書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○中身がない。

2014年09月28日 15時29分07秒 | 意識論関連
 昨日のツィートの中に、こんな趣旨の発言があったのだけど。

 「今の正義なんて50年もすれば簡単にひっくり返る。歴史はいままでずっとそうだった。」

 的内容だったんだけど。

 これって単に経験則とか多数則で「これからも同じ。」って予測しているだけで。実質的にどんな常識がひっくり返るのかは全く論じていないんだよね。

 なにやら偉そうに上から目線で予言しているけど、具体的には何にも言ってない。

 だけど、おいらも一日スルーしちゃってたんだけど、中身がないことに気付かず鵜呑みにしている人って多いんじゃないかな。

 文科系の人達って、具体的内容のない観念論で予言者ぶって満足している場合が結構あって。こうした一種の錯覚を用いることで思考停止に陥っている場合が非常に多い。

 「具体的内容のない観念」という意味においては、通り魔が「社会が悪い。」と言っているのと構造的には違いがなくて、そういった観念で思考を停止させて気分的に満足しているに過ぎない。

 こうした思考停止こそが主観を絶対化してしまい、結果的に傲慢の原因になる。 



Ende;
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○ハイレゾ その2。

2014年09月26日 14時11分39秒 | 日記
 最近になってハイレゾウォークマンを正当化する記事が目立つようになってきたんだけど、これは結構眉唾ものです。

 長岡技術科学大学と、電通サイエンスジャムがソニーから機材提供されて検証したっていう記事が出回っているんだけど、そもそもソニーが提供した機材という時点で科学的公平性に欠けている。

 しかも検証内容というのが、被験者の不安といった主観的感想の数値化に過ぎなくて、到底科学的証拠にはなっていない。

 一応脳活性を表す画像も載ってはいるんだけど、ハイパーソニックエフェクトがもたらす脳活性っていうのは、活性部位自体が違うのであって、こんな活性の「程度」問題ではハイパーソニックエフェクトの科学的立証にはならない。

 第一、一人の被験者の比較画像だけ載せられても、たまたま脳活性に違いが出た部分だけを抽出してきている可能性が全く拭えない。



 気分的に安心感があるかどうかっていう話も、元々SONYのオーディオ機器っていうのは数万円以上の機種とそれ以下の機種では音質がかなり違っていて、安い機種ではポップスとかロックを聴くのに適した「音作り」がなされていて、若干のトゲトゲしさがあり。高級機種ではクラシックなどを聴くのに適した「音作り」がされており、響きの滑らかさが出る傾向が見られ、これが被験者の気分に影響を与えた可能性も充分あるので、単なる被験者の気分だけではハイパーソニックエフェクトの効果なのかどうかもわからない。


ヘッドフォンだけでハイパーソニック効果があるとする記事。

pdf



耳だけではハイパーソニック効果はないとする記事。

 なんでも、骨伝導を用いることで普通の人でも超音波を「聴く」ことが可能なんだそうなので、こういった技術を応用してちゃんとハイパーソニックエフェクトが効く機材を開発するチャンスでもあるんだけどね。

 ヘッドフォンの場合はスピーカーよりも歪みが少ないことは立証されているんだけど、インナーイヤー形式で音質を出すことって本当は無理があるんじゃないかと思う。

 何万円もするインナーイヤー形式なんて、ヘッドフォンから較べたらハナクソみたいなもんだと思うけどね。





Ende;
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○書いてあることが違う。

2014年09月25日 00時47分18秒 | 日記
価格.comだとWindows8.1UpDateって書いてあるんだけど。



販売店のNTT-XだとWindows8 64bitって書いてある。



なんなん?

売る気ないんか?。

仕事なんだからちゃんとして。


Ende;
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○攻撃中毒。

2014年09月24日 09時17分59秒 | 意識論関連
 他人をクソ扱いすることで、あたかも自分や自分達のクソ度が紛らわせると思っている者にとっては。他人をクソ扱いし続けなければ自分や自分達のクソ度を認識してしまうことになるので、ある種強迫観念的に他人をクソ扱いしていなければならない中毒症状だと言える。

 これはイジメやヘイトスピーチを行う心理動機でもあり、特定個人や団体を「敵」と見なし悪く言うことで、あたかも自分や自分達が正当化されたような錯覚妄想を得るための暴走である。

 これの究極がイスラム国とかオウム真理教などの洗脳であろう。

 何せ、元が錯覚妄想に依るものであるため。そこには論理検証的に選択された目的意識というものが存在せず。行き当たり場当たり的に大脳辺縁系が満足するよう、行動バイアスに流されているだけだからだ。

 ヒトの多くは、多数派で同じ観念を共有しておけば、気分的に安心であるために。自分達が共有している観念の異常性に対する認識が出来なくなるように出来ている。これはヒトという種の生物における先天的欠陥ということでもある。

 イジメや差別を行っている者にとっては、それは気分が良いことであるために問題だという認識が全く働かない。むしろ取り憑かれたように暴走するのはそのためである。



 先日のテレビで見た内容に、33人の少年を殺害したジョン:ウェイン:ゲイシーという連続殺人犯の話があって。彼にとっての正義や善とは、「主観的に気分が良い。」ということだった。

 こうした話は連続幼女殺人の宮崎勤でも同様であった。

 主観的に気分が良くない話を「つまらない」と言い、自分の頭の悪さを棚上げにして「お前はバカだ。」などと規定する。これが狂人の論理である。

 イジメやヘイトスピーチを行っている者達にとっては、気分が悪いことを言う奴は「バカ」なのであり、「つまらない」奴なのである。逆に言えば、同調して気分が良くなる話さえしておけば「頭が良い」と勝手に錯覚し、「面白い」と称して満足するのである。

 言うなれば、キチガイにとって「頭が良い」という基準自体がむしろキチガイじみているのであり。キチガイ集団にとってはキチガイこそが天才扱いとなるのである。

 当たり前の話だが、キチガイには自己論理検証性など働く余地はない。自己論理検証性がないからキチガイという背理も成り立つ。




 ヒトの多くは、目先の気分感情を短絡的に「心」だと妄想しているが。その錯覚観念こそが人間としての「心」に対する認識というものを不具にしているのである。

 気分感情というものがどこから来るかと言えば、それは大脳辺縁系が促す行動バイアスであるが。大脳辺縁系の構造自体は自己の選択が介在する余地はなく。気分感情そのものは自由意思でも何でもない。

 自分の遺伝子を自分で選択することは原理的に不可能である以上、これは反論の余地はない。

 そして、脳に刷り込み学習されたあらゆる価値観の全ても。結局は自分では選択していない社会や時代といったものから影響された「結果」でしかなく。これもまた自分の意識的「選択」が介在する余地はない。

 ヒトの脳が有限である以上、完全な意識、完全な知能などというものが存在することはないが。逆に言えば、いくら大脳容積が大きくても、自己の意識(論理検証)的選択判断というものが介在しなければ、もはや他者と互換不能な個人としての価値も存在しないのである。

 自分の主観的感覚による、気分感情が絶対であると「思って」いる状態こそが、ヒトを傲慢にさせるのであり。何が主観的感覚で、何が客観的論理検証なのかを区別(選択)出来ないからこそ、自己の傲慢さを認識出来ないのである。



