雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

酒と言葉と音楽の渾然 3(補筆)

2006-08-31 19:48:10 | 文学

砂肝ジャーキー(「酒と言葉と音楽の渾然2」参照)を携えて愛犬リュウと一杯やりにいった。

リュウにはじめて Bawlingual を付けたときは面白かった。

リュウを取り囲み、みなで早く何か喋らないかと待っていたが、なかなか喋らない。みんなで思い思いに何か喋らせようといろいろなことをした(僕は大地を蹴った)。

しかし状況がのみこめないリュウは、いぶかしんで何もいわない。リュウが口を開いたのは、各自それぞれの試みが終わった(諦めたころ)あとだった。

ポツリと何かつぶやいた瞬間、みなで、Bawlingual の画面をのぞきこんだ。すると、「ナニガナンダカ・・・」と表示されていた。

また、こんなこともあった。

僕は、リュウを喜ばせることがふたつできた。なでてやることと、ボール遊びである。リュウは僕をみると、そのふたつをせがむが、性質上そのふたつが同時にできないためどちらを先にやるかリュウが迷い、挙句決めかねてパニくる。そんなときBawlingualの画面をみると果たして「あれもしたいこれもしたい」と出ている。

つまりリュウとは、対話ができるのだといいたい。

さて酒盛り。お酒は、下の「かもみどり」(岡山)。

 
(左は、両脇に生酒の大吟醸、右はお猪口)

猪口の方は、その日、クレマチスの丘にある、水木しげるの妖怪道井上靖文学館を訪れたのでそのときの戦利品。また、水木しげる展ということで、オーガニック・ビュッフェでは、目玉おやじのデザートもあった。

  

さてリュウに話したのはこんなこと。

最近あるひとに出会って、面白いことに気づいた。

きっかけは、自分の好きな小説を訊かれたことだった(逆に紹介もして頂いた)。

『山の音』(川端康成)と答えたが、『午後の曳航』、『仮面の告白』(共に三島)のラインが念頭にあった。だが白状すると、この川端・三島ラインに美を感じてきた理由が自分でわかってなかった。

ただ「オブラートに包んだ日本の美=汚れをそぎおとしたもの」が描かれていると解題して済ませてきた(またそれ以上のことを要求されることもなかった)。

しかしそのひとが紹介してくれた『疾走』(重松清)を読むうち、その理由がみえてきた。

『疾走』は、これでもかこれでもかと社会で暮らすしがらみを主人公から剥ぎ取って、ひとりの愛する女性だけを残し、そのひとのために死なせる。

もともと人生は夢うつつだから、その夢うつつにこだわれるたったひとつの対象を見出せるのは幸せなことだ。そして更にそのために死ねるということは、ひとつの人生を完結させた美しい物語であり、少なくとも僕にはうらやましかった。

その観点でみると『山の音』は、夢うつつの人生のなかで賭けられるものがないまま社会のしがらみにまとわりつかれたまま生きてきて愕然とし(なかば後悔し)、そんななかで舅と嫁の間にプラトニックな純な関係が仄見えてくるもの。

更に、『山の音』の延長線上に無意識に置いていた『午後の曳航』や『仮面の告白』は、人生に賭けられるものをみつけたのに失った、あるいはその後をやるせないままに生きざるをえない、人生を完結させることのできない絶望の物語だったということになる。

この線がみえたことが僕にとっては大きな衝撃だった。

と同時に、自分も、自分が想定する足がかりはずっと過去に固定したままで、それからずっとそれを基盤に突っ走らせてきたことにも気づいた。

そうだ、自分には完成させたい自分の人生がある。

僕はリュウに砂肝ジャーキーをあげて訊いた、「うまい?」

リュウはBawlingual を通して答えた、「涙がちょちょぎれるぜ~」と。

「よかった、じゃあここからが本当に問いかけたいことなんだけどさ」と前置きして、訊いた、「僕は今それにまっしぐらに進んでいるだろうか?」と。

この問いかけはなんだかずっと自分にしたくてしてこなかったような気がする。またこう問いかける、きっかけも探していたような気がする。。。

しばらく待ったが、リュウの答えはなかった。

僕はリュウが好きなこと、なでてあげることにした。

リュウはこうされるとウトウトするのだが、僕がリュウの目をみつめて問いかけるので今日は眠らなかった。

しかもいつも無理に目を合わせようとすると、目を合わせないように伏せるのだが、そのときは違った。

リュウを見つめる目に力をいれると、リュウの目もそれに応えて、僕の目を見返してきた。

「どうかな?」

僕はもう一度訊いた。

するとリュウがBawlingual を通じて答えた、

「スキ」

リュウ、なんか解釈間違ってるぞっ
(そういう意味でみつめてるわけじゃないから)

