書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

砂山。

2012年01月31日 13時52分01秒 | 意識論関連
 ネコが遺伝的な近親との交配を回避する行動は、その行動が結果的に生存に適した結果であり。その行動習性を持たなかった個体の淘汰によって結果的に残った行動習性である。

 従って、近親交配を回避するネコ自身に、「近親を回避する。」という目的意識が存在する必要性はない。結果的に近親交配が回避されるような行動を採りさえすれば、ネコ自身にどのような心理的情動行動が発生しようとも結果的に生存してさえいれば構わないからである。

 ヒトのメスが暴力的なオスを求める習性があるとしても、それが進化過程における環境適応の結果として組み込まれた結果であって。必ずしもメスにとって、或はは種にとって常に有効な行動習性であることの保証はない。

 イヌが生育環境によって飼い主の手を噛むことも、それはあくまで行動習性という機械条件反射的に組み込まれた「仕組み。」以外には自律的に行動選択ができない結果である。

 結果的に生存していなければ生物ではいられない。生物とは、あくまで結果的に生存しているものを指して分類しているのであって。生物自体に予め目的があるのではない。分類しているのはあくまで生物学者の脳であり、生物自体が分類を必要としている訳ではない。

 ネコ自身が意識的、知能的に生存に至るための行動選択/生存戦略を行っている必要性は全くなく。現在のネコが生存に価するあらゆる行動においても、ネコ自身の意識的選択や目的意識を必要とはせず。結果的に生存する行動習性/本能的目的行動さえ組み込まれていれば良いのである。

 そのため、予め組み込まれた行動習性が環境に適合しなくなった場合。それは大絶滅に至る場合もある。

 砂時計の砂山が崩落するかのように、一時的に大きなピークを形成しているからといって、そのピークが常に高くなり続けるとは限らない。

 その砂山がどんなに大きくても、である。

 従って、現在の環境下において生存に適している習性をどんなに抽出枚挙しても。その習性が常に生存に適し続ける論証には原理的にならない。


 しかし、人間の場合は他の動物とは異なり。予め組み込まれた「仕組み。」という本能習性だけに行動を左右され続けるだけのシーケンシャルな存在ではない。

 予め組み込まれた「仕組み。」の中で、何が人類にとって有益であるか。何が害を為すのかを認識判断することによって「選択。」することが可能である。

 しかし、こうした「選択。」を行うためには。自己自身に生物種として組み込まれた「仕組み。」を理解し、その「仕組み。」のままに流されることなく合理的に選択する「意識。」が必要不可欠である。


 ヒトという種の生物が本能に抗うことが困難であることは、想定の範囲内である。だが、どんなに困難であることを抽出枚挙しても、実行不可能であることの論証には一切ならない。


 現在の生物学というのは、個体に予め組み込まれた行動習性/本能的目的行動の全ては、個体の生存や種の存続といった「結果。」を前提として、あたかも個体が意図的に選択しているかのような観念に基づいた立証方法が蔓延しており。これは全く科学的とは言うことができない。

 「遺伝子自体に目的意識が存在する。」などという、ドーキンスのお伽話に生物学者の誰も明確な反論をしないのは。個体に組み込まれた行動習性の全ては、個体の目的意識を超越した超自然的目的意識の存在を本気で信じ込んでいるためである。

 これは非常に「文学的。」な観念に依るものであり。全く論理的/科学的な検証には適さない。


 ネコが無意識に生存に適した行動を常に採ると信じ込んでいれば。ヒトの本能習性であっても全ては種にとって有益な結果をもたらすように自動的/無意識的に選択されると勝手に思い込むことは簡単である。自動的/無意識的に有利な行動に至らないのは、自分以外の外的要因によるものであるとしか考えられないのも必然であろう。彼らは自分達がバカであることには全く意識が働かないのである。

 東大の佐倉統が、学会内部の多数決を論拠とするのも。自律的に個人が判断しなくても無意識的/自動的に正しい判断は勝手に導びかれるものであるという観念が働いている証拠であり。故に自律的には何も判断しないのである。

 誰一人として自律的に合理性判断を行わない集団の多数決を集計しても、永遠に論理的判断は抽出されることはない。むしろ動物的な社会形成習性に則って多数他人のご機嫌取りによって、固定観念を共有して満足安心し。論理的思考探索は停止してしまうのである。

 これを以って「体制腐敗。」と言う。



 「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」と京都大学松沢哲郎は論じた。そもそも「人間としての社会性。」というのは、本論において「生物本能的な社会形成習性。」とは等価ではないと論じたことが発端であり。「ヒトという生物種の本能習性=人間としての社会性。」という従来の観念を正当化するためにでっちあげた論理撹乱に過ぎない。

 論理的に検証できない文系マスコミは、これを「話題になった。」などと称して業績であるかのごとくプロパガンダするが。「ヒト=人間。」という大衆迎合的な気分的満足による思考停止を促しているだけであって。科学的には糞の役にも立つことはない。ヒトやチンパンジーの行動習性をどんなに調べ上げても、既に行われたシエラレオネの少年ゲリラの残虐行動の反証には絶対にならないからである。

 このように社会的には無益で無駄な研究を、京都大学の教授という肩書だけでプロパガンダしておきながら、論理的反論に関しては一切報道しないのがNHKである。これは大衆迎合とコンセンサスの混同によるものである。



 ヒトの行動習性において、大衆迎合的ウケの良い話と、ウケの悪い話のどちらが多いかという「程度問題。」を論じているのではない。ウケの良い話で思考を停止し、ウケの悪い話から意識を外してしまう意識狭窄性という、ヒトの習性によって論理的な社会安全性が失われることが問題なのである。

 論理的社会安全性を高めるためには、大衆観念的に「嫌な話。」にこそ意識を持つべきであり。ヒトという種の生物における危険性を認識することが重要なのである。



 現在の生物学には、工学/物理学のような一貫した統一的理論というものがなく。断片的立証の抽出による勝手な観念の羅列をしておいて「生物進化とは奇妙キテレツなものである。」などという単なる意識錯乱状態に陥っているだけである。これは現在の生物学者のほとんど全員に自律的な探究心が存在せず。ただ漫然と現在の体制に迎合するという「生物本能的な社会形成習性。」に従っているだけであるからだ。

 本能習性を正当化していれば、無意識的に本能習性のままに行動しておいても何らかの業績に自動的に達することができると錯覚していても不思議ではない。

 現在の生物学というのは、単なる動物好きが自分の好きな生物の存在価値を正当化しているだけであって。統一的な理論体系を構築することには全く感心がない。自然界のフィールドにおいて動物の行動習性を客観的に観測することには科学的意味は存在するが、体系化された統一的理論もなしに場当たり的に何かを立証したかのように主観的に錯覚することは科学的意味は存在しない。

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体制腐敗。

2012年01月30日 22時26分07秒 | 意識論関連
 フランシス:ゴルトンの提唱した優生学というのは、その理論体系は「人種の観念。」に基づいて組み立てられている。

 まあ、「観念。」という言葉の翻訳の仕方にもよるのかも知れないが。観念を理論体系の根幹にしている以上、その上にどんなに論理的屁理屈を構築しても理論的証明には原理的にならない。

 優生学に限らず、現在の生物学というのは結果的に生存していることが最大の優先事項として扱われており。その過程においての個体の選択判断自体には意味がないことになっている。

 個体の犠牲に基づいて種が存続した場合において、それもまた種としての優位性であるとするまでは良しとしても。判断を放棄した個体の無責任性については全く言及しないのはおかしな話である。

 生物学における知能論も、個体の判断や思考探索による個人の知能については意味を求めず。ただ、のべつまくなし様々な試行の結果だけで知能を説明しようとする。

 他人が思い付いた発見や発明と、自分がそれを理解したことを区別せず。それを「脳内における同じ反応。」であると本気で信じているのである。もしそうでないなら養老に反論しないのは何故であろうか。

 ヒトは概ね固定観念に基づいた思考しかできない。従ってどんなに多数が同じ固定観念に基づいた思考を行っても、固定観念を超えた思考探索には至らない。しかし、固定観念を固定観念であると自律的に認識し、固定観念を超えることによって初めて本当の思考探索というものが可能となる。それは人数によって決まるものではなく、個人の意識、論理的思考によって成されるものであり。個人の特性に由来するものである。