 イスラム国で暴れている連中も、秋葉原で暴れた通り魔も、「ヒトという種の生物」としては健康であったと言えるであろう。だが、当然ながら人間としては病気である。

 ヘイトスピーチで怒鳴り散らしている者達というのは、精神を病んでいるのである。その理由はいくらでも言えるであろう。連続殺人犯のジョン:ウェイン:ゲイシーもまた、幼少期における父親からの虐待が大きな要因であると言えるからだ。だが、要因ではあっても自律責任判断が放棄して良い「理由」根拠にはならない。



 厄介なのは、精神を病んでいる者自身には、病気としての自覚が全くないという点である。

 ヘイトスピーチに参加していても、「社会的」には生活に支障をきたさない以上。それは臨床的にも病気としては扱われることもない。心理臨床というのは、現在の社会において生活に支障がなければ病気としては扱われることはなく。どんなに非人道的な差別デモに参加していても治療の対象にはならない。

 こうした社会そのものが「正常」であると言えるだろうか。

 ヘイトスピーチに関しては、役所的には法的規制さえ作っておけば全てが解決したことになると思っているのであろうが。そもそも法的規制などの国家権力による抑圧がなければ、自律的には抑止出来ないという頭の悪さ自体は全く触れていないのである。



 精神を病んでいる者を治療するというのは、そんなに短期間に簡単に出来るものではないが。だからといって目先の抑圧だけで全てが解決したと思うのは錯覚や妄想の類に過ぎない。

 短期的には法的規制も必要であろうが。法的規制というのは対処療法であって根本治療にはなっていないのである。

 自律的に社会的責任判断を下さない者が多い社会というのは、負担の多い社会である。それでいいんですか?っつう話ですよ。





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 あと、「クラスみんなと仲良くしましょう。」っていうのが嫌。個人の好き嫌いもそれなりに尊重してもらってこそ、他人への想い遣りも働くのであって、強制的に仲良く振る舞えと言われても逆効果にしかならない。

 一人の人が許容出来る我慢というものには個体差もあろうが。容量に限界があることそのものには違いはない。仲の良い相手と、あんまり近付きたくない相手があることも許容してもらえないことには、我慢も許容しずらいものである。

 苦手なら苦手だと宣言してもらった方が、むしろ強制的に同じクラスに入れられた者同士としては平和に付き合えるのではないかと、私は思う。

 だから友人がクラス内に一人もいないとしても、それはそれなりに許容してもらわないと困る。クラス分け自体に生徒の選択が介在しない以上、「みんなと仲良く」を強要されるのは、反って平穏を乱す。

 私は一人でいることが気楽で、他人との関わりが苦手な傾向がある。苦手を強要されている方が精神衛生上よろしくない。それが平均的でないとか、多数派に属していないという理由で「異常」扱いされることの方が、むしろ異常だと思う。

 「多数で仲良くする」だけなら、ヘイトスピーチをしている集団でも充分である。そんな基準は人間としての正常さの基準には全くならない。

 大衆観念的に多数派が安心なだけの錯覚が作り出した妄想に過ぎない。そんなもん要らんわ。



Ende;
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○裏メニュー。

2014年09月22日 15時34分33秒 | 日記
 東芝AZ-05M(Android2.2)で、MouseComputerのサイトからマシンの詳細を見ようとしても、スクロール出来ないポップアップウインドウが出るだけで見れないんだけど。





 詳細ボタンを長押しすると出て来る裏メニューから「別ウインドウ」で開くと見れた。




仕様詳細

 東芝AZ-05Mなんつう変態端末限定Tipsだけど、一応載せておくね。

Ende;
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○他律の無効性。

2014年09月19日 18時44分58秒 | 意識論関連
 福島での原発事故のことを「天災だから、仕方ない。」なんて言うバカが時折いますけど。国会事故調査委員会の報告書では畑村洋太郎はハッキリと「人災」だと明言しているんですよ。それに加えて最も重要なことは「個人が自律的に社会的責任を負うことである。」とも言っている。

 東電社員達に自律がなかった一因として、「長いものには巻かれろ」的な服従迎合性が染み付いてしまっているからであり。その原因として親や教師から強制的に行動を抑圧されてきた「結果」だと言えるのです。

 ヒトは先天的に社会を形成する習性があります。これは集団多数で協調組織的に行動することで気分的に安心する本能があることを意味しますが、こうした本能習性を満たすためだけにヘイトスピーチだのイジメといった差別排除につながる原因でもあるのです。

 ヒトという種の生物には、多数派同調バイアスというものがあり。多数で同じ観念とか行動をしていれば気分的に満足するように脳が出来ているっていう「結果」に過ぎないのです。

 こうした先天的本能習性が促す行動バイアスの「結果」には何の保証もありません。だからこそ差別排除といった非人道的行動への暴走にもつながるわけです。

 危険な人間ピラミッド(人間性もないのに人間ピラミッドとは言いたくはないのですが、一般的にそう呼ばれているので、方便として使いますが。ヒトという種の生物だからといって短絡的にヒトのやることの全てを「人間」とするのも大嘘です。)がとまらないというのも、一種の暴走であり。暴走というのは誰か死者が出て、マスコミが大騒ぎするまで止まらないんですよ。下手すりゃそれでも止まらない。

 教師達は自分達の評価を得るために生徒に無理難題を強いているだけで、生徒自身に社会的自律判断能力をつけさせようなどとは一切考えが伴ってはいません。学力への異常執着も同様です。進学率という評価を得るためだけに学力競争を強いた結果、その学力成績が社会から評価を得られなかった場合には簡単に無差別殺人犯になったりすることは珍しいことではありません。

 学校にいる間なら教えられたことだけ出来れば数値評価されますけど、社会に出れば教えられていないことを自分で考えてやらなきゃいけないことの方が圧倒的に多いんです。だから学力が高いだけのキチガイっていうのが時折出てきますけど、これって教育として無責任極まりないことなんですよ。いわば無差別殺人犯を作り出しているようなものですからね。

 無差別殺人犯というのは、現象としては一角に過ぎません。ハインリッヒの法則に鑑みてみれば、その何百倍も危険な人物が存在しているからこその「結果」ですから。危険人物の「層の厚み」があるからこそ無差別殺人犯という極端な事象にまで発展しちゃうんです。



 日本人の「文化」として、「無理強いをしておけば強くなる。」という勝手な妄想がありますけど。無理強いをして強くなるなら、何で日本人は多数派迎合性が激しいんですか?。多数派に迎合して権威に服従することは「強い」ことなんですか?。

 それとも何ですか、モンスターペアレント的に怒鳴り散らすことが、人間として「強い」ことだとでも言うんですか?。バカげた観念に迎合しておいて「強い」もすったくれもないんですよ。

 ああ、腹立つ。



 学校教育っていうのは、これからの社会を築いてゆく人間を育てる場所であって、その場限りに学力成績だの曲芸のレベルを競う場所じゃないんですよ。

 今まで学校という場所が人間性を育んでこなかったからこそ、原発の危険性は放置され、危険ドラッグだのプラッチック拳銃だのに手を出すバカが増えるんです。

 無差別殺人犯とか原発の危険性放置というのは、自律のない者の一角に過ぎません。無差別殺人犯とか自律的に社会的責任を負わない者が無尽蔵にいるからこそ、何度も無差別殺人とか原発事故のような重大事象へと発展しちゃうんですよ。

 例えばオリンピックで凄い技を見て「感動」したからって、その「感動」だけを根拠に大人の都合で生徒に無謀な危険行為を強いて良い理由になんかならないんですよ。アスリート達っていうのは自分自身の選択に基づいて自己責任で危険な技に挑戦しているのであって、学校教育で危険行為を強いるのは本末転倒、言語道断というものです。

