市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

2012年5月どくんごテント劇「太陽がいっぱい」 あなたを「いっぱい」にするもの

2012-05-16 | 演劇
5月12日(土)都城市神柱神社境内のテント劇団どくんご公演を観た。実行委員を黒テント公演(1986年)以来ともにやってきた盟友「しのぶちゃん」のバンで宮崎市から走ってきた。夕暮れの境内にテントは、電飾がすでに点灯して輝きを発していた。どくんごが、毎年、全国巡演をやれるようになって、4年目を迎えた。その間、芝居小屋としてのテントは祭礼の夜店、その夢、華やぎ、暖かさ、子どもの夢、冒険、欲望、自由を見事に放射する美的空間として洗練されてきていた。芝居が開幕する前に すでにまわりには芝居が始まっているように思えるのであった。

 今年の芝居「太陽がいっぱい」の役者は、五月うか、どいの、の他は2B、内田裕子、サンチョJr、たかはしようこが客員出演である。どいの(劇団代表)もここ10年以上演出をしていて役者を演じたことはなかったんで、かれも客演だともいえる。ステージのバックとなる垂れ幕には、港町やカフェ、花畑などが描かれ、絵本のように次々にめくられていく。物語は、背景に沿っているようで、そうでもなく、背景は音楽のように流れるにまかされているようにも、思えたが、それも正確ではないかもしれない。なにしろ年のせいか、台詞が聴きとれなくなったので・・・。役者は、その背景に出ては引っ込みを繰り返し、絶叫の台詞で身を捩じらせ、終幕へと速いテンポで進行していく。これまでの役者の華をみせるようなモノローグの見せ場はほとんどなくて、集団の演技がダンスのように会場にとどけられていた。初めはやや違和感を覚えたのであったが、やはりそこにはこれまでとの連続している芯が見えてくるのであった。

 その芯とは、テントである。そう、テント公演という形態である。芸術劇場とか、美術館とか、市民ホールやアートセンターという「ダイ・ハード」(大・ハードウエア)での公演ではないという形態ともいえる。20年以上もかれらの上演をひきうけてきたのも、テント劇に、ぼく自信もこだっわってきたし、かれらもテント芝居上演にこだわってきたのだ。テント芝居とは、ぼくにとって皮膚のようになじんだモノであり、違和感がないので、これがなんなのか論じてみることもなかった。ただ、今回、ふと、テントが、連続しており、今日も、かららとぼくを繋ぐものであったと、あらためて感じさせられてテントを意識してしまったのであった。テント公演とはいったいなんなのであろう。


 「テント」公演とは、なによりも意義申し立てオブジェクションである。これがます最初の根拠である。ダイ・ハードのなかで、ジャンクフードなみのありきたりの弁当やテレビの排出物を拾ってきたような地方ダイ・ハード公演をゲイジュツとかブンカとして大衆をたぶらかす税金浪費行動へのオブジェクションであると、ますは言ってもいいかもしれない。元々テント芝居は、60年代から70年初期の、唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント、その他さまざまの大小のテント劇団は、ダイ・ハードそのものを生む体制そのものの否定として、続けらていった。だが、70年代までにほとんどが消えていった。それは体制否定が、実効力を失ったからである。否定すべく体制のほうがより人間の欲望を満足させる安定的な保証、個人の欲望のかぎりなき保障に応じていったからである。血みどろの内ゲバまでをかかえた体制否定の運動は意味を喪失していかざるを得なかった。60年代から70年代初期にかけアングラといわれたテント芝居は、もはやノスタルジーのカウンターカルチャーでしかなくなった。そのなかでどくんごは、誕生したのである。1984年から1987年にかけてテントや野外で公演をつづけ1987年より全国テント旅公演をスタートさせた。

 この時代、1985年、日本は国民一人当たりのGDPがアメリカを抜いて世界一位になる。世界最大の債権国、金持ちとなり、一人一人のデザイア(欲望)は、果てしなく未来永劫に満たされると希望に溢れかえった。その源泉こそ金であり、大企業も主婦まで財テクが、なにより幸福への正道として精励した。まさにジャパンアズナンバーワンの豊かな時代であった。体制否定というイデオロギーなどとは無縁、国民の欲望は、思想、モノを超え、金こそ真実なりという時代であった。この時代背景で、テントはたしかに常識否定でありおどろくべき非日常へのこだわりとみられたことだろう。それは体制否定というよりも、わが道を行くの宣言であった。この80年末、金の狂奔したバブル経済は崩壊、やがて、2000年代には、「いくら働いても報われない時代」、国民の4人に1人が、生活保護水準になるとは、だれも想像もできなったろう。その意味でテント芝居は、2000年代を予兆する先駆性もあったといえる。だが、そのライフスタイルは、当初からじつに柔らかく、なめらかといえるほど、日常ともみごとにつながっている。これがどくんごが、示してきた基本的特色である。なぜ、常識と非常識、日常と非日常が、つながっているのか、これをひゆを使って説明してみよう。

