フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

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アニーズ・コルツについて(5) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年07月27日 | 外国語学習

[注釈]

 *la camisole de force qu'elle leur impose.: Mozeさんの訳文を読んで気づかされましたが、ここのelleは凡庸なmétaphorisation と考えられそうです。

 *Elle qui <<découpe les mots...à l'image de la terre>>つまり、découper à l'image de…と読めます。

 

[試訳]

 アニーズ・コルツは影を纏い、謎を仕掛ける女性詩人である。また、叫びをもたらし、「宇宙をひび割れされた」詩人である。それは彼女の詩の力だ。その詩は、思いがけないメタファーの力で、あたかも内部で駆動するモーターのように、イメージを振動させ、ひっくり返し、メタファーが課す拘禁服の彼方にイメージを投げ放つ。見ての通り、アニーズ・コルツの詩は短い。念入りに彫琢された、ほとんど俳句のよう。まるでアフォリスムのようだ。一語一語が大切で、沈黙がうわべだけのものを飲み込んでしまっている。形容詞は追放され、修飾も必要としない。言葉はいわば原石でなければならない。かき集められ、世界に向かって放たれる。そうしてのみ、世界における存在が再構築される。

 けれども、結局のところ、アニーズ・コルツのあらゆる作品の主要テーマは、詩そのものではないだろうか。ひとつ一つの詩句が詩法となる。詩人は「大地に倣って/言葉を裁ち/血というパンを成す」死に膝を屈するように、アニーズ・コルツは言葉に従っているのだ。

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 misayoさん、midoriさん、ウィルさん、そしてMozeさん、最後の訳文ありがとうございました。

 今さらこんなことを書いて叱られそうですが、これが最後のテキストとしてふさわしかったかどうか…。行き当たりばったりのテキスト選びを反省しています。毎回、毎晩の献立を考える主夫(主婦)のように、あれこれ考えを巡らせるのですが、是非これはみなさんと読んでみたいというものが思いつくこともあれば、今回のようにテキスト間の連なりに安易にまかせてしまうこともあります。

 Mozeさんがcompterしてくださったところによると339回。12年ということなのですね。あと一回で340回だという中途半端加減も、ぼくにふさわしい気さえします。本当に長い間おつきあいいただき、ありがとうございました。十二年の間には、こんな凡庸な人間にもあれこれありましたが、この「教室」の運営を通して、みなさんに文字通り支えてもらった歳月でした。

 もしみなさんに外国語を読むことの豊かさをわずかでもこの場で味わっていただけたのなら、これに勝る喜びはありません。ここに訳文を寄せてくれたみなさんは、フランス語をそれぞれに味わう力を十分養っていらっしゃいます。これからもそれぞれの関心に合わせてフランス語を読み続けて欲しいと願っています。

 またお気が向くことがありましたら、みなさんにとって思い出深い、教室で扱ったテキストの話など、今後もこの場で聞かせてもらえたならと思います。

 ウィルさんの「同窓会」という言葉はinattendu、不意を突かれましたが、これまでぼくがどうも優柔不断で「オフ会」(今でもこうした言い回しをするのでしょうか?)も実現できずに来てしまいました。この夏の勢いが衰え、少ししのぎやすくなった頃に、是非一度みなさんとお目にかかりたいと思っています。名古屋あたりでどうでしょうか。

 以前お知らせしたように、フランス語で綴るブログは10月を目処に始めたいと考えています。また実際お目にかけられるようになりましたら、みなさんにもお知らせいたします。

 それでは、この週末よりいよいよ暑くなりそうですが、お身体に気をつけてよい夏をお少しください。それぞれが豊かな読書をこれからも続けられることを心より願っています。Au revoir, mes amis! A bientôt!    Shuhei

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アニーズ・コルツについて(4) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年07月20日 | 外国語学習

[注釈]

 *les êtres les plus proches (...) se démultiplient,  「わたし」の最も身近な者たちが「普遍的な」存在となるという文脈ですから、dé+multiplier このdéは「強意」だと解釈しました。たった三人の身内が、その数を増やし、そして普遍的存在になるのだ、と。

 *A travers eux, les morts…; euxの説明がles morts sとなっています。

 *<<Un brocanteur>>, ce dernier: 「古物商」とは後者、つまり時間の隠喩です。

 

[試訳]

