Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

シアターコクーン『桜姫 歌舞伎ver. 』 A席中二階MR

2009年07月25日 | 歌舞伎
シアターコクーン『桜姫 歌舞伎ver. 』 A席中二階MR

全体としては面白く拝見しました。南北作品の場当たり的な猥雑さや闇の描き方が好きだし、そこに作品の力があると思う。今回、現代劇ver.と歌舞伎ver.を続けて拝見し、芝居としての好みは戯曲と演出と役者がバランスよくかみ合っていた、という部分で現代劇ver.でした。ですが『桜姫東文章』という歌舞伎そのものが好きなので歌舞伎ver.も楽しかったです。でも、今のところ歌舞伎のほうは古典的な演出のものが好きです。

今回、串田和美氏の演出の歌舞伎はやっぱり個人的に合わないかも…と思いました。テンポの良い演出はとても良いと思うんですが小さくこじんまりとした演出が相変わらずあまり好みじゃなかった…。『桜姫 現代劇ver.』の時はこじんまりとした演出はあったものの空間の使い方が良かったのでアリという感じだったのだけど歌舞伎となるともう少し大きく演出してほしいんですよね。あとなぜに西洋音楽が使うのだろう。クラシック音楽自体は私は好きです。でもこの芝居では聴きたくないかな。南北作品に似合わない。クラシック音楽でもノイズを含む現代音楽だったり、そういうのだったらまだ似合ったかもしれないとは思うけど…。まあ音の使い方に関してはほんとに好みになってしまうので…。

それとラストの演出が…。いらない、あの光の玉、いらない。魂の救済なんていらない!!!桜姫はすべてを飲み込むべきだと思う。子を殺さない、という演出はありかと思うけど、そこで魂が浄化される、みたいな演出をされると正直興ざめ。桜姫の「無」はすべてを飲み込む「闇」であったほうが南北らしいと思う。2005年コクーン歌舞伎『桜姫』では桜姫は子を殺したが物狂いになった。子殺しの罪の重さを救済したいのはわかるけど、でも「重さ」をそのまま提示するほうが哀れさが出ると思うのは私だけだろうか。

一応、現代劇ver.とリンクはさせていましたね。清玄と権助が兄弟という部分で表裏一体、というを強調したのは現代版の解釈からの流れで演出していたと思う。それが機能的に働いてたかは少々疑問だったけど。歌舞伎ver.では「兄弟」という部分を表現できるんだから、どうせならもっと強調してもよかったかもしれない。それ以外は見世物小屋や台詞の部分を同じにしたりくらいの擽り程度なリンクなので現代劇ver.を観てなくて単体で観ても大丈夫な作りになっていた。いわゆる小ネタ的部分(係員が飛び出すところなど)は、あえてやらなくてもいいような。効果的とは思えなかった。

桜姫@七之助くん姫、想像以上に似合っててとっても良かった。一生懸命やっています、って感じなんだけど、そのこなれてなさが桜姫にピッタリで。あくまでも姫の心根の失わない透明感のある桜姫でした。うん、この桜姫は良いわ。思い入れのある玉三郎さんの桜姫と比べないで観られた。玉三郎さんなぞりの桜姫だと思うけど、持ち味がまったく違ってて、とっても良かったです。玉三郎さんは姫のなかに確固たる意思があるけど七之助くんの場合は幼い無垢さを感じさせる。私はどちらも好き。『桜姫』の印象が変わることに面白さを感じました。七之助くんの桜姫は身を持ち崩しても品を失わず、婀娜っぽさのなかに幼さが残る硬質さを失わない。時分の華な部分でのよさ、ということもあるけど、桜姫は今後待ち役にできるんじゃないかな。いつもよりふっくらして可愛くなったと聞いていたけど、ちょっと痩せたみたいで若干頬がこけてました。前半のほうは1ケ月お休みして稽古していたので少しお肉が付いていたのかも。女形は頬がある程度ふっくらしてるほうが可愛くみえるんですよね。

清玄@勘三郎さん、やっぱり若干お疲れ?最近、どうもお疲れ?と思うことが多い。だけど先月の権助より今月の清玄のほうが断然よかった。あくまでも端正に演じて、位取りの高さも出てたし。ただ、もう少し精神性の部分で透明感が欲しかったかなあ。でも岩淵庵室のでの桜姫に迫るいわゆる古典歌舞伎演出の場での勘三郎さんは本当にさすが。間と表情がお見事。グッと前に出て存在感がパアッと光る。勘三郎さんのよさって、こういう部分なんだよなあ。ガチガチの丸本ものでの勘三郎さんが観たい。

権助@橋之助さんは小悪党部分の腰の軽さ、ずるさみたいなのはすごく良かったんだけど悪の色気と凄みが足りないなあ。色気はあるんだけど、悪の、ではなく良い男の色気なんですよね、なぜか。福助さん桜姫の時にも思ったんだけど、どうしても人がよさそうな部分が前に出すぎてしまう。その時よりは今回、権助一役のみだけに存在感はあったと思うし台詞廻しも悪くはないんだけどもう一味、何か欲しいなあ。

亀蔵さんの悪五郎がきっちりしていて、役割も明快で良し。弥十郎さんの残月も俗ぽさを飄々と演じてて楽しい。扇雀さんの長浦はキャラ造詣は好きなんだけど個人的にはやりすぎ感が…。


2 コメント

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結局、私も見に行きました (yokobotti)
2009-07-31 00:07:14
確かに、あの光の玉は要らないです。桜姫には、救済はいらないと思います。
風鈴お姫と呼ばれるまでに墜ち、人まで殺めた桜姫、(原作では我が子まで手に掛けた桜姫)は、実に歌舞伎にしかできない強引な荒技で、再び姫の地位に戻り、流浪を終え、新生するのですけれど、それは、救済されるのとは違うのだと思います。
桜姫の「無」はすべてを飲み込む「闇」……その『闇』は、そのまま、投げ出しておいていいと思います。
私は、幕切れの七之助さんの透明な視線に打たれました。強烈などんでん返しを経ての新生の末に、それでも生き抜いていく桜姫の姿に、女性への讃歌を読み取りました。でも、それは、救済とは違うと思います。救済など求めない、もっと太い、強いものだと思うのです。桜姫自身が、救済は求めていないと思うのです。

なかなか見応えのある舞台だったと、思います。

今更のレス… (雪樹)
2009-09-18 11:28:30
yokobotti様
ごめんなさ~い!!!なぜかコメントを読み逃してしまっていました…申し訳ございません。かなり今更感がありますがご返信。

桜姫に救済はいらない、に同意していただいて、そしてコメントを拝見して心強く思いました。そうなんです、「桜姫」は単純なキャラクターじゃないと思うんですよね。どこまでも深く、そして強い魂を抱く、「女」だと思うのです。私も桜姫は救済なんて求めてないと思います。そのままで輝く、そういう「女」でないといけないと思います。

色々考える、という部分でコクーン歌舞伎の試みはやはり面白いです。古典歌舞伎としての見応えの部分と精神性を表層する芝居との乖離の部分も含め。