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木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

「ウソつきは検事の始まり」

2010年09月25日 | Weblog

今週のニュースより。
大阪地検特捜部の前田検事逮捕。

村木厚子厚労省の局長無罪判決を受けて、この事件の捜査で主導的役割を果たした検事が、その捜査資料を改ざんした罪で、一転逮捕。
この前田検事は小沢一郎氏の「政治資金」に関する捜査にも加わっていて、こちらも「嫌疑不充分」で不起訴という結果になっている。
この間の警察や検察のいい加減な、どころか無理矢理事件をでっちあげるようなあり方が次々に明るみに出て(服役後、DNA鑑定で無罪があきらかになった栃木幼女殺害事件菅谷さんや、そもそも事件自体が存在しなかった鹿児島の選挙違反事件の志布志事件など)、警察や検察、裁判所の問題点がマスコミでも取り上げられているが、そもそも検察の中でも特捜部という重大な政治や経済犯罪を扱う「部署は「まず犯罪のストーリーを作り、そこに実際の事態をあてはめていく」という特徴を持っていると、司法経験者が言っていた。
当然、自分達に都合の良いストーリー作りになっていくのは目に見えている。
私は戦前の「特高警察」を思い起こした。
社会主義者、自由主義者、そして果てには戦時体制に不満を言っただけで、「治安維持法違反」で引っ張られ、肉体的に痛めつけられ、心身ともにボロボロにされた過去がある。
この「治安維持法違反」はいくらでもストーリーを作り上げることができるものだ。
それを考えると、今の特捜部は大筋で変わっていないのではないかという印象を持つ。
前田検事の逮捕の理由になった「フロッピーの日付改ざん」は、容疑者となった村木さん自身が見つけたという。
厚労省の官僚として、優秀な仕事をしていたという評価の村木さんならではであって、普通の人ならなかなかこうはいかない。
特捜検事がなぜこんな「無理筋」のストーリーを組み立てたのか。
ここにもはびこる「成果主義」。
警察や検察で成果を求めると、それが本当にある犯罪の検挙や解決に向かうのではなく、でっち上げてでも、事件を作り、それを解決したように見せかけることになってしまうのは、「数字」をあげること、目に見えることに「成果」を求めてしまうからなのだろう。
企業が求める成果と違って、そのために名誉と時間を奪われる人がいる、恐ろしいことだ。死刑を執行されてしまった人もいるかもしれない。
今までは検事の前で「お前はウソをついているだろう」と威圧されていた被疑者の方が、「検事さんこそウソついているんじゃないですか」と逆襲できなくとも、そういう目で検事を見ることになる。
ところでストーリーを作るのがお得意な「特捜部」なら、竹中平蔵をなんとかしてほしい。

