書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

文字の濃度を変化させてみた。

2011年12月31日 21時12分46秒 | 日記
 すんごい初歩的JavaScriptなんだけど、こういうので電子書籍みたいのできないかなとかおもてる。

文字の濃度変化と移動。
http://space.geocities.jp/srand4000/text01.html

 ただ厄介なことに、おいらの東芝AndroidPCの場合、HTML Canvas で推奨されてる文字コードUTF-8が文字化けしちゃうので、EUC-JPにしてある。これが原因で動かない環境もあるかも。
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大規模避難道路。

2011年12月31日 19時16分51秒 | 日記
 津波被災地の復興計画についての番組を見てたんだけど、どうも高台への避難道路の整備についての話が出て来ない。

 1000年後の津波に対して今できる対策の一つとして、高台に向かって一直線に延びる幅の広い避難道路を整備しておくべきではないか。津波というのは、とにかく早いので、自動車で避難することを前提に速やかに高台へ上がれる道路が整備されていると、港で働かなくてはならない人達の避難に有効であろう。

 もうひとつ、建物の密集によって海の変化が見えなかったことを教訓に、必ず海が見通せる路地の増設も検討すべきだと思う。



 あ、それから、仮設住宅の断熱工事が間に合わないらしい。とりあえず屋内に断熱材で大きな箱を作っておけば、極端な寒さ対策にはなるのではないかと思う。少なくとも敷布団の下に断熱材を敷いておくだけでも効果ありそう。

 これって、被災地に限らず一人暮らしだったら省エネにもなるので結構有効かなと思う。

 ただ密閉すると窒息の危険性があるので注意が必要かな。発泡ポリスチレン系断熱材だと火気厳禁だし。タバコ吸う人はやめた方がいいかも。
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公表。

2011年12月31日 13時24分48秒 | 日記
 そういえば、原発の危険性について主張した研究者に対して、感情的に排除しようとした奴がいたらしいのだが。具体的な氏名が出てこないのはどういうことであろう。

 原発の安全性に関わる議論であれば公的な機関であるはずで、議論した具体的人物や内容が公表されないのはおかしな話である。

 なぜ排除された当人だけが公表され、排除した人物や集団が公表されないのであろう。報道が手抜きをしているのか?。


 以前にも食肉偽装を内部告発した冷凍倉庫会社が村八分にされたことがあるが。内部告発をすることによって排除されるというのはおかしな話であり、撤退した食肉会社の具体的名前を公表するべきだったと述べたことがある。

 言ったことに責任を持たない者の具体的氏名や団体名を隠蔽するというのは、社会的責任の放棄を放置するということである。これは「正直者はバカを見る。」ように誘導しているとしか考えられない。
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初歩的。

2011年12月31日 13時17分52秒 | 意識論関連
 行動習性というものは、個体の本能的欲望を満たした「結果。」として種の存続や生存といったものに結びついたのであって。個体に組み込まれている本能自体は種の存続や生存といった「結果。」を「目的。」とする必要性はなく、また、存在しない。

 ヒトにおけるイジメというものも、本能的な社会形成習性が促す多数他者との共感に対する気分的「安心。」によって、無意識的に多数体制に迎合してしまう結果として、特定個体へのイジメが発生するのであり。個体自体はイジメ自体を目的としているのではなく、多数他者との共感、共鳴が本能的「目的。」であって、ましてや「イジメをなくそう。」などという人間としての自律的、意識的行動選択などというものは本能的習性自体には存在しない。

 イジメというものは本能的な社会形成習性が促す気分的行動によって「結果。」的に行われてしまうものであり。本能的には単に目先の気分的「安心。」欲しさに多数他者の行動に無意識に「流されて。」しまった結果に過ぎない。

 生物学的説明であれば、こうした暴力行為であっても「より優秀な遺伝子を遺すため。」などとこじつけるであろうが、個体の本能的行動自体の「目的。」には、こうした大局的目的意識が存在する必要性はなく。存在の証明もなく、また存在もしない。

 本能的には個体は大脳辺縁系に組み込まれた反射的行動として、多数他者という体制に迎合することだけが目的であって。イジメ自体にも、遺伝的優位性にも、ましてや自律的社会責任にも「意識。」は働いていない。

 むしろ生物学的正義に基づけば、本能的行動の結果であっても結果的に生存や種の存続条件さえ満たせば、あらゆる暴力も正当化されてしまうことになる。

 本能習性に基づく行動の結果が、結果的に生存などの条件に適合するとしても。個体の本能的行動自体には、その本能的行動の「結果。」自体がどのようなものであるかとは無関係である。本能的行動の結果が偶発的に生存に適すれば生物学は「目的。」だと言い張り。逆に生存に適さなければ「進化の袋小路。」と言い逃れをする。

 現在の生物相という「結果。」に至る間において、本能的行動が生存に適した種と適さなかった種ではどちらが多かったであろう。もし、あらゆる本能的行動が生存に適する場合、自然淘汰はほとんど発生しないことになり。現在のような櫛の歯状の系統樹は形成されることはない。そこには進化などという結果的機能の洗練は生じないのである。

 どんなに現在の生物の機能が高度で洗練されていることを証明しても、「全ての機能が洗練されていて、あらゆる行動は生存に適する。」ことの論理的証明にはならない。


 多くのヒトは本能的行動選択しかできないことを枚挙しても、ヒトの全てはこれから永遠に自律的意識選択が不可能であることの論理的証明にはならないのである。

 自律的に社会的責任を持つことが困難であると称して、無意識的反射行動こそが高速高機能で常に「正しい。」行動であると脳科学者達は口を揃える。それに対する異論を私以外誰も唱えない現状は異常である。

 ヒトという種の生物は、その本能的社会形成習性が促す迎合性によって、多数他人との迎合や権威への服従を促され。結果的にイジメやアイヒマン実験のような「結果。」をもたらすことに陥る習性がある。

 多数他人に迎合している時や、権威に服従している時において。その行動の結果に対しての自律的責任意識などというものは存在しない。しないからこそ実際に問題が顕在化するまで放置されることになる。


 本能習性が促す行動結果に対して、そこには誰の「意思。」も働いてはおらず。また「結果。」に対する責任も誰もとることはできない。

 それを生物学は、ありもしない個体の目的を超越した超自然的目的意識の存在を証明しようとしているのであり。オカルトにしかなっていないのである。


 あらゆる行動の結果であろうとも、それらには後からどうにでもこじつけが可能であるなら。行動結果に問題があっても何の原因究明も対策も施されないのは当然のことである。そこには意識的行動選択の存在が抜け落ちているからである。

 イジメが起ころうとも、権威への服従によって他人に危害を加える結果になろうとも。それらは全て「結果。」であり、生物学者達にとってはそれ以外の何の方向性も立証できないことに「なっている。」からである。

 それを単に「奇妙だ。」とか「わからない。」といった結論しか導き出すことしかできないというのは、最初から本能習性が導き出す行動「結果。」には「目的がない。」からである。「ない。」ものを証明しようとするから実証不能の観念を持ち出すことになるのであり、科学ではなくなるのである。

 本質的目的とは、本能的行動とは異なる意識的行動選択によって導き出されるものであり。本能習性でしか行動が選択されることのない生物やヒトの場合、どのような結果になろうとも当人には最初から「目的。」が存在しておらず。結果的に生存などに適する行動になろうがなるまいが、適した種に淘汰されるだけのことである。

 本能的に促される「目的。」行動というものは、そこに意識的選択がなければ本質的には目的ではなく。単に既に存在していた本能の「結果。」しか導き出されない。

 何も考えずに漠然と呆然と本能のままに行動しておけば、その行動の結果がどうなるのかについて当人に「意識。」はない。当然「目的。」もない。



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 あまりに下らない初歩的なことを説明しているので、説明する方としては何が理解を妨げているのか見当もつかない。本来であれば私が説明しなくても学者本人達が自律的に考えるべきことであり。それが学者の社会的責任というものであろう。それを多くの学者研究者は放棄しているのである。これはキチガイとしか形容できない。

 本能的社会形成習性というものと、人間としての社会性の区別ができないからこそ。子供が無意識的に作り出す封建的な統率行動や、それに伴うイジメなどの暴力性に歯止めがかからないのである。

