雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

靖国3

2006-08-15 21:48:59 | 宗教
靖国は異文化間理解の問題だと思う。

したがって自分の文化のものさしや判断力だけでものをいってほしくない。自分に未知なものをBarbarians(野蛮人)とみなして今までいくつの悲劇があったか思い出してほしい。

神道という宗教は、仏教伝来以前からあり、仏教と神道どっちが上かは紆余曲折があったが、維新まではなんやかんや仏教に押され気味だった。何しろ外から異文化を取り入れることに熱心な国だから、どうしても中国からの仏教が魅力だったからだ。

しかしもとに自然崇拝というか神道があったから、いろいろ入ってこれる下地ができたといえないだろうか。ドナルド・キーンさんもいってたように、中国から禅が来て自然崇拝が起こったのではなく、むしろもともと日本人が持っていたものに禅が合致したに過ぎないと僕も思う。

司馬さんによると神道の基本は、いつもきれいにしておくまな板のようなものである。

つまり問題は、相対立するものが現われて衝突して起こるわけだが、神道では、もともとその対立物が同居できるようにこちらをキレイにしておくのである。

だからどんなにチガウものが入ってきても、同居させてしまう。五木寛之さんがどこかでいっていた、日本で衝突が起こりにくいのは、外来ものの力があまりに強力で、地元にあったものがはじめから勝負にならなかった、ぶつからないから細々と残り絶滅もしない。それがつもりつもって、丸山真男がいったように雑居状態になった、という。

これも基本に神道があるということだと思う(逆にいうと、日本国内はいつも国外のものより弱いから神道がそういう態勢を整えたのかもしれない)。

つまり日本人にとってあの戦争は、帝国主義戦争に参戦という側面と東アジア侵攻というふたつがある。また東条たちは多くの日本人に無駄死にさせたが、だからといってその意図があったわけではない(単に知恵が足りなかった)。日本人の心の中で、それぞれ矛盾するように見える事柄が衝突せずに雑魚寝状態なわけだ。

こんな風に異質なものをつめこんでいく無節操さは、神道の無教義とも無関係じゃなかろう。無教義だからわかりにくいが、逆に誰でも入ってこれる点は評価できる。仏教もキリスト教も同居できるし、アインシュタインやキャンベルがほめたのがこのオープンさだった。

だから神道における礼拝は、賛美ではない。そうした異質なものが同居している状態全体を包括的に眺めることであり、現実の複雑性と人知を超えたものに対する畏怖を感じるところだ。

だから東条たちの勇気や愛国心を評価するだけでは終わらない。東条たちの無知も同じ視野に入る。また、そうした事態を作り出したそれまでの経緯、陸軍学校での先輩後輩の関係、明治生まれのリーダーたちのドイツ傾倒などなどが芋づる式に出てこなければならない。そうしたものの総体、全体像のみえない戦争全部に思いをいたす、これが神道の祈りではなかったろうか。

まず日本人にいいたい。

なぜわざわざ非難する人々の枠組みで議論をするのか。

日本人は「一から多、多から一」という華厳経に始まる思想を持っているはずだ。どこからどこまでとそんな明瞭な境界線は引けないと考える文化を持っている。それなのになぜ彼らがいうように、多のなかの一だけを取り上げるのか?大体一般的な日本人が靖国を思うとき、既述したあの戦争とそれをとりまく全体像を考えているのではないのか?その不幸に我々の祖父や曽祖父がずるずると引き込まれ、挙句いろいろな恨みを買い、最後には莫大な金を支払うことになった成り行き全体を思ってるはずじゃないのか。

そして非難する異文化圏のひとに訊きたい。靖国参拝非難者にとって一番大事なことは何なのか?

日本が再び国際間の紛争解決に武力行使をしないことか、それともうらみつらみなのか?

