フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

アラン『幸福論』(4)

2012年01月11日 | Weblog
 [注釈]
 
 * et que toute l'amerture de la vie...: que は、直前の quand の反復を避けるために使われる接続詞です。
 * ses propres malheurs : 後の例示を考えると「不調」ぐらいでしょうか。
 * mais non s'en trouver bien : se trouver bien d'un poison つまり、なんらかの毒によって身体の具合が良くなることを言っています。

 [試訳]
 
 子どもたちに幸せでいられる術をしっかり教えないといけないのではないだろうか。といっても不幸が襲って来たときに幸せでいられる術ではない。それはストア学派にお任せしょう。そうではなく、状況はそう酷くなくても、生き辛さがちょっとした苦労や不安になる時があるが、そんな時でも幸せでいられる術のことだ。
 第一に必要なルールは、けっして人に自分の不調を - 今の不調でも、かってのものでも - 話さないことだろう。人に頭痛や吐き気や胸焼けや腹痛を語ることは、たとえ言葉を慎重に選んでであっても、はしたないことであると考えるべきだろう。自分が受けた不正や幻滅についても同様である。子どもたちや、若い人、大人でもそうだが、あまりにおろそかにされているように思えることを言っておかなければならないようだ。それは、自分の身を嘆くことは他人を悲しませることにしかならない、つまり、人々に居心地の悪い思いをさせるだけだ、ということだ。たとえ人が何でも話して下さいと言ってくれていても、喜んで慰めの言葉をかけてくれていても、それは変わることがない。なぜなら、悲しみは毒のようなものだからだ。毒を好むことはあるだろう。でもそれで健やかになれることはない。結局正しいのは、もっとも深いところにある心持ちだ。私たち一人ひとりは、生きようとしているのであって、死を求めているわけではない。生きようと努めている人を求めいるのだ。幸せだと言い、それを身をもって表している人の声に私は耳を傾けようとする。ひとり一人が、灰になってしまったものを悔やんで見せるのではなく、火に進んで薪をくべるのなら、私たちの社会はどんなにすばらしいものになるだろうか。
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 前回アランに対する苦手意識のことをお話ししましたが、前意識あたりで「どこかで間違っているよ」とこっそり声がかかっていたのかもしれません。
 Mozeさん、的確なご指摘ありがとうございました。仰る通りで、l'on suit la maladie...の on は、病人に寄り添っている人のことで、以下の3つのon も、看護に当たっていた人のことです。注釈と試訳を訂正しておきました。
 アラン『幸福論』は、たしか、まだ少年の頃に白井健三郎、宗左近の翻訳本を求めたことがあります。押し入れをひっかき回せば、あるいはダンボール箱の中から出て来るかもしれません。一番新しそうな、神谷幹夫訳の岩波文庫は持っていません。もし同書を参考になさって、ぼくの解釈がおかしければ、また遠慮なくご指摘いただければありがたいです。
 それから、「絆」についての論考ですが、意を得たりとはこのことでしょうか。斎藤氏とまったく同じ思いを込めて、昨年末つたないフランス語を添えてLe Monde の記事をみなさんに紹介したのでした。Mozeさん、励みになる記事の紹介本当にありがとうございました。毎日新聞に載った論考は以下で読むことができます。
 http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20111211ddm002070091000c.html
 同論考に思いを強くして、@hiokiでツィートもしました。
 忘れていましたが、2009年10月7日にこんなツィートをしていました。
「斎藤環の『関係する女 所有する男』を読み、今学生たちに紹介しています。精神分析的な思考に、若い人たちに触れてほしい。自分たちのこころが、いかに不自由かを自覚して、オトナになるきっかけとしてほしいと願っています。」
 以前この教室でも同書を紹介したような気もします…。
 さて、次回は、少し長くなりますが、jamais de mourir. までこの章を読み切ってしまいましょう。試訳は1/25(水)にお目にかけます。
 最後になりましたが、どうかみなさん、今年もよろしくお願いいたします。
 Shuhei
p.s. ついさきほど、こんな記事も見かけました。
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120110/225980/?rt=nocnt

3 コメント

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L'art d'etre heureux 2 (misayo)
2012-01-20 09:48:49
こんにちは、みさよです。正月休みに先生お勧めの「切り取れ、あの祈る手を」を興味深く読みました。ムハンマドの章は今まで知らなかったことばかりで、世界が広がりました。ありがとうございます。

 これらの規則は、礼儀正しい社会の規則であること注目しよう。人は自由に話せないとうんざりするのは本当だ。我々ブルジョワは仲間内で、必要ならまったく率直な表現をすることができた。それは良いことだ。しかしながら、それは各人が大勢の人に自分の惨めさを示す理由とはならない。それはよりいっそう陰気な厄介ごとにしかならないであろう。そして、それこそが家族の枠を越えて交際を広げる理由になる。なぜなら家族の枠のなかでは、しばしばあまりの孤独さゆえ、またあまりの信頼のゆえに、人は気に入られるかどうかといういささかの配慮もなしに、小さなことに不平を言ってしまうことがある。権力者の周辺で陰謀をたくらむという楽しみは、多分うんざりする話になるだろうさまざまな小さな不幸を、必要にかられて忘れられることから来ているのだろう。よく言われるように、陰謀家は自らに苦痛を与える。そしてその苦痛が、画家や音楽家の苦痛のように喜びに変わる。しかし陰謀家は語る機会も時もまったくないすべての小さな苦痛からまず解放されるのだ。原理はこうである。もし君が自分の苦痛を話さないのなら、私は君の小さな苦痛を聞いてあげよう。君はもう長々と考えずにすむだろう。
  幸せになるコツのなかで、悪天候の良い利用法について私は役に立つ助言をできるだろう。私が書いている今、雨が降っている。災難が告げられる。幾千という小川がやかましく流れる。空気がろ過されたように薄くなる。厚い雲が壮麗なぼろ着のように見える。この美しさを理解しなければならない。しかし、ある人は、雨は収穫を損なうという。他の人は、ぬかるみはすべてを汚す。そして三人目は、草の中に腰掛けるのはどんなにか気持ち良いだろうと言う。分かった、なるほどそうかもしれないが、君の不平は何も取り除かないし、私は家の中まで追いかけてくる不平の雨でぐっしょりだ。確かに季節は雨季だが、人は喜びの顔を望んでいる。だからこそ、悪天候の時には、良い表情をだ。
Unknown (midori)
2012-01-24 18:54:14
こんにちは。
autour des puissances のpuissances が何かわかりませんでした。それから、l’ntrigantが何かもよくわかりませんでした。
アランの文章の中には一文のあとetがよく使われますが、日本語には文脈の中でどのように訳せばいいのか悩みます。それから、societeをどう訳したらいいのかも自信がありませんでした。