 子供が本能的に形成した封建的「社会。」性自体には目的はなく。目的がないからこそイジメなどの暴力に歯止めがかからないのである。これを大衆観念的に「社会性。」であると一緒くたにしていれば、イジメであっても「社会性。」ということになってしまう。集団の一面的正義に迎合しても「社会性。」であろう。それなら自律的に社会的責任判断など一切養われることはないのである。


//----------
 「生存。」というのは「結果。」である。「種の存続。」も同じである。

 「生存。」自体を正義にしてしまうと、詐欺や暴力、封建制度による搾取があろうとなかろうと無関係になってしまい。人間の意識的目的としての個人の尊厳を無視してしまうことになる。

 一人の「人間。」の存在意義とは、単なる生物学的生存や医学的延命処置によって定義されるようなものではなく。個人の「生き方。」を決定する意思、意識的行動選択そのものの価値である。

 本能的欲望という、既に組み込まれた一面的欲求だけを絶対的正義にすりかえても、それは大衆の狭窄な意識にとっては重大問題かも知れないが、一人の人間としての存在価値とは無関係である。

 個人的に「死にたくない。」という感情、本能を多数決的に枚挙しても、それが人間としての存在価値を定義する論理的根拠にはならない。ヒトという種の生物が持つ習性本能の枚挙だけでは人間としての存在価値にはならないのである。

 個人の社会的地位や、最悪生命の危機に関わる場合であっても。自律的に社会的責任を負う判断を行うのは本能的習性が導き出すようなものではない。原発推進派研究者が自分の利権保守を行うのは利己的自己保存であり、本能主体の短絡的行動選択である。その手段がどんなに「理性的。」であろうとも、根本が本能である以上本質的には「合理性を追求。」してはいないのである。

 現在の生物学は、個体に組み込まれた本能習性による行動「結果。」に対し、あたかも個体の本能的目的を超越した目的意識が存在するかのような「生存戦略。」などというものを主張するのはオカルトでしかない。

 本能習性というものは、あくまで利己的行動以外を目的とはせず。決して「種の存続。」などの大局的意識は存在しない。偶発的に「種の存続。」になる本能習性を持つとしても、それは「種の存続。」につながるような習性本能を持った個体に淘汰された結果であって。本能習性自体はあくまで利己的行動しか促すことはないのである。

 特定環境下において結果的に「種の存続。」につながる行動が、あらゆる環境下において「種の存続。」に適するかどうかの論理的証明はなく、何ら保証されていないのである。

 一時的に生存や種の存続につながる行動選択をするとしても、その行動習性が常に、絶対的に生存や種の存続を保証する論理的根拠があるわけではない。シエラレオネのゲリラ社会において生存に適する行動を採ったからといって、その行動選択が社会の持続可能性に貢献するわけではない。

 単なる自然界における「生存。」というものは、そもそも暴力や騙しといったものを不当とはしておらず。結果的な生存だけが絶対的正義である。これを「人間。」が構築しようとする相互信頼関係による持続可能性社会と混同するのは支離滅裂である。

 生物学者にとっては現在の生物学の正義を保守しておくことが個人にとっての利権保守につながるのであろうが、それは社会全体から見ての、生物学の社会的役割、責任を全く果たしていない。

 表面的に大衆ウケの良さそうなことを言っておけばどうにかなると思っているらしいが。自分達の体制腐敗や、それによる閉鎖性を自分達で改善できないのであれば、生物学の存在価値自体を失うことになるのである。

 大衆は気分的に良い話だけしておけば、論理的根拠などなくても満足するものである。99.99%のヒトはそうかも知れないが、その多数決に科学的根拠や保証が伴うわけではない。

 「人類は必ずや問題を解決できると信じている。」などと根拠もなく楽観日和見をしておきながら、自分達の間違いには言及しないというのは詐欺行為でしかない。

end;
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星 元紀:放送大学生物学

2011年12月30日 00時53分21秒 | 意識論関連
 種としてのヒトであるだけでは、一個の互換不能な人間としての存在価値を証明したことにはならない。

 従来の生物学においては、全ては結果の枚挙だけから個体の本能的行動とは無関係な、個体の意図を超越した超自然的目的意識の存在を証明したことになってしまっている。

 単なるヒトという種の生物の存続「生存。」だけを論じても全く意味がない。人間としての存在価値を持たないのであれば、殺戮と略奪の世界を次の世代に受け継ぐことになりかねない。

 「教育をすることがヒトの優位性。」であると星元紀は勝手に定義する。

 単に教育をするだけなら、ヒトでなくても行うものであり。また、その「量。」だけを論じても人間としての価値にはならない。

 単に教えられたことを鵜呑みにするだけであれば、どんなに大量の情報を鵜呑みにして「知って。」いても、そこからは既存の知識以外の何も新しい知識の拡大は生まれることはない。

 教育における「質。」とは何か。それは単に既存の知識を漫然と鵜呑みにすることではなく、既存ではない新しい発見や発明によってのみ、知能は拡大することが可能であるからだ。

 本能習性によって無意識的に獲得「してしまった。」特殊能力とは異なる、本能習性に依存しない自発的な知見の拡大が可能でなければ、本質的には人間の知能ということはできない。

 学力成績が高いテロリストや通り魔や天下り役人がいるように。既存の学力成績基準というものは本質的知能としての人間としての公益倫理的自律判断を伴う知能の証明とは無関係なのである。

 現代社会においては学力学歴と生活は直結しているが、それは「現代社会。」という「時代。」に依存した「結果。」に過ぎず。普遍的な人間としての価値の証明ではない。それが個人的な「生存。」価に適するというのも、結局は本能に直結した「結果。」的行動習性に過ぎず、普遍的な人間としての価値とは無関係である。

 単にヒトという種の生物でありさえすれば人間としての価値が証明されるわけではなく。個体としての存在価値、「その人でなければならない根拠。」としての存在価値がなければ人間としての価値にはならない。

 ところが現在の生物学の文法上においては、結果こそが絶対的正義として扱われ、結果的効果さえ断片的に立証されれば個体の本能的選択の存在の有無に関わらず「生存戦略。」などという短絡的こじつけがまかり通っている。

 ひどい場合は「そうしないと説明ができない。」などと言い出す始末である。これは説明すること自体が目的になってしまっているのであり。論証の厳密性が二の次になってしまっているのである。これでは自然科学とはいうことができない。

 現在の生物学上において、ヒトという種の生物の優位性をどんなにたくさん枚挙しても、そこからは「ヒトが人間としての存在価値を持ちうる。」ことの論証には到達することは原理的にない。

 本能習性に由来する「結果。」だけを論じている限り、そこには意識的「目的。」行動選択の存在を証明したことにはならないのである。特定環境下において実験者の観念に都合の良い結果だけを枚挙する現在の生物学の手口からは、個体としてのヒトが自律的、意識的に行動選択した「目的。」には原理的に言及できないからである。

 星 元紀は、あたかもヒトという種における問題点を挙げたような雰囲気だけは作り出しているが。実際には従来の生物学における固定観念の問題には言及しておらず、全くもって日和見に過ぎない。

 単なる生存だけを論ずるならば、殺戮や略奪であろうが「生物学的生存価。」に適していさえすれば良いのであって、当人が過酷であろうがなかろうが、生物学者達にとってはどうでも良いのである。生物学的な「種の存続。」だけを論じても、そこから個人の尊厳を伴った人間としての存在価値にはならないことを、星 元紀は無視しているのである。

 実際、具体的には生物学の問題点には全く言及しておらず、実際の問題解決に関しては「ヒトは必ず解決できると信じている。」などとアカの他人に丸投げである。これは最初から問題意識が存在しない証拠である。

 「人はどこに向かうのか。」というのは、あくまで個人の自律的、意識的な判断に基づくものであって。「ヒトはどこから来たのか。」という単なる「結果。」とは何ら無関係なものである。従って、どんなにヒトという生物種の起源を論じても、「どこへ向かうのか。」という「目的。」意識に基づく帰結には原理的に到達不可能なのである。

 要は無駄ということ。

 個人の起源について、たとえば虐待をされて育ったという起源をどんなに強弁しても、虐待を連鎖することの正当性が証明できないのと同じである。

 ヒトという種の生物には本能的な社会形成習性というものが存在し、ヒエラルキーを形成して権威に服従したり、多数に迎合したりすることが「安心。」なように進化的に組み込まれている。