 最も身近な者たちの三位一体は、言葉にとらえられると、増殖し、骨抜きになり、やがて普遍的なものへと変貌する。その者たち、死者たちを通して、詩の内部に災禍の記憶が打ち建てられる。そうすると、詩人である「わたし」は、「彷徨う死者たちのモニュメント」に様変わりする。救いは彼方から、神のいないこの地上を逃れたところからやって来る。その救いにおいて、この世のひとつ一つの断片が「普遍宇宙の断片」へと変貌する。そのことを歌う詩が、アニー・コルツの最も美しい作品のひとつである。「わたしはあなたの口伝いに/宇宙の断片を口にする。/太陽も/足元の石も動かすことなく」アニー・コルツはこうして、何冊もの詩集を通して、ただ一冊の書物を記してきた。五つか六つのテーマが止むことなくその画布を織りなしてきた。いくども繰り返されるマントラのように、その響きは精神を解放し、精神は生と死の謎に、空間と時間の謎に密接に関わる。時間という「古物商」は過去を未来へと引き替える。「時間はそれに触れようとすると/顔面にわたしの遺灰を投げつける」

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 慌ただしかったにもかかわらず、misayoさん、Mozeさん、midoriさん訳文ありがとうございました。

 またフランスで惨劇が繰り返されました。日中エメラルドグリーの海を照らしていた眩いばかりの太陽が沈み、今度は賑やかな花火が夜空に、大輪の花をいくつも浮かび上がらせたその直後に、理性も感情も押し殺した盲目的に暴力によって、また数え切れないほどの命が踏みにじられました。

 パリよりも小規模ながら、路面電車に乗ればオペラハウスや数々の美術館に気軽に足を運べるニースが、この街の春がぼくは大好きでした。

 昨年11月のパリのテロで妻を亡くしたAntoine LérisがLe Monde紙に、亡き人を偲ぶ灯火のにおいに、時に吐き気さえ催すが、窓辺の蠟燭の火を絶やすことはできない。そのかすかな灯明はどんな暴力にも屈することがない。といった短い一文を寄せていました。また直後のLibérationの社説のNous sommes démunis.という直裁の言葉、いわば敗北宣言に、かえってフランス市民社会の強靭さを感じました。

 また夏がやってきました。暑中お見舞い申し上げます。

 次回が区切りとなりますが、27日(水)にこの文章最後までの試訳をお目にかけます。Shuhei

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アニーズ・コルツについて(3) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年07月14日 | 外国語学習

[試訳]

 場、それはアニーズ・コルツの作品にくり返しあわられる主題にひとつである。そこには、神はいない。あるいは不在の神とともにあると言うべきか。やむことなく呼ばれ続けていても、この世には存在せず、むしろその拒絶によって存在している神。「どこに神はいる?(...)教会の壁には『不在』の手配書が貼られている。」神はまた、命よりも死を好む「屍体性愛者」である。それは疑いようがない。「神が私に触れようものなら/雷鳴を見舞わせてやる。」要するに、「人間という波頭に座礁した」神は「消え失せた。/最後のディアノザウルスとともに」神は親しげに呼びかけられている。あたかももう一度だけ目覚めさせなければならないかのように。それは、空の不在を神に統べてもらうためではない。「その十字架から降りてこい」と詩人は命じる。「わたしたちには薪がいるのだ/暖をとるのに」「この地のほかにどこにもこの世はない」のだから。しかしその他にもこの世を賑わす人々はいる。身近な人々だ。コルツの詩のどこにでも顔を出す。母、父、そしてあの人。この地上の三位一体。「わたしは使い果たした 父を/母を/恋人たちを(...)世紀の一度の出来事で/彼らを消尽させるには十分だった」「生誕という猛威」がこうして最初の叫びとなる。「母の乳房には/釘が詰まっていた」衝撃的な詩集『大地は黙る』(1999)は謎の母を歌う。「母は今でも生きている/わたしのからだの中で/けっして追い出してしまえない/いにしえの恐怖のように/わたしの乳となり母は わたしのからだを巡る/母はわたしの謎/冒涜的なおとぎ話」

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 misayoさん、Akikoさん、midoriさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。

 みなさん早々と訳文を作られて勉強熱心だな、と感心していたら、昨日の水曜日がお約束の日だっだのですね。来週が前回から2週間目の水曜日と思い込んでいました。暢気に構えていて、一日遅れの試訳となりました。ごめんなさい。