 固定観念に染まった生物学者がどんなにたくさんの結果論を抽出枚挙してきても、そこから個体の自律的な判断の重要性が検証されないのと同様である。固定観念を固定観念と認識できなければ、固定観念に基づいた考えから抜け出すことはできない。

 単なる結果論だけを論じてしまえば、誰が何を発見発明しても、それらは全て種の優位性であると結論付けられてしまい。気付かなかった多数のバカさについては全く言及されず。これが現在の生物学における「言い逃れ。」の手口である。

 優生学に限らず、現在の生物学というのは生存だけが絶対的な価値であり。結果として生存してさえいれば過程において何が選択されようとも全く感知しない。詐欺でも虐殺でも搾取でも、全ては結果的に生存してさえいれば「正しい。」ことになっているからである。

 文系の者であれば、「命が一番大切。」という固定観念が絶対的正義であろう。それなら個人が他者を出し抜いてでも生存に固執することも正義とされ。また、個人が社会的責任を全く負わずに個人的に生存に固執してもまた正義となる。

 これは生物学的な正義である「生存。」価には適しているであろうが、現実に人間社会においては「サルの正義。」或は「イヌの勝利。」にしかならない。

 サイバネティクスの観点からはナチス政権に迎合して絶滅収容所の吏官として社会的に成功することであっても、これは生存のために必要なものであり、過ちとして認識されることはない。どんなにバカでもキチガイでも、生存してさええれば生物学上は「正しい。」のである。

 優生学に限らず、現在の生物学の観念上においては。個人の自律的判断の意味は種全体の結果的存続の上において必然であり。個人の自律的判断や発見の全ては種全体における功績であるとされてしまうのである。

 このように現在の生物学上では個人の自律的判断は社会内部においては価値を持たないのである。



 なぜ、このような支離滅裂な観念が放置され続けるのか。それは文系の者の非論理的で断片的な正当性の論証だけが気分的に優先されるからである。

 「命は素晴らしい。」と称して絶対的正義にしておけば、患者が苦しむだけであるとしても医学的な延命処置は機械条件反射的に正義となる。死にさえしなければ絶対的に正義なのである。

 嘘や暴力を用いて生存を確保したとしても、これもまた「生存。」であり。社会公益のために犠牲になれば「生存。」にはならない。単に生物的に「生存。」していることは必ずしも人間としての存在価値が伴うわけではないのである。

 「生存。」を絶対的正義とするのであれば、なぜ死刑制度が存続するのであろう。文系の観念というのは論理整合性には最初から興味がなく、断片的にその場限りに気分が良い話を正当化することしか興味(意識)が働かないからである。

 正義を振り回せば暴力であっても快楽を感じるような「仕組み。」が脳にはある。地動説を火炙りにしたのも、こうした本能習性によるものである。島皮質や側坐核の反応の違いによって観測できるのだという。

 「仕組み。」とは無意識であり本能であり条件反射である。予め組み込まれた「仕組み。」のままに何ら自発的に行動が選択できずに「自由。」とは言わない。どんなに「仕組み。」によって行動が左右されがちであるとしても、自由に行動が選択できない状態は自由でもなければ意思が働いているとも論理的には言うことができないのである。




 支離滅裂な話の全てに反論することは徒労である。どうにでも言い逃れが可能な断片的論証の枚挙抽出に対していちいち論理反証をするのは明らかに不利だからである。支離滅裂な話/論理整合性のない話というのは何の方向性も持たず、何とでも言い張ることが可能であるからだ。

 となれば、必要なのはその場限りに言い逃ればかりする者の言うことを信用しないことが最も効率の良い安全性確立方であろう。既に生物学者のほとんど全員はその場限りの言い逃れしかしておらず、信用するに価しないのは明白である。

 科学であるなら多数決ではなく、論理整合性に基づく検証性が優先されなければならない。ならば現在の生物学における権威システムは根本から再構築しなければならないであろう。

 ところが文系思考の生物学者達というのは、自律的に論理検証をすることが大嫌いで。進化生物的にのべつまくなし無意識な思い付きを述べていさえすれば自動的、無意識的に有効な理論が出来上がると勝手に思い込んでおり。自律的な論理検証を全く行わない。養老孟司が言う「間違えない人などいないから、間違えたら先生が教科書に墨を塗ればいいんだな。」などという自律の欠落した固定観念と同じ思考パタンを共有して満足するのである。こうした観念は誰も自律的には検証訂正することはなく。全く自律的には論理検証は行われない。もし自律的に検証可能であるならば、養老孟司に反論していなければおかしいのである。これこそが現在の生物学界は盲目なバカ集団である証明でもある。

 何せ個体の本能目的を超越した、超自然的目的意識の存在を本気にしているくらいである。それなら論理検証や知能というものであっても個体の主体的意識とは無関係に、自動的且つ無意識的に成立すると本気にしていても何の不思議もない。

 現在の生物学というのは誰一人として論理検証も行わなければ、誰一人として固定観念に気付くこともなく。自律的には何も気付かず、何も検証できないバカの集団=オカルト集団にしかなっていないのである。

 外部から間違いを訂正されても、自分達がなぜ間違えたのかについての原因究明も対策も全く行わず。全く教訓として知識財産にはすることができないのである。こんなものは学問でも何でもなかろう。

 工学/物理学系研究者が生物学に対して抱く「訳のわからなさ。」は、支離滅裂な話を誰も論理的に検証することのない非科学性が源である。文系の者の脳というのは論理検証が伴わなくても気分的に満足してしまうのである。

 現在の生物学界の内部においては、こうした無意識的観念に基づく限り、意識的に間違いを自律的に修正することは構造的に不可能である。自律浄化が効かない以上、他律的に再構築する以外に方法はない。これを一般的に「体制腐敗。」と形容するのである。

 生物学者達は進化生物的に、のべつまくなしその場限りの思い付きを集めて話を丸めておけば、自動的無意識的に科学的業績が出て来ると勝手に錯覚しているのである。これこそがバカの観念というものである。バカの観念をどんなにたくさん枚挙しても、そこから論理検証性や固定観念と理論の区別は一切行われない。

 だからこそ支離滅裂な養老孟司が東京大学名誉教授でいられたり。体制多数決に依存して自律判断ができない佐倉統が情報学環教授でいられるのである。こうした異常体制は社会公益的見地からは根本的に再構築/脱構築する必要性がある。

 糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を造る資金があるのなら、生物学界自体を再構築した方が社会的有益性を確立出来るというものである。

 意識のない集団には意識に基づく自律的な自浄作用が働かないのは必然である。だから養老は「意識に意味はない。」と言い張るのである。自分にない自律的意識が他人にあっては困るからだ。まるで自分だけが人間として出来損ないである論証になりかねないからである。だから無意識な大衆凡人と同じ観念を共有することによって正当化したがるのである。

 大衆凡人であれば論理整合性がなくても気分的丸め込みだけで気分的に「納得。」してしまう。論理検証ができないからこそ大衆凡人というのである。論理検証ができないのであれば、社会安全性について言及する資格はない。観念が混入すれば気分的安心の追及によって社会安全性は確立できなくなるからだ。

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想定。

2012年01月30日 15時01分00秒 | 意識論関連
 秋葉原で殺戮を行えば死刑になるであろうが、シエラレオネでは逆に積極的に殺戮に参加しないと生存に価しない場合も存在する。

 状況や環境に左右される生存という結果論は、個体の自律的判断とは無関係である。

 「生存=人間。」などという方程式は成立しない。従って単なる結果的生存を論じても、そこから必ずしも個体の自律的な社会的責任判断とは無関係であり。結果的「生存。」価をどんなに強弁しても個人の自律的判断である「人間としての社会性。」に言及することも、また分析することにもならない。

 個人の自律的判断による犠牲によって集団全体が生き残った場合、これを種全体における人間性/社会性の結果であると言うことも可能であるが。生き残るという「結果。」だけからは必ずしも個人の自律による結果によるものであるとは言うことができない。

 「結果的に種として存続。」したかどうかは、個人の自律的な社会的責任判断とは無関係である。従って、生物学上における「生存=正義。」という価値観自体からは人間の自律的社会的責任判断について原理的に言及不可能である。

