書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○。

2014年01月07日 18時53分58秒 | 意識論関連
○心とは何か。

 ヒトの多くはアプリオリに気分感情の全てを短絡的に「心」だと形容し、また鵜呑みにしているが。これは論理的根拠のない錯覚妄想に過ぎない。

 心とは何かを論じようとすると、進化生物学や脳科学は「合理性というのは利益追求のような側面がある。」などと称して「利益追求とは短絡的に合理性追求である」という話に持ち込もうとする。しかし、これは嘘である。

 利益追求というのは欲望という気分感情バイアスの追求であって、欲望主体の行動であり、欲望が合理性を支配している状態である。主体が欲望で、欲望を満たすための合理性というのは、合理性自体の追求ではなく、あくまで欲望の追求であり。利己的欲望を追求することで社会全体の利益に意識が働かず、自己が存在する社会全体への配慮を喪失する原因こそが、気分感情本能欲望なのである。

 統合的視点、社会全体への配慮を促すのは、自律的論理整合性である。

 その場限りの気分感情本能欲望というのは、決して統合的で論理整合性を持つものではなく。むしろ統合性や論理整合性、責任行動判断というものを破壊する動物的な機械条件反射行動を促すものである。

 合理性や論理整合性を主体に、本能欲望を制御出来てこその「自律的な社会的責任判断能力を持った人間」なのであって。人間としての「心」とは、生物の本能習性という「結果」から抽出出来るようなものでは構造原理的にない。

 にも関わらず、現在の進化生物学や脳科学界というのは、何がなんでも先天的本能習性によって人間性を論証しようとするが。どんなに都合の良い立証結果を陳列枚挙しても、ヒトという種の生物が先天的に持つ危険性や無責任性の反証には全くならない。

 シエラレオネの少年ゲリラを鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込め、彼等が一体どのような行動結果を採れば、既に行われた残虐行為の反証になるというのであろうか。

 実証不可能性が論理的に証明されているにも関わらず、松沢哲郎は「先天的な本能習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという支離滅裂で無責任な仮説を立て、バカげたことに大衆マスコミ多数が鵜呑みにしているという結果を論拠に文化功労賞まで受賞しているのである。

 松沢は後に、チンパンジーは利己的利益にならないと知れば利他的行動を採らなくなることを「正直」に認めているが。最初から論理的に立証不可能が証明されていることを認めるような断片的「正直」さや、断片的「誠実さ」というのは、松沢の統合性や論理整合性、責任判断能力の論証には全くならない。

 こうした断片的「誠実さ」や「正直」さというのは、食肉偽装を指示した食品加工会社社長が、法廷という衆人環視下で見せた「誠実さ」と同じものであり。こうした断片的で表面的「誠実さ」こそが論理整合性や責任判断性を証明しているのであって、むしろ松沢の無責任性を立証していると言えるのである。

 大衆マスコミの多くは、先天的本能習性から人間としての社会性が立証出来れば何かの役に立つと思っているらしいが。断片的に利他的行動を抽出枚挙しても、ヒトという種の生物が常に絶対に安全で正しい行動しか採らないことの論証にはならず。単に、自分という生物種が事後正当化されたような錯覚に陥って満足し、思考停止バイアスによってバカに陥っているだけである。

 人間としての「心」とは、何が論理的に正しいのかを分別出来る「了見」によって機能するものであって。その場限りの環境依存的な気分感情本能欲望の強度程度で決定されるような短絡的で安易なものではない。

 原発の危険性を放置したのは合理性ではなく、自分が所属する組織の利益を優先することによって、自分の地位既得権を求めた保身感情の「結果」である。

 ヒトは誰一人として自分の意志選択でこの世に産まれてきた者はいない。

 自分の遺伝子を自分では選択不可能である以上、自分の先天的本能習性、欲望気分や固定観念の全ては自分自身で選択しておらず、これらが促す行動や思考のバイアスの全ては本質的には自己でもなければ意識的な目的選択でもない。