 それこそ、子供達自身が有志を募って部活としてやるとしても、教師は安全を最優先に無茶させないよう指導する立場でこそあれ、その逆のことをやってどうする。

 バカだろ。

 こういった事象というのも、ハインリッヒの法則から見れば氷山の一角でしょう。

 そもそも教師が生徒に無理強いをすることこそが教育だと思っているからこその芸当であって、教師の意識の低さを表す現象の一つに過ぎません。

 ヒトという種の生物は、先天的に権威に服従したり、多数派に迎合することこそが「素直」だという錯覚に陥る習性があります。しかし、これらの錯覚は権威への服従や多数派迎合に対する気分的安心満足からくる身勝手な妄想だということを認識する必要性があるのです。

 気分的安心満足というのは、脳の先天的思考バイアスであり、予め決まった行動習性を促されているに過ぎず。そもそも先天的な脳の行動バイアス自体には、自己の主体的選択が介在する余地がない以上、そんなものは自由意思でも目的でもないことを、ヒトの多くは何ら認識していないのが根本的に大間違いなんです。

 「オリンピックのアスリートすげーな、うちの学校でもやらせよう。」なんていう安易で短絡的動機で生徒に危険行為を強いるような教師しかいない現在の学校体制こそが問題なのであって。「人間ピラミッド」だけやめさせれば良いという話でもありません。

 規制とか制限で行動を縛るというのは、他律強制であって。そんなものに依存していなければ自律的には暴走が止められない頭の悪さの方をなんとかしなければならないのです。安倍首相が「規範意識でイジメをなくす。」なんて言ってママしたが、規範意識っていうのは他律強制であって、こんなものは表面的に見えなくなるだけで、根本治療にはつながらない。

 イスラム国で暴れている連中なんかも、目先の欲望が満たされることこそが自由だと思っているから、持続可能性も社会安全性もない活動で満足しているんですよ。あいつらにとっての「規範」なんて暴力だけでしょ。

 イスラム国みたいな暴力で社会は変わりません。暴力が支配する社会なんていうのは、むしろ中世の時代へと後退しているだけであって、何の進歩にもなってないでしょ。こういうことは学校で歴史書を丸暗記させても自分からは「理解」することは出来ないのが学力成績というものの数字トリックです。

 流暢にスラスラ丸暗記したことをしゃべっていれば、あたかも頭が良いかのように一般大衆は錯覚するでしょうけど、それは大衆迎合を目的とした一種のトリックに過ぎません。一般人の多くは言っている内容よりも、雰囲気とか自分勝手な気分だけで相手を評価する習性がありますけど、それこそが傲慢というものだということに誰も気付かないのは、もはや先天的病気のようなものだと言えるでしょう。

 一時期流行ったでしょ、「人は見た目が9割」っつう話。中身なんて見てないのがヒトなんですよ。

 ヒトは先天的疾患として、自分の危険性を認識しずらいものだということに基づいて、物事を判断する必要性があるのです。

 ヒトという種の生物は危険なんですよ。それは気分的な安心とか満足とは無関係なものだということを踏まえて「考え」なきゃいけないものなんです。

 「思い」の強さ、強度程度だけで行動が左右されていて、自由意思なんかありゃしないんです。

 振り込め詐欺に騙されるのも、要は気分感情が行動に直結しているから騙されるんですよ。パニックになると簡単にヒトは論理検証性を失う。感情の強度程度が行動選択と直結しているからこそ、暴力団の資金提供に応じちゃうことになる。詐欺にカモられることは、暴力団の片棒担いでいるのと一緒であって、ちいとも「良い人」なんかじゃないんですからね。

 だから「愚かなことは罪」なんですよ。神様から罰が与えられるからじゃありません、社会的に迷惑だからです。




Ende;
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○怒活。

2014年09月17日 12時59分07秒 | 意識論関連
 さっきTwitter上で「れに」さんと話してて思ったんだけど、イジメとかヘイトスピーチみたいな差別排除って、「涙活」健康法的な「怒活」健康法なんじゃないかと思えてきた。

 国会議事堂前で太鼓叩いて満足している人達なんかも、感情的に怒鳴り散らすことで気分的に満足しているだけだし。要するに何か「敵」を多数派で共有して怒鳴り散らしておくことで、本能としての暴力性を満足させているとしか思えない。

 DV男がパートナーに散々暴力を振るった後に、副交感神経が優位になって満足し、急に優しくなるのと同様。差別主義者っていうのも差別をすることで気分的に満足するっていう先天的行動バイアスに流されているだけなんじゃなかろうか。

 れにさんは「腹は立つんだけどさ。」って言ってたけど、腹が立つかどうかよりも、感情が行動に直結している状態が人間として異常なんだと思う。

 感情が行動や言動に直結しているヒトの場合、何せ先天的本能で行動しているので、その感情は非常に強い。理性というブレーキが外れているからね。

 ところが逆に感情が行動や言動に直結していない理性的な人程、感情を押し殺してしまう傾向があって。これが結果的に多数派の傍観者になってイジメとか差別の放置にもつながるんじゃなかろうか。

 疋田智も言ってたんだけど、日本人っていうのは強者がオラオラ状態に君臨しちゃって、弱者が何も言わなくなる傾向がある。

 これも、ある意味「感情が行動や言動に直結している」状態だとも言える。

 この部分がむしろ欧米の人達から見て異常だと思われているんじゃないかな。



 人間として間違った行動をしていても、ヒトという種の生物としては「健康」なことは珍しいことではなくて。イスラム国に参加している奴らとかも医学的とか生物学的には「健康」ではあるんでしょう。

 だから、学校とかのイジメも。生物学的には「正常」な行動ということになる。進化生物学的な「こじつけ」は何とでも言えるからね。

 ヒトという種の生物は、誰かの意識とか目的の産物ではないので。徹頭徹尾、本能欲望感情は意志でも目的でもない。

 にも関わらず、進化生物学はあらゆる先天的本能習性の全てに、何らかの目的を「こじつけ」ることしかしてこなかった。これこそがヒトという種の生物に対する科学的検証を阻害してきたのであって、徹底的に排除する必要性がある。

 なぜなら「こじつけ」は科学でも何でもないからね。科学ではないものを科学だって言い張るのはただの「嘘」だもの。



Ende;
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○主観的感覚は意識そのものではない。

2014年09月15日 11時44分23秒 | 意識論関連
 親教師が子供や生徒を服従させるためには、子供や生徒よりも親教師の方が圧倒的に優れているという観念を植え付ける方法論がある。

 これはアインシュタインが懸念した「無知で自分勝手な教師」の典型的手口である。

 人工的権威、威圧的な態度を用いて子供や生徒に服従を強要することで。子供や生徒達は自分自身の自律的判断というものを封じられ、「怖いからやらない。」という、感情を用いた条件反射的シーケンスによって行動抑制を強いられるようになる。

 「怖いから、やらない。」ということは、「怖くなければ何でもやる。」ということでもある。

 「生徒にナメられる。」などと称して、恐怖や威圧的態度によって生徒を服従させるというのは、生徒に対しての誠実さが欠けており。「自律した社会的責任判断能力を持った一人の人間」を育てるという、教師としての社会的責任を放棄した身勝手で無責任な行動である。