 本論において「生存自体に意味はない。」とするのは、個人の自律的社会的責任判断は、必ずしも生物学的結果である「生存。」とは等価ではないからだ。

 無論、「ヒトという種が存続しなくて良い。」と論じているわけではなく。人間としての社会が構築できないのであれば単に生存だけを論じても、人間として存続する意味や価値にならないという意味で「生物的な生存自体に意味はない。」と言っているのである。ゲリラやナチスに迎合しておいて、「人間。」であるとは言えないからだ。

 優生学に有効な反論をできない現在の生物学はオカルトでしかないのである。

 現在の生物学上における、生物的生存だけを絶対的正義とした、その場限りの言い逃れや取り繕いを認識できなければ。個人の自律的な社会的責任判断については全く研究が進むことはない。その場限りに「個体の生存価。」を論じたり、「種としての存続。」に価値を置いたりしていては、全く個人の自律には言及不可能だからである。

 「仕組み。」というのは本能習性であり、無意識である。現在の生物学における「結果。」論の抽出枚挙陳列による生物的な正当性の論証をいくらたくさん並べても。そこから本質的な意識的選択とは何か、自律的選択とはどのように失われるのかといった分析は構造原理的に成されることはない。

 原理的に分析不可能な事柄において「わからない。」としておく謙虚さは必要であるが。論理的理解力が足りないだけであるなら、これは単なるバカに過ぎない。本論はそれ程難解な事は論じてはおらず、極めて基礎的な話しかしていない。これを「わからない。」と言い張るのであれば、科学者として最初からポンコツだったということである。

 従来の生物学における根本的間違いを認識できないことには、もはや如何なるヒトの間違いであっても認識することはできないであろう。

 文系の気分的な観念を、科学的検証に持ち込むから論理的認識による「気付き。」が働かないのである。

 論理的思考の働かない文系の者というのは、自分達にとって不都合な話をすると観念的、感情的に異常な程取り繕いや言い逃れに固執する。何せ動機が本能的恐怖心であるから、その執着心は極めて動物的に強力であり。また、生物本能的な「コミュニケーション能力。」によって、相手の反論意欲を喪失させることにおいては非常に「巧妙。」でもある。

 論理的に理解可能な者の多くは、こうした動物的、本能習性による「コミュニケーション能力。」の前において極めて微力である。原発の暴走を許したのも、こうした感情的な「コミュニケーション能力。」による強弁によって、論理的安全性が踏みにじられたのが原因である。

 ヒトが作り出す集団や権威において、動物習性的な「コミュニケーション能力。」である生物本能的な社会形成習性による気分的観念が優先することは珍しいことではない。論理的に合理的な地動説を、観念的/強迫観念的に火炙りにしなければならなかったのは。その判断自体が観念によるものであって、論理的合理性によるものではなかったからである。

 こうした「ヒトの過ち。」というものを、単なる時代や社会といった環境依存性に原因をなすりつけておけば。そこに自律的判断に言及しなくても良くなってしまう。長い期間を経て結果的に受け入れたという「結果。」だけを論じしまえば、当時の判断の間違いにも言及されなくなる。

 これを「言い逃れ。」や「取り繕い。」と言わずして、何と言うであろう。

 ヒトが人間としての論理的思考を失うのは、そこに感情に基づいた事後正当化の観念が働いているからである。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」であると錯覚する。それは「今までずっと大丈夫だった。」という気分的な観念が作り出す錯覚である。

 なぜテロリストが地下鉄に毒ガスを散布したのか。それは当人が「人類の救済。」であると錯覚したまま、自律的にはその間違いに全く気付くこと、認識することが出来なかったからである。

 文系の気分的観念を盲目的に「信頼。」しておけば、気分的には「安心。」して生物学の観念を放置しておくことは簡単であろう。それこそが「ヒトという種の生物の行動習性。」であるからだ。

 だが、こうした無意識的な行動習性によって疑問や論理検証性を放棄してしまうからこそ、論理的な社会「安全。」性が失われることになるのである。


 過去の遺跡から当時の社会状況を妄想するのは簡単であるが。過去に起こったあらゆる事実の全てを知ることは原理的に不可能である。現在においても無人の密室で行われる完全犯罪の事実を知ることができないのに、証拠のほとんどを喪失した過去の事実など、もはや所詮研究者個人の仮想的な妄想の範疇から出ることはない。

 個人の仮想的妄想をいくらたくさん枚挙しても、「ヒト=人間。」であることの論証になど一切ならない。

 お伽話でどんなに気分的に満足安心しても、振り込め詐欺撲滅への対策にもならないし、重大事故の原因究明にも寄与することはない。文系の観念は気分的満足しか与えることはなく、所詮は芸術「文学。」であって、人文「科学。」としては機能しないのである。

 生物学者達の断片的立証による断定に撹乱されて、「ヒト=人間。」という観念に対しての疑念を忘れてしまうのは。文系思考のマスコミにとって、とても簡単なことなのであろう。



 個人の自律的判断を、全て(或は多く)のヒトに与えることが面倒臭いと言うのであれば。それは面倒臭いと思っているあなたの脳自体に自律というものが欠落しているからである。「自分にできないことは他人にもできない。」と「思う。」のは、気分感情的にはとても自然なことだからである。

 「難しい。」というのも言い逃れである。簡単なことで問題が解決するのであれば、既にあらゆるヒトの問題行動の全ては解決しているはずである。ヒトという種の生物は、「これさえやっておけば、全ては解決する。」という短絡的解決策にばかり意識を奪われがちである。その短絡性こそが、自律的な論理検証性を喪失する要因なのである。

 理論的には簡単であっても、相手が生物本能的「習性。」である以上。それが困難であることはわかっている。気分的に嫌なのも想定の範囲内である。

 航空機事故であれば航空会社が認識しておけば良い範疇の話であるが。「ヒト。」全般における習性が促す過ちであれば本来何人たりとも無視して良い話ではない。ましてや科学者やマスコミが認識できないなどというのは論外であり、噴飯ものである。


 ヒトというのは、人数の大きなコミュニティーの中では。自分個人の自律的判断の無力を「感じる。」であろう。確かに多数を相手に個人の判断というものは、それだけでは決して「大きな力。」とは言えないであろう。だからこそ多くのヒトは多数他人に迎合し、多数他人によって規定された権威に無条件に服従することに「陥る。」習性に従ってしまうことになるのである。

 多数他人という「世間。」に迎合しておけば気分的にも安心であり、また世間的にも成功しやすいであろう。効果もない脳トレブームに便乗しておけば金にはなる。しかし流行に逆らって論理的に反論しても一円にもなりはしない。

 もはや月々の通信費も捻出不能なので、常時接続もできない。後は私以外の誰かが現在の生物学に対して論理的検証による追及を行うのに任せるしかなかろう。

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¥105ケーキ。

2012年01月28日 18時57分50秒 | 日記
 ケーキが食べたかったので、赤羽駅西口のコージーコーナーに行ってみたら無くなっててガビーン。お向かいのいってみヨーカドーだと不二家しかなくておこちゃまケーキばっかりだったので諦めかけてたら、アピレの地下にパティスリーミュール(Patisserie Mur)っていう¥105ケーキ屋さんを発見。

 ところが公式サイトがなくて、たべログばっかりヒットする。何かもったいないな。

 一番人気は「塩シュー。」だそうです。

 カットケーキはどれも小さいんだけど、¥105なので複数買っていろんな味が楽しめる。おいらはショコラフランボワーズっての食べたんだけど、美味しかった。フランボアーズの皮が歯に挟まったけどね。ベリーのタルトってのは歯の悪い母親には固かったらしいんだけど、モンブランはやわらかくて好評でした。

 ちなみに一番小さい箱にはショートケーキが6個入るみたい。おいらは4個買ったんだけど、真ん中に保冷用の氷が入っていました。買う時に持ち帰りまでの時間を聞かれて保冷剤の数を決めているようです。夕暮れに外を自転車で持ち帰るんだったら保冷剤要らなかった。

 コンビニスイーツなんかよりちゃんとしてて美味しい。安いし。ただケーキ全般に言えることだけど、持ち帰りを慎重にしないとケーキが崩れてしまうので神経を使う。予めオススメのセットを用意しておいて崩れにくいパッケージを作っておけば、もっと買いやすくなるのかもね。最近自転車も流行りなので、自転車持ち帰りパッケージとか企画したら良いかもです。

 それにしても赤羽駅前は自転車の数が凄い。置き場所見つかんなくて難儀した。ヨーカドーの地下駐輪場はヨーカドーでお買い物しないとお金取られるし。

 ググってみたけど、ヨーカドー以外に駐輪場って見つからなかった。
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テレビの価格。