 大脳辺縁系の構造も、大脳辺縁系が促す行動や思考のバイアスの全ても、それだけでは構造原理的に自己の意識的「目的」行動選択とは言えないのである。

 こうした論理的証明を、「気分が悪いから。」といって、それが短絡的に「理論的に正しくない」とか、理性というものへの観念的拒絶反応によって無視したり、或は論理的根拠のない観念を用いて反証したような気分に陥っても。これらは全て大脳辺縁系が促すバイアスの「結果」に過ぎない。

 「屁理屈」というのは、論理的根拠がないから「屁理屈」なのであって。その場限りの気分的安心満足を得るためにでっちあげた根拠のない理屈を「屁理屈」と言うのである。

 哲学というのは、その場限りの流行や、多数大衆のご機嫌取りのためにあるのではなく。普遍的に何が正しい認識であるのかを追求する学問であって。感覚的「感じ」などの主観的感想の陳列によって多数人気を得ることではない。

 科学や哲学というのは多数決ではない。論理的に正しいかどうかで決定されるものであって。流行や人気によって判断されるべきものではない。

 ヒトの多くは、自分の頭の悪さを認識させられれば自分の気分が悪いので、「心が荒む」などと称して意識から外そうとする。気分が悪くなると悪いことをしたくなるから、自分の気分さえ安心満足させておけば「心」があると勝手に妄想する。

 集団心理に由来する傍観放置というのは、その場限りに自分の気分が悪くならないように行動「学習」することによって促されるバイアスであり。迫害差別の傍観放置もインフラの危険性放置も、あらゆる「人災」は「その場限りの自分の気分。」を優先した「結果」である。

 「気分が良ければ心だ。」などと、多数のヒトは漫然と錯覚している。それは気分感情本能習性が促す無意識な行動バイアスに対して、主体的「意志」を持たない無意識なヒトの錯覚に過ぎない。

 事故が起こる前の東京電力社内において、原発の危険性を訴え続けることは決して「気分の良いもの。」ではなかった。恐らく今でもさして変わらないであろう。

 スペースシャトルチャレンジャー号の危険性が放置されたのも、打ち上げ延期による損害責任が取れないことが、危険性放置へのバイアス(強度程度)が、合理性追求より上回った「結果」である。

 こうした危険性放置というものを、短絡的に技術者の倫理だけに押し付けておけば、全ての問題は解決すると、あらゆる「人災」は回避可能であると、大衆の多くは錯覚しているのかも知れないが。形の上では民主主義制度という多数決による決定を優先するこの国においては、間違った認識をしているバカの多数決は「バカ主義制度」にしか陥らない。

 ヒトの多くは自分の主観的感覚を、短絡的に「意識」だと錯覚しているが。自己客観性を持たない主観は無意識なバイアスに過ぎず。統合的視点を持った論理整合性とは、自己客観性によって作り出されるものであり、主観こそが客観性を破壊するのである。

 感覚的主観とは、気分感情本能習性が促す大脳辺縁系の反射的「結果」であって。そこに人間としての「目的」など存在しない。進化生物学の神というのは、「結果」に対する事後正当化に過ぎず、どんなに大量の「結果」を陳列枚挙しても、そこから論理的な「目的」行動選択や「意識」を抽出することは構造原理的に不可能である。

 ヒトの多くは自分の意識の全ては常に自分自身で制御出来ているものであると錯覚し、その錯覚によって安心満足することで「自分には心がある。」などと妄想する。こうした妄想こそがヒトを傲慢にするのである。

 自分の内部に存在する論理整合性の欠落を無視し、「なかったこと」として意識から外し、気分的に安心満足しておけば、それ以上何も必要性を「感じ」ることはない。ヒトの大脳辺縁系というのは、そういう風に出来ている。それは誰のせいでもなく、ヒトという種の生物の「結果」であって。意識的な「目的」行動選択可能性というのは、こうした先天的「結果」に流されることなく純粋に真理を追求する合理性によって促されるものである。

 合理性の追求というものも、ある種の先天的本能であるとは言えるが。合理性を追求するようになるためには、自分の気分感情本能習性というものを客観的に冷静に判別し、何が「考え」で何が「思い込み」なのかを区別出来なくては発揮されることはない。