 機械条件反射的に「安心。」を求めるようにできていること自体が「結果。」であって、こうした「結果。」的行動習性の枚挙からは何ら個人の自律的「目的。」意識は原理的に抽出不可能なのである。

 従来の生物では、「ヒトという種の生物は、概ねこういうものである。」ことを論ずることはできても、「人間として、かくあるべき。」には言及できないのである。

 大衆迎合的に「子孫の存続。」だけを論じても、それは具体的に「どのような社会を子孫に引き継ぐのか。」が抜け落ちており、生物学的な「生存。」にしか言及したことにしかなっていないのである。星 元紀自身にその意図があるかどうかとは無関係であるが、結果的に無為無策な大衆迎合にしかなっていないのであれば、こんなバカが放送大学の講師をやっているのは間違いである。

 単なる大量の知識にひけらかしをしているだけで、具体的に当人の自発的思考に基づく「考え。」は存在せず。要約すれば、「ヒトという種の生物なら、そのうち誰かが何とかしてくれるだろう。」という日和見をしているだけである。自分自身に何ができるのかには一切言及しておらず、全くもって無為無策なバカとしか形容不可能である。



 「生存戦略。」などという、個体の本能的行動意図とは無関係の超自然的目的意識の存在は証明できない。

 結果的に生存につながる行動習性を偶然獲得「してしまった。」個体にとって、生存だの種の存続などというのは個体の本能的行動選択にとってどうでも良いことであり。単なる外見上の「結果。」以上の何物でもない。

 こうした「結果。」だけを抽出してきて、それを「目的。」だとか「生存戦略と採った。」などと形容するのはこじつけ以外の何物でもない。結果的に生存に適さなかったあらゆる種の行動については全く評価されておらず、結果的に生存に適した種においてだけしか評価されていない屁理屈なのである。

 これに対して生物学者は「比喩に過ぎない。」としておきながら、それを「支持する。」という支離滅裂な判断を下すのである。もはやキチガイとしか思えない。

 無意識的結果と、意識的目的を厳密に区別できない現在の生物学においては。「人間は、これからどのような選択をすべきであるか。」には理論的に言及することができない。こうした状況を放置する神経が私には全く理解できない。最初から意欲が存在しないとしか考えられないのである。



 畑村洋太郎が論ずる「自律的に社会的責任を負う。」行動というのも。それは判断をする個人の意識に負うところがほとんど全部である。決して無意識的刷り込み学習によって「勇気がわく。」だの「元気が出る。」から選択されるような簡単なものではない。元気だの勇気といった気分、すなはち大脳辺縁系の反射に依存した行動選択からは自律的社会的責任行動選択などというものが常に選択される保障など全くないのである。

 逆に、気分的な後天的刷り込み学習行動によって、ヒトはナチスの絶滅収容所の吏官と同じ行動を採ってしまう習性もあり。これはむしろ「普遍的。」に観測されるヒトの行動なのである。決して無意識的行動習性から人間としての存在価値など「立証。」することはできない。

 シエラレオネの残虐な少年ゲリラの行動であっても、これもまたヒトという種の生物における行動習性であり。こうした残虐性というものはどのような社会においても発生しうるものでもある。あまりに残虐な事件の場合報道も取り上げない場合も少なくはない。イジメというのはヒトにおいて普遍的に行われるものであり、イジメというのは組織的統率がとれているからこそ行われるものであり、こうした統率というのはヒトが持つ社会形成習性が促す服従本能によって作り出されるものである。

 ヒトという種の生物は特定の誰かに服従していることに気分的安心を抱く性質がある。そこに生物学的なこじつけは不要である。単なる習性というのは、本能的にはそれ自体が「目的。」であり、どのような結果になるかといった意識的に選択される「目的。」とは無関係だからであり。決して超自然的「目的。」意識など存在しないからである。

 イジメには意識的目的は存在しない。イジメというのは本能的な社会形成習性が促す統率によって無意識的に行われるものであり。無意識的な多数他人との共感自体が「目的。」だからである。

 これはオウム真理教のテロにおいても同じことが言える。オウムの幼稚性というのは、構造的には子供のイジメと何ら違いはないのである。ただ資金面における優位性によって暴走に全く歯止めがかからなかったが故に大事件にまで発展しただけである。

 目先の多数他者と同じ観念を共有していると気分的に「安心。」なのである。「みんな、同じなんだ。」と安心する習性は、漫画「だめんずうぉーかー。」に典型的事例として掲載されている。バカというのは強迫観念的に「安心。」だけしか追求せず、論理的安全性などどうでも良いのである。

 気分的「安心。」というものは論理的「安全。」性を証明しえない。むしろ酔っ払い運転だの運転中の携帯電話なども、これらは気分的に「安心。」だからこそ危険なことを平気で行えるのであって。気分的「安心。」こそが重大事故や事件といったものの人為的原因の根源であると言っても過言ではない。


 脳科学者達が特殊な特異能力の優位性における無意識的機能の話ばかりしたがるのは、意識機能が不利であるという「結果。」だけを強調し、その重要性を隠蔽するためのものである。

 高速高機能な特殊能力の優位性だけを強調しておけば、社会的成功にしか興味を持たぬ大衆凡民のウケが良いことを利用し、社会的成功とは無関係の本質的意識機能による自律的社会的責任行動選択という大衆にとっては気分の悪い話から意識を遠ざけるための一種の洗脳プロパガンダであり。脳科学者の社会的貢献を放棄した悪質なペテンである。

 ヒトが人間足りうる所以としての、低速繁雑な理論的思考を必要とする本質的意識なくして、社会の安全性は確保されることはない。機械手続き的な「お役所仕事。」の無能性とは、役人達の自律的責任意識の低さによるものであり、無意識性によるものである。

 他人には意識の高さを求める癖に、自分自身は呆然と無意識に感情のおもむくままでいたがるというのは、社会的「甘え。」であり。人間として出来損ないである。

 最初から学習障害などで責任が負えないのであれば、それは他人にも意識の高さを求めたりはしないので罪はないが。そうではないにも関わらず自分だけ無責任でいようとするのは「甘え。」だと言っているのである。これは無責任であり、罪である。

 放送大学のように、技術者だけに倫理の全てを押し付けようとする考えは間違いである。倫理は全ての人に必要なものであり、特定の技術者などだけに要求するような偏った責任意識は社会的「甘え。」に過ぎない。

 それなら、私一人だけに生物学や哲学の体制腐敗に対する問題提起を丸投げするのも、充分「甘え。」である。

 ただ単に、本論を読んでいるROM専門では本質的に意味を理解したとは言うことができない。本論はあくまで自律的社会責任を負うことこそが人間としての価値であると言っているのであり。漫然と読むだけ、知っているだけでは単なるバカと同じである。

end;
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うるさい小言。

2011年12月28日 15時37分05秒 | 意識論関連
 個々の技術者などに自律的な社会的責任を求めるということは、本質的合理性とは厳密には何かに言及しなければならない。本質的合理性を追求しないということは、あくまで気分感情に依存した結果しか導き出されることはないからである。

 放送大学の技術者倫理の講義などにおいては、あくまで「元気が出る。」だの「勇気がわく。」だのといった精神論に帰結しており。これでは自律的に社会的責任を負うことであっても「気分の問題。」にすりかえられてしまう。

 畑村洋太郎は他人には「想定外という線引きをするな。」などと言っておきながら、自分の専門分野外の問題に関しては在野の部外者に丸投げするつもりである。これを無責任と言わずして何を無責任と言うであろう。

 哲学であろうが生物学であろうが、脳科学であろうが社会心理学であろうが。科学的検証性を伴わず内部腐敗による閉鎖性があるのであれば言及する「社会的責務。」が存在するのである。同じ税金で食っている仲間同士の馴れ合いというものこそが体制腐敗の根本原因なのである。それは無視するつもりか畑村は。

 ヒトという種の生物が、自律的に社会的責任を追求するためには。気分的バイアスという不確定な要素だけでは追求されることはない。

 それこそスペースシャトルチャレンジャー号の技術者のように、社会的役割を果たすためには自分自身の社会的地位を投げ出さなくてはならない場合もある。

 実際に重大事故が発生してから社会的責任云々に言及するのは簡単である。そんなものは「後だしジャンケン。」と一緒である。バカでも勝てる。

 重要なのは実際に重大事故が起こる以前において、起こるか起こらないかわからない確率の低い危険性に言及するためには、個人の自律的社会的責務を押し通す自律的「意識。」が必要不可欠である。