 散文に断片的な挟まれる現代詩。なかなか骨が折れました。モンペリエ土産の小さな詩集がこの記事につながったのですが、コルツの詩に親しんでいない身には雲をつかむようなところがあります。彼女の詩の翻訳もまだ無いようですが、いずれ日本でコルツが本格的に紹介される日を楽しみに待ちたいと思います。

 今月中にはこのテキストを読んでしまいたいので、変則的になりますが、次週20日にmes morts>>.までの試訳をお目にかけます。Shuhei

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アニーズ・コルツについて(2) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年06月29日 | 外国語学習

[注釈]

 *l'ombre de la langue qui a tué l'homme.  l'hommeとはRené Koltz のことでしょう。

 *des mots qu'il suce avant de les cracher  sucer des mots et les cracher なくてはならないもののように sucer したあと、cracher。この時間関係を読み取ることが大切です。

 

[試訳]

 新たな言語で書かれた最初の作品『拒絶の歌』を、コルツはサミュエル・ベケットの言葉からはじめている。「沈黙は私たちの母なる言語である」。これ以後、記された、もうひとつの言語は、フランスの言葉をまとうことになる。激烈な言葉を。その激しい言葉の下に、夫を殺した言語の影が潜む。

 そして、その沈黙から、詩の再建がはじまる。まず詩人の復権が、再定義がなされなければならない。詩人とは、「それまでしゃぶっていたのに、やがて白いページの上で唾した言葉たちに詫びる人」。「荒くれた世界にさらに激昂を重ねたことを詫びる人」。詩に寄りかかって息をすることを学ぶ人。ページを背にした言葉に「傷ついた面」が隠れていることを見抜く人、となる。

 場もまた再構築しなければならない。詩はその時「私がその上を歩む海」となる。詩は「月の皮をむく」。大河は「仰向けに寝て、星座を見守る」。大海原は「家の前に腰掛けた翁」。「世界のゆりかごであり、墓場である」砂漠で、「すべては枯れ果てても、雨を待ってまた生まれ出ずる」。

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 misayoさん、midoriさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。詩的でなおかつジャーナリスティックな文章。易しくはありませんね。

 教室を閉めることについて、みなさんから本当に過分なお言葉を頂戴して恐縮しています。ただ、気がついてみれば十数年も続けていたことになります。その間にこの身に起きたあれこれを思えば、やはり、短くはない時間だったのでしょうね。みなさんにも本当に長い間にわたっておつきあいいただきました。

 どこかで切りをつけなければとここ数年考えていたのですが、ここで一度紹介もしたジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(In Altre Parole)を読んだことが大きなきっかけとなりました。アメリカ小説界で確たる地位を築いている作家ラヒリと、この自分を同列に扱うつもりは毛頭ありませんが、中年を過ぎてから、イタリア語にとりつかれ、ローマに移住し、そしてついには彼の地の言葉でエッセと掌編小説を紡いでいる彼女の外国語との取り組み方に、大きく影響されました。ぼくも、フランス語という異邦の言葉を思いのままに紡いでみたくなりました。

 どこかのブログに月一回くらいのペースで、由無しごとをフランス語で綴れればと思っています。亡くなった恩師のご子息が、幸いいつでも手を貸すよと言ってくれていて、できればこの秋からでも五十の手習いをはじめようかと考えています。

 また改めてご挨拶申し上げますが、そんな訳でこの教室を一旦閉じることにしました。

 次回は7月13日(水)にma fable profanée.>>までの試訳をお目にかけます。Shuhei

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アニーズ・コルツについて(1) テレラマ臨時増刊号「20世紀の詩人たち」より

2016年06月15日 | 外国語学習

[註]

 *les mots qui sortaient le faisaient dans l'autre langue  le はl'épouxだと考えられます。 

 *Qui, plus tard, deviendra poème  ここの関係代名詞の先行詞は、le refus でしょう。

 *ce que disaient Adorno…:ネット検索してもわかると思いますが、フランクフルト学派の中心人物であり、美学者・社会思想家のアドルノは、アウシュヴィツ後、詩を書くことは野蛮であり、不可能であると語ったのでした。

 *S'il est mort précocement, c'est que…  si + 事実, c'est que + その理由という構文です。

 *A.K. aurait pu, (...) en faire une arme de guerre…: Mozeさんのお考えのようにen は、de l'allemand となります。

 

[試訳]