 ヒトという種の生物でありさえすれば、こうした合理性が常に追求されるわけではなく。あくまで本質的主体性、自発性によって育まれた自律的「考え」によって促されるものであって、ヒトの多くは現状において機能していない。

 だからといって、短絡的に「民主主義制度自体が間違っている。」などという帰結も間違いである。権威であれば短絡的に常に正しい判断が出来るという統計的証明も全く存在しないからである。

 権威か多数決かが問題なのではなく、多数がバカなのが問題なのであって、バカが認定した権威ならバカ権威にしかならず、結局は同じことである。

 バカか否かを分ける基準とは、短絡的に学力偏差値だの世間的成功度合いなどではない。知能の本質とは、環境から与えられる「脳への報酬」に依存せず、主体的に判断出来る自律的「考え」によって働くものであって。学力成績やクイズの正解率、知識の「量」などで決定するようなものではない。

 本質的な知能とは、教えていないことに気付く能力であり。これは個人の主体的「考え」が働かなければ発揮されることはなく、学力偏差値だのIQなどで判断出来るものではない。

 高学力な無差別殺人犯の存在というのは、学力成績という抽象化された「環境から与えられる脳への報酬」に対する特定能力の獲得「結果」であって。どんなに学力偏差値が高くても自分の行動を自律的に制御することは出来ないのである。

 学力偏差値というのは、個人の自律的な社会的責任判断能力や本質的知能を証明するものではなく、あくまで特定能力の証明にしかならない。

 林修などの学力受験ビジネス関係者達にとっては、学力こそが知能の本質として扱われなければ自分達の既得権を脅かされ兼ねないので、あらゆるはぐらかしや取り繕いを用いて学力成績を正当化しようとするであろう。彼等は現状世間から与えられる「脳への報酬」が欲しいのであって、社会全体の安全性や持続可能性などどうでも良いのである。


 ◇

 「心の話が、どうして知能の話になるのかわからない。」と「思った」ヒトがいるかも知れないが。知能が働かないことには論理整合性も成立せず、同時に責任判断も成立することはない。責任判断が伴わないヒトに「心」が機能する訳がない。

 むしろ「心の話が、どうして知能の話になるのかわからない。」などと「思って」いるだけで、その関連性への「考え」が自発的に働いていない時点で、脳が機能不全に陥っているからこそ、何も「考え」ずに「わからない。」のである。

 自分自身で関連性を認識出来ないというのは、書いてあることをただ漫然と鵜呑みにしているだけであって、考えの全てを一切の欠損なく記述しなければマトモに動作しないコンピュータと同じで。何がバグなのかすら自発的には認識出来ないバカであることの証明である。

 自分の頭の悪さを指摘されたことに腹を立て、自分の主観的気分で「心がない。」などと「思う」の大間違いである。バカをバカと指摘するのは、論理客観性であって。何で主観的気分が悪いことが短絡的に相手の「心」がないことの論証になるというのであろうか。

 バカというのは、自分の頭の悪さを認識していないので、自分の主観的「感じ」や思い込みに対して自律的な論理検証性が全く働くことがなく。漫然と気分だけで他人を評価判定しようとするのである。

 自分の気分感情こそが、意識の全てだと「思って」いる相手に対し、論理的説明は意味を為さない。

 「自分だけは絶対に大丈夫だと、そう思っておかなきゃ、気分的にやってられない。」などという「思い」の強度程度だけで判断していれば、そこに主体的意志も目的行動選択可能性も介在しない。

 自発的「考え」が働かないというのは、一種の自閉症である。自閉症というのはスペクトルであって、自閉症状が全く存在しないヒトなど有り得ず。何らかの自閉症状はあらゆるヒトに存在する。

 主体的選択というものをさせてもらえず、幼児のように服従すること以外を許されたことのないヒトというのは。自発的に物事を判断するという「考え」自体が欠落している。それはある種のトラウマによる心理拘束(ヒステリー)が原因であり、こうした心理拘束に対する治療で最も効果的なのは自己検証である。認知行動療法というのは、あくまで患者に対して質問を繰り返すだけであって、「どうして、そう思うのか。」を考えるのは患者自身である。