2012年01月28日 14時03分38秒 | 日記
 テレビの価格と食品の価格を同列に考えるのはおかしい。

 家計に対する物価価格への影響を考えれば、テレビのような家電製品と食品を同列には扱えないはずである。

 たとえばテレビの耐用年数が10年であるとする場合。テレビの購入価格が生活費にかかる割合は年間1/10になる。それに対して、タマゴを毎日一つづつ消費すると考えれば、これは年間365倍しないと生活費にかかる影響は算出されない。

 つまり、家電などの耐久性を持った商品の価格は耐用年数で割り。食品などの日常的に消費される商品の価格は日数で倍しないと、物価の家計に対する年間の影響を正確には算出できない。

 家電製品の価格がどんなに下がっても、実質的には家計に対しての影響というのは1/耐用年数しかない。それを単純に物価として食品類と同列に扱うのは、あまりにもお役所的、短絡的である。

 これって、既に物価指数の計算に含まれているのかな。おいらはこっち方面疎くて。
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松嶋×町山。

2012年01月28日 13時39分48秒 | 意識論関連
 宗教だけが破壊と殺戮を促す原因とは断定できない。アイヒマン実験における服従性というのは宗教を利用していないし、秋葉原の通り魔も宗教とは無関係である。シエラレオネの少年ゲリラも北朝鮮政府も宗教ではない。

 北朝鮮の場合、理論的であるはずのマルクシズムを実際の政治に応用すると宗教化してしまう訳だが。これは故金正日書記長が指摘したように、「マルクスはヒトはなぜ封建社会に陥るのかを説明していない。」ことが理論の宗教化を促しているからであろう。

 こうしたヒトという種の生物における、多数他人への迎合性、及び多数他人によって規定された権威への服従性といった本能感情主体の気分的安心追求による意識狭窄、理論的思考の盲目性が危険なのであって。

 宗教の危険性だけを抽出枚挙することによって、短絡的に「宗教=危険。」と決めつけ、「無宗教=安全。」という短絡的盲目もまた危険である。無神論者が常に論理的である保証などないからだ。

 多数他人への迎合と、多数他人によって規定された権威への服従への気分的「安心。」を、これをあたかも論理的「安全性証明。」であるかのごとく錯覚することが危険なのである。

 ヒトという種の生物における本能優先性によって論理思考をパスしてしまう性質について、危険学のような工学的分析を行うことによって。錯覚を錯覚であると認識できるようにできれば錯覚に基づいた間違った行動を採らずに済むようにできる。

 本来であれば生物学や脳科学が率先して研究すべき領域であるが。現在の生物学においては「ヒト=人間。」という短絡的帰結が錯覚であるということすら誰も認識しておらず。全く科学としての役割を果たしていない。

 むしろ「ヒトの全ては人間である。」という短絡的思考が世間大衆にはウケが良いことに迎合して、「習性=人間性。」という短絡的帰結に基づいた理論展開を全く訂正するつもりがない。

 本能的行動の結果としての生存や種の保存を、あたかも個体の本能目的を超越した目的意識に基づいて選択された「生存戦略。」であると言い張ることは極めて非科学的観念でしかないことを生物学/脳科学界は認めようとはしておらず。当然ヒトの本能であっても、本能のままに行動しておきさえすれば、本能超越的な目的意識に基づいて生存や種の保存が無意識自動条件反射的に行われるものであると勝手に錯覚し「安心。」しており。無意識的行動結果の枚挙だけで全てを説明できるものであると勝手に満足している。

 こうした現在の生物/脳科学を放置しておけば、「本能=絶対的正義。」という短絡的帰結に基づいた断片的立証しかされることはなく。全く論理的思考による本能抑制/錯覚抑制に対する考えに基づく研究は一切なされない。

 それは科学というものへの本質的社会要請には全く応えておらず、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。

 脳科学は脳トレ類というクソゲー利益ばかりを追求し、生物学は「ヒト=人間。」という観念に基づいた大衆迎合に固執し。哲学は「心の救い。」と称して気分的な快楽しか追求していない。

 ヒトというのは「社会的成功者=権威=服従対象」という短絡的方程式に基づいた気分的安心を追求しがちで、そこに論理的な思考/選択といった合理性追求に対する気分的拒絶反応が追加されることによって本質的合理性の追求を放棄する習性がある。

 ヒトは合理的に「考え。」ることが気分的に「嫌。」なのである。

 それこそがヒトを人間たらしめない最も根源的要因であるにも関わらず、現在の生物/脳科学界という権威性の認証がないために。それを意識から外し、無視し、盲目でいることに安心しているのである。

 マスコミもまた、生物学/脳科学界における多数決をあたかも科学的根拠であると短絡的に錯覚し、論理的裏付けであると勝手に妄想し、思考を停止して「ヒト=人間。」という観念に基づいた「科学。」番組を垂れ流し、生物学の観念をプロパガンダすることに加担するだけである。

 こうした生物学系観念が訂正されないことの方が社会的負担であり、且つ危険性放置でもあることを、より多くの人が認識すべきである。

 バカの多数決をどんなにたくさん集めても、民主主義制度下においては「バカ主義。」にしかならないからだ。

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単焦点望遠デジカメ。

2012年01月26日 20時59分38秒 | ネタ帳
 パナソニックデバイスではCCDとかMOSのイメージセンサーを法人向けに販売している。

 一般的な1/2.33型イメージセンサーの場合。f=65㎜の色消しレンズを用いれば367㎜望遠カメラになる。

 ソニーがやたらとゴツいデジタル望遠カメラを商品化してたけど、光学全長が7㎝くらいだったら手の平サイズの望遠カメラが作れそうなんだけどな。

 ヤシカとか作らないのかな。

 中古のコンパクトデジカメとか改造しても出来そうだけど、8㎜ムービーのCマウントレンズ用に改造している人はいたけど、望遠に改造している例は見つからない。

 単眼鏡用の色消しレンズでは画質が出ないのかな。

 あと、14メガピクセルの汎用イメージセンサーがあるんだから、フィルムデュプリケーション装置とか安価に作れそうだけど。
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些細な話を二つ。

2012年01月26日 20時12分28秒 | 日記
 コジマ電機のチラシに電子敷毛布が¥1389-で掲載されていたので買いに行ったのだけど、電気毛布というのは「敷」タイプと「掛け」タイプの2種類あったので店員さんに聞いてみたら。「大きさの違いです。」とのことでした。

 よくよくチラシを読んでみたら、140㎝×80㎝しかなくて、ちゃんとした電気「掛け」毛布だと188㎝×130㎝の大きさがあるものなのでした。

 電気掛け毛布と電気敷毛布の2種類があることって、カタログを良く読まないと初めて買う人にはよくわからないので、店頭ポップとかでキチンと説明しておいて欲しかったな。

 売る方としては知っていて当然のことであっても、買う方としては必ずしも知っていなければならないようなものではないことって多い。それとも何か、安売りだから思った以上に小さくても我慢しろとか。或は顧客とトラブルになりたいのであろうか。結構世の中説明不足なことって多くて、顧客が全てを周知しておかないといけないなんて不便としか形容できないと思うのだけど。

ちなみに広電のカタログ
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 マルシンの曲がりネギ宇都宮餃子を二箱買ったんだけど、二箱のうち一箱には本来2種類のタレが同封されているはずが醤油タレが二つ入っていた。ごまみそタレが好きだったので、ちょっと悲しい。

 クレームメールを出す程のことではないのでブログでつぶやいてみた。あんまりツイッターとかでつぶやくと大騒ぎになりがちなので、個人ブログで独り言です。

 タレの同封とかって機械化されているんだと思うけど、たまに間違うことがあるみたいです。

end;
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コンセンサス。

2012年01月26日 19時43分25秒 | 意識論関連
 NHKの番組では「ヒトはどうして人間になれたのか。」などという前提で話を進めようとしている。

 現実には「ヒトの全てが人間である。」ことの科学的論証など全くない。

 原発を暴走させておいて「人間。」なのか。

 振り込め詐欺は「人間。」か。

 シエラレオネの少年ゲリラの行動習性を「人間。」の行動であると言えるのか。

 多くのヒトは600万人のユダヤ人を殺害する計画書を作成したナチスの吏官と同じ習性があるという事実を無視しておいて。「全てのヒトは人間である。」などという前提で話を進めるのは、論理的に支離滅裂であり非科学的な観念に過ぎない。