 アニー・コルツ(1928年生まれ)の詩には見えない影がある。その影は、ひとつひとつの言葉の下に、その言葉からなる言語の下にかくれている。言葉は叫んでいる。「人生はおだやかな大河」ではなく、「殺戮」であると。この影にはある日の日付が眠っている。その日付が告げるのは、彼女の夫の死。なぜなら、彼が、夫ルネ・コルツがまだそこにいた時、表現された言葉は別の言語で夫を歌っていたからだ。三ヶ国語が使用され、作家はそのどれかを選ばなければならなかったルクセンブルクの別の言語で。1971年以前に出されたアニーズの初期作品を読んでいるものには、そのことがわかる。その時まで世界を描いていた言葉はドイツ語であった。けれども、1971年。ルネ・コルツの死が訪れる。その時居座ったのは影ではなく、沈黙であった。何年にもわたる沈黙であった。詩の拒絶であった。そして歳月が流れ、沈黙が破られ、その拒絶が詩と、歌となるのだった。別の言語を語るという拒絶。その時から、別の言語で書かれた十数冊の書物が世に問われている。フランス語で書かれた書物。なぜこうして国境は跨がれたのだろうか。その訳は彼女が沈黙したのと同じことだ。夫ルネ・コルツは占領軍ナチによって強制収容所送りとなったのだった。早すぎる夫の死は収容所送還という暴力によってもたらされたものであった。アドルノの言に反して、ポール・ツェランをはじめ、詩が可能であるのみならず、必要でもあったすべての人々と同様に、アニーズ・コルツは、ドイツ語をヒトラーのプロパガンダの毒牙から奪い取ることができたかもしれない。それをもって野蛮に対する戦争の武器となし得たかもしれない。しかし課せられたのは沈黙であり、そこに辛苦に向き合う言葉はなかった。

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 Akikoさん、midoriさん、お久しぶりです。

 また機会を改めてお話ししますが、実は、このテキストを最後に「教室」を閉じようかと考えています。読んでみると密度のあるテキストで、まだ数回以上かかりそうですが、それまでまだしばらく、よろしくお付き合いください。

 みなさんもご存知でしょうか、この6月5日にスイスでベーシック・インカム導入の可否を問う国民投票が行われました。結果は否決でしたが、同制度は民主党政権下の2009年頃、日本でも大変議論になっていた社会制度でした。少し懐かしい気持ちで、山森亮・橘木俊詔『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』(人文書院 2009年)を読んでいます。意外だったのは、この書物で討議されている内容が、あれから6年以上経った今でも、まったく古びていないことです。その後日本社会は、東北大震災を挟んで、本当に停滞、あるいは後退しているのだなと実感させられました。

 それでは、次回はen attente de l'eau>>.までの試訳を29日にお目にかけます。

 Shuhei

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Anise Koltz <<Dieu est mort. Finis, Fleurs...>> (4)

2016年06月01日 | 外国語学習

[試訳]

 内面世界にあっては私たちは自由だ。そこには強制も障害もない。つまり私たちの詩は、私たちの生まれる前にも、また私たちの死後にも位置するということになるだろうか。

 詩の読者は、こうした象徴的次元やそれを取り巻くオーラを考慮に入れなければならない。というのも白いページの一枚一枚には、あらかじめ死が影を落としてしまっているからだ。

 私たちには、フランシス・ポンジュが「言葉の洗濯屋」と言った、私たち詩人には、もうひとつ課せられた仕事がある。クリスチアーヌ・サンジェールの言葉を引こう。「言葉を人質に取ったり、悪用することにないよう気をつけなければなりません。ただ言葉によってのみ、私たちは意識の領野に近づけるのですから。それは内面空間を開け放つ鍵なのです。」

 

 私たちの言語は聖なるもの。それを保護し、見守ろう。けっして絶やしてはいけない炎のように。言語こそが世界の夜を照らさなければならないのだから。

 アニーズ・コルツ

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 misayoさん、Mozeさん、今回も訳文ありがとうございました。この序文の後半部分は、文章の筋目も「詩的」となっていて、なかなか難しかったですね。こんな試訳でその詩的論理をどれだけ辿れたか心もとない限りですが、またご意見などがあればお聞かせください。

 ところで、先日ここで紹介した吉増剛造の書物の中で、鮎川信夫『現代詩作法』(思潮社)が紹介されていました。吉増が詩の道を志すにあたって大きな影響を受けた一冊としてです。アマゾンで調べてみると古本がありました。1963年出版のものでした。