 自発的考えによる「正しい認識」が出来ないのは、自発的考え自体に対する恐怖心を植え付けられてしまった結果であり。こうした自発的思考恐怖症状というのは、親や多数他人から強制的に「学習」させられるという、連鎖性に起因するものである。

 自分自身で考え判断することが嫌いなヒトは、他人にも自分自身で考え判断することを拒絶することに陥る。その方が気分的整合性、観念的整合性が得られるために、強迫観念的に他人に対して自発的判断を拒絶し、代わりに多数派や権威への迎合を求めるようになる。

 観念を「閉じる」ためには、論理整合性は「開か」なくてはならない。だからこそ理論的合理性に対して異常なまでに拒絶反応を示すため、理論的根拠もなく「屁理屈」だと拒絶するのである。

 論理整合性を「閉じる」と、既存の自己を否定することになり、気分が悪くなるので、気分が良くなるためには論理整合性を「屁理屈」と称して無視しなくてはならなくなるからである。

 結局の所、ヒトの多くは目先の自分の気分を優先し、社会全体への配慮など後回しにするのである。

 それなら何の有効な「考え」も出て来ない、認識出来ないのは当たり前である。

 バカの振りして「わからない。」だの「難しい問題を考えさせられる。」などと述べておけば、あたかも謙虚であるかのように多くのヒトは錯覚するであろうが。実際には「論理的立証など、わかりたくない。」だけであり、「気分的に悩んだことを、あたかも考えたかのように錯覚している。」だけであり、これこそが傲慢であることに、多くのヒトは気付いていない。

 具体的には何の考えも成立しておらず、何も検証判断しておらず、ただ「わからない」「難しい」と述べているだけなら、これはただのバカに過ぎない。

 「はなから興味がない」というのであれば、それもまた自発性の一種であるから、それなりに尊重する必要があるだろうが。「他に仕事がなかったから。」だとかいう消極的理由で興味もないことに口を挟まざるを得ないからこそ、無責任なバカが責任職に就いてしまっているのである。

 「他に仕事がなかった。」などという消極的で主体性のない選択しか出来ないのであれば、一体何のための「文明」であろう。誰も主体性を発揮出来ず、漫然と現状世間に迎合するだけの社会は、一体誰のために存在するというのであろう。

 主体性のないヒトには自律はない。だから無責任なのである。

 社会に無責任が蔓延するのは、そこに自律的判断を下す「人間」が存在していない「結果」である。

 「結果」に流されるだけで、一切抗うことをしないのも、そこに「意志」が働いていないからである。

 「意志」も「目的」も働いていないのであれば、社会が破綻暴走に至るのも必然的「結果」である。社会の危険性を誰もが傍観放置していれば、何が起きてもおかしくはない。何かが起きてから特定責任者などの個人を集団で弾劾しておけば気分的には満足であろうが、その満足こそがヒト全般の異常性を認識出来なくなる大きな要因である。

 「絆」などと称して、少年ゲリラや振り込め詐欺師集団内部でも働く「馴れ合い」を主張しておけば、全てが解決するかのように錯覚するのも簡単である。

 簡単なことは気分が良い。何も考えなくても済むからだ。

 自分というヒトの危険性や異常性を無視して、その場限りに気分が良くなる話に同調することに意識を奪われているからこそ、意識狭窄に陥るのである。




 ◇

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」 宮澤賢治 農民芸術概論綱要(1926年)より抜粋

 こうした人間としての「心」とは、先天的本能習性だけで説明出来るものではなく、深い考えや広い配慮によって導き出されるものであって。それは短絡的には論理で説明出来るものではないが、人間としての理性によって促される「考え」である。

 「利他的行動結果を抽出したから人間性だ。」だとか、「想像力があるから人間かも知れない。」だとか、「魚が条件反射的行動学習したから、心を立証した。」などという支離滅裂な話を科学論証であるかのように言い張ることは、科学者としての社会的責任を完全に放棄した詐欺はぐらかしであり、はぐらかされている多数のマスコミや大衆も同罪である。

 宮澤賢治が述べた「個人の幸福」とは、その場限りの気分的快楽の強度程度を指すのではなく。「人間としての心」に根差した統合的視点における幸福論である。










Ende;
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