 子供達だけで放置しておけばイジメが発生する。「ヒトとは初期的には人間ではない。」のである。この大前提を無視して、大衆迎合的ウケ狙いは科学的でも何でもない。

 既に制作してしまった番組を垂れ流すために非科学的観念に基づいたプロパガンダを続けるというのであれば、NHKはキチガイの集団としか形容することができない。

 どんなに多数の生物学者が「ヒト=人間。」であると論じているとしても、この方程式は何ら科学的論拠は存在しないのである。科学的論証というのは民主主義的多数決で決定されてはならない。論理的に間違った前提をどんなにたくさん集めてきても、科学的論拠にはならないからだ。

 日本においては「概ね。」安全である。「概ね。」安全でありさえすれば気分的には安心であろう。だからといって「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。振り込め詐欺師が稀であるとして放置しておいて良いなどと言い出すのであれば、これこそがキチガイの論理であろう。原発の暴走が稀であるとして無視して良いと言うのであろうか。

 藤原竜也にいくら注ぎ込んだのかは知らないが、科学的に間違った前提で科学番組を垂れ流すのは許される話ではない。

 単なる大衆迎合はコンセンサスとは言わない。

end;
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規則。

2012年01月25日 00時19分25秒 | 意識論関連
 イスラムでは金利を禁じている。これは不労所得を禁じるという主旨に基づく戒律である。

 イスラム銀行ではお金を貸しても金利は取らず、貸したお金によって儲けられた利益の中から分配することでビジネスとして成立させている。そのため、お金を貸したら、借りた人が利益と銀行の利益が直結しているので、借りた人がうまく儲けることができるよう銀行が協力するという仕組みでもある。

 これは非常に合理的な金融システムである。借りた人が働きやすいように銀行が協力することによって、単なる時間経過だけで利益を得るような傲慢な不労所得を誰もできなくなる「はず。」だからだ。

 ところが、証券取引によるマネーゲームについてはイスラム戒律では「直接。」的には禁じられていないため。イスラム諸国でも事実上不労所得を得ている者は少なくない。しかし無責任なマネーゲームによって社会が崩壊したとすれば、「マネーゲームが原因で社会が崩壊したのは、マネーゲームを禁じなかったムハンマドが悪い。」とでも言うのであろうか。

 私はこういう無責任なご都合主義者を有神論者とは思わない。

 戒律や法律といった規則さえ遵守してさえおけば。自律的には何も行動選択せず、何が起きても他人のせいにしておく無思考性が。戒律や法律にはある。

 「これさえやっときゃ、全てはOK。」という短絡性を鵜呑みにすべきではない。

 あらゆる規則は「手段。」であって、それ自体は「目的。」ではない。規則というのは必ず「目的。」や「主旨。」に基づいて決められたものであり。これらが主体でなければ意味がない。規則とは「形式。」であり、目的や主旨とは「意味。」だからである。



 危険学においても、人は規則やマニュアルに従ってさえおけば、責任の全ては規則やマニュアルを作った他人に全て預けられると勘違いする性質や。システムを一度構築してしまえば、そのシステムが実際に有効かどうかはシステムを作った他人が全て担保してくれるものであると錯覚する性質があると言う。

 ただ漫然と既存の規則やシステムに迎合してさえおけば、自分で自律的には何も判断しなくて良いと錯覚することが可能なのである。

 既存の規則やシステムに不具合があるのであれば、それは自律的判断によって指摘しなければならない。しかし、自律的判断に基づく指摘をする以上、その指摘には責任が伴う。その責任を負いたくないために、多くのヒトは既存の規則やシステムに無為無策に迎合し続けるのである。

 権威が作り上げた規則やシステムの不具合を指摘することを。多くのヒトは恐れ嫌がる。ヒトは権威に服従しておかなくては不安に陥る習性があるからだ。恐いとか嫌だからといって社会的責任を放棄して良い理由になどならない。

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「心が綺麗になった。」

 精神的、気分的に楽になった状態のことを。多くのヒト特に文系の者は「心が綺麗になった。」などと形容する。

 実際には「気分的に満足ししている。」だけであって、何ら人間としての「心。」の働きとは無関係である。気分的に煩わしいことから意識を外し、無視し、何も考えない状態に陥って。これを「心が綺麗になった。」とは言うことができない。気分的満足によって人間としての社会的責任判断が促されるわけでも何でもないからだ。

 気楽に原発を暴走させておいて、これを「心が綺麗になった。」などという支離滅裂な話に価値はない。自律的に社会的責任を負わなければ気分的には楽になれるであろう、社会的責任を放棄しておいて「人間としての心。」もすったくれもあったものではない。

 文系の観念というのは、ほとんど全てが気晴らしであって、社会的には糞の役にも立つことはない。

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概ね。

2012年01月24日 14時01分35秒 | 意識論関連
 概ね論では、稀に起こる重大事象に対する原因究明や対策には何ら寄与しない。

 概ね論では、既存の安全性しか立証することはなく。それは気分的な安心しか生み出さない。

 より高い安全性を確立するためには概ね論は意味を成さない。

 稀に起こる重大事象に対し、大衆凡人の多くは気分的な「恐さ。」を「感じ。」ることがない上。稀に起こる重大事象の結果を直視することの精神的苦痛を忌避して気分的に無視し、意識から外し、考えなくなるのである。

 概ね論で気分的に満足「安心。」していれば、稀に起こりうる重大事象への意識は働かなくなる。

 社会心理学実験によって、どんなにたくさん「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い結果だけを抽出サンプリング陳列枚挙しても。「ヒトという種の生物は常に自律的に社会的責任行動を採るものである。」ことの論証にはならない。

 現実に実際の社会における、あらゆる非人道的行為の反証はもはや不可能なのである。


 本質的意識に基づいたパラダイムを採りさえすれば、短絡的に「あらゆるヒトという種の生物に自律的社会的責任行動選択ができるようになる。」わけではない。むしろ、こうした短絡的解決方法があると「思う。」短絡性、頭の悪さこそが問題であると論じているのであって。一人一人の個人における、自律的で論理的な社会的責任判断選択というものを、どのようにして確立してゆくかを究明するための、極めて基礎的なパラダイムでしかない。

 従来の生物学における非科学的なパラダイムを土台としている限り。永久に「ヒトが人間足りうる所以。」には言及することが原理的に不可能なのである。

 ヒトという種の生物でありさえすれば人間としての社会性が常に発揮される論証などない。生物学における「概ね論。」からは「概ねヒトは人間として振る舞う。」ことしか立証しない。ましてや社会心理学実験というのは衆人環視下における行動しか原理的に観測することはできず。個人が自律的に社会的責任行動を常に行うことの論証など全くできないのである。

 協調性や信頼関係であっても、これらはシエラレオネのゲリラ内部でも働いている心理的、本能的な行動習性であり。こうした習性/傾向性をどんなに「概ね。」陳列しても「人間としての社会性。」の論証には全く到達できない。

 その不毛さを文科系の大衆マスコミは一切認識したがらない。

 そして稀に起こる重大事象は全て自分達の無意識的な無責任性とは無関係であると「思い込む。」のである。



 「人を騙そうとする者にとって、カモを見つけることはとても簡単である。」(マキアベッリ)

 大衆にとって、こうした事実は気分の悪い嫌な話であろう。「モンスター○○。」と形容される者達というのは、自分にとって都合の悪い話は「些細なこと、つまらないこと。」であると意識から外し、都合の良い話だけを断片的に抽出してきて正当化することしか意識が働かない。そこには論理整合性とか検証性といったものは皆無であるが、逆に頭の悪いカモを丸め込むための観念的で感情的/本能的な「コミュニケーション能力。」だけは非常に発達している。

 だから多くのヒトは感情的な丸め込みの得意な「コミュニケーション能力。」だけの発達したバカに服従し。結果的に本能習性のままに封建的な社会形成に無意識に陥ることになるのである。

 詐欺師や占い師というのは基本的にとても執拗で言葉数が多い。ヒトというのは本能習性として相手の機嫌を損ねるような振る舞いをしたがらないため。これを利用することで騙す相手の行動選択を詐欺師や占い師にとって都合の良いように誘導することが可能となる。