 もし、チャレンジャー号の技術者が危険性を予め警告のために一般に公表したとして。実際には偶然事故が起こらなかった場合、技術者の主張は単なる「うるさい小言。」としてしか扱われない。

 原発の危険性について言及した学者においても同様の事例がある。危険性について学会で論じたら、脅迫的に排除された経緯がある。こうした異常性というものは本能的な社会形成習性に由来する気分的バイアス=本能的行動選択だけによって無意識的に形成された「社会。」においては無為無策に迎合されることしか行われない。

 本能習性に由来する「社会形成習性。」が混入することによって、ヒトの意識は目先の服従だけに狭窄化される習性があり。こうした無意識性こそが体制腐敗や閉鎖性を生み出し、個人の自律的社会的責務を蔑ろにしてしまう大きな原因となっていることに疑う余地はない。

 本質的意識の存在について言及しなければ、こうした習性に由来するあらゆる問題行動は改善することは不可能である。

 危険性について、未然の段階において言及するには、自律的に社会的責任=公益倫理的自律判断を行うためには。個人の気分感情に基づくあやふやな基準に基づいた行動においては、ヒトという種の本能的社会形成習性や、自律的判断に伴う損失の責任といったものが不可避である。これら全てを技術者個人の自律だけに押し付けても、その個人には何の利益も報酬も伴わない場合には自律判断は放棄される可能性は非常に高く。実際に重大事故が発生していない状態においての自浄作用が働かないことが最も事故を助長するのである。


 北大の山岸俊男らが研究費を無駄遣いするような、衆人環視環境におけるあらゆる「結果。」の枚挙からは、習性としてのヒトの行動結果しか抽出されることはない。論理的原理的に存在しないのである。

 こうした「結果。」万歳な理論しか論じられないのは、根本的に生物学特有の「個体の意図を超越した超自然的意識の存在を立証したがる。」オカルト性に由来するものである。

 故にNHKの室山は「人類は絶滅する。」などと断言するのである。同時に他の解説委員の誰も、こうした異常性には言及しない。これ自体が充分異常であることを認識すべきである。

 脳科学界においても本質的意識の重要性には一切言及せず、漫然と特殊能力における無意識的機能万歳な観念によって大衆迎合するばかりである。脳トレ類が現実的には何ら「頭が良くなる。」証明が存在しないばかりか、脳トレ類において「頭が良くなる根拠とした脳血流増加。」自体も既に反証されているのである。こうした事実が隠蔽されたままなのはどういうことであろう。畑村洋太郎の「手抜き。」によるものではないのか。

 畑村にとって生物学、脳科学、社会心理学、哲学は専門外かも知れないが。私からすれば同じ「税金で食っている。」同類であり。「部内者。」或は「関係者。」である。在野の部外者には言及不可能なことについても言及可能なはずである。

 「失敗をした他人。」に対してだけ偉そうに「線引きをするな。」と論じておきながら、自分は「専門外だから。」などという言い逃れが通用すると思ったら大間違いである。言っていることとやっていることが支離滅裂ではないか。

 失敗学の社会的責務として、実際に重大事故が発生する以前におけるヒトの習性に起因するあらゆる問題にまで言及するべきである。線引きによる手抜きをするべきではない。



 あと勘違いされては困るのが、「準備を未然にしておけば事故は回避可能であった。」という話を基に。あたかも「原発は充分な準備をしてさえおけば絶対に安全である。」ことにすりかえられてはたまらない。

 あらゆる想定をするというのであれば、テポドンや隕石、テロといったあらゆる状況を想定しておかねばならない。それら全てを想定して対策すれば核分裂型原発は採算が取れないことは明白である。かといって核融合型原発の採算性が証明されているわけでもない。

end;
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依存症。

2011年12月28日 00時37分09秒 | 意識論関連
 依存症の類に陥るのは、ドーパミンが作り出す「常習性。」によって、脳の本能的行動として無意識的に「学習。」してしまうからである。

 クソゲーだのパチンコだのというのは、アルコールやニコチンと同様に脳を麻痺させる効果がある。麻痺するのは大脳新皮質であって、大脳辺縁系ではない。麻痺するのは「意識。」である。

 依存症に陥る原因というのは、なにがしかに依存し続けていないと「恐い。」という感情が脳に作り出されてしまうからである。

 ヒトに限らず、脳を持つ生物の多くは恐怖に対しての逃避行動が優先されるように「進化。」的に組み込まれている。しかし、恐怖というものが促す行動の全てが生存につながるという保障など全くないのである。進化過程において恐怖が促す行動の「多く。」が生存につながった「結果。」として組み込まれることになった(組み込まれていない個体が淘汰された結果。)だけであって、「概ね生存につながりやすい。」だけなのである。

 たとえば、生物本能的な社会形成習性によって作り出されるカルト宗教的な集団に対し、その集団に対して気分的に安心して洗脳されていた方が生存につながるというような状況を考えると、むしろ依存症に陥りやすいようなバカほど生存価に適する結果を導く状況というのも少なくはない。

 現代社会のように知識情報が少ない環境ほど、シエラレオネのような残虐性を競争するような結果になることが多く。つまり、現代社会が築かれる以前の長い進化過程においてはバカである方が生存に適した可能性も充分にある。

 いわば、ヒトというのは洗脳されやすいように進化してしまっている可能性も充分にある。

 依存症というのも洗脳や振り込め詐欺の被害と同様、大脳辺縁系の感情が論理的思考を阻害することによって生ずるものである。

 洗脳や依存症に陥りやすい「習性。」や「傾向性。」があるからといって、これらの先天的性質が回避不可能であることの証明ではない。

 依存症に陥る原因というのは、心理的な欠落。「心の穴。」、恐怖心といったものが大きく関わっている。

 逆に依存症などに陥りづらい人の傾向として、自発的純粋行為を持っている場合が多い。



 実は、私の母親が編物が好きで、毎月二回講習会にリビングを無償提供しているのだが。この講習会に参加している人の一人が鬱症状を持っていたことがあり。編物を始めて熱中するようになってすっかり改善してしまった経緯がある。

 個人的に好きなことを見つけ、これに熱中することによって心理的「穴。」に意識を奪われることなく、積極的(自発的)に人生を楽しむことができるようになる。こうした純粋行為を持たないと依存症などに簡単に陥るのである。

 また、自発的純粋行為を持つことにより。物事に没頭熱中することによる自発的集中力が認知症に対する予防にも効果があると言われる。

 それに対して環境依存的に集中させられる行為というのは、集中できる環境でなくなった場合に自発的集中ができないために効果は極めて限定的である。脳トレの類はこれに相当するものであり、逆に環境依存性を持ってしまうと返って認知症に陥りやすくなる可能性も充分にある。

 しかし、個人が一体何に熱中して心理的「穴。」に意識を奪われなくなるのかについては、人それぞれであり、「これさえやれば、どうにかなる。」ような短絡的で簡単な解答は存在しない。こればかりは「実際にある程度やってみないとわからない。」のである。また、「どの程度。」なのかも明確に存在するわけではない。

 重要なのは他人からの評価報酬とは無関係なものであり。多数平均的行為に対する本能的社会形成習性に基づく気分的安心とは異なるものである。たとえ純粋行為を共感することができるとしても、他人環境のない状態であっても集中できないことでは純粋行為とは言えず。効果を持たない。

 「自分一人だけが楽しいと思う。」場合、他人との比較をしてしまうと、本当の自発的純粋行為を見失うことにもなりかねない。純粋行為というのは他人との比較とは無関係であることを忘れてはいけない。

 倉田真由美の漫画にあるように、「みんな同じなんだ。」と強迫観念的に安心するということは。他人と同じでないことに対しての強迫観念的恐怖心、「恥ずかしい。」という感情を抱くことでもある。

 個人趣味、個人的純粋行為というものは、多数他人から見て、ある種の「バカらしさ。」が伴うことがある。趣味を共有できない者からすれば「そんなことして何になる。」という見解が出る場合が多く、共感を得られないことも珍しくはない。