 厄介なのは、当人にその身勝手であるという認識がない場合が非常に多いということである。

 「怖い」かどうかで行動が決定してしまっているというのは、要はその場限りの「気分」によって行動が決定してしまっているということでもある。こうした気分感情と行動が直結している状態には、個人の自律というものが介在する余地がない。

 個人が自律的に社会的責任判断選択を行うためには、その場限りの気分感情に左右されることのない自発的思考というものが不可欠であるが。人工的権威や威圧的抑圧という短絡的服従の強要は、これを不具にしてしまうのである。



 イジメなどの差別排除における発生においても。イジメのターゲットとなる特定個人を蔑むことによって、自己が威圧的権威に服従していることに対する気分的事後正当化が可能となるため。ある意味、強迫観念的、心理拘束(ヒステリー)的に差別排除を「しなくてはならない」心理状態に陥れられているとも言えるのだ。

 そこに先天的本能習性としての順位欲が差別排除を加速させることにもなる。

 威圧的権威に対して無為に服従するのは、「怖い」からである。しかし、単に「怖い」から服従しているのであれば、服従している自己が憐れな服従者でしかなくなるため、これを「なかったこと」にするためには、権威服従性そのものに迎合しなければならない。

 権威が「上」で、服従する対象であり。同時に誰かは「下」で服従させる対象でなければならなくなるのである。そういうことにしておかないと、自分が無為に権威性に服従している事実を気分的に正当化出来なくなるからである。

 ヒトは、暴力的だったり威圧的な相手に対して逆らうことが面倒臭いため、比較的簡単に服従迎合する性質がある。

 チンパンジーが牙を剥き出して威圧しあうことで相手を服従させるのと同じように。威圧的態度で権威性を演出しておくことによって、気分的に逆らうことを諦めさせることは難しいことではない。

 形式的に「ヒト」らしい権威性の演出をしていたとしても、それは野蛮さの否定には全くならない。ナチズムがどんなにカッコイイ制服に身を包んでいたとしても、むしろそうした外見によって人格を妄想するヒトの無意識性こそが、最も野蛮さを助長するのである。

 権威性というのは科学的根拠はない。

 「科学的権威」という言い回しはあるが、本来科学というのは権威性に頼るようなものではなく。誰にでも平等に開かれたものであって、たとえノーベル賞だの文化功労賞を受賞していたとしても、論理的に常に正しいことしか言わないことの証明には一切ならず。誰でも論理的指摘はして良いし、また、しなくてはならないものでもある。

 ヒトという種の生物は、先天的に権威に服従することが安心である。

 気分的に安心な服従対象のことを「権威」と分類しているだけであって、盲目的に服従しておける「権威」に対して判断責任を依存することが可能だという妄想をアプリオリに抱いている。

 「先天的に安心」な対象が、どうして科学的に立証可能であろうか。そこに進化生物学の神が作り出した「目的」でも存在するとでも言うのであろうか。

 利根川進はノーベル賞を受賞したことがあるが、生物進化における「結果」と、意識的に選択された「目的」との区別も出来ない、いわば科学者としてはポンコツである。

 左側頭葉の一部に磁気刺激を与えると神を「感じる」ことがあるというが、そこに進化生物学的な「目的」のこじつけをすることも可能ではあるが、こじつけ以上の価値は一切存在しない。

 ヒトは哺乳類であるから、産まれてくれば、ほぼ無条件に親に服従するという習性が先天的に組み込まれていても不思議はない。その結果として親を超えた「スーパー親」として、神的存在を「感じる」としても何の不思議もない。

 それらの行動習性というのは、単に「生存に適した」という「結果」以上の何の説明も本来理論的には全く必要としないものである。



 ヒトの多くは権威に対して疑問を抱こうとはしない。権威の発言内容に対しては疑問を持ってはいけないものであるかのような錯覚があるからだ。

 こうした習性を利用すれば、アイヒマン実験のように他者に危害を加えさせるよう行動を誘導することも非常に簡単なのである。

 60年代安保闘争などというのも、要は特定の「敵」を集団協調的に攻撃することで満足していただけであって。本当は何の理念もすったくれも存在していなかったからこそ、時代の流れの中に簡単に消えていったのである。「あれは一体何だったのか。」という問い掛けが時折されるが、あれは単なる集団暴走、「暴動」に過ぎなかったのである。

 安保闘争に参加していたことを「政治活動」などと言い張るバカは今の政治家には多いのだが。それは事後正当化のための取り繕いに過ぎないことすら、当人達は気付いていないのであろう。

 バカという症状は非常に難治性が高いのである。



 ヒトという種の生物は、権威に対して盲目的に信頼信用していたいのだが。逆にその信頼信用に値しないとなった途端に、権威に対して暴力的に反逆をする。

 シツケを間違えたイヌが飼い主の手を噛むのと同様、服従対象として充分に気分的安心満足が得られない場合には、暴力による最終解決手段しか選ぶことが出来ないケースは非常に多い。「革命」という言葉に対する満足感、快楽というものや過剰な期待といったものは。ヒトの短絡性が生み出した妄想錯覚であって、快楽というものは論理検証性を必要としないばかりか、むしろ邪魔なものなのである。

 「リーダーシップ」などと称して、特定の誰かに先導してもらおうとする奴隷根性こそが、個人の自律的な行動選択を不具にしていることを、多くのヒトは認識していない。

 「リーダーシップ」という言葉に対する過剰な期待感というのは、要するにハリウッド映画や子供番組に登場する「ヒーロー」観と同じものであり。自分達個人が社会を支え、自ら構築してゆくという責任意識の欠如の現れでもある。



 イジメの話に戻すと、イジメをしても「怖くない」からやるのであって。そこに自律的責任判断とししての意志が働いていないからこそ、周囲の環境や状況に無意識に流される形でイジメは暴走するのである。

 規則や法手続き的に、「イジメをしたら過酷な懲罰が何年も課せられる。」ことにしておけば、イジメが露見するような場所でのイジメは減るであろう。なぜなら「怖い」からである。

 しかし、こうした懲罰というのは、懲罰を施行する権威の存在が不可欠であり。また、イジメが露見しないような場所、権威の目が届かない場所では懲罰による抑止というのは無効となる。

 平たく言えば、「見つからなければ怖くない。」からである。

 こうした「権威による懲罰」という暴力的抑圧というのは、むしろ個人から自律的な社会的責任意識を奪い。無責任に「法律さえ守っておけば良い。」とか、「見つからなければ良い。」といった、無責任なヒトを大量生産することに陥るのである。

 こうした権威依存性というのは、いわば社会的な「甘え」行動なのである。



 イジメが止められないというのは、要するに個人に自律的な責任意識がないからであり。「甘え」ているのである。

 イジメなどという行動は、精神年齢が低いからこそ発生するのであり。感情や気分が行動や言動と直結しているからこそ、モンスターペアレントも出てくるのである。



 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと思っている時点で、既にモンスター予備軍である。だからこそ振り込め詐欺に騙されている被害者達は頑なに振り込もうとヒステリーを起こすのである。



 自己存在とは、そもそも自らの意思選択に基づいて存在しているわけではなく。生物の本能習性の「結果」として存在しているに過ぎず。自己の内部にある様々な感情を統合的、且つ論理的に検証し、選択判断することでしか、本当の自己とは言うことが出来ないのである。

 何を主観的に「感じ」たかは本質的には意識そのものを論証しない。なぜなら残虐なゲリラやテロリスト達の主観においては、その残虐性は主観的には「感じ」ていないからである。