 これが生物本能的な「コミュニケーション能力。」というものである。イヌが相手の顔を舐め回し、尻の臭いを嗅ぐことや。チンパンジーが興奮して怒鳴り合ったり、疑似的性行為を行ったりするのと同じ動物的「習性。」である。それはとてもシーケンシャルで短絡的条件反射行動であるため、これを利用すれば多くのヒトの行動を誘導することができるようになるのである。

 「あんたの言うことは主観的だ。」などと称し、あたかも自分の言っていることが論理的普遍性を持った客観的主張であるかのように論じておきながら。面倒臭い話になると「難しいことは抜きにして。」などと言い出すことが人間として異常であるとは誰も思ってはいない。

 「思わ。」ないのである。

 芸術家であれば、それでも良かろう。芸術というのは論理的普遍性とは無関係な主観的快楽の追求「気晴らし。」であるからだ。しかし、芸術そのものが単なる「気晴らし。」でしかないという客観性を失った芸術家は「人間。」としては出来損ないである。たとえ社会的に成功していてもである。

 「相手の機嫌を考えないことは、人間としていかがか。」などというのも、単なる嘘である。相手の機嫌しか考えていない時点で、動物的な「ヒト。」としての価値観しか働いていないのであり。何ら論理的に「人間として。」の価値観など考慮に入っていないからである。

 詐欺師や占い師は、相手の機嫌、気分にだけは異常に意識が働いているであろう。それなら詐欺師は「人間。」として優れているとでもいうのであろうか。それこそキチガイの論理でしかないのである。


 ヒトの多くは、固定観念的な主観的価値観にそぐわない相手を気分的に「嫌い。」。自分の気分を良くしてくれる相手を「好き。」になり、観念的な「信頼。」関係を勝手に妄想する。

 ヒトという種の持つ本能的「社会形成。」習性というのは、あくまで本能的に組み込まれた気分や感情によって誘導される行動の「結果。」であって。これは本質的な意識的/論理的合理性を伴った本質的自発的行動選択ではない。

 無意識な者の集団内部において、どんなにたくさん自分の固定観念にとって都合の良い話を抽出枚挙してみても。それによって論理的普遍性の論証にはならない。飲み屋の酔っ払いの「本音。」を枚挙しても、世の中にとって有益な話など一切出てくることはないのである。エタノールで大脳を麻痺させておいて有益な「考え。」が成立するわけがない。

 こうした不毛な話ばかりに意識を奪われていれば、社会の問題に対して無為無策に陥るのは必然というものである。


 ヒトは「好き。」なもの、「安心。」なものといった主観的価値観を優先しがちである。それゆえに自律的論理検証を忌避するのである。

 航空会社が自社の起こした事故を無視して、再発防止になるであろうか。滅多に起こらない事象であるとして無視して良いとでも言うのであろうか。

 あなたの考えや行動の誤りのいちいちを、私は検証したりはしないし、原理的に不可能である。私は四六時中あなたを監視する神でも変態でもないからだ。それならあなたの誤りを正すのは一体誰であろう。

 誰も自律的に自己の考えや行動の誤りを認識できない社会の結末がどういうものであるか。

 少しは自分で「考えて。」みてはいかがであろう。

end;
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自己満足。

2012年01月23日 22時22分36秒 | 意識論関連
 「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い行動習性の多数抽出に。多くの論理的思考のできない多数大衆に気分的安心を与えるという大衆迎合、人気取りを。論理的検証性のない生物学/マスコミは行っているのである。

 こうした大衆人気取り、大衆迎合というのは科学的価値が全くない単なる気分的自己満足にしかならない。

 「ヒト。」にとってのみ都合の良い行動習性の多数抽出というのは実際には「ヒトが人間たりうる所以。」とは無関係であるからだ。

 どんなに都合の良い行動習性を多数陳列したところで、「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。

 「ヒトの全ては無条件で人間。」であることにしておけば、多数の大衆にとっては気分的に満足するのであろう。それによって何も考えなくて済むと勝手に思い込むことができ、思考を停止することによる気分的満足、安心を得られるからである。

 こうした気分的満足を与えることは科学の役割ではない。

 現在の生物学/人文科学は科学としての社会的役割、社会的要請、社会的責任を全く果たしていないばかりか。「人間とは何か。」についての論理科学的検証を不具にし、宗教的盲目撹乱による社会的負担、負荷にまでなっているのである。

 マスコミはこうした生物学の無責任性を、大衆迎合、人気取り、金儲けのために助長こそすれ。全く批判するつもりはない。無論多くの大衆も、その無責任性を認識することはできない。

 これは完全に目的のない洗脳状態であり。最も危険な状態であることを認識すべきである。目的がない状態で気分的満足ばかりを追求していれば暴走以外に至る結末はない。

 暴走状態にある集団内部の気分は、とても安心であり。全く「恐く。」など感じない。だからこそ暴走を誰も止めることができないのである。暴走状態に恐怖を感じるのは集団の外の者だけであり、暴走している当人達は全く恐くなどないのである。

 とは言っても、本論はむやみに恐怖心を抱けと論じているわけではない。論理整合性のない話に気分的満足をすることで論理検証性を喪失することの危険性を論じているのである。

 「ヒトの行動習性=人間としての社会性。」という、大衆観念にとって都合の良い話で気分的満足していては科学としての価値。普遍性の論証にはならないことを認識することが肝要なのである。

 どんなに大衆観念的な満足をしても、振り込め詐欺が減るわけでもないし。通り魔が発生しなくなる論証にもならない。気分の問題では物理的、実質的には何の効果も存在しないのである。むしろ、論理的検証性を失うことによって、何も自律的に「考え。」なくなる危険性が増大するのである。

 「考え。」が成立しなければ危険性は回避できない。安全性というのは気分的「思い。」によって担保されるような安易で短絡的なものではないからである。

 マスコミが気分的安心と論理的安全性をむやみにセット販売したがるのは、気分的安心を提供しておけば大衆迎合による人気取りができるからである。

 気分的安心というのは主観である。論理的安全性の有無に関わらず、気分的安心を得られるかどうかは個人差があり、安全性とは無関係な気分の問題に過ぎない。問題なのは論理的安全性を追求せずに気分的に安心してしまう精神的怠惰である。


 気分的安心というものは、振り込め詐欺に騙される心理的「隙。」を与え。あらゆる問題解決に対する意識、「問題意識。」を奪う。

 「ヒトとは、概ね人間性を伴い。概ね安全な存在であり。概ね社会的責任を担保する傾向がある。」と思い込んでいれば、大衆観念的には安心なのであろう。だから現在の生物学の観念に誰も論理的検証も反論もしないのであろう。

 「概ね。」という傾向性さえ立証されておけば、全てが正しい方向に向かうと。大衆観念的に「思う。」のであろう。

 だが、現実にはそう簡単で短絡的なものではない。それは原発の暴走によって嫌という程経験しているはずである。「ヒトは概ね社会安全性を担保する傾向がある。」ことをどんなにたくさんのサンプリングから「立証。」しても、「ヒトの行うことの全てが常に論理的安全性が保障されている。」ことの論証にはならないのである。

 概ねヒトは詐欺師にならないとか、概ねヒトは通り魔にはならないとか。概ねヒトは原発を暴走させない。といった「概ね。」論では社会の安全性を高めるための論理的追求、論理的確立には寄与しないのである。

 概ねヒトは絶滅しない傾向性を挙げても、絶滅への傾向性の反証にはならないのである。

 概ねヒトが他者にも物を分け合う傾向性を陳列しても、社会公平性が築かれるわけでも何でもないのである。

 「概ね。」という習性、傾向性の枚挙というのは、現実には社会的に全く糞の役にも立たない気分的満足しか提供することはないのである。

 そして気分的満足を与えない大衆観念にとって都合の悪い、アイヒマン実験のような立証は「稀。」であるとして大衆の意識から外され、無視され、その重要性を蔑ろにされるのである。

 そうして多くの「ヒト。」はバカのシーケンスに浸って満足するのである。

 このことをここ一年程Weblog上で論じて来たが。ほとんど理解周知されないのは、世間の大多数のマスコミや学術的権威がよっぽどバカであるからとしか考えられない。まあ、養老孟司や松沢哲郎が一流国立大学の教授を勤め。室山哲也がNHKの解説委員を安穏と続けられているのであるから当然でもあろう。NHKでは室山以外にも現在の生物学のパラダイムに無批判なバカ解説委員が他にも大勢いるようである。