追伸:以前も書いたが現代小説は個人が満足しているかどうかをアッパーカットのように問い詰めてくるということに納得して、いろいろ読んでみることにした。

そこで先日も書いたように安岡章太郎に行ってみた。だが、上記のような発見はない。ストーリーは相変わらず僕と同じようなヘンチクリンな人間が主人公で面白いのだが。

おそらく視点がどうしても僕の範囲を出ないからだと思う(どうも文学作品を読むときは作品の主題と文体にばかり注意がいってしまう、やっぱり他人の声に耳を傾けるのはいいことだ)。

しかし我が趣味にのるしかなく好きな文章を書く『氷壁』(井上靖)へ。やっぱりよい(よいので、上記井上靖文学館に行った)。

もちろん司馬さんのは更にいいのだが(初期長編には繕うべき箇所あり)、そこには行かず読んだのが江藤淳の『南州残影』。

この作品はリュウも関係してないわけじゃない。

リュウの名は正しくは「リュウセイ」で、漢字表記では「隆盛」である(名づけ親は僕ではない)。

『南州残影』では、江藤さん(一応僕の師の師なので「さん」づけ)らしいやり方で、なぜ西郷隆盛が西南戦争という無謀な(予算、兵力、作戦の点で)ことをしたのかを追求している。

その回答は、『平家物語』、三島の自決と連なって「全的滅亡」の悲劇を構築することにあり、その標的は、天皇だった。もちろんこの見解は、司馬さんのそれとは全く異なる。

さて今日のタイトルに「音楽」が入っているが、ここで音楽に触れることになる。『南州残影』のはじめの方に、勝海舟の『城山』を普門義則氏が薩摩琵琶でライブで演奏したシーンが出てくる。詩だけでもいいのにさぞよかったろうと推測させる江藤さんの描写がいい。

う~ん、ここまで読んでみると、ホント渾然としてる。

だがあともう少し辛抱してほしい。

江藤さんの導き出した西郷の動機は怒りの共有だった。一様に民衆が感じていたに違いない怒りを共有して、全的滅亡を選んだ(こういう説明をするときも江藤さんは音楽の話を混ぜる)。そのときの西郷に現実的なものを見る目はない。

勝海舟は最初そういう西郷の非現実的な対応に眉をしかめたかもしれないが、江藤さんは勝の心の変化を追うようにその偉大な失敗に向かう西郷の心境を三島と重ねて、また江藤さんらしい、勝の書いた詩句と競い合うような文章で説明していく。

そういえば、三島から川端への手紙にも確かに似た調べがあった。

「すべてが徒労に終わり、あらゆる汗の努力は泡沫に帰し、けだるい倦怠のうちにすべてが納まってしまふということも十分考えられ、常識的判断では、その可能性のはうがずっと多い(もしかすると90%!)のに、小生はどうしてもその事実に目を向けるのがイヤなのです。ですからワガママから来た現実逃避だといわれても仕方のない面もありますが、現実化のメガネをかけた肥った顔というのは私のこの世でいちばんきらひな顔です。」

もちろん江藤さんは西郷の西南の役を第2次世界大戦の日本に重ねている。

昨年高橋哲哉氏が『靖国問題』を書いて、そのなかで江藤の靖国問題を日本文化として扱うその仕方の矛盾を曝した。

僕も、江藤の憲法解釈についてと文化論の説明の仕方には不備があったと思う。そして文化論に持っていくことがある種の議論のすり抜けにも使えると認識している。

しかしだからといって江藤さんの熱さはわからないでもない。だから何か違う形で継承してみたいと思ったから、靖国3を書いたのかもしれない。西洋的二元論を一元論(多元論?)にもっていくことによって。



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