 ぼくは本を読む時、要所要所に線を引きながら読む癖があるのですが、入手した古本は、さすがに印刷は少し薄れ、ページも淡いセピア色を帯びていましたが、書き込みひとつない綺麗な状態。半世紀の時を越えて、奇妙な縁から手にした同書をいつものように棒線で汚すのは忍びなく、引用されている詩を(吉増によるとその選詩がすばらしいとのこと)何度もくり返し読みながら、とにかく今回はきれいに読み終えました。

 なんだかこのままこの本を自分の手元に置いておくのは畏れ多いような気がして、いわゆる「現代詩」に触れたい人に、リレーのように手渡したい気持ちになっています。もし読んでみたいという方がありましたら、遠慮なくご一報ください。郵送いたします。

 その後も「現代詩」ずいてしまって、田村隆一(語り)『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』(ちくま文庫)も読みました。明日からは、『戦後代表詩選 鮎川信夫から飯島耕一』(詩の森文庫)を携えて通勤しようと思っています。

 さて次回のテキストですが、フランスの雑誌 Téléramaの臨時増刊号「20世紀の詩人たち」の中でAnise Koltzに触れた章を読むことにします。断片的ですが、彼女の詩も引用されています。また近いうちに新しいテキストをお目にかけます。 Shuhei

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Anise Koltz <<Dieu est mort. Finis, Fleurs...>> (3)

2016年05月18日 | 外国語学習

 [試訳]

 例えばギユヴィックはこう言っている。「詩とは、途方もない冒険です。私には虚空に、空間ですらない虚空に存在するという感じがわかります。それは理性に支配された宙ではなく、何物とも知られないものによって律せられた宙なのです。それはまさに聖なる場であり、何かに満たされた虚空の、虚無が充満した狂気…。」

 実際、様々な時代の底から上り来った下意識の衝撃や一条の光が、意識と融合することがある。そうしたものが詩に思いがけない展望をもたらし、意味や精神にも謀反する可能性を与える。詩人はその創造的な力に身を預けることによって、深く埋もれてしまっていても、万物と自分を結ぶ直すその根を見出すことができるのだ。

 つまり詩には、まだ存在しない、あるいは決して存在することにない現実の投射を、含み持つことが可能となるのだ。

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 misayoさん、Mozeさん、今回も訳文ありがとうございました。le grand Tout は、Mozeさんが訳されている通り、いわば宇宙的な、存在すべてを含んだ「万物」という意味合いでしょう。たしかに、ギユヴィックの引用の箇所など、これだけの引用では、わかったような気になるしかないのかもしれません。

 先日、年数回しか足を運ばない小さな書店で、吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔つかみとれ!』(講談社新書)を見つけ、読みました。谷川俊太郎とともに、生業として詩を職業とする、日本で数少ない、今年七十七歳になる「詩人」です。吉増さんの詩はこれまで数篇読みかじった程度だったのですが、このひとがどんな時代を生きてきたのか、詩人が生きてきた時代が、わずかでもこの今の自分の生活につながっているのか、そんなことが知りたくて読んでみました。時代的な発見は幾つかありましたが、普段はそう簡単に手が出せない吉増の詩の何編かも同書の中で紹介されていて、この詩人の詩的宇宙に、わずかですが触れることもできました。

 それでは、次回この序文を最後まで読んでしまいましょう。6月1日(水)に試訳をお目にかけます。

 

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Anise Koltz <<Dieu est mort. Finis, Fleurs...>> (2)

2016年05月04日 | 外国語学習

 [試訳]

 私たちの生活は今や大部分科学技術や原子力などに基づいている。私たちの知性、少なくとも一般的な人間の知性や知識は、もはやその爆発的な進展について行けなくなり、高度な技術により著しく変容するこの世界に、私たちは対立してしまっている。

 そして、そのあらゆる分野で私たちを凌駕するこの世界に、私たちは今や再び文盲として対峙することとなった。かつて人間は未来を恐れていたけれども、今日未来が人間を恐れている。

 それでも、そこから私たちの生には意味などないと言うことは、私には正しくないように思える。本当のところ、世界には様々な道があるように、生は多くの意味を含んでいる。

 ノヴァーリスはかつてこう語っていた。私たちの不幸は「現実の闇の部分を考えないことだ。目に見える部分しか現実とは見なさない」ことだと。

 実際、詩もまた現実のこの闇の世界の一部なのだ。

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 せっかくの連休だというのに、misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。「未来が人間を恐れる」とは、日々進化を遂げる科学技術の飛躍的進展によって、この先一体何を可能にするかわからない、私たちの不遜さを言い表したものではないでしょうか。