 「一匹見つけたら、一万匹はいると思え。」

 マスコミというのは大衆からの人気取りによる、社会的報酬利益という本能的目的以外に意識は働かない。学力が高いだけのバカというのは。顕在化した通り魔やテロリスト以外にも山ほどいると考えるべきである。むしろ「ほとんど全員。」だと考えた方が良い。

 そうでなければ論理的根拠の欠落した従来の生物学のパラダイムがこれほど科学的理論として温存されるはずがないのである。

 従来の生物学の観念。個体の意図を超越した、超自然的な目的意識の存在立証を温存しておけば。ヒトという種の生物がなぜ封建的社会に陥るのかも説明されえない。それはすなはち役所の縦割り意識が無意識であるということも。子供のイジメがなぜ発生するのかも、その構造や原因の究明、対策といったものが全くされないということである。

 子供が組織的に協調行動によってイジメを行うことであっても、それは生物学によって何らかの生体にとって必要とされる断片的「意味。」がこじつけられ観念的に正当化されてしまうからである。この点においてはスタンレー:ミルグラムも同様の間違いを冒している。それが「サイバネティクスの観点。」という「結果。」論である。

 そして、「ヒトはなぜイジメを行うのか。」についての探求は放棄され。「わからない。」の一言で済まされてしまうのである。環境条件において発生したりしなかったりする「再現性の悪い。」事柄というのは、傾向性によって「立証。」することができないからである。生物学者の脳というのは、傾向性によって何かを立証するという形式以外には意識が働かないように、脳がバカになっているのである。

 生物学者達にとって、真理は探求されない方が地位を脅かされないので安泰である。都合の良いことに大衆の多くは観念的な生物種としての正当化だけで気分的に満足し、何も論理的反論や追求をすることはない。

 ましてや本能的に権威に服従し、盲目的に信頼することで安心して何も考えない習性というものがあるなら。それはむしろ積極的に利用して権威性を維持するための手段にしておいた方が「得。」であると考えるであろう。

 それなら本論が隠蔽の対象にしかならないのは必然というものである。

end;
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仕組み。

2012年01月23日 14時48分33秒 | 意識論関連
 「稀なこと=些細なこと。」という方程式は身勝手な大衆観念である。

 重大事故は稀にしか発生しないから些細だとでもいうのであろうか。こんな論理矛盾こそが社会安全性の最大の敵であることを、多くの大衆は自律的には認識できない。

 「概ね起こらないこと。」には気分的な危機意識、観念的恐怖心が働かない「習性。」というのがヒトという種の生物にはある。こうした無意識的な「習性。」に流されるだけだから人間としての社会性を喪失することになるのである。

 特定の他人にだけ自律的に社会的責任判断を要求しておきながら、自分自身は自律的には社会的責任判断を無視し、放棄し、蔑ろにしているというのは身勝手以外の何物でもないことを、多くのヒトは意識からはずして気分的に満足する。

 気分的満足によって、自己の思考が停止していることには誰も自律的には気付くことができない頭の悪さを改善しない限り。何が間違いであるかを「誰か。」がいちいち、その都度説明しなければならない。こうした状態を「バカ。」と形容する以外に私は形容の仕方を知らないし、知りたいとも思わない。

 ヒトの多くは、イスラム教典の戒律のように、行動のいちいちを「誰か。」に予め決めておいてもらい。それを盲目的に「信頼。」しておくことで気分的満足を得ることによって盲目性を作り出すことが可能となる。サウジアラビアの入国審査において、何らかの神を持たない者の入国を拒否するのは。「神をも恐れぬ者は、何をしでかすかわからない。」という観念的恐怖心によるものである。そもそも「神がいなければ何をしても許される。」という観念自体、「許して。」もらうという他者に依存した自律の欠落を意味するものであり。中東由来の一神教特有の強迫観念に過ぎない。

 戒律や法律というのは、あくまでそれらの規則の基となった「主旨。」こそに意味があり。主旨を逸脱した盲目的、かつ機械条件反射的服従迎合に意味があるのではない。

 イスラム教に限らず。宗教の持つ危険性というのは、戒律に対する忠誠忠実性によって促される気分的満足や、「美しい。」という主観、感覚、観念によって自律的論理思考が停止してしまう盲目性にある。こうした盲目性というのは宗教に限らず法令遵守に対する異常な盲目性の基にもなるものであり、個人の自律的判断を不具にする盲目性の大きな要因である。気分感覚的満足こそが論理的思考を阻害するのである。

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 傾向性の陳列は犯罪や事故の抑止には何の影響も与えない。「ヒトとは、人間性を持つものである。」という勝手な決め付けは、あくまで「概ね。」の傾向性を述べているだけであって。傾向性をどんなに陳列してもヒトという種の生物が常に人間性を発揮することの論証にはならない。

 ヒトというのは、本質的な意識が働かなければ人間としての行動選択ができないのである。それは傾向性の陳列による一面的「立証。」とは無関係である。

 生物学者達は自分達の固定観念を保守することにばかり意識を奪われているが。それによって本質的な人間としての意識というものがどのように失われるのかについての研究が全くなされないという社会的損失を無視した傲慢な態度であることすら、彼らには自律的には認識できないのである。

 自分達の間違いを自律的に自浄することができないことを、多くの生物学者達は社会的負担/損失であるということすら認識したがらない。

 もはや何度も論じたが、チンパンジーの行動習性をどんなに陳列しても、人間としての社会性の立証になどならない。それを「些細なこと。」「つまらないこと。」だと勝手に「思う。」のであろう。松沢哲郎は生物種としてヒトでありさえすれば、あらゆるヒトは人間としての社会性を持っているなどと勝手な観念に基づいた屁理屈を陳列している。これは科学ではない。

 原理的に不可能な立証方法論をでっちあげておいて、それが大衆観念的にウケた、話題になったからといって。それが科学的に意味を持つわけではない。

 松沢は単なるチンパンジーマニアに過ぎないのである。過去に何をしたかが重要なのではない、今現在においてポンコツであるなら、それは早々にお払い箱にすべきなのである。ましてや税金を使うのであればなをのことである。

 マスコミ大衆や生物学系研究者達は、傾向性さえ立証すれば全ての問題が解決するかのような不毛な観念を本気にしているようだが。傾向性とは「概ね、そうした傾向がある。」ことしか立証していないのである。

 ヒトの多くが概ね詐欺をしないこと立証して、それで詐欺師を更正させることに影響があるであろうか。

 ヒトの多くが暴力的ではないことを立証したからといって、それで戦争が減らせるであろうか。

 ヒトの多くが他人にも金や食料を分け与える傾向性を立証して、それが社会の公平性を担保するであろうか。

 これらの傾向性の立証というのは、単に「ヒトという種の生物は、概ね人間性を持っている。」というだけの「概ね。」論に過ぎず。稀に生じうる重大事象について全く糞の役にも立たない勝手な自己満足に過ぎないのである。

 「ヒトの多くは、概ね人間性を持っている。」傾向性を提示しておけば、バカな大衆凡人達は気分的に満足して、「素晴らしい。」だの「美しい。」だのといった主観的形容という満足や安心のまどろみに浸って思考を停止する。これは大脳辺縁系を満足させることによって大脳新皮質を麻痺させているバカの論理である。

 ヒトは気分が優先するようにできている。大脳辺縁系の感情が優先するような「仕組み。」が脳にはあるからだ。ヒトというのは初期的には動物である。従ってヒトは人間としての行動を常にできるようにはできていない。

 それを「概ね。」可能であることを陳列しても、常にできない以上習性や傾向性自体に意味があるわけではない。

 こうした話を、多くのヒトは「嫌なこと。」であると称して、条件反射的に無視し、意識から外し、思考を停止させて満足する。これこそが「ヒト。」という種の生物に先天的に組み込まれた「バカのシーケンス。」である。

 多くのヒトは嫌な話を聞くと、その嫌な気分だけを行動学習してしまい。拒絶反応だけをシーケンシャルに記憶する。認知症の患者に見られる機械条件反射的な拒絶反応というのは、大脳辺縁系の気分だけが行動を「学習。」してしまうことによるものであり。これは認知症の症状の有無に関わらず、ヒト全般に見られる「習性。」「仕組み。」である。