 ブルーシートで出来たホームレス人の家もテントである。建築家の坂口恭平は、東京都内に棲息する無数のそれらを0円ハウス0円生活として密着取材し、写真に収め、内部を建築設計家の目で図にして、ホームレスは理想の家をもっているとまで、憧憬のまなざしで本「TOKYO 0円ハウス0円生活」(2008年発行)にまとめている。この0円とあるように、欲望の充足を金に依存せずに実現している生活を賞賛するのである。つづけて翌年2009年、坂口は「TOKYO一坪遺産」で、一坪という極小空間で営まれる多種多様の建築物を探って報告している。たとえば一坪の売店宝くじ売り場などに視点をあてながら大都市における極小空間の機能性や、完全性の可能性をあきらかにしていく。

 この空間へ惹かれる坂口の原点は、かれの語るところによると、3人兄弟にあたえられていた子ども部屋で、自分だけの空間を作った実験からきている。そのとき、かれは机に毛布をかぶせて、机の下にできた空間にもぐりこみ、イスを机がわりにし、スタンドを置いて勉強部屋に変えることに成功したのであった。その快適さが、かれを歓喜させた。大きなモノは要らない、まわりは自分の手足のようにコントロールできると実感を語っている。この回想を読んだとき、ただちにぼくが思ったことは、この机の下を利用したミニハウスは、住居という建物が確固として建っているから出来た現実ではないかということであった。道路脇に、毛布をかぶせた机の勉強部屋は出来ない。おなじようにブルーシートハウスを住居とするには、巨大都市の空間があるからこそできることである。宮崎市街ではそんなことは不可能である。

 さて、この比ゆは、テントは体制を利用してこそ建てられるということである。体制に変わる未来の姿ではないのである。テント劇は新しい体制を、資本主義体制に代わる未来体制を示唆するものでもないし、そのような体制への探検でもないのだ。かってのテント運動の体制否定の未来志向とは関係のなことである。では住宅を利用して、別空間を作ったこども部屋や、ホームレス住居と大都市の関係は、寄生関係なのか。テント劇団もホームレスも体制内寄生虫なのか、利用しているという点では、寄生であるが、家や東京から栄養を奪い取って、寄生主を弱らせる機能などありえない。あえて言うなら共棲である。その共棲によって、ヤドカリはなにを生み出すのか・・・?ここで、もう一例のミニハウスを挙げてみよう。先月、ぼくは数年ぶりで、綾の川野幸三氏に会った。かれもまた、ここ数年、どくんご上演実行委員長をやっていたのだ。かれの工場を移転して作業場と展示商店を作ったという写真が興味があり訪問したのだ。そのとき、かれがいま一番製品として興味をもっているという作品を見せたいというのであった。

 それがミニハウスだった。木工創作家であるかれの作品は木材で人一人の座れる広さで座れば頭がとどくほどの天井高である。障子の開き戸があり、小机が備えられている。かれは、自分の部屋が欲しいなら、わざわざ増築するより、この箱の隠れ家でいいというのであった。木を通してはいる空気で気分が落ち着き、集中力も高まるという。これはキッドにしてだれでもかんたんに組み立てられるようにするのだというのだった。かれは建築家坂口の本については知らなかった。だが、ミニハウスの省エネ性、非日常の空間、身体に適合した空間の無駄のなさなどで、同じ体験を述べている。住宅や部屋という居住空間への常識をこえた提案、日常から非日常への移行の効率を語るのである。それは日常の否定ではなく、日常が別のものに変わる驚きと発見なのである。

 共棲によるテント劇場が、生み出すものは、まさに日常への見方の転換である。あるいはテントによって裁断された非日常的な空間の快楽である。開幕でサンチョJrがこのお芝居は、映画「太陽がいっぱい」とは何の関係もありません!(爆笑)「宴会で歌いおどりだと思ってみていだだけたら」と口上を述べたが、宴会の日本人社会ではなくて、なんどもいってきたようにサバトか、ワルキブスの夜に匹敵できるようだ。つまり表にたいしての裏の快楽を感じさせるようになっている。つまりこの日常では満足できない、歓びの空間であるのだ。ゆえにそれはオブジェクションであるのだが、体制の変革ではなく、個人の変革である。なによりもそれは、快楽を保障する、つまり欲望を担保するものが「金」への依存でないことを、かれらの実態として爆発させていることである。金へのエネルギーでなく金否定のエネルギーがテントに充満し、テントそのものもダイハードと比して、それを象徴しているのである。その意味で、魔女的であり、誘惑的であり、魅惑の夜となる。しかし、この一夜こそひと時ではあるが、人生をリセットしてしまう。

 欲望・資本主義は、金への果てしない欲望であり、それは世界の隅々まで、一定のライフスタイル、生産様式、都市構造と画一化に歯止めが利かなくなっている。どこもかしこも同じ風景である。同じ明るさ、同じ匂い、同じ色、同じライフスタイル、同じ判断と行動に取り込まれている。変わったものに意識は向かない。意識はテレビで示されたものにしか向かない、貧困も格差もこれによって救われるという虚妄の時代がなおつづく。テントはその時代に一つのアナを空けてみせるともいえよう。それがテントの意味である。
 


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1 コメント

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2013年のどくんご宮崎公演は? (矢野)
2013-08-21 15:59:35
今年の宮崎公演を期待しています。
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