木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

経済成長神話とリンクする原発推進・維持

2011年07月31日 | Weblog

中国高速鉄道事故
これを伝える日本のメディア。特にNHKだが、高みから「安全無視」と、得意げに伝える。
そうには違いないだろうが、それはそのまま日本の「原発事故」に言えることであって、他国を批判できる立場にはない。
まるで、「原発事故」が無かったかのように(さすがにそれは無理だが)、少しでも「原発事故」から国民の目をそらそうという意図を強く感じた。
それに死者の出るような「鉄道事故」なら日本でもいくつも起こっている。
記憶に新しいのはJR西日本の「福知山線脱線事故」。最近では北海道石勝線のトンネル内事故(死者はいなかったが、乗客の機転が死者を出さなかっただけ。乗務員は危機にボーとしていた)。
すると、あれは在来線の事故、日本の新幹線では今回のようなことはあり得ないと、反論するだろう。死者やけが人が出ては在来線だろうが、新幹線だろうが、どちらでもダメだろう。

「原発を段階的に廃止していく」という方向にだまされてはいけない
政府経産省の意を受けた論者にこういうことを言う人が増えた。これだと今回の事故を起こした張本人たち、原子力村の経産省の役人、学者、電力会社の罪を薄めてしまうことになる。
時間の経過は事実を忘れさせ、怒りを忘れさせてしまう。
日本にある「原発」は運転中のものは停止の工程に入らなければならないし、休止中のものは「再稼働」をさせてはならない。
大地震はまたいつ起こるかわからない。次大事故が起きたら日本列島は終わりなのだ。
原発に対する「安全神話」は崩れた。原子力発電を推進してきた連中の「無責任ぶり」も日にさらされた。
これらに「原発運転」をまかせるわけにはいかない。
「原発の停止」により、経済活動への悪影響を経団連あたりに所属する大企業のトップらがさかんに言い立てる。
しかし元々調整の効かない「原発稼働」のために他の発電が抑えられ、ゆがめられてきたのであって、「原発がなければやっていけない」わけではない。
今使用中の燃料棒が使える間は原料を補充する必要がないというだけの「コスト安」しか考えない「わが亡き後に洪水よ来たれ」という考え方の「金の亡者達」は、永久に経済成長しなければという強迫観念にとりつかれている。
果たしてそんな必要があるのか、また可能なのか、答えはおのずと知れている。「否」だ。

若い世代に広がる「所有」から「共有」へ。
生まれた時から豊かな物に囲まれて育った30歳以下の人達にとって、物をたくさん持ったり、買うことはダサイことだという考え方がひろがっているらしい。
無理も無い。団塊の世代である私ですら、人生の終わりが見えてきた今日この頃、「不必要なものはいらない」という考え方になっている。
「共有」の考え方は、物だけでなく、仕事の面でも出てきている。
利益を独り占めしてそんなことのどこが面白いんだ。
「市場万能」の資本主義という社会のあり方が完全に行き詰まっている。
「原発事故」はその象徴でもある。

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