木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

民主党の終わり。代表選

2011年08月30日 | Weblog

民主党代表野田氏に。
ゴミ比べにしか見えなかった代表選。そのゴミの中から選ばれた野田氏は「財務省のポチ」で、対抗馬だった海江田氏が「経産省のポチ」ではこの国は救われない。
5人の候補の誰一人として、今最も深刻な被害をもたらしている「原発事故」を教訓に「脱原発」を主張しようとしなかった。
それどころか、財務省のパシリとなって、「復興増税」を言うような野田を圧倒的票数で選ぶとは・・・。
選挙前、マスコミ評価の高かったのは前原氏だった。「国民的人気が高い」と、盛んに言われたけど、私は耳を疑った。「前原のどこをどう見てそんな風に思えるのか」と。
ただ名前が知られているだけ、それもろくでもないことで。
野党時代の代表だった時の「にせメール事件」。その責任を全て永田議員に押し付けて、彼はとうとう自殺に追い込まれてしまった。
与党になってからは国交大臣、外務大臣と脚光を浴びるポストに就いたが、「八ツ場ダム」は中止と、花火を上げたまま、中止に向けたプロセスは示さないまま。あれ以降どうなったのか。
尖閣諸島海域で中国漁船を拘束、船長逮捕を指示したものの、中国側の猛反発にあって、腰砕けになり、後始末をしたのは当時の仙石官房長官ではなかったか。
能面のような美男子で、それがいいと思う人がいるのか。
前原が代表に選ばれていたら、とんでもないことを言ったりやったりして、超短命政権で終わってしまっただろうけど。
ちょうど自民党時代の安倍晋三首相のように。安倍も「国民の人気が高い、高い」と言われていた。何の実績もないのに。
こうしてみると、「国民の人気が高い」というのは、単にお騒がせで名前が覚えられたというだけの「マスコミ製造人気」なのだろう。

カダフィ政権崩壊へ。
反カダフィ側が首都を制圧。カダフィ大佐は行方知れず。
以前、私はカダフィ政権が、民主化を要求する人々に直ちに銃で応戦したのを見て、反体制側に道理ありと思ったのだが、事はそう単純なものではないらしい。
石油資源や鉱物資源に恵まれたアラブやアフリカの国々に対しては、欧米諸国がハゲタカのように襲いかかり、欧米の傀儡政権が民衆を抑圧して独裁体制を敷いてきた歴史がある。
その抑圧への反撃がチュニジアであり、エジプトであった。
しかしリビアだけは様相を異にしている。カダフィは石油資源に対する欧米の侵略を拒否してきた。
カダフィ政権を打倒しようとしている勢力には欧米が加勢していて、特にフランスが熱心でNATO軍まで出動しているということは、リビアの民衆の蜂起というのとはちょっと違うという気がする。
こうしたリビアへの複眼的見方を示唆してくれたのは、アメリカ在住の藤永茂氏のブログだ。http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/(私の闇の奥)。
20世紀までは欧米によるアジア・アフリカ・アメリカ大陸先住民への長い長い征服と支配の歴史だった。