 単なる想像力の程度強度も同じことである。どんなにカルト暴力集団が身勝手な妄想をでっちあげても、そこに人間性や本質的な意識というものは介在しないからである。

 人類(文科系大衆観念的に)は今まで、主観的「感じ」こそが意識の本質だと錯覚してきた。

 「自意識」などと称して、「他人からの外見」を意識の本質だと錯覚しているのも、その主観的感覚の強度程度だけで判断していたからである。

 主観的な「感じ」というものには論理的保証がない。「怖い」かどうかで行動が決定しているからこそ、様々な無責任による「人災」が生じるのであって。自発的な客観的論理検証性というものが介在しなければ、本質的な人間性や自由意思も働くことはないのである。

 フロイトが提唱した「超自我」などというものも、単なる強迫観念的に刷り込み学習された行動バイアスに過ぎず。こうした気分的行動抑圧を自我の本質だと錯覚しているのは、他律こそが自分の行動を抑制するという「甘え」がもたらす妄想錯覚に他ならない。

 アウシュビッツ絶滅収容所の吏官達にとって、ユダヤ人殺害計画書の作成は「怖くない」ものであった。むしろナチス体制に迎合しないことの方が「怖い」からこそ、異常執着的にまで残虐行為を行ったのである。そこに超自我などというフロイトの妄想錯覚は何の価値もないことは明らかである。



 ヒトは目先の欲望を充たすことを自由だと錯覚しているが。そもそも欲望自体が自分の選択の介在していない脳の先天的構造から出てくる行動バイアスに過ぎないことを認識していないゆえの錯覚妄想に過ぎない。

 先天的行動バイアスに流されていて、一体何が「自由」だと言うのであろうか。

 先天的行動バイアスに流されていた方が、それは気分的には満足で安心であろうが。その安心満足こそが先天的行動バイアスそのものを作り出しているのであって、そりゃ当たり前の話である。

 その場限りの安心満足という「感覚」を、自由や意思だと勝手に妄想錯覚しているからこそ、子供はイジメをしていて自由だと錯覚しており、その錯覚ゆえに暴走を止めることが出来ないのである。



 主観的な感覚を自我や意識の本質だと錯覚している以上、イスラム国のメンバー達の感覚も自我や意識の本質だということになる。これは通り魔や銃乱射などの無差別殺人でも同様である。

 彼らには自己の感覚を疑うという、自己論理検証性というものが働いていない。

 ヒトという種の生物の主観的感覚は、ヒトの傾向性の論証にはなっても。人間性の論証には全くならない。このことを論理的に認識していないからこそ、バカが大量生産され続けることに陥るのである。

 ヒトという種の生物は、デフォルトでは人間ではない。ヒトという種の生物は全知全能の神の創造物のような完全なものではなく、単なる野生生物の淘汰の結果として偶発的に発生した獣の一種に過ぎないのである。このことを忘れて、その場限りの気分的感覚を意識だと錯覚しているというのは、あらゆるヒトの無責任を放置する無責任なのである。




 ヒトの多くは多数派に属しておけば気分的に安心満足であろうが、その気分自体が意識を阻害している無意識性であることにまでは意識が働いていない。

 論理的に間違っていないにも関わらず、単に少数派であるというだけで無視しておいて良いというバカげた観念こそが、ヒト(人類)の愚かさを助長するのである。






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NHK立花隆 臨死体験

2014年09月14日 22時25分55秒 | 意識論関連
 「文化的なことをするから人間だ。」などと利根川進が述べていたが、「ヒトという種の生物」に特異な行動を抽出しても、「ヒトという種の生物」の習性の論証にはなっても、自律的に社会的責任判断選択が可能な「人間」であることの論証には全くならない。

 生体として「生存」してさえいればヒトが人間として振る舞う保証はなく。生きたまま残虐なゲリラやテロリストになることも珍しいことではなく。生体として「生存」していること自体には社会的意味や価値などない。

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 「その人らしさを作り出す自我」が意識だと言うが、それなら虐待を無意識に連鎖する人にとって、虐待を連鎖していることこそが「その人らしさ」だとでも言うのであろうか。

 イスラム国で残虐行為を行っている人達にとって、その残虐性こそが「その人らしさを作り出す自我」であり、「意識」だとでも言うのであろうか。

 現在の脳科学界というのは、こうした最も基本的な「人間」としての意識について何の配慮もなく論じているオカルトに過ぎない。

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 ジュリオ:トノーニが提唱する統合情報理論では、情動バイアスが促す強度や程度でしか数理化されておらず。これは「ヒトという種の生物」における意識は立証できても、自律的に社会的責任判断選択可能性を持った「人間」としての意識の立証にはならない。

 ヒトの情動の複雑さ、カオス性をいくら論じても。それはイスラム国に参加しているテロリストの行動の複雑さ、カオス性を論じているに過ぎず。そんなものをいくら論じても糞の役にも立たない。

 立花隆が末期癌で死に至るまでの現象を知りたがっても、そんなものは立花の主観的感想に過ぎず。社会的にも科学的にも不毛極まりない。

 「神秘的」などというのは主観的感想であって、どんなに神秘的な感覚を感じても、それこそが妄想錯覚を促す原因に他ならない。

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 臨死体験を持つ人程、夢を見やすい傾向がある

 「なぜ、臨死体験のような感覚が生じるのか。」その理由などない。なぜなら感覚は「結果」に過ぎず、どんなに結果が奇妙で巧妙であろうとも、そこに「目的」が介在する余地は一切存在しないからだ。

 神秘体験で神からの啓示を受けたと錯覚し、虐殺をしたとしても「その個人の信念の問題」だと言えるのだろうか。それは科学者としてあまりに無責任である。

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 「ヒトはこういうものだ。」ということが決定論的に言えないことが「面白い」というのであれば。通り魔やテロリストが発生することも「面白い」などと言えるのであろうか。

 そんな無責任な話を鵜呑みにすることは出来ないし、してはいけない。

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 個人の人生そのものには、社会的には意味などない。個人の人生などというのは個人の主観的価値に過ぎず、社会的には何の意味も価値も存在し得ない。「死ぬことが、そんなに恐いことではないと感じるようになった。」などというのも、立花隆個人の主観であって、客観的事実とは無関係である。

 「心の平安」などと称して、個人の主観的感覚としての精神的平穏など、社会的には何の意味も価値もない。

 個人の主観的感想を科学に持ち込むからオカルトになるのである。それは妄想と現実の区別がつかないのと同じことである。


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○見れない。

2014年09月14日 11時32分07秒 | 日記
レノボのサイトがどうしても見れない。



価格.comのリンクからレノボのページをロードすると、途中までは表示されるんだけど、ロードが終わった途端にブラウザがホワイトアウトする。

ブラウザ自体は落ちてないので、ページのソースコードがブラウザに何かイタズラを仕掛けているらしいのだが。変なことになるもんです。

PCメーカー全般に言えることなんだけど、Webページに凝りたいあまりに最新のブラウザでないと見られないのでは、本当の買い換え需要は逃していることを忘れている。

買い換えをしようとしている人なら、古い変なPCから見る場合も多いはずなので、妙な仕掛けをせずに教科書通りのHTMLだけでページを作らないと機会損失にしかならんでしょ。