こうしたルールは礼儀を重んじる社会のルールであったことに注目いただきたい。自由に話すことができず、その社会で人々が退屈していたことは確かだ。有産階級は社会での会話に、必要なすべての率直な物言いを取り戻させることができた。そして、それは非常によいことだ。しかし、自分のつらいことを誰もがあらゆる場に持ち込めるという理由にはならない。ますます陰気で嫌なこととなるだけだろう。そして、それは家族を超えて社会を広げるべき理由だ。なぜなら、身内の集まりでは、あまりに打ち解け、信頼し合っていることが多く、もし気に入られようと少しでも心を配るのであれば考えもしないであろう些細なことについて不平を漏らすようなことになる。影響力を持つものに関して考え込ませる喜びは、おそらくその時忘れられていることに原因がある。すなわち、人々は多くの軽い不調についての話にはうんざりさせられるであろうということを忘れている。よく言うように、策士は懸命になり、その骨折りが喜びへと変わる。音楽家や画家の苦労のように。しかし、策士は第一にすべての小さな苦しみから解放されていて、そのことを語る機会も時間もまったくない。ここでの原則とはすなわち、あなたが他でもなく、あなたの小さな苦しみについて話さなければ、それほど時がたたないうちにあなたはそのことを考えなくなる、ということだ。
私が考える幸福でいる方法において、悪天候のよい扱い方について役立つ助言を付け加えようと思う。この文章を書いている今、雨が降っている。瓦は鳴り響き、たくさんの小さな細い流れがおしゃべりをしている。空気は洗われ、ろ過されたかのようだ。厚い雲は使い古した衣類のようで雄大だ。このような素晴らしい点を理解することを学ぶ必要がある。しかし、「雨が収穫を台無しにする」という人がいる。また、こう言う人もいる。「泥で何もかも汚れてしまう。」それから、「こんなときに草の上に座るのはさぞ気持ちがいいだろうね」という人もいる。なるほど。そんなことはわかりきっている。あなたがたの不平で何が変わろうか。ただ、私は家の中にまでつきまとう不平の雨にあうのだ。つまり、雨のときこそ、明るい顔を見たいということだ。したがって、天気の悪いときには、明るい顔を。
Leçon250 (Moze)
2012-01-24 23:29:42
こんにちは。そんなに昔ではないのですが、アランを今は亡き恩師と読んでいた頃は幸せだったなと思い起こしています。アランはあまりにフランス人的な意志の人という印象です。寒波がやってきました。どうぞみなさん風邪などめされませんように。
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 これらのルールは、上流社会のものであったことに注目しよう。自由に話せないので退屈するのは当然だ。我々一般市民は、社交の言葉に、あるべき率直な話し方をすっかり取り戻すことができた。それはとてもよいことだ。しかしだからといって、それはみなが、自分の辛いことを山と持ち出してもいいという理由にはならない。それではより陰気な憂鬱になってしまうだろう。だからそれは、家族の枠をこえて交際を広げるための根拠にもなる。というのも、家族内では、あながちあまりに気を許しすぎて、また頼りすぎて、好かれようという気持ちが少しでもあれば、思いつきもしないであろう些細なことにでも愚痴をこぼしてしまうからだ。権力者に対して陰謀をたくらむ楽しみは、おそらく、必要から、話せば退屈な数えきれない小さな苦痛を忘れることによる。陰謀家は、言われているように、苦痛を与えられる。だがこの苦痛は、音楽家や画家の苦痛のように喜びに転じる。しかし、陰謀家は、話す機会も時間も全然ないすべての小さな苦痛から、一番に開放される。原則は陰謀家だ。君が自分の苦痛について話さなければ、些細な苦しみだと私は思うが、君は長く思い煩うこともないだろう。

 この幸福になる方法については、考えるに、悪い天気のよい使い方についての役に立つ教えを同様に私は勧める。私が書いている時にも、雨が降っている。屋根瓦が音を立てている。無数の雨水の流れがおしゃべりをする。空気が洗われて、ろ過されたようだ。厚い雲は、壮大な布きれに似ている。この美しさを逃さないことを学ばなければならない。しかしある人は、雨は収穫物を台無しにすると言う。またある人は、泥が何もかもを汚すと言う。さらに別の人は、草むらに座るのはとても気持ちが良いと言う。その通りだ。それはわかっている。その人たちの嘆きは、何も取り除くことはできない。さらに私は、家の中にまで付きまとう嘆きの雨に濡れるのだ。そう、晴れ晴れとした顔が見たいのは、とりわけ雨の時だ。だから、天気の悪い時には元気な顔で。

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