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泊原発営業運転再開、リニアへGO

2011年08月20日 | Weblog

北海道電力泊原発3号機調整運転から営業運転へ。
高橋はるみ知事が営業運転容認を正式に表明し、運転に入った。
大震災前に定期検査を終え、調整運転に入ったところで、震災があり、福島原発事故が起こった。
通常は調整運転は1カ月程度なのだが、この事故のため、5ヵ月も続けられていた。
調整運転といっても、電力は供給されていて、営業運転との違いは何なのか、ネットで見てもよくわからない。
高橋知事にしてみれば、営業運転と変わらない調整運転をこの間ずっと続けて来たのだから、営業運転容認はさして高いハードルではなかったのかもしれない。
高橋知事の経歴をウィキペディアで見てみた。
富山県のガス会社社長の娘で、一ツ橋大学を卒業して経産省入り。
絵に描いたようなエリートレディである。
北海道に舞い降りてきて、3期目。一期目ごとに?千万円もの退職金を得て、「退職金だけをもらって北海道を去る人」と揶揄されている。
北電の強力な後援を得て、一部の土建業者をうるおすだけの前時代の「典型的知事」のようだ。
選挙の力学というものは、単純なものではないが、北海道民の見識を疑わざるを得ない知事選びというしかない。
福島の事故を経験して、道民の暮らしの安全と安心を考えるならば、知事の取るべき道は、「泊原発」停止の要請だろうが、北電の後援で選挙に勝利し、かつ経産省の回し者である高橋はるみにそれは無理。
ならばどうすればいいか。リコール運動しかない。
と、そんな北海道を批判ばかりもしていられない問題がわが長野県にもある。
JR東海による「リニア開業問題」。
原発事故及び震災のドサクサにまぎれこむようにして、ここへ来て、走行ルート、途中停車駅などがJR側から提示されている。
名古屋ー東京間を南アルプスを貫通するトンネル最短ルートで40分。
長野県の南の地方は、交通過疎地帯。といってもこれはあくまで東京や名古屋に出るのに距離や時間がかかるという意味でであるが。
だからこそ、リニアの途中停車駅が、従来の鉄道駅に併設されるようなルートこそこの地域の長野県民の希望なのだが、JR東海の構想に途中地域の利便性は視野にない。
とにかく東京、名古屋、大阪といった大都市を結ぶことしか考えていない。こういう考え方こそ、前時代的考え方で、転換しなければならない時に来ていると思うのに。
大都市だけでは人々の生活は成り立たない。
それとリニアは大量の電気を使う。しかしJR東海は自前の発電施設を持っているわけではない。
みなが「節電」を志向している時代に、わざわざ電気を大量に食うリニアを通して、地方を蹴散らし、大都市を結ぼうということしか考えられない鉄道会社の経営陣の頭の中身を疑ってしまう。
南アルプスを貫通するという自然を冒涜してまで通さなければならない交通手段とは思えない。

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危機情報を国民に伝えないトップ達

2011年08月13日 | Weblog

NHKスペシャル「生かされなかった極秘情報」。
地デジ移行以来、無難な娯楽路線に完全シフトしてしまった感のNHKが、久々に緊張感のある番組を放映した。
広島・長崎に落とされた二つの原爆。どちらの場合も空襲警報が解除された後、あるいは警報が出されないまま、人々が警戒を解いているスキをねらった奇襲攻撃のようにして投下されたと一般的には思われていた。
しかし実は参謀本部下の「特殊情報部」では、原爆投下以前、アメリカが海と空を支配するようになった南太平洋の島々から飛び立つ攻撃機からの不審なコールサインをキャッチしていた。
アメリカが強力な殺傷力を持つ「新型爆弾」を開発したらしいという情報は参謀本部も得ていた。特殊情報任務に就いている部員は、それが、他の攻撃機とは違う、だが明らかに規則性を持ったコールサインを送ってくる攻撃機と関連があるのではというふうに考えた。
それは参謀本部上層部に伝えられていた。
あの日、8月6日も広島上空方面で、例のコールサインは捉えられていた。警戒警報を出して、人々に防空壕への避難を促すべきではないかという進言はなぜか無視され、広島の司令部に伝えられなかったため、人々は朝の日常生活を始めていた。その矢先に広島市中心部の上空で原子爆弾は炸裂したのだった。
もし警戒警報が出され、人々が避難していたなら、あれほどの被害は与えなかったであろう。
そして長崎、最初は福岡県小倉をめざしていたという攻撃機「ボックスカー」は天候不良のため第二候補の長崎に向かった。
戦闘機の元パイロットは「なぜ出撃命令が出なかったのか。決して落ちない飛行機ではない」と悔やんでみせた。
長崎への攻撃の際にも、警報を出すよう、上層部に進言するも、それは生かされなかったという。
8月9日、ソ連が満蒙の国境を越え、攻撃して来た。皇居ではその対応のために会議が開かれていて、参謀本部の幹部達は、自分達が何をなすべきか全く方向性を見つけられず、「茫然自失」の状態だったというのだが。
2度の原爆投下、たとえ警戒警報が出たにしても、その被害は計り知れず、その後も人々を苦しめたであろうが、しかし、直接熱線を浴びて、一瞬にして地獄の苦しみを体験しなければならなかった人達は大幅に減ったはずだ。
この事実を知って、私は「大本営参謀本部の一部の幹部は敵国アメリカに通じていたのでは」と思ったほどだ。
敗戦が決定的であることは誰よりも参謀本部が知っていたはずだ。
「戦争を終わらせるために」というアメリカの理屈を受け入れ、日本国民の命を差し出した。もっとも残酷な方法で。
東京裁判で死刑執行を免れた者の中にそれは存在したのでは?考えすぎか。
しかしよく考えれば、日本の戦国時代などでも、勝負がつく直前、「降伏の条件」を伝える使者が出る。
その際、勝者側に寝返りそうな相手に目星をつけ、工作し、敗戦処理が早く進むように仕掛けるのはよくあること。
武田信玄や豊臣秀吉はこれが巧みな大将たちだった。
原爆投下の情報に関してそれはうがちすぎかもしれないが、軍のトップたちが、決定的な危機に際して、全くどう行動すべきか、思考不能に陥り、その結果、惨憺たる被害を与え、にもかかわらず、その罪を自覚しなかったであろうところは、今回の「福島原発事故」での東電幹部、経産省の責任者、原子力安全委員会などに巣食う御用学者、そして政治家、マスコミの連中とピッタリ重なる。