最新のPC持っていたら買い換えなんぞしないもの。そこんところもうちょっと考えて欲しいなぁ。




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○洗脳の構造。

2014年09月10日 15時14分11秒 | 意識論関連


 洗脳というと、あたかも誰かの謀略、陰謀に基づいて、用意周到に準備された行動だと多くの人は勘違いしているが。ナチズムにしても太平洋戦争時の日本政府にしても、オウム真理教にしても、本当は誰の意思や目的なんぞ働いていなくて。単に指導者のカリスマ性に心酔して組織的に暴走している状態が洗脳状態。

 洗脳状態では、支持者達は集団で指導者の正当性を共有し、指導者はそういう観念的で盲目な支持者からの支持を得ることばかりに専念し。結果的に何の目的もなく暴走破綻する。

 「社会が悪い。」と喚き散らすのは、とても簡単で。そんなことなら誰にでも言えることであり、オウム教祖麻原でも、通り魔にでも言える簡単なことである。

 具体的に社会の一体なにが間違っているのかを具体的、論理的に検証し、間違いが繰り返さないように再発防止対策を立てないことには意味がないのだが。多くの大衆は誰か特定の人物の陰謀だと決め付け観念的猜疑心だけで非難したり、誹謗中傷することを仲間内で共有して満足しようとする。

 ニーチェだのプラトンだの養老孟司だのを鵜呑みにしておいて、自分達の頭の悪さを認識していない時点で、他人を非難する資格はないのだが。「自分達だけは絶対に大丈夫。」という錯覚妄想を認識しないからこそ、根拠のない観念的猜疑心だけで誹謗中傷して満足してしまい。結果的に問題の論点がうやむやになるという無駄で不毛な事態に陥るのである。

 現在「哲学」として分類されている書籍のほとんどは、実際には論理的根拠とか論理整合性のない芸術「文学」でしかないのだが。読み手が気分的に満足安心することで、短絡的に「素晴らしい」などという主観的感想だけで盲目的に信用してしまうことで、オカルト観念が哲学扱いされてしまうのである。

 哲学というのは、本来論理的で科学的考えに基づいたものでなければならず。これを端折って「カッコイイ」だの「素晴らしい。」だの、実際には何の考えも出てきていないのに「考えさせられた。」だのと称して大衆人気だけで哲学だと勘違い分類されている書籍は大変多い。

 多分、他人を疑って誹謗中傷するのは気分的に満足が得られても。自分自身の異常性とか間違いを検証することは気分的に嫌なのが原因であろう。しかし、これは先天的構造という「結果」に過ぎない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」とか、「自分だけは先天的に善人。」だとでも思っておけば、さぞかし気分的に満足なんだろうけども。そうした先天的思考バイアスが自己論理検証性を喪失させる最大の原因。

 自分達の行動や思考が、常に絶対的に自分自身で制御出来ているという錯覚を、錯覚として認識していないから、トンチンカンな陰謀論という洗脳に陥る。

 オウム真理教においても、「日本政府、国家権力の陰謀だ。」なんていう話はしていた。




 本当は、社会の様々な問題の多くは陰謀的に特定の誰かが引き起こしているわけではなくて。大多数の大衆の無意識な行動の結果として暴走破綻に陥っているから問題がいつまでも解決しないのである。

 多数というのは力がある。その力の方向性を多くの場合個人が制御していないから莫大な力が暴走し、結果的に社会を逼迫させているのである。

 他人を観念的猜疑心で疑う前に、先ず自分自身が間違っていないかを検証する必要性がある。東大学長が新入生達に述べた「全てを疑え」とは、あくまで「自分自身も含めて論理検証的に洗い直してみよ。」という意味である。




 おそらく、副島ナントカっつうのも、一部の観念主義的支持者達のヒステリックな同調に乗っかって思想家面をしているだけであろう。

 だからこそ副島支持者は感情的でわけのわからぬコメントをしてくるのである。

 暴力というもの、怒り狂うことが脳に満足を与えることはわかっている。だからヒステリックに誹謗中傷しておけば気分が良いので、一種の誹謗中傷中毒に陥っているのであろう。こうなると誰か特定の個人団体を誹謗中傷していないと不安で仕方ないという枯渇状態に陥り、危険ドラッグ的に病みつきになってしまうのであろう。

 それを「洗脳」状態というのです。






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○無意識が促すもの。

2014年09月10日 11時56分57秒 | 意識論関連
 自転車が車道を走るとなぜ「恐い」のか。

 それは自転車のスレスレを無理矢理追い抜く自動車がいるからであって、それは自転車が車道を走るのが悪いのではなくて、「無理矢理追い抜く自動車の運転者」の脳が危険だからである。

 日本では、どういうわけか先の信号が赤だったり、先の交通が滞っていたりしても、車間距離を開けると後ろから「煽る」奴が時折いて。こういうキチガイに煽られるのを嫌うんだか何だか異常執着、強迫観念的に前の自動車に「詰め」ようとしてやたらと速度を上げたがる自動車運転者が結構多い。

 自転車に乗っていると、おいらを無理矢理追い越していった自動車を、赤信号やプチ渋滞で追い越すことが時折ある。

 バイクに乗ってるときに、やたらと煽ってくるバカが一体何を急いでいるのか知りたくて、何度か追跡したことがあって。やたらと煽って加速する奴はコンビニの駐車場に自動車を停めてクソゲーをやっていたり。あるいは路肩で漫画を読んでいる事例しか見たこたない。

 なので、本当は急ぐ用事なんてなくて、暇なのにやたらと急いでいたのだ。

 暇なんだけど、何かやたらと加速したがる。これは「急いでいる」のではなくて「慌てている」だけ。こういう奴が自転車が車道を走ることを邪魔扱いしている。

 時間は経済学的にはリソース(資源)ではある。しかし、クソゲーや漫画を読むために二酸化炭素を無駄に排出しながら他者に迷惑(社会的負荷)をかけてまで「有効活用」するのは身勝手極まりない。

 社会的責任を放棄していては、どんなに経済的に自立していても、社会的にはむしろ邪魔な存在なのである。



 先日、「合理性を追求し過ぎると時間的資源を無駄にするので、合理性は万能ではない」といった趣旨の記事をハフィントンポスト日本版で読んだのだが。こいつの言っている「時間的資源」とは、要は金目の問題であって。「金儲けをするのに合理性は邪魔だ。」などという主張は根源的に間違っている。

 金儲けという経済活動は、あくまで社会持続可能性や安全性といった「人間としての目的」を達成するための「手段」や「手法」のひとつに過ぎない。

 手段や手法が目的に対して「万能ではない。」などと言っていること自体が本末転倒で、非合理的な主張なのである。

 合理性の追求とは、社会の中において責任ある行動を採るために必要不可欠な人間性、倫理の問題であって。目先の欲望を叶えるための万能の魔法ではなく。個人が自分自身の行動を主体的に選択する「目的」意識の問題を論じているのである。

 時間という資源を、目先の利益(欲望)のためだけに使っていれば、正に「時間泥棒(ミヒャエル:エンデ)」に他ならない。

 経済学では特定の「顧客」や「利益」といった単純化したモノサシばかりを挙げて理論を展開するが、これは要するに単純化された話しか理解できないバカの論理に過ぎず、社会的責任といった統合的視点を欠いた論理展開しかしたがらない。

 基本的に経済学者達は単純な思考の大衆ウケ、大衆迎合のための利己的利益回収の話ばかりをしたがるが。これは経済学者としての本当の意味での社会的責任を全く無視した悪質な洗脳のようなものである。




