かれたのと異なり、3番目の千刈ダムは豊富な水源を求めて六甲山を越えた深い山の中に築かれる事となります。

 千苅ダムの完成で神戸の水源は強化されたのですが、更なる人口増に対応するには3つの水道ダムだけでは限界となってしまいます。
 その後は遠く淀川(琵琶湖)から導水するルートが築かれ、こちらが主流となって行きます。現在これらのダムが供給する上水は全体の1割に満たない量ですが、約100年を経た今もあの阪神・淡路大地震を乗越えて現役の施設として活躍しています。

 このように神戸市の水源の確保のためのダム建設には深い歴史があります。
 ダム建設の技術からみると、西洋の土木技術を導入して、粗石や栗石や石臼などを大量に使った重力式コンクリートダムですが、セメント、コンクリートが十分に無い時代に知恵を出し苦心・苦労して建設したものと思われます。また耐震設計もどのように考慮されていたのか興味のあるところです。
 我国最初の重力式ダムである布引ダムと、これに続く烏原ダムの竣工によって、近代ダムの技術は確立され、その後は全国に大規模なダムが続々と造られていきます。
 また、これらのダムはいずれも国の登録有形文化財に登録されています。

 このように、神戸市が取り組んだダム事業は日本の近代土木を語る上で欠かせない大きな役割を果してきたのです。

 これらのダムはいずれも近郊にあり、ハイキングや散策には手頃な場所でもあり、一度訪れて往事の事に思いをはべるのも良いと思います。

      

あぁ、阪神タイガース!

2013-10-15 10:34:47 | インポート
 阪神タイガースの今期の戦いもセリーグCSのファースト・ステージの第1戦で終わったね。
 この第1戦が今のタイガースを象徴するような戦いであった。
 相手広島の好投手前田に対して真っ向からの勝負に挑まなかっただけでもう勝負は決まっていた。
 打てない、守れない、更に勝負に対する意欲がまったく見られなった。
 猛虎タイガースはどこへいったのであろうか。
 したがって、CSの第2戦は倍返しで負かすどころか、逆にボカスカにやられる始末である。

 今期を振り返ってみよう。
 戦績は73勝67敗4分、勝率0.521でセリーグ2位とまずまずであった。
 しかし、印象に残る試合、選手は少く、またチームが強くなったという印象もない。
 今期は巨人以外のチームが弱すぎたのである。
 監督和田の采配には疑問を感じることが多かった。選手の起用、選手交代、特に投手交代の仕方については納得できるものではなかった。
 和田は応用問題や3次元方程式など展開が変化して、問題が少し複雑になると解けない監督だと思う。(すなわち状況が読めないので、融通が利かずに、変化にうまく対応出来ないのである。)
 和田はどのようなチーム作りをしようとしているのかまったく見えてこない。
 球団では何もしない出来ない存在感のないGM中村は全く不要ではないだろうか。
 選手をみると、新井(貴)や福留はもう要らないのではないだろうか。
 新人の藤波投手のさわやかな大活躍だけがせめてもの救いではあった。
 そして、檜山選手は22年間タイガース一筋ご苦労様でした。

 さて、今期の愚痴はこれぐらいにして来期を展望してみる。
 投手陣は、リリーフと押さえを整備しなければならない。
 守備では、要となる捕手が最大の弱点で、育ってきていない。補強すべき最大のポイントになる。
 野手、打撃では上本、大和など少し成長してきたが、子飼の選手をもっと登用して活性化を図るべきである。

 ただ、監督和田がこれまでを反省して、大きく脱皮しなけばどうしようもないね。
 シンキングベースボールやPCやiPadを使った新しいデータ野球を徹底的にやったらいいと思う。

 とめどもないことを言ってきたが、このままではタイガースの来期は明るくはないと思う。
   

「源義経の腰掛の松」

2013-10-05 09:01:38 | インポート
 すっかり秋らしくなってきましたね。
  視聴率最低の大河ドラマ「平清盛」が終わって半年は経ちました。
 最近では平家ゆかりの地を訪れる人もめっきりと減っています。
 さて、今回は視点を変えて、源義経にまつわるものを紹介してみましょう。
 源義経が強敵平家を奇襲して平家衰退へと大きく流れを変えた「一の谷の合戦」にまつわるものとして、源義経の「腰掛の松」や「馬つなぎの松」などとして伝えられているものが、神戸の平家の福原京、大和田を囲む背後を囲む山の周辺にいくつかあります。
  まず、一つは兵庫区鵯越墓地の高尾地蔵の近くにある「義経馬つなぎの松」、二つ目は須磨区にある我国最古の厄神多井畑神社のすぐ隣にある「義経腰掛の松」(写真左)、もう一つは須磨区にある平家ゆかりのお寺で敦盛塚のある須磨寺の本堂のある境内にある「義経腰掛の松」(写真右)と、小生が気がついただけでも三ヶ所もあります。
 これらの場所みると、いずれも「一の谷の合戦」の前に源義経が馬を止め休息し、戦闘に備えた場所だと思われます。
 そこで、あの歴史で有名な「鵯越の逆落とし」、「一の谷の合戦」はどこであったのでしょうか。
 いまだに諸説があります。
 近くに住む地元の者としては、現在の須磨浦公園辺りの「一の谷」が合戦の場では無くて、もっと東の平家の中枢があった福原京、大和田の泊りを目掛けて、源義経は背後地にある鵯越から奇襲を仕掛けてきたと考えています。
 この話については、いずれ改めてすることとしましょう。
 これらの地を一度訪れて、源義経の思い、平家一族の思いをはせ巡らせてもまた楽しいものです。