 こうした「雑音。」に惑わされることによって純粋行為としての「自分。」を見失うことは非常に多い。



 本能的社会形成習性を利用すれば、場合によっては依存症や鬱症状につけこんで「これさえやっておけば完治する。」と称して、短絡的解決方法論に意識を奪わせることも簡単であり。そうしたエセ心理治療ビジネスは少なくない。

 本当に治療効果があるのであれば、それは決して金銭を要求するようなセミナーなどではなく。むしろ一般に公開されているはずである。

 真面目な臨床心理医であれば、効果のあるものを隠蔽したりはせずに一般公開するものである。


end;
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畑村洋太郎。

2011年12月28日 00時34分33秒 | 意識論関連
 「自分にとって、社会的役割とは何かを自律的に考えることが重要。」言われたことを漫然と行うだけではダメなのである。

 ところが、自律的判断というものには必ず責任というものが伴うことになる。言われたこと以外のことに言及することというのは社会的役割であるとしても個人の地位や立場を脅かすことになる場合もある。これは実際にスペースシャトルチャレンジャー号の技術者が経験している。

 「システムや設備、マニュアルを作ることで気分的に安心してしまう。」形を作ったことで安心してしまう。

 形や形式といったものは、気分的「安心。」を作りだし。この気分的「安心。」こそが思考を停止させてしまうことになるのである。

 想定内のことを整備することを「防災。」という、想定外のことについても準備することを「減災。」という。厄介なのは減災対策というのは想定を超えた場面を想定するという矛盾した基準に基づき整備しなければならず、これは責任の所在が明確にできなくなることになる。

 想定外の準備に人員や予算を使うとなると、対策の効果に対する責任の所在を誰が担保するのか。制度手続き的上の責任問題が生ずることになる。

 実際に事故や災害が発生した後に、想定外についても考えておくべきであったと言うことなら誰でもできる。しかし、災害が未だ発生していない状況において想定外についての準備をすることは困難である。畑村洋太郎はこのことについても言及すべきである。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者と同様、事故が発生する以前において「危険性。」というのは「危険である可能性。」であって、「危険の想定。」でしかない。確率の低い危険性に対する対策のために生じる損失を、一体誰が担保するのかを問われることになるのである。

 恐ろしいことに確率の低い危険性に対する対策を行わなかった責任は誰も取らない。

 重大事故が起こった後に危険性の重要性を論じることは簡単である。問題なのは事故が起こらない状態において、一体どこまで危険性の重要性をどこまで論じることが可能かどうかが、今後の危険学においての大きな課題なのである。

end;
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ど忘れ。

2011年12月25日 23時21分25秒 | 日記
 親父の耳が聞こえなくなってしまって、単なる加齢かどうか医者に診断してもらったところ。ミミクソを綿棒で押し込んでしまっていたらしい。

 んで、母親が時折何かをど忘れした時。思い出せないことを気に病んで鬱々と悩んでいることがある。

 何の関連性があるのかと言うと、ど忘れというのはミミクソと一緒で、無理に取り出そうとすると返って奥に押し込んでしまって出てこなくなることがあるようだ。

 いつもなら簡単に思い出せるような日常的記憶であっても、何かの拍子に思い出せなくなった場合。無理にその場で思い出そうとはせずに、ディティールだけを書き留めておいて、他のことに意識をずらすことによって、ふと思い出すことが簡単にできることが多い。



 そういえば作家の「うるまでるび」さんが、仕事をヘビーローテーションするという話を聞いたことがある。特定の仕事や作業というものに集中し過ぎると、頭が煮詰まって働かなくなってしまう性質というのがあるらしい。

 極度に集中を必要とする作業というものあるのだが、あんまり努力辛抱根性的に集中し過ぎると返って効率が悪い場合というのもある。

 っつう話です。
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大衆観念。

2011年12月25日 23時16分00秒 | 意識論関連
 一般大衆的には「説得力」というのは気分的満足によって相手を「丸め込む。」能力のことを言う。

 こうした「説得力。」というのは論理的合理性が伴うわけではなく、単に相手の気分を捩曲げ、無視し、観念的に否定する意欲を失わせるだけの「力。」である。

 「決断力。」というのも、一般的には単に物事の短絡的決定性を言う場合がほとんどである。こうした大衆観念的な「決断力。」というものにも論理的合理性が伴う必要性はない。

 「指導力。」というのも同様である。単なる「仕切りたがり屋。」のことを「指導力がある。」などと形容している場合がほとんどである。

 仕切りたがる者の決断に、論理的合理性に基づいた根拠が伴うとは限らない。

 単に他者との比較において、他人を誘導したがる者であるという先天的、或は後天的習性として、結果的に周囲の者を服従させることになるだけであれば。それは服従させるための「目的。」自体が最初からないということでもある。

 単なる本能習性的な行動の「結果。」として、生物学的本能に由来する社会形成習性を発揮するだけであるならば。それは誰にも「目的。」のない集団を形成するだけである。こうした無目的な集団というのは制御する者がいないために暴走に至る場合が多い。

 特定の目的に基づき、その目的のための統率手段としてのヒエラルキー構造であるならまだしも。誰にも目的がない状態において、本能習性的行動の「結果。」としての統率というものというのは。むしろ、その集団の内部における個体の本能を満足させること自体が「目的。」となってしまうことになる。

 なにがしかに対する忠誠忠実性に対して、ヒトという種の生物は美徳を感じるようにできている。なにがしかに対して固定観念的に忠実であることを人間性であると錯覚するのである。

 イヌにとって服従は阿片である。イヌは服従すること自体が快楽で「目的。」なのである。

 生物学における本能的社会形成習性というものは、社会形成そのものへの「美徳。」という名の本能的満足によって目的が存在しなくても行うようにできているのである。

 「美しい。」というのは主観である。人それぞれであり、普遍的美などというものは存在せず、時代や環境に左右されるものである。たとえどんなに「傾向性。」を統計的に集計しても、それが「全ての者にとって普遍的に美しいと感じるものである。」ことの論理的証明にはならない。

 そもそも「美しい。」というのは論理的根拠では最初からない。こうした論理的合理性のない本能由来の観念を基準にして行動選択をしていれば、そこに本質的意識に基づく「目的。」行動が行われず、無意味に習性的な統率だけが一人歩きを始め、結果的に暴走を招くことにつながるのである。

 一般大衆的な「説得力。」だの「決断力。」だの「統率力。」といった、論理的根拠を持たない「大衆観念=ヒトという種の本能習性。」に無意識に流されているから、ヒトという種の起こすあらゆる問題というのが改善されないのである。

 

 とは言っても専門家にしか判断できないことというのも少なくはない。重要なのはわからない場合に判断自体を行わないことであり。観念的に丸め込まれて大衆観念的な「説得力。」に左右されないことである。

 単なる説得力だのコミュニケーション能力であれば詐欺師の能力に過ぎない。わからないことであるなら判断を行わないというのも、論理的合理性のある判断の一つなのである。

 最も悪い判断というのは、多数や権威といったものに迎合して気分的満足をしてしまうことであり。これは論理的合理性のある判断から最も遠い、気分的「観念。」なのである。




 動物が同一種に暴力を振るう「理由。」には論理的根拠はない。殺人も含めて暴力性の根源というの本能的気分であり、合理性はない。

 ウサギ等の野生生物が交配相手の選択において暴力を振るう行為に対し、「種の存続。」だのといった大局的目的など存在することはなく。ただ気分的に本能の満たされないことに腹を立て反射的に暴力を振るっているだけである。

 その「結果。」として偶発的に「種の存続。」に貢献する行動として観測することができたとしても、それはこうした「種の存続。」などに貢献しない行動習性を持たない種が淘汰された「結果。」に過ぎず。個体においての「目的。」とは無関係な「結果。」でしかない。

 個体に存在しない「目的。」というものを生物学的にこじつけても、それは超自然的なオカルトにしかならず。全く科学的論証にはなっていない。

 これに対して生物学は、「生存戦略や目的とは、比喩である。」という訳のわからぬ言い逃れを「支持。」するのだという。

 論理整合性を放棄する理由とは、論理的説明を「したくない。」或は「されては困る。」から以外にない。

 生物学における、こうした論理整合性の放棄というものは、ヒトという種の生物における習性と、それを認識するべき本質的意識の区別の存在を隠蔽するものである。

 生物学者達は詐欺師の手法についての説明をしてしまうことによって自分達の詐欺行為にまで言及されてしまうことを忌避して、本質的意識とは何かや本質的合理性の重要性を隠蔽しておかなければならないのである。