 方便としては、ピーター:ドラッカー的に「社会的責任や顧客の本当の要望に応えなければ、企業は生き残れない。」と述べることも出来るが。ナチズムなどの暴力集団に反対して命を落とした賢者達というは数知れず、必ずしも社会的責任判断が個人の社会的成功や持続可能性を保証する根拠はない。

 社会を構成する個人の多数がバカで、自分達がどういった洗脳状態であるのかを認識していないからこそ、正しい選択が社会的に認められないという結果を招くのであり。手段と目的の区別がつかないようなバカしかいないからこそ、「正直者がバカを見る。」ことに陥るのである。

 正直に生きられないのであれば、多数が嘘つきになるのも必然である。

 ましてや、自分が常に正しいと思い込んでいるのであれば、これは暴走しか促さない。これは「人類の救済。」と全く同じ構造である。

 振り込め詐欺にカモられる被害者と同様、愚かさゆえに結果的に暴力団に資金提供をしてしまっているのであれば、これは社会的には加害者に加担しているのと同じである。

 振り込め詐欺でも基本的には騙す方が悪いのだが。経済学上のモノサシで人間性や倫理を語るような支離滅裂な話も詐欺や洗脳の一種に過ぎないことは認識すべきである。




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○備忘録。

2014年09月08日 15時40分26秒 | 日記
日本は平均すると、一人当たりで8kWhも使っていることになるんだね。

困ったことにおいらのAndroid2.2PCだと、メモリ不足で資源エネルギー庁のExcelファイルが開けない。平成22年度での電力における原発依存度は22%だけど、エネルギー全体から見た電力の割合が見つけられなかった。

数字は今のところわからないけれど、自動車に使われるエネルギーの方が電力よか圧倒的に多いんじゃないかと思う。

鉄道を見ていると、ラッシュ時以外はガラガラの電車がラッシュ時と全く同じ編成で走っているのは無駄が多いんじゃないかと思うのだけれど。編成をいちいち変える方が効率が悪いとか、そういった理由があってラッシュ時と同じ編成輛数で走るのかな。秒単位で正確な運行をするよか、電力消費を抑える工夫にもう少し配慮してもらった方が利用者には求められているんじゃないかな。鉄道っていうのは内部規律が厳しいだけに、頭が堅い可能性はある。

そういえば潮汐力発電とか波力発電では、様々な方法が試されているけれど、風力でもプロペラ以外の方法はあんまりないように思える。例えば、帆を立てて、風力の変化から電力を取り出すことって出来ないのかな。根本に油圧シリンダーを水平2方向につけておけば、いろんな方向から風が吹いても常に油圧シリンダーにエネルギーを加えられるんじゃないだろうか。

ぶっちゃけさせてもらうと、純粋な自然エネルギー推進派っていうのはそんなにいなくて、反原発派は少なからずが国会議事堂の前で太鼓叩いてお祭り騒ぎして満足している。それじゃ代替案には何も結びつかないんだけどな。

そもそも日本の家屋は断熱がショボくて、都営住宅の最上階の屋根が日中50℃以上に熱っせられて、夜中に冷房切ると最上階の室温が35℃を超えることもあるらしい。だったら屋根に防熱加工を施すとか、日没後に水で冷却するとか、何か手段があるんじゃないかと思う。

電力が止まると一番問題なのは病院で、電気が止まると命に直結する。

首都圏外郭放水路の中では真夏でも気温が14℃だとか。

核廃棄物を地層処分するっていう話なんだけど、複数のプレート境界の上に位置する日本では、何万年も安定した地層なんてありえないんじゃないかと思う。ガラスで固めておけば容器が破損しても漏れだしたりはしないんだろうけど、壊れたりしたら修復は異常に困難。次世代に対して物凄い負担を強いることになる。

ヨーロッパのどこだか忘れたけど、メルトダウンの際に燃料デブリを平たく延ばして冷却可能にする改造をしたんだそうだけど。そこまで安全対策をすると採算は採れないんだそうだ。

本当に隕石や航空機の衝突まで考慮に入れれば、原発の採算が採れないのは当たり前だろう。

原発だって稼動して採算がとれるようになるまでは莫大な資金が投入されたんだから、再生可能エネルギーにも投入しても良さそうな気もする。

そもそも国策として推進してきた原発なんだから、方針転換するなら電力会社を締め付けるような規制をするのではなくて、原発依存からどうやったら採算割れを防いで原発依存から脱却して再生可能エネルギーに転換出来るのかを提示しないといけないと思う。電力会社は攻撃するための「敵」ではなくて、金(エサ)目当てのシツケの悪い犬みたいなものだから、規制さえクリアできれば何がなんでも再稼働したがるのは必然だと思う。

再生可能エネルギーっていうと、やたらと太陽光発電が出て来るんだけど。フジフイルムが開発したっていうゼーベック発電フィルムを用いた発電システムの話は聞かないね。温度差だったら砂漠なら凄いんじゃないかと思う。日本国内には砂漠はないけど、発電所自体は日本資本でも良さそうな。


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○気付くことの重要性。

2014年09月06日 11時07分05秒 | 意識論関連
 教えられたことを「知っている。」ことと、教えられていないことを「思い付く」ことは、脳の機能としては全く異なるはずである。

 アインシュタインの相対性理論というのは、高校生程度の数学の知識があれば、誰でも理解することは可能だという。

 理解することは可能ということは、理解可能な誰が思い付いてもおかしくはないのである。

 しかし、現実には偏差値が高いだけの人の多くは、誰にも「教えられていないことは、何も思い付かない。」からこそ、発想力というものは珍しく、天才扱いの対象ともなる。

 学力偏差値と発想力との相関関係はなく、むしろ異常に偏差値や他者からの評価を求める者の場合には、評価が充分に得られなくなると突発的に無差別殺人に暴走する傾向が見られる。

 これは、いわば「与えられた課題」に対してとにかく「解答」を導き出さなければ満足出来ないという。行動学習的な強迫観念として、短絡的解答への異常執着が生じているのであろう。

 脳のデフォルトモードネットワークの発見では、被験者に「課題を与えた場合」に不活性が生ずるのだが。

 他者から「課題を与えた場合」にデフォルトモードネットワークの不活性が生ずるとしても。自己自身で「自発的に興味を持って課題に取り組んでいる場合」では、デフォルトモードネットワークの不活性は起きない、若しくは完全には不活性状態には陥らないのではないか。

 それによって「誰にも教えられていないこと。」に気付くことが可能になるのではないだろうか。

 他者から「課題」を与えられてしまうと、与えられた「課題」への解答にばかり意識が働いてしまい。それ以外の様々な「気付き」を喪失するのではないか。






 脳は課題を与えられていなくて「ぼんやり」していても、眠っているとか意識不明の昏睡状態ではない以上。何らかの気付きは働くはずである。

 逆に言えば、振り込め詐欺に騙されている状態や、暴動に加わっている状態では。感情的異常興奮によって、事実上「何も考えられなく。」なってしまっていると言える。

 そもそも、ヒトという種の生物は先天的に権威の命令に従って他者に危害を加える可能性を充分持った生物である。だからこそ振り込め詐欺というのは集団組織的な場合にのみ高度な詐欺能力を発揮するのであろう。

 彼らは詐欺集団における権威、指導者に服従することによって、安心して詐欺に加担することが可能になると考えられるのだ。

 おそらく、振り込め詐欺に加担していた者であっても。一人になって冷静に社会全体を見渡せば、「騙し合いが蔓延するような殺伐とした社会。」を望んではいないのではないだろうか。