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人類の課題「核廃絶」=「原発廃止」

2011年08月06日 | Weblog

8月6日、66年前、広島にアメリカ軍によってウラン型原子爆弾が投下された日である。
そして2011年の今日、福島第一原発事故は終息が見えないまま続いている。
核兵器と原子力発電は同根のものである。そのことを私達は今回の事故ではっきり知った。
「核兵器」と「原子力の平和利用」の名の元の原子力発電は、切り離して考えることはできない。
核爆弾はそれが爆弾として実際使用されれば、広島、長崎の惨状が再び起きるわけだし、爆発しなくても事故、いやそれ以前に核爆弾製造工場ではそこで働く労働者は日常的に被曝にさらされている。
原発も同じだ。被曝労働なしに運転し続けることはできない。
いちはやく「原爆の製造」に成功したアメリカは、その実験を広島・長崎で試みた。砂漠での実験では得られない街の破壊、人々の破壊がどのように進むのか、これ以上ない結果を得た。
広島ではウラン型、長崎ではプルトニウム型。
日本を降伏させるには広島一発で充分なはずだが、最強・最悪の兵器を我が物にしたアメリカは一気に両方試したかった。
アメリカの無人の砂漠からアジア人の住む街に実験場は進化した。
原子爆弾の実験の次は水素爆弾だ。
実験場は太平洋上のビキニ環礁。周辺の島々にはポリネシア系の原住民が自然の恵みを利用した生活を続けているところだった。
この海域もアメリカは実験で汚した。
そして1954年3月のビキニでの水爆実験で日本のマグロ漁船第5福竜丸が「死の灰」を浴びた。
この時、船上に降って来る灰の意味を船員達はすぐ知るところとなる。
後に「死の灰」の最初の犠牲者となった無線長の久保山愛吉は、アメリカ軍の機密に遭遇したことを察知。見つかれば船もろとも爆破沈没させられると、いっさいの交信をせず、焼津港に帰港した。この時「死の灰」を持ち帰り、御用学者ではない学者に分析を託した。
『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸
』ベン・シャーン=絵、アーサー・ビナード構成(集英社)
という本を出した、日本で活動する詩人のアーサー・ビナード氏がCS「朝日ニュースター」という番組で語っていた。
このエピソードは知らなかった。
以前、NHK教育テレビで、第5福竜丸生き残りの大石又七と大江健三郎の対談番組を見たが、聞き漏らしたか、また例のNHKの編集か、この事実は語っていなかったように思う。
大石氏は、帰港してすぐ入院、だが1年3ヵ月後に退院させられたと語っていた。「治ったからではなく、この事故は終わったという演出のためだ」と言っていた。
大石氏はその後結婚、子供ができるが、赤ん坊は死産。死の灰が原因と思われる奇形児だった。
この後、日本で大々的な反米・反核運動が巻き起こり、それを沈静化するためにアイゼンハワー米大統領主導で、「原子力の平和利用」が実際化されていくことになった経過は、最近の新聞記事でも明らかになっているところだ。
アメリカ以外の国々は「核兵器」を持つことが、対外的にハリネズミの針になると考え、第二次大戦の戦勝国は次々に核実験をし、核兵器を持つようになった。
最近では、これ以外の国も核を持ち、原子力発電所はいつでも核に転用できるプルトニウムの生産ための隠れみのとなっている。
「核兵器」、「原子力発電」、人類に牙をむくこの両方を捨てなければならない。
「原発廃炉」は単なるエネルギーのあれかこれかの問題ではない。

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