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第3の国民のための政治勢力構築を

2010年09月18日 | Weblog
またトンネルに入ってしまった日本社会。
昨年の今頃は長年の自民党支配がやっと終わり、「政権交代」が成った高揚感が一定あった頃だった。
「民主党政権」への信頼感は高いとは必ずしも言えなかったが、その政策には、小泉・竹中体制で進めた構造改革により疲弊してしまった日々の生活を立て直す政治をしていこうというメッセージがこめられていたと思う。
それが今やすっかり色あせた。予想されたことではあったが、これからどうするか。
やっぱり自民党でもない、民主党でもない、国民のための政治勢力を私達自身が作っていかなくてはいけないのだ。
それを私は長年の間、社会党、共産党、その他の市民派政治勢力に求めていたが、これらの政治勢力が、共闘せずにそれぞれに選挙に臨んでいたのでは、この閉塞を打開できない。
先の参議院選挙でも、大多数の国民の願いに一番合致していると思われる社・共が議席を減らしてしまうという結果だった。
社・共はかつてのように「主導権争い」を展開するほどの力をそれぞれが持っていない。だからこそ今「変わるチャンス」だと思う。
可能性のある選挙区には「革新共同候補」を立てることを真剣に、現実の課題として考えるべきだ。
政治家としての資質や意欲がある人がいないわけではない。
小選挙区と公職選挙法のしばりによって出る場を阻まれていることが大きいと思う。
思いつくだけでも、教育、八ン場ダム、死刑廃止などの問題で地道に活動している社民党の保坂展人氏、落選を繰り返させているのは本当に損失だ。
共産党の小池晃氏も、わかりやすい語り口の、医療問題などのスペシャリスト。落選はこれまた損失。
社民党は無名の若い候補を立てていたが、小池さんに集中することができたらよかったのに。
先の長野県知事選では無所属で松本猛氏がいち早く立候補を表明。落選してしまったが、この人も幅広い支持を集められる資質を持っていると思う。
立候補を打診されて、よく受けたなと、最初そう思った。
童画家いわさきちひろと、元共産党の代議士松本善明氏の間の一人息子。
安曇野にあるちひろ美術館や、県立信濃美術館の館長を務め、長野県と深い関わりを持ってはいたが、やはり父の血も受け継いでいたわけだ。
政治家だけでなく、政治家を支えるそれぞれの分野の専門家にも参集してもらって、これからの日本社会の方向性を考えて行く必要がある。
反貧困ネットワークの湯浅誠氏。彼は菅直人の要請を受けて、内閣参与という資格で政府入りしたが、官の壁は彼を阻んだようだが。
原発ではないエネルギー問題の専門家、飯田哲也氏。飯田氏はかつて中村敦夫さんが「緑の党」を主宰していた時、参議院候補に名を連ねたりしていた。
人材は、今政治家である人達、政治家になりたいと売り込んでいる人達以外のところにある。
それを権力も金力も持っていない普通の国民が押し出していかなくては。
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アジア蔑視の福沢の背景

2010年09月13日 | Weblog

複雑な福沢諭吉。
この前の日記で、福沢諭吉の激越なというより口汚い中国・朝鮮蔑視にあきれたことを書いたが、「本当か」という思いがあって、インターネット検索をしてみた。
1835年生まれ。明治維新の30年前。まさに激動の幕末維新の時代を生き、没年は1901年(明治34年)。日清戦争は経験したが、日露戦争の前にこの世を去っている。
九州大分中津藩の下級武士の家に生まれ、封建的身分制には憎悪を感じていた。
その封建的身分制が崩壊する時代にめぐり合ったのが幸いで、長崎や大阪の適塾でオランダ語を習得し、蘭学者であり、自然科学者、教育家、啓蒙思想家という多彩な人。
オランダ語では世界に通用しないということで、後には英語を学び、咸臨丸でアメリカに渡った一行にも加わっていて、その後欧州も見聞している。
朝鮮の独立運動家金玉均を助け、朝鮮独立を援助するが、挫折。その絶望感が、「こんな国は滅びたほうがいい」の発言につながったのか。
「時事新報」という新聞の創刊者で発行者。
その新聞に掲載されたコラムなどの発言が、「アジア差別者」のレッテルの根拠になっている。
実はこれらの発言は無署名で発表されており、別の人間が福沢の名をかたった可能性があるという研究もある。
いずれにしても、激越な調子で煽動することを好む傾向が福沢にはあった。
ところで緒方洪安の「適塾」は医学を勉強する塾だが、福沢は生き血を見るのが苦手で、その方面には進まず、化学実験や、オランダ語を学ぶのが目的で入塾していた。
血を見るような場面は人にまかせたが、医学の知識や科学的探究心は旺盛で、それが、後の北里柴三郎を助けることにつながったのだろう。
東大が捨てた北里を福沢が作った慶応義塾が拾う。塾の名声を高めるには多いに役に立ったと思う。
その北里柴三郎の作った伝染病研究所に拾われたのが世界的に知られた細菌学者で千円札の肖像になっている野口英世だ。
鈴木梅太郎の脚気ビタミンB1不足説を認めなかった
東京帝大医科大学長青山胤通からみれば、当時の町医者不足を解消するための促成医師養成機関「済世学舎出身」のゴミみたいな存在が野口英世。
だが北里の伝研の研究員で野口の先輩、赤痢菌の発見で知られる志賀潔は、「細菌学の新しい発見は、帝大などの出身者より、地方の医学専門学校出身者や、現場で働く獣医などの労を惜しまぬ研鑽・努力に負うところが多い」と自身の回想記で書いている。
志賀潔自身は東京帝大医学部出身であるが、明治維新の「負け組み」東北の仙台出身で、貧しい生家から母方の志賀家に養子に入り、学資を出してもらって医学を学んだ経歴の人である。