 そんな社会で「配偶者を愛し、子供を育てよう。」とは思わないはずである。



 「好きなことを伸ばすよりも、先に苦手を克服しろ。」だとか、「自分よりも先に他人を大切にしろ。」といった、実際には誰も実行していないバカげた妄想観念が連鎖しているというのは。ある種の「嘘」である。

 ところがこうした妄想観念の連鎖状態というのは、無意識な条件反射であるため。騙している当人にも「嘘」の自覚はなく、当人的には強迫観念的に刷り込まれている一種の病気に過ぎない。

 洗脳というものの暴走性は、それが無意識であるが故の「結果」でしかなく。そこには統合的に判断選択された「目的」というものがない。

 オウム真理教教祖麻原の供述を見れば、それは明らかである。あれは何の考えも持っておらず、ただ多数の信者達が思い通りになることで目先の安心満足を追求していただけの「結果」である。

 集団組織の首謀者には、何らかの目的が常に存在するものであるという錯覚を抱きがちであり。また、責任意識のようなものが存在するのではないかとも思い込みがちであるが。独裁的組織というのは、独裁者自身も組織においては「組織を構成する多数」への迎合服従の結果であり。結局誰にも目的意識というものがない状態なのである。

 無意識だからこそ独裁というのは暴走するのである。

 独裁者は、とにかく組織を構成する多数の「盲目的信奉者」のご機嫌取りばかりを強迫観念的に求めているだけであり。そのご機嫌取りによって気分良く服従する「多数」による集団心理によって、組織の中から自己検証性というものを簡単に喪失してしまうのである。

 また、福島第一原発もそうだったのだが、意識を持って組織腐敗を察知した者から組織を去る(あるいは粛清される)ことによって。何の意識も持たない無意識な者だけに「淘汰」が働いてしまうのも、独裁の暴走を助長するのである。

 こうした構造は子供が行うイジメでも同様であり。歯止めが効かない。

 ハインリッヒの法則から考えれば、膨大な数の子供のイジメを放置した結果として、原発事故やカルト宗教の暴走へと発展したとも言えるのである。




 「誰にも教えられていないことに気付く。」ことというのは、必ずしも世間的に評価報酬が得られるという短絡的なものではない。

 「誰も気付いていないこと」である以上、少数派であり異端の謗(そし)りを受けるのは必然である。

 ノーベル賞受賞者達の多くがそうであるように。山中伸弥教授は「邪魔中」と陰で呼ばれたり、多数の他の研究者達から無能扱いされることは珍しいことではない。

 ヒトの多くは多数派意見に迎合することに安心満足する性質がある。しかし、それは「ハーメルンの笛吹」の例えにあるように、集団自滅への近道ともなりうるのである。





 とある小学生が、結果的にノーベル賞を受賞した山中教授に憧れて「遺伝生物学者になりたい。」と述べていたが。憧れの根拠となる「格好良さ」というのは、あくまで社会的に評価された後の話であって、誰も踏み込んだことのない少数派異端の道のりは、実際に何らかの成果が出るまでは誰も正当に評価してくれない茨の道、泥の道である。

 インスタントに数値評価が得られる偏差値競争や受験勉強等とは異なり、「誰も思い付かなかった新しい発見や発明」に辿りつくまでは評価どころか誹謗中傷しかされることはない。それでも諦めずに持続性を発揮するためには、本当の意味での自発性、主体性、純粋な好奇心による熱中が必要不可欠である。

 自発性は自律を促す。これは必然である。

 本質的には何ら自発性もないのに、他者からそそのかされる形で偏差値に執着させられた偏差値狂こそが、短絡的な「最終解答」へと簡単に暴走するのである。「やる気スイッチ」的に他人から意欲をそそのかせば、簡単インスタントに学力成績が上がるかも知れないが、それは極めて社会的に無責任な行為であることを認識すべきである。

 とにかく早急に解答を導き出して、何らかの評価や結果が得られないと不安で仕方ないという強迫観念が働くことで、ヒトは重大な誤りを簡単に見失うようになるのである。




 大衆の多くは「リーダーシップ」などと称して、指導者を求めたがるが。これは大衆が自分達自身で自律的に社会を支えるという意識が足りていない証拠であり。特定の誰かに判断責任をなすりつけて安心満足したい心理の現れである。

 こうした個人の自律意識の欠如こそが、独裁や暴走といったものを導く最も無責任な社会的「甘え」に他ならない。

 若者も含めた他人に判断責任をなすりつけようとするくせに、他者に感情的な命令ばかりを要求するというのは。どう考えても精神を病んでいるとしか言いようがないのだが。臨床心理医療においては、「現在の社会においては社会生活に支障がない。」ので病気としては扱われない。

 だから論理的根拠の全くない精神論に異常執着していても、「言論の自由」などと称して病人扱いされないのである。

 努力辛抱根性的精神論、「頑張る」だの「他人より勝つ」といった行為を強制されることで、若者の心は荒廃し、自律的な社会的責任判断能力を簡単に喪失するのである。

 精神論を強要されて育った者にとっては、精神論こそが安心で満足であろう。

 司法刑罰さえ与えておけば犯罪が抑止出来るという統計的に何の根拠もない妄想も、それが「いままでずっと、そうだった。」という慣習が促す気分的安心満足が放置を促すのである。

 「慣れている」ことは安心である。薬物中毒が促す行動バイアスと同様、慣れてしまえばヒトは残虐なことも簡単に出来るようになるのである。

 危険かどうかの判断というのは、論理的判断によって導き出されるものであって。気分感情の強度程度によって導かれるような先天的なヒトの本能習性によって自動的に下されるものではないのである。




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○社会的責任。

2014年09月05日 10時20分11秒 | 意識論関連
 文科系大衆観念者というのは、自分のご機嫌取りをしてくれる相手に人間性を「感じ」てしまいがちだが。これは極めて主観的な錯覚に過ぎない。

 オウム真理教信者達が教祖麻原に「感じ」た人間性も、論理的根拠が全くない無責任な盲目性の結果に過ぎない。

 ニーチェの人気などというのも、要するに「読んだ者が気分的に満足した。」という話に過ぎず。何一つニーチェの人間性を立証出来ていない。

 ニーチェを読んで「カッコイイ」だの「心が震える」などという主観的感想を述べたところで、気分的満足以上の何も論じていないにも関わらず。主観的満足を人間性と勝手に錯覚して「深遠な思想だ。」などと言い出すのはバカ特有のトンチンカンな妄想に過ぎない。

 ニーチェの言っていることには論理整合性がなく、その場限りに読者の気分的満足を与えているだけに過ぎないのだが。こうした錯覚を自覚せずに、カルト宗教を批判する権利はない。

 バカであることにおいて基本的に違いがないからだ。

 芸術やスポーツなどの「文化」的なものであれば、主観的気分感情の満足を論ずるのは勝手だが。科学や哲学といった領域で個人的主観を基準に判断するのは、人間として社会的に無責任極まりない。

 人間性というものの本質は、その場限りに話を丸めて多数のご機嫌取りをすることではなく。社会的責任判断を自律的に行えるかどうかであり。

 無責任に個人的な主観的観念感想に基づいて人間性を錯覚していたのでは他人を評価する資格すらないのである。



 物理工学系研究者は、文科系哲学者達の無責任にもっと言及すべきである。「専門外だから。」などと無責任に放置しておいて良いレベルの話ではない。



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