 「仕組み。」というシーケンスに無為無策に流されるだけであれば、そこに自由意思など存在しない。それをただのバカと言うのである。

 習性だの傾向性がどうあろうとも、自律的に自分の行動を選択することによってのみ。ヒトは人間足りうるのである。

 そこに多数他人の意見だの、社会的成功といった既存の価値観は意味を成さない。世の中の間違いを人類が修正できないのは、間違いを間違いと認識できないからである。決して社会制度といった環境依存的な原因によって世の中の間違いが修正されないということではない。ましてや制度上は民主主義である日本においては、なをのことである。


 マイノリティとオカルトの区別がつかないのは、そこに論理的検証が介在しないからである。多数意見でありさえすれば多くの学者やマスコミは安心して「信頼。」することが可能であろう。その「信頼。」に論理的検証性が伴わないから盲目性なのである。

 オカルト生物学を鵜呑みにしていることの無責任性を、マスコミは認識しなくてはならない。それがマスコミの社会的責任であり、本質的な要請であるからだ。

end;
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入力強度。

2012年01月23日 00時23分07秒 | 意識論関連
 文科系学者が言い出す、本能感覚的「快楽。」というものを、あたかも論理的思考を超越した優れた知性であるかのように形容するのは。本能的気分、本能的感覚が促す快楽の程度や強度が促す錯覚に過ぎない。

 感覚は「知能。」ではない。知能とは感覚器官からの入力強度に依存せずに、論理的分析によって促される「考え。」である。

 錯覚というものは感覚が促すものである。錯覚を錯覚と認識するのが知能である。感覚を優先していれば知能は働かない。

 合理性というものを無視すれば、残るのは感覚だけであり。錯覚が促す気分的満足のまどろみだけである。

 文科系の者は合理性という言葉に異常な拒絶反応をするが、これは感覚が促す錯覚しか優先させない。感覚を優先させておけば気分的には「安心。」であろう、その「安心。」こそが論理的思考を阻害することの危険性は、感覚的には優先されないのが「ヒト。」という種の生物の習性である。

 これがヒトのバカたる所以であることは、マスコミは扱うことを拒絶するのである。

 理由は「大衆ウケが悪いから。」である。



 ゲリラのように暴力的である場合、生存価に適するかどうかは環境次第である。暴力的な者同士による協調行動が生存に適しても何ら不思議ではない。どのような個体が生存に適したかを結果だけから決定することは原理的に不可能である。

 強姦されることに快楽を感じる個体の遺伝子が遺った「結果。」として、強姦されることに快楽を感じる習性があるとしても。それは個体の意識的目的とは無関係である。

 虐待を連鎖する習性も「結果。」である。結果的習性に抗い、無意識的条件反射である連鎖を止めるのが「目的。」意識である。

 「結果。」をどんなに枚挙しても、それが「目的。」意識を励起することにはならない。「結果。」に何を「感じて。」もである。

 アイヒマン実験の結果であっても、多くのヒトは自分自身の意識の問題であるとは「思わ。」ないのである。

 認識によって行動や思考を変えるのは論理的分析であり、「考え。」である。決して「思い。」や「感じ。」ではない。

 従って、本質的意識とは「思い。」や「感じ。」ではない。「思い。」や「感じ。」は固定観念や本能的拒絶反応しか生み出すことはなく、不毛である。

 アイヒマン実験においても、著者の分析では生物学的論証として意味のこじつけがなされている。「サイバネティクスの観点から。」と称して、断片的な有効性を枚挙しても無意識本能的服従習性が常に正しい結果しか導かないことの論証にはならないのである。

 アイヒマン実験の著者であるミルグラムでさえ、その分析段階では生物学的なこじつけをしてしまう程、ヒトとは短絡的なものなのである。

end;
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演出。

2012年01月22日 23時04分16秒 | 意識論関連
 ヒトは協調行動を行わないと「生存。」できないために、生物進化的に協調行動をする「習性。」を身につけたという。

 協調行動の全てが人間としての社会的責任判断を導くわけではない。詐欺師もゲリラもヤクザも、全ては協調行動によって作り出されることを忘れては困る。



 「命をつなぐことができなかった。」のは結果である。命をつなぐことができたかどうかと人間性とは無関係である。ゲリラになることが生存に適したからといってゲリラの残虐性が正当化できるわけではないからだ。

 「行動習性。」という先天的「仕組み。」の有無が人間としての社会性、自律的な社会的責任判断を「常に作り出す。」わけではない。

 扁桃核に組み込まれた「表情を読む能力。」といった反射的能力というものは。常に正しい判断を促すわけではない。

 アイヒマン実験において、反射的に権威に服従する行動こそが間違った行動を促すのである。機械条件反射的行動というのは状況変化に対する対処対応能力のないシーケンシャルな行動しか促さず。常に環境依存的な結果しか導き出さないからである。


 進化的に組み込まれた「仕組み。」「習性。」「傾向性。」だけでは、自律的に社会的責任選択を行うことを論証することはできない。

 自律的社会的責任選択というものは、進化的な傾向性からはサンプリングできない。実際アイヒマン実験からはほとんど全員が自律的判断に基づく行動を採らなかったのである。


 見ず知らずの相手と分かち合う傾向性を立証したところで、所詮は傾向性であること以上の何も証明していないのである。


 協調行動を採るという「習性。」をどんなにたくさん枚挙しても、その協調行動習性を何に使うかという「目的」意識がなければ、ヒトの子供は簡単にイジメを行うようになる。

 イジメをするのもヒトの傾向性である。生物学者にとって都合の良い習性だけを並べて大衆迎合するのは簡単であるが、都合の良い習性だけをどんなにたくさん抽出してもイジメがなくなるわけではない。 


 ヒトとは、気分的な満足や安心を与えられると、論理的検証性を放棄する性質「習性。」がある。これが社会から「安全。」性を失わせる根本的な「ヒト。」の行動習性である。

 気分的に社会的利益になると「思う。」行動というものの全てが、本当に社会的利益になるという論理的根拠にはならない。「人類の救済。」と称してテロを行ったのも、そこに論理的根拠が欠落していたからである。原発も同じであろう、原発推進派が「国益の為。」と論じているのが、それが果たして本気なのかどうかはともかく、外見上は社会的利益であると「思って。」いることこそが。実際には社会的大損害を生じさせたのである。単なる気分的な「思い。」では社会的利益になる保障にはならない。「思い。」の強度がどんなに強くてもである。

 SQのように、当人が気分的に「社会的。」だと「思う。」こと自体が、本当に社会的利益になるわけではなく。あくまで論理的に社会的利益になるかどうかを判断し、かつ、自律的に行動選択を行わなければ本当の社会的利益にはならない。

 大衆観念的な気分によって社会の安全性が確立されるのではない。何も考えない大衆凡民のままでいることは罪なのである。

 如何にも壮大そうな演出をしても、ヒトの行動習性の枚挙からは人間としての社会性、自律的に社会的責任判断が反射的な行動「習性。」によって立証できる論証にはならないのである。

 ヒトの行動習性をどんなにたくさん枚挙しても、それらは全て条件反射的な行動習性、仕組みの「結果。」しか抽出できない。

 「結果。」をどんなにたくさん枚挙しても、「人間。」としての意識的に選択した「目的。」行動の論証にはならない。

 なぜ、こんなに簡単な原理すら誰も理解できないのか。それが私の最大の疑問である。


 文科系の気分的満足こそが、論理的社会安全性を阻害する。マスコミのプロパガンダによる文科系観念は、多数大衆に気分的「安心。」を提供する代わり。多くのヒトから論理検証性を不具にし、「安全。」性を奪うのである。

 マスコミ当人達にその「意識。」の有無は関係がない。当人が「人類の救済。」と勝手に「思い込んで。」いることには何の価値もないからである。

 本論はカルト宗教のような気分的満足を与えるものではない。気分的満足による思考停止を促さないためである。

 気分的満足を提供してしまえば人気も得られるのであろうが、それでは思考を促すことにはならない。意識を促すことにはならないのである。

 それを大衆観念的には「コミュニケーション能力の欠如。」と勝手に「思う。」のは簡単である。多数大衆のご機嫌取りをしていたのでは、自律的な論理的思考を促すこと、自分の愚かさに自律的に気付くようにはならない。

 バカのご機嫌取りをしていたのでは、バカな帰結しか導き出されないのである。

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