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福沢諭吉の光と影

2010年09月04日 | Weblog
朝鮮・中国蔑視の福沢諭吉。
「天は人の上に人を作らず」の言葉だけが独り歩きして、明治の開明派という印象がある福沢諭吉だが、この言葉は朝鮮・中国には適用されないらしい。
1880年代前半「朝鮮人は未開の民、きわめて頑固で愚か、かつ凶暴」とか、「支那人民の怯儒卑屈は実に法外無類」「チャイニーズ、あたかも乞食」、「朝鮮国、人民一般の利害如何を論ずるときは、滅亡こそ、その幸福は大」などと発言している。(雑誌「週刊金曜日より)。
ネット右翼と言われる種類の人達が「朝鮮、中国、アホ、バカ、シネ」とわめくのと、あの1万円札でおなじみの、慶応義塾創始者の福沢先生の口汚さは同レベル。
「脱亜入欧」を唱えた福沢先生は、何を根拠にこれほど口汚くなれたのか。
日清戦争や義和団事件で日本軍が中国に出兵した際には「チャンチャン、皆殺しにするは造作もなきこと」「支那兵の如きは豚狩りのつもり」そしてきわめつけは「北京中の金銀財宝を掻きさらえて、チャンチャンの着替えまでも引っ剥いで持ち帰ることこそ願わしけれ」と略奪まであおる。
差別発言で知られる石原慎太郎も、さすがここまでは口にはしないような罵詈雑言。
当時の大衆が喝采するアジテーター。現代だったら「たけしのテレビタックル」で吠えるハマコー氏というところだ。(逮捕されて引導を渡されてしまったが)。
福沢は自由民権派からは「法螺を福沢、嘘を諭吉」とあなどられ、外務省勤務の吉岡弘毅からそのアジア侵略路線は「我が日本帝国をして強盗国に変しめんと謀る」ものであり「必ず将来に災禍を遺さんこと必せり」と批判され、実際その後に日本はこの通りになったわけである。
そのあきれた福沢諭吉だが、師や先輩の学説を批判して東京帝大を追われた北里柴三郎を助けている。
北里は慶応義塾大学医学部を創設した。
北里が追放される原因になったのは脚気をめぐる論争だった。
森鴎外らはこの原因を脚気菌によるとし、北里はビタミンB1の不足から来ると主張した。
鈴木梅太郎のビタミンB1説を取ったのだ。
「週刊金曜日」の佐高信氏の「お墓紀行」からのエピソードだ。
北里と争った森鴎外だが、鴎外の墓は太宰治の墓のすぐ近くにあって、鴎外の墓を無視して、その墓石にすわって太宰の墓詣でをするファンが後を絶たないとか。
陸軍が軍隊内の主食を「白い米飯」にこだわったのには、農村出身者の多い陸軍で「白いご飯を腹いっぱい食べられる」というのが、兵士達の「やる気」につながっていたからとも言われている。
B1を補う副食をつければ済むことだと思うが、鈴木梅太郎の説を、東京帝大医科大学長の青山胤通は「土百姓学者が何を言う。糠が脚気の薬になるなら、馬の小便でも効くだろう」という暴言を吐いたとされ、この差別・偏見が解決の道を遅らせ、兵士を苦しめたわけだ。


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