自殺願望のあるひとに会った。
数日前から会うことはわかっていたから、人並みに、「生きること」を選んでもらえる説明を探していた。
どんなに頑張っても死ぬことは避けられないのがわかっているのに、「死んじゃだめだよ」とか「死んだらすべてが終わり」などという言葉は吐けない。そんな言葉しか吐けないのなら、1度目は自殺予告者を阻止してもその次は止められないはずだからだ。
そこで、生を選ぶための提言者として親鸞がいる。
その答えは、「自殺サイト:なぜ死んではいけない」(浄土真宗の有志が作っているらしい)にもある通り、「人心受け難し今既に受く」である。
親鸞の名が出てくると、宗教的色彩を感じるかもしれないがそんなことはない。
取り敢えず生が与えられたわけだから、それを大事にしよう。どうせ黙っていても死ぬんだから生を使い尽くそう。人生がたった1回しかないかはわからないが、少なくとも次回与えられたときには今生きている記憶はないし(過去に生きた記憶もないし)、今ある意識で知覚し得る、たった1回の人生に向かおう。
僕なんかはこれで十分だから、僕の人生の目的は、僕を exhaust (完全に使い切る)することに尽きて、そうしあえるひとたちと一緒にいることが、幸せなことになる。
「幸せ」は、「仕合わせ」(ひとが仕え合うこと)だからで、したがって親鸞の前提でいけばひとの幸せに隠遁生活を考えることは難しくなる。
問題はそうした考え方が通用しないひとにどうするかだ。
その方は、僕より年輩で齢40を超え、「仕え合う」人がいない(先ごろ数年の介護ののち母親を看取った)。だから、厭世観とかではなく、人生を続けていく意義を感じない、という。しかも夢を追う労力を費やす年齢ではないし(石原さんみたいにいつまでも夢があるひとばかりではない)、なにをするにも億劫な病も抱えている。
親鸞は通用しない。それが僕が会う以前に想定していたことだった。
当日お話をうかがって、更にこの自殺は止められないと思った。きちんと論理的に考えるひとだとわかったし、仕え合うひとがいなければ、僕なんかは勉強する楽しみしかないが、その方は、目を悪くしているから字が読めない。
そういう状態なら、むしろその年齢まで生きて、成功はしなかったがそれなりの挑戦もしてきたわけだし、死は明確な選択肢のひとつになる。
おそらく江藤淳さんだって、それで死を選んだのだろうから(僕はそう推測するが、ひとはそれを浅い、江藤さんにはもっとほかに理由があったといわれる)、僕にもその方の自殺をとめる力はなかった。
同席していたのは仏教やキリスト教ほかの信者のひとで、なんで僕がそこにいるのかも、どうして僕の小さな家でやるのかもわからなかったが(僕がどこにも属していないからだろう)、そんな席で僕は話を聞きながら、仏教哲学愛好者としての回答をすべきか躊躇しつづけた挙句結局いえなかった。
なぜならおそらくジャイナ教と並ぶ時代の仏教哲学で考えて、生と死は本来分かつものではなく知覚の問題といっても、「因果応報」や「神がそういった」といった説明と同じく、この方にリアリティがある説明になるとは思えなかったからだ。
また、もちろんそれが明確に生を選ぶことに直結するとも思えなかったし、むしろ原始仏教で考えたら、自殺してもいい、と考える方が「悟り」には近いし。
ただその方がその集まりにやってきたこと自体が、そのひとがその回答を求め始めたのだということは感じられた。
数日前から会うことはわかっていたから、人並みに、「生きること」を選んでもらえる説明を探していた。
どんなに頑張っても死ぬことは避けられないのがわかっているのに、「死んじゃだめだよ」とか「死んだらすべてが終わり」などという言葉は吐けない。そんな言葉しか吐けないのなら、1度目は自殺予告者を阻止してもその次は止められないはずだからだ。
そこで、生を選ぶための提言者として親鸞がいる。
その答えは、「自殺サイト:なぜ死んではいけない」(浄土真宗の有志が作っているらしい)にもある通り、「人心受け難し今既に受く」である。
親鸞の名が出てくると、宗教的色彩を感じるかもしれないがそんなことはない。
取り敢えず生が与えられたわけだから、それを大事にしよう。どうせ黙っていても死ぬんだから生を使い尽くそう。人生がたった1回しかないかはわからないが、少なくとも次回与えられたときには今生きている記憶はないし(過去に生きた記憶もないし)、今ある意識で知覚し得る、たった1回の人生に向かおう。
僕なんかはこれで十分だから、僕の人生の目的は、僕を exhaust (完全に使い切る)することに尽きて、そうしあえるひとたちと一緒にいることが、幸せなことになる。
「幸せ」は、「仕合わせ」(ひとが仕え合うこと)だからで、したがって親鸞の前提でいけばひとの幸せに隠遁生活を考えることは難しくなる。
問題はそうした考え方が通用しないひとにどうするかだ。
その方は、僕より年輩で齢40を超え、「仕え合う」人がいない(先ごろ数年の介護ののち母親を看取った)。だから、厭世観とかではなく、人生を続けていく意義を感じない、という。しかも夢を追う労力を費やす年齢ではないし(石原さんみたいにいつまでも夢があるひとばかりではない)、なにをするにも億劫な病も抱えている。
親鸞は通用しない。それが僕が会う以前に想定していたことだった。
当日お話をうかがって、更にこの自殺は止められないと思った。きちんと論理的に考えるひとだとわかったし、仕え合うひとがいなければ、僕なんかは勉強する楽しみしかないが、その方は、目を悪くしているから字が読めない。
そういう状態なら、むしろその年齢まで生きて、成功はしなかったがそれなりの挑戦もしてきたわけだし、死は明確な選択肢のひとつになる。
おそらく江藤淳さんだって、それで死を選んだのだろうから(僕はそう推測するが、ひとはそれを浅い、江藤さんにはもっとほかに理由があったといわれる)、僕にもその方の自殺をとめる力はなかった。
同席していたのは仏教やキリスト教ほかの信者のひとで、なんで僕がそこにいるのかも、どうして僕の小さな家でやるのかもわからなかったが(僕がどこにも属していないからだろう)、そんな席で僕は話を聞きながら、仏教哲学愛好者としての回答をすべきか躊躇しつづけた挙句結局いえなかった。
なぜならおそらくジャイナ教と並ぶ時代の仏教哲学で考えて、生と死は本来分かつものではなく知覚の問題といっても、「因果応報」や「神がそういった」といった説明と同じく、この方にリアリティがある説明になるとは思えなかったからだ。
また、もちろんそれが明確に生を選ぶことに直結するとも思えなかったし、むしろ原始仏教で考えたら、自殺してもいい、と考える方が「悟り」には近いし。
ただその方がその集まりにやってきたこと自体が、そのひとがその回答を求め始めたのだということは感じられた。