うらみなら、靖国だろうがなんだろうが気に入らないだろう。参拝をやめても意味はない。また上述したように、それは我々から反省の場をとりあげることだ。

武力解決を望まないということなら、靖国神社参拝とどんな因果があるのか教えて欲しい。

とにかく我々が学んだのは、国際紛争を戦争で解決することはよくないということだ。戦争が決めるのは、何が正しいかではなくて、どこが殺し合いがうまいかということでしかなく、市民がまきぞえをくらう。銃を持てば、理不尽な殺戮は起こる。韓国兵だってベトナムでは虐殺して、しかもそれを隠蔽しようと新聞社だったかを襲ったじゃないか。戦争とはそういうものだ。

もうひとつ韓国にいいたい。国際間の紛争の地である竹島を軍隊で占拠するなんてのは、かつての日本の行為と同じだ。韓国の言動には一致がみられない。

英文版はこちら

政治 8月15日靖国神社参拝後の小泉首相インタビュー全文 - goo ニュース

韓国全般 戦争起きたら「率先して戦う」 日本41% 中国14% 韓国10% - goo ニュース

中国外務省が抗議声明 首相の靖国神社参拝で (朝日新聞) - goo ニュース

韓国、小泉首相の靖国参拝に深い失望と怒り (ロイター) - goo ニュース

中国外相の抗議に反論 「見当違い」と宮本大使 (共同通信) - goo ニュース

「なぜ首相参拝がいけない?」 靖国に若者たち (朝日新聞) - goo ニュース

Japan Rejects Appeal for War Compensation
(Herald Tribune)


最新の画像もっと見る

2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
俗と聖 (pfaelzerwein)
2006-08-23 15:00:21
「現実の複雑性と人知を超えたもの」-



靖国に俗な面で前者を認めると、展示館の内容が問題となって大議論しなければいけない。複雑を神聖化していく禊の過程は、日本の責任の取り方ですね。するとこれは、近代の法システムと並行する形になっていて、最終的には自決や土下座を善しとする事になる。この精神的二重構造で独自性をもった近代憲法を持つのは大変難しいのではないか?



最大の疑問は、こうした情緒に近い心理的なものでシステムを確立する事が出来ずに、儒教などの体系的な基盤が必要になってくることですね。明治憲法は、尊皇攘夷にこれも巧くプロシアのシステムに添えたのでしょうが、韓国などに比べると現在の日本ではその基盤も無いのではないか?



結局、丸山真男の言う、日本の西洋型社会の中での特質は変わらない。現在の世界において、こうした二重構造として、トルコなどの穏健なイスラム主義の国家群も挙がると思うのですが、そこにはイスラム法がある。トルコはご存知のようにEU加盟のために法律を合わせてきている。



靖国に聖の面があるのかどうか、これは大変疑問です。当時でさえ特攻兵士のお守りのような機能しかなかったのではないか。



実際、大正デモクラシー教育を受けている世代の懐疑は大きい。1920年代生まれは、大なり小なり複雑な反応を示してますね。三島などでもこれに近い。



こうして考えて行くと、異文化間理解の問題として捉えるのはどうでしょう。寧ろ、明治以来の近代化の中で未だに日本の自己IDが確立出来ないのが問題ではないかと思うのですが。
返信する
Unknown (stone)
2006-08-23 18:47:49
遊就館の内容まで雑居のひとつとして容れるのはいい加減だということですね。しかしというかだからこそその等閑さの正の部分が強調されてもいいのではと考えました。異文化というか伝統的な異世界観、宗教観として。そして現実に日本人はいろいろな感情をお持ちになって参拝せざるを得ないというかすべきだと思います。



仰る「精神的二重構造」と「独自の近代憲法」との関係はまだ言い切りたくありません。それから明治憲法は、尊皇は残してというか利用して攘夷は消すものだったと理解しています。また仰るように日本の自己ID確立は難しいと思いますし、近代化も成し遂げられていないと思っています(だから佐幕派を持ちたくなるんだと思います)。

返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。