 モディアノ、そういえば昨年の今頃彼のノーベル賞受賞講演を読んでいましたね。そんなことがきっかけとなって、彼の地の作家と繋がりができたのであれば、うれしい限りです。

 それでは、次回はp.9. peut-être jamais. までの試訳を18日(水)にお目にかけます。Shuhei

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Anise Koltz : Dieu est mort. Finis, fleurs... (1)

2016年04月20日 | 外国語学習

[注釈]

 *les yeux fermés de peur…:ここは非人称構文なのですが、誰の目かと問えばnos yeuxとなるのでしょう。ですから、ここは反語表現ですね。

 *Finis, fleurs et petits oiseaux  もちろんLes fleurs et petits oiseaux sont finis.ということです。現代において詩は、もうは花鳥風月を朗詠するものではなくなったということでしょう。

 

[試訳]

アニーズ・コルツ「花も小鳥も絶え、神は死んだ」

 ひとフレーズ書き付けるとたちまち、訳が分からなくなって、どうしょうもなくなり、それを打ち捨ててしまって、続くフレーズではもう反対のことが言いたくなる。というのも、本質は私から逃れてゆくという印象をいつも拭えないからだ。物事には二つの面があって、本質は隠された面に潜んでいる。

 詩は私たちの時代の成り行きを明かさなければならないだけに、そう思わざるをえない。

 さて、かつて人類の歴史でこの世紀ほど野蛮な世紀はなかった。恐怖は絶えることなく、世界のあらゆるところで増殖している。これほどの悲惨さ、腐敗、支配を前にして、私たちはなす術もない。数々の惨劇を前にしても、その暴力に私たち自身が打ち砕かれることを恐れるあまり、目をつむってそれをやりすごすべきなのか?

 それだからこそ詩人はまた、自分たちを取り巻く世界を前にしてその位置どりを決めなければならない。

 花も小鳥も絶え...神は死んだ! ただ人間だけがおのれと向かい合い、世界と対峙している。その人間に、自分の命と他者の命のその全き責任がかかっている。私たちひとり一人が、なんのガイドも、羅針盤も、手引きもなく、自分を見失おうとしている。 

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 misayoさん、Mozeさん、新年度早々訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。

 熊本・大分の地震の報道を聞いてフランスの友人が、そちらは大丈夫ですか、とメールをくれました。心配してくれたお礼とともに、大地が必ずしも磐石でないことが、私たち日本人の精神に深い刻印を残しているはずだ、と返事をしました。とにもかくにも余震がおさまること、必要な物資が被災された人々の手に届くことを願わずにはいられません。

 さて、読み終わってしばらく時間が経ちましたし、様々な媒体ですでにいくつもの書評が出ているのですが、中島岳志・島薗進『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)をやはり少しご紹介しておきます。

 タイトルにある問いに対する答えとして、島薗氏は大変危惧を持ってOuiと答えています。その危惧を、おもに明治維新以降の日本の宗教史を辿りながら詳らかにしたのが本書です。この方面に全く無知だったので、実に勉強になりました。少しだけ引用しておきます。

 

 中島 国家神道は、「宗教」というカテゴリーには含まれなかったわけですね。いわゆる「神社非宗教説」ですね。(...)

 島薗 つまり、近代西洋にならって政教分離はしているが、国家神道については国家に属するものである、他の宗教とは次元が違うのだ、ということです。この二重構造の中で、国家神道は諸宗教を組み込んでその上に乗っかることができるように、明治維新の時にすでに構想されていた。

 だからこそ、この対談では昭和の時代だけではなく、明治維新にまでさかのぼって見ているのです。

 

 いかに不案内でも、歴史に無関心ではいられないのだと、あらためて反省を促された一冊でした。多くのひとに読まれるべき良書だと思います。

 それでは、次回はp.8. ce monde nocturne du réel. までの試訳を5月4日にお目にかけます。Shuhei

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あたらしいテキスト:詩人Anise Koltz の序文

2016年04月04日 | 外国語学習

 今年度最初は、ルクセンブルク出身の女性詩人Anise Koltzのアンソロジーの巻頭を飾る序文、Dieu est mort. Finis, fleurs et petits oiseaux. を読みます。テキストをご希望の方は以下までご一報ください。

shuheif336@gmail.com

Shuhei

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