 その隠蔽の手法とは、本能的習性としての権威への服従性を利用して、習性こそが正しい判断を促すものであると「説得。」し、本能のままに行動することこそが正しい結果を導き出してくれるものであるという嘘で塗り固めることである。

 それによって観念的本能を満足させ、思考を停止させることが可能となるのである。

 思考が停止していれば正確な判断は行うことはできず、本能的習性のままに権威や多数に迎合することで「安心。」するヒトの習性を利用したペテンの手法、或は無意識的洗脳の結果である。

 無意識的洗脳であれば罪がないという話にはならない。そもそも脳科学分野であれば積極的に研究されていなければならない領域であり。研究すべき生物学者が認識できないというのは許されるような怠慢ではない。

 しかし、現状において脳科学界は特定の無意識的特殊能力の一面的優位性ばかりを取り上げ、優位性によって大衆観念的社会的成功が得られるかのような大衆迎合ばかりを取り上げることによって、意識の重要性を撹乱しているのである。

 スポーツ選手などの社会的成功というものは、それ自体には本質的人間としての価値。自律的公益倫理判断とは無関係である。

 大衆人気による社会的成功を取り上げることによって、大衆は利己的欲望だけに意識を奪われ。公益倫理的自律などという個人的には旨味のない話からは意識を失うのである。

 動物の本能的行動というのは、あくまで個人的欲望本能を満たすことが優先し、大局的公益性には意識が働かないものなのである。だからこそ本質的意識によって自律的に自己の本能習性を制御することが重要なのである。

 ただ漫然と気分的な「安心。」によって満足する怠惰によって、ヒトは目先の欲望に基づく行動選択しかしなくなるものである。「怠惰。」というのは必ずしも行動自体の「量。」とは無関係である。命懸けで地下鉄に毒ガスを散布することこそが意識の「怠惰。」なのである。

 ヒトは考えることが本能的に嫌いである。考えることが本能的に嫌いであるからこそ「ヒト。」でしかないのである。

 しかし、ヒトの全てが本能的に嫌いなわけではない。全く新しい発見や発明をする人というのは、むしろ大脳新皮質の容積の大きさに由来する、自発的思考の快楽を知っているのである。

 こうした「ヒトと人の違い。」というものは、本質的自発性の有無に因るものである。詳細は既に論じた記憶があるが、今回の趣旨とは少し異なるので割愛する。

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感覚。

2011年12月25日 00時27分23秒 | 意識論関連
 特定の人にしかできない能力のことを、それができない多くの人は天才的で「素晴らしい。」ことだと認識する傾向がある。

 逆に言うと、多くの人ができる能力のことは平凡で「つまらない。」ことだと認識しがちである。

 当然であると「思われて。」いるこうした傾向性であるが、こうした価値観というのは必ずしも本当に能力的高度さを「形容。」しているわけではない。

 二本の脚でバランスをとって歩行したりする能力や、普通に音声言語を発することというのは、実は非常に複雑で高度な機能であるが。こうした機能は「多くの人。」が平均的に持つため、多くの人は平凡でたいした機能ではないと「思う。」ものである。

 歩行機能とか音声言語機能といったものは、子供の頃に無意識的に習得してしまうため、その機能の高度さを認識することなく習得してしまう。

 しかし、大人になってから脳梗塞などで一度これらの機能を失ってから取り戻すことは、とても困難である。


 子供の頃に無意識的に習得する機能というのは、大人になってから習得するものとは困難さに違いがあるというある種のハンディキャップもあるのだろうが。大人になってから意識的に再度習得することになると、その機能の高度さを体感することになる。

 本当の機能的高度さと、一般「感覚。」的高度さの基準とは同じではない。


 いわば、凡人の「感覚。」的基準というものは、実際にはアテにならないのである。

 アイヒマン実験において被験者が服従する「感覚。」とは、こうした一般的凡人の「感覚。」的基準によって、無意識的に本能による社会形成習性として服従するのである。アイヒマン実験の被験者というのは、ごく普通の一般人であり、決して特異な人達だけにしか観測されないようなものではないことを、忘れてはいけない。

 一般的なごく普通の人達というのは、その感覚的「共感。」によって、アイヒマン実験のような珍しい状況における普遍的性質というものを、自分自身の行動選択とは無関係であると「思う。」傾向がある。

 多くの場面において関係のないことを、ヒトは無関係であると「整理。」してしまうのである。

 凡人の「感覚。」的な優先順位というものは、日常的に多い場面における平均的対処だけに意識が「整理。」されてしまう。

 動物の行動を「整理。」するのは、脳内物質ドーパミンが作り出す「常習性。」の作用である。

 凡人の凡人たる所以とは、つまり平凡な行動に意識が「整理。」されているからに他ならない。

 また、ヒトという種の生物には、自然淘汰の結果として社会形成という「習性。」が組み込まれているため。平均的であることに対しての強迫観念的執着を持つ習性があり、平凡であることへの感覚的「安心。」というものがある種先天的に組み込まれているようなものである。

 倉田真理子の漫画にあるように、「みんな、同じなんだ。」と、平均的であることに異常なまでに執着することを共感するからこそ、倉田真理子の漫画には「人気。」がある。それが凡人基準の「共感性。」とか「コミュニケーション能力。」の正体である。

 「合理性追求。」という言葉に対しての一般的「感覚。」として、利己的利益追求のようなものであると「思う。」ものであり。また、こうした「思い。」に対する論理的検証自体もまた「合理的。」であるとして忌避するのである。その結果固定観念的「思い込み。」という、いうなれば心理的拘束、ヒステリーを生み出すことになるのである。

 心理的拘束、ヒステリーというのは。ドーパミンが作り出す「常習性。」によって無意識に刷り込まれることによって作り出されるものであり。認知行動療法などの心理療法においては、こうした無意識的心理拘束の原因を論理的に「考え。」させることによって意識化し、それが論理的には無意味であることを自分自身で認識することによって心理的拘束を取り除くことが可能なのである。

 認知行動療法においては治療者は心理的拘束の原因を直接指摘したりはせず、あくまで患者自身によって「気付かせる。」ように促すだけである。それは、他者から心理的拘束の原因を直接指摘されると拒絶反応を示すことがあるため、あくまで患者自身が自律的に「気付く。」ように仕向けるだけなのである。

 無意識的な心理的な拘束というのは、患者の内部における無意識的価値観においては優先順位が高い傾向があり。他人から直接指摘されると反射的に拒絶することが多いという傾向習性があるために採られる臨床的手法である。

 しかし、患者が自分自身で心理的拘束の原因を論理的に認識することによって。こうした反射的拒絶を回避できるのである。

 本論においては、こうした感情的作用自体を論じているの以上。一般的なヒトの作用を利用するような一種のネゴシエーションは行うつもりはない。よって多数の「人気。」が得られないのは、むしろ必然である。



 一般的な感覚として、平均的で普通であることに対して強迫観念的に執着しておきながら。その一方で特殊能力を習得した者に対しての憧れも抱くという支離滅裂な「他人との比較。」にばかり意識を奪われている場合も多い。こうした「他人との比較。」にばかり意識を無意識的に奪われているからこそ「自分。」が何をしたいのかが見えなくなるのである。

 これはさておき。



 特殊な能力、感覚を習得した者のことだけを取り上げて、「直感的感覚こそに価値がある。」かのような番組作りというのはプロパガンダ的で、洗脳的である。

 そもそも視覚障害もないのにエコーロケーションは不要であり、サッカー選手でもないのに視野の広さや空間認知能力を論じても一般人にとっては無意味であり。また、公益的でもない。

 特定の人にしか認識できない差異であるならば、特定でない人達にとって本来価値を持たないものであり。どんなに味覚や嗅覚の優れたソムリエや料理人が勧めるものというのは、特定の特殊感覚を持たない凡人にとっては価値自体を認識できず、無意味である。

 特殊能力が優れていることというのは、社会的注目とか評価にはなるであろうが。こうした「社会的。」評価というのは大衆迎合的な価値観に基づくものであり。現実的に社会公益的価値に直結するようなものではない。

 特殊で社会的注目を得るような能力が社会の安全性や持続可能性に貢献しているわけではない。

 こうした本質的社会的価値というものを無視して、目先の注目評価に意識を奪われているというのは、目先の享楽に溺れて本質を見誤っている。

 気分の悪い話を無視するというのであれば、戦争や事故の記録から教訓として未来に活かすことを拒絶するということであり。それは頭のおかしい原発研究者の主張とほとんど同じである。

 「忘れてはいけないもの。」を忘れるから「人間。」性を喪失するのである。


 ヒトは自らの異常性を認識することを拒絶する性質がある。「自分だけは大丈夫。」という論理的根拠のない身勝手で過剰な確信によって自らの異常性を認識することを拒絶するのである。

 そういう「習性。」がある。

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被害者感情。

2011年12月23日 13時58分22秒 | 意識論関連
 被害者でありさえすれば感情論が正当化されるというのは何かおかしい。

 事故における被害の大きさと過失の無責任さとは必ずしも比例するものではない。とても無責任な行動をとっているとしても事故にならないこともあるし、逆に普段は責任ある行動をとっていたとしても偶発的に重大事故になってしまうこともある。

 それに対して、被害者の感情論というのは、「結果。」的な重大さだけに依存してしまう傾向があり。これは社会的安全性確保とは無関係の、被害者の個人的、主観的感情論にしかならない。

 そもそも感情論を持ち出すのであれば、加害者の感情論はなぜ無視されるのか。それは主観的で個人的であることから「身勝手。」であるとして無視されるのである。

 ところが被害者に限っては、こうした「身勝手。」な感情論の共感性を求めるというのは論理的社会安全性を無視した話にしかならない。

 裁判判決というのは社会公益的な根拠が必要であるはずであるが。それが被害者の感情論の影響に左右されてしまうというのは合理性を欠いてしまう可能性が高い。

 犯罪者を死刑にしたり、再犯率が下がらない懲罰を漫然と厳罰化したりすることというのは。犯罪や事故というものの根源的原因の論理的解析や原因究明、それによって導き出せる可能性を持つ対策といったものを無視してしまうことがある。

 裁判というのは本来公共益に供さなくてはならないものでありながら、被害者という特定の人達の感情論に依存してしまうというのは、これから起こりうる事件や事故に対しての合理的対策を無視してしまうことになりかねない。

 たまたま重大な結果にならなかったからといって、それが被害者感情的に赦されるような判断をしてしまうから。重大事故や犯罪の予兆を見逃してしまうことにもなるのである。

 テンカン患者がクレーン車で子供を6人も轢き殺した事故においても、その重大事故の前に何度かの小さな事故を起こしている。この時点において被害者がいなかったからといって加害者の無責任性を追求していなかったからこそ、重大な事故が起こるまで放置されてしまったのである。

 実際に事故や事件が重大化するまで放置されてしまう原因というのは、その司法判断に被害者の感情論を必要としてしまうからである。

 通り魔やテロといった意図的犯罪においても、こうした反社会的思想というものがどのようにして醸成されてしまうのかについての工学的見地に基づいた合理的原因究明や、それに伴う対策というものこそが、本当の意味において社会的公共益になるのである。

 つまり、目先の犯罪者に復讐しておきさえすれば犯罪が減るわけではないということである。

 自分の子供が殺されたことに対して厳罰を要求したからといって、これから起こりうる可能性のある事故や事件に対しての影響にはならない。

 「自分の子供が哀れだ。」と言っているだけでは、「他人の子供を守る。」ことにはならないのである。それを「知ったことではない。」などと言うのであれば、それは公共の税金を用いて行うことではない。それこそ山口県の母子殺害事件の本村さんではないが、「無罪にして釈放して頂ければ、私が殺します。」というのと同じである。

 別に感情がわからないわけではないが、ただ漫然と感情論に依存していても何の進歩もないことを認識してい頂きたい。



 ヒトという種の生物というのは、本能的感情が優先してしまう性質がある。それこそが論理的安全性を遠ざけることになってしまうのである。「感情=行動。」であるならば、それは通り魔の行動原理と全く同じではないか。

 本当に「人間。」社会において必要とされるのは、気分的「安心。」ではなく、合理的「安全。」性の追求である。被害者の個人的感情によって社会の安全性が排除されてしまうのは、公共の司法の役割として間違っている。

 そもそも養老孟司なんぞ読んで「あぁ、自分の頭が良くなった。」ような錯覚に陥っている時点で充分愚かになっているのである。養老やニーチェの著書というのは論理的思考を放棄させ、撹乱して気分的満足を与えることによって、あたかも「自分は頭を使った。」ような錯覚に陥れているだけのペテンに過ぎない。

 気分的な事柄に触れず、バランス問題にでもしておけば大衆凡民というのは気分的満足によって現在の社会制度に対する問題意識を失い、気分的に安心して漫然と体制維持に加担することが可能である。

 一般的に、こうした大衆迎合的な「話を丸める。」ような、表面的に多数他人の顔色をうかがうことを「コミュニケーション能力。」と言うが。これこそが生物習性的な「社会形成習性。」による本能的行動の現れである。

 本能を優先しておけば論理的思考は放棄される。気分さえ良ければ満足だからである。

 しかし、それによって合理性が放棄されることによって、合理的安全性の追求が失われることになるのである。

 被害者感情的には「嫌な話。」であろうことはわかっている。気分的「共感性。」がないことも承知の上である。

 養老だのニーチェのように、ご機嫌取りや撹乱によって何ら思考を促さないように仕向けてしまえば、「失礼。」なのかどうかすら撹乱することは簡単である。当然物事の核心には全く触れず、表面的に「核心に触れたような雰囲気。」だけを醸し出しておくことも可能であろう。多くの大衆はそれで「満足。」する。その気分的「満足。」こそが思考を停止させてしまう最も大きな原因である。

 それこそ「満足。」を得るためなら振り込め詐欺に騙されてでも振り込もうとするのである。

 「金を振込みさえすれば。」と同じように、「加害者を、より重い刑罰を与えさえすれば。」被害者達は気分的満足を得るのであろう。

 環境依存的に条件反射をするだけなら、それは「人間。」であることの価値にはならない。自分の子供を殺された親の気分自体が全くわからないわけではないが、「気分=行動。」で良いというのであれば、私だって殺したい奴ならいくらでもいる。通り魔の「気分だけ。」なら共感不能ではない。しかし、方向性のない無差別殺人によって問題が解決するわけではないことを、論理的に「考え。」ているから、私は短絡的行動には「走ら。」ないのである。

 単なるご機嫌取りなどというのは、「ヒトとして平均的。」な行動でしかないのである。平均的行動に「安心」したり「満足」するというのはヒトの習性でしかない。

 環境が悪いと称して、「社会制度が悪い。」とでも言っておけば自律なんぞに言及しなくても良くなる。そもそも社会制度自体を作っているのは「みんな。」である。「みんな。」という広く薄い対象に漫然と責任転嫁しておけば、具体的原因には言及しなくても大衆は満足するのである。自分自身の自律を無視できるからだ。それを多くのヒトは無責任だとは「思わない。」のであろう。それなら何が起きても文句を言う権利など最初から放棄しているということでもある。


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総武線小石川通架道橋。

2011年12月22日 23時49分41秒 | 日記
総武線小石川通架道橋
http://map.ultra-zone.net/g/35.702362/139.751017/-133.1_-2.3_1.0

ブラタモリで取り上げていた。明治時代に架けられたドイツ製の橋梁だそうです。個人的メモなので詳細は他を当たってください。

石積みがなし崩し的に変化している場所もみつけました。
http://map.ultra-zone.net/g/35.702621/139.746624/-155.1_5.0_1.0

よく考えたらブラタモリの公式サイトに載っているのかな。

end;
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適者生存。

2011年12月22日 13時38分45秒 | 意識論関連
 カオス理論における「バタフライ効果。」のように、自然界における淘汰というのは初期条件の僅かな違いによって偶発的に結果が大きく異なるものである。

 このような偶発的な結果だけによる結果的選択だけでは「適者生存。」であることの論理的証明にはならない。より生存に適した個体が偶発的に淘汰死亡していないことを証明することができないからである。

 そもそも「生存。」だけを絶対的正義とするのであるならば、別に知能も社会性も必要であるとは言えないのである。

 生存に適さなかった個体を「捨て駒。」程度の意味しか与えない現在の生物学において、個体が社会や環境に対しての貢献などあってもなくても、どちらでも構わないのであって。「個が個である意味。」は現在の生物学において意味を持たない。

 社会貢献をしようが、振り込め詐欺であろうが、生存してさえいれば「正しい。」ことになってしまうのである。

 さらに言えば、詐欺がばれない、或は天下りのように合法的詐欺であれば生物学的には「適者生存。」である。

 従って、個体における自律的公益倫理判断選択というものは、現在の生物学における「正義。」の下においては「どうでも良い。」ものでしかないのである。

 こうした生物学の無責任性を放置しておいて、「ヒトが人間である所以。」になど原理的に言及することは永遠にできない。言っておくが、脳科学や認知科学も生物学の範疇であり。彼らの多くは脳トレ類によって大衆ウケを求めるばかりで、本質的知能や意識といったものの何たるかといった「気分の悪い。」大衆ウケの悪い話には興味がない。それは科学的に純粋な追求が動機なのではなく、無知無能な大衆から合法的に金を巻き上げることが動機であることの証明である。

 脳トレ類が実際には知能に影響を及ぼさないことは英国の大規模実験によって「立証。」されており、その後に取り繕われている「○○認知能力。」などの類についても、あくまで彼らがでっちあげた基準に基づいて評価されているものであって、極めて特定の限定的能力評価にしかなっていないのである。

 単なる「試験脳。」として高い成績を得ても、それが常にあらゆる事柄に対して発揮される証明にもならないし。ましてや公益倫理的自律判断を行うことの証明にもならない。

 そもそも、脳トレ類において「脳に良い。」ことの論拠とされたのは「脳血流増加。」である。実際に脳血流の増加が観測散々観測されたにも関わらず、実質的には何の効果も無かったということは。脳血流の増加と知能向上との相関関係は初めからなかったのである。ところがマスコミも含めて脳科学者達の誰もこれについて言及する者はおらず、未だに「脳血流=頭が良くなる。」という短絡的根拠にしている。

 大衆ウケが良い脳トレ類の利権を維持するためだけの言い逃れの全ては、いわば本質的知能とは何かについて言及する意思が最初からないからこそ行われるものであり。怠慢というよりは詐欺行為である。

 このように脳科学者自身による詐欺行為の横行を許しておいて、振り込め詐欺の撲滅に対する研究などされるわけがない。

 いわば、振り込め詐欺の手法をばらすということは。いわば脳科学者自身の詐欺の手法もばらさなくてはならないからである。


 暗記術の類というのは、いわば脳の癖、習性特性を利用した小手先技に過ぎない。暗記術の類をどんなに習得しても、それが認知症にならないことの論証も検証も未だされてはいない。

 むしろ暗記術の類に成功して、自分の頭が良くなったと錯覚している短絡性自体が愚かさの証明であることには、誰も気付くことはないし。また言及もしない。

 暗記コンテストで優勝した者というのは、実際には暗記以外には何もできない「暗記脳。」に特化されているだけであって、本質的知能とは全く無関係な行為でしかないのである。事実、暗記コンテストで高い成績を得ても、実質的科学業績を得るような発明発見とは無関係なのである。

 本質的知能、本質的意識というものは、特定の評価基準に基づいて特化された限定的能力によって導き出されるようなものではなく。むしろ既存の特定基準とは全く無関係な領域において導き出されるものである。

 ヒトというのは、とかく数値成績などの抽象化された評価基準を与えられ、順位付けをされることによって気分的満足や安心を得ることにしか意識が働かない習性がある。クソゲー、いわゆるソーシャルゲームの類の「人気。」というものも、要するにゲーム設計における抽象化された数値成績を他者と比較することによる気分的満足を促すことによって作り出されたものであり。ヒトの脳に本能的に組み込まれた競争本能を利用した、いわば優越感錯覚を与えるだけのものである。

 SQなども、結局は他人との成績比較によって、気分的な優越感や、或は焦燥感を煽ることによって。むしろ基準そのものの論理的検証性から意識を遠ざけるのである。

 ヒトという種の生物は、目先の実感を伴った「感覚。」こそが絶対的「現実。」であると錯覚する習性があるため。感覚的優位性、或は強迫観念を、論理的には根拠の有無に関係ない抽象化された数値を与えられることによって、その数値成績に論理的根拠が存在しないことには意識が働かなくなるようになるのである。

 こうした論理検証性が感情によって欠落してしまうことこそが、本質的知能を失う根源的原因である。振り込め詐欺に引っ掛かるのも、感情という大脳辺縁系の反射によって、論理検証性が失われてしまうのが原因である。

 いつまでも脳トレ類の利権に取り憑かれ、脳トレ類の無益さについて公表しないマスコミというは。いわば振り込め詐欺に加担しているのも同然である。

 これらの事柄について言及している脳科学、生物学者は極めて少数である。だが、科学的証明というものは多数決によって決定されるものではなく、あくまで論理的検証によって追求されなくてはならないものなのである。バカの多数決をどんなにたくさん抽出してきても、「バカの言っていることが正しい。」証明にはならない。

 厄介なことに、バカというのは自分がバカであることを認識できないからこそバカのままなのであり。どんなにバカであることを論じても馬耳東風なのでどうにもならない。




 生物学者達というのは、とにかく生物というものの優位性、或は機能の高度さを正当化したいだけであって。その感情の根源とは、単に「生物が好き。」という短絡的、且つ主観的好みだけが動機である。

 だからこそ「自然は素晴らしい。」といった形容や、或は「とても良くできている。」などといった程度問題による結論しか導き出すことができないのである。

 どんなに生物や自然界の「素晴らしさ。」を枚挙したところで、振り込め詐欺や残虐なゲリラの行動習性の正当化にも、或は原因究明や対策にもならない。

 そもそもが主観的形容の正当化でしかないのであれば、それは最初から自然科学の範疇には入らない。

 だから脳科学界は無能なのである。

 ヒトの脳の習性を利用して大衆迎合をしているだけであって、大衆の頭の悪さを認識させるという「ウケの悪い。」ことを避けている限り。本質的知能とは何か、或は振り込め詐欺への対処といったものへの研究もされることはない。

 大衆やマスコミ自身が、こうした脳科学界の手抜き、大衆迎合、詐欺行為について言及しなければ。脳科学者達は誰一人として自律的には自分達の行動や言動を脱構築するつもりは全くない。

 どんなにたくさんの大衆から気分的「人気。」を集めてきても、それによって具体的「成果。」になるわけでも何でもない。

 逆にいえば、100IPアクセス程度しかないこの記事を「少数派。」であるという理由だけで無視するというのは、科学的でもなければ、本質的「公平。」さにもならないのである。

 無思考な者の多数決によって得られる「人気。」や「話題。」しか取り上げないというのは、報道の在り方として極めて大衆迎合的で不適切であり。また「無意識的。」である。

 無思考な多数決というのは、結局誰にも目的意識が存在しないということであり。暴走を招く洗脳につながる危険性も充分含んでいる。それを漫然と放置するというのは報道としての社会的責任の放棄である。

 「誰の言っていることが正しいのか、わからない。」などと言うのであれば、それはもはや報道としての自律的判断力自体が欠落しているのであり。全くの無能を晒しているだけである。だから「辞めちまえ。」と言っているのである。学力や学歴だけしか持たないバカであれば、もはや日本には必要ないからのみならず、社会にとって有用な情報を隠蔽阻害していることになるのである。

 クソゲーだの脳トレだのSQだのといった、大衆迎合による金儲けばかりに邁進しておいて。社会的役割を放棄するというのは報道の在り方として間違っている。クソゲーがスポンサーとして「お得意様。」だからといって、無批判でも構わないというスタンスというのは極めて利己的判断である。決して許される行為ではない。

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アイデア。

2011年12月22日 01時27分18秒 | 日記
 どういうわけか、眠る時間を過ぎた辺りで新しいアイデアが出てくることが多い。

 深夜なので静かなのも関係しているのかも知れないが。眠りにつく直前の眠気というものが新しいアイデアと関係しているのかも知れない。

 複雑なアルゴリズムのバグについて取り組んでいても、やっぱり夜中眠りにつくとき、或は眠りについた直後にバグの在りかに気付いたりすることが少なくない。

 なので、どうしても夜型になりがち。困ったもんです。
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