フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

ドミニック・ドゥ・ビルパン「戦争の精神に抗して」

2015年02月18日 | Weblog

 ドミニック・ドゥ・ビルパン「戦争の精神に抗して」
 今日三つ目の敵となっているのは、他者を排除する態度です。フランスは日を追って次第に身をこわばらせています。指導者たちの言葉はますます分裂へと、排除へと傾き、危険な同一視がいたるところで生まれています。歴史の教えに従えば、堤防が決壊した時、国は崩壊の危機に瀕するのです。私たちが暴力を引きつけてしまったのは、私たち自身が分裂し、力を失い、内向きになっていたからです。国が傷つき、血を流していたからです。[ウルベック氏の新作をめぐる]文学論議や党派的なデマゴギーが示すように、問題は他者から、何ものかの侵入から、想定されうる政治の交替から、私たちを救うことではなく、私たち自身から、私たちの諦念から、衰退をどこかうっとり眺める私たちから、自殺行為にも似た西洋中心主義の誘惑から、自分たちを救い出すことなのです。
 試練のとき、私たちひとり一人には果たすべき義務があります。責任を持って、熱狂せず、手をとりあって行動しましょう。民主主義の模範を示すことによって見返してやりましょう。本来の私たちの姿に、対話と文化の力と教育と平和を信じる、共和国の民へと戻ることにしましょう。
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 先日もお話ししたように、パリとその郊外で惨劇があったその翌日にドゥ・ピルパンが書いた文章です。この時点で、彼が、現首相バルスが議場で「戦争」という言葉を口にしたのを耳にしていたのかどうかわかりませんが、''Je suis Charlie''という合言葉で、フランスの街路が群衆で埋め尽くされる以前に、元首相がこうした言葉を連ねていたことに、ぼくは心うたれました。
 misayoさん、NIさん、訳文ありがとうございました。今回も、ぼくからとくに付け加えることは何もありません。NIさんの訳から推察するに、フランス語をかなりしっかり読める方ですね。来年度4月からは「教室」の更新の頻度は月一回程度になりそうですが、今後ともよろしくおつきあい下さい。
 お知らせが遅れましたが、昨年春からFRENCH BLOOM NET でもフランス語読解の講座を持っています。ここ三回ほどは、以前この教室で「要旨」のみ扱ったAlain Badieu の恋愛談義を教材に使いました。興味のある方は以下もまた参考になさって下さい。
http://www.frenchbloom.net/type/tips/3795/
 また、重要だと思われる新聞記事などについては、Twitter 上で@hiokiのユーザー名で時々紹介しています。こちらも覗いてみて下さい。
 ここ東海地方でも陽射しには春のきらめきが確かに感じられるようになりました。それでもまだしばらくは「春は名のみの」でしょうが、どうかみなさんお身体に気をつけて花の季節をお迎え下さい。また桜の頃にお目にかかりましょう。Shuhei


エチエンヌ・バリバール「ジハード」

2015年02月04日 | 外国語学習

[注釈]
 *les amalgames : こうした文脈では、比較的最近になって使われるようになった言葉ですが、過激な暴力行為と特定の宗教を結びつけることを言います。
 *A l'exploitation de l'islam… ne peut re'pondre qu'une critique… とつながっています。
 *dans le mortel e'tau du terrorisme… et des politiques se'curitaires…とつながっています。

[試訳]
 聖戦
 おそろしい言葉を口にするのを最後に回したのは意図してのことです。というのもこの言葉の意味するところすべてを、今こそ検討すべきだからです。この問題については、考察のほんのとばくちに私は立ったところですが、それでも少し考えてみましょう。私たちの運命はムスリムの手にあるのです。たとえこの呼び方が不正確であったとしても。どうしてでしょう。なぜなら、不用意な同一視を警戒し、コーランや口承の伝統に殺人の教唆が読めるとする嫌イスラムに対抗することは、まさに正しいことだからです。でもそれだけでは十分ではありません。聖戦戦士のネットワークがイスラムを悪用することに対しては -- 忘れてはならないのは、世界のいたるところにいるイスラムの人々、さらには、まさにヨーロッパに暮らすイスラムの人々こそが、その犠牲になっていることです--神学上の批判を、ひいては、イスラム教の「常識」の改革をもって望むしかありません。そうすることで聖戦を正当化する考えが信者にとっても非常識なものとなるのです。そうでないと私たちは、危機に陥ったこの社会で恥辱にまみれた人々、虐げられた人々を引きつけることすら可能な、テロリスムという頸木に、また、ますます軍事色を強める国々で採られている、過剰に安全を追求し、自由を窒息死させる政策に捕えられてしまうことでしょう。ですから、イスラムの人々には責任が、課せられた責務があるのです。しかしそれはまた私たちの責務でもあるのです。というのも、今ここで私が言う「私たち」とは、定義上多くのイスラムの人々も含むからですが、それだけではありません。もし私たちがこれ以上、イスラムの宗教と文化が往々にしてその標的となっている、差別的な言説に甘んじてしまうのなら、そうした批判の、改革の可能性は、すでにかすかなものなのですが、まったく消え去ってしまうことになるからです。
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 misayo さん、ウィルさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。みなさんの訳を拝見すると、それぞれの言葉の文脈上の含意を、あるいは社会的な背景をちゃんと踏まえた訳語が選び取られいます。こんな技はまだ当分翻訳ソフトなるものにはできない芸当だろうと、ちょっと人間の頭脳が誇らしくなります。
 
 これはたまたま偶然なのですが、お正月には辻原登『冬の旅』(集英社)を読んでいました。物語のなかで、あの阪神淡路大震災が登場人物たちに決定的な影響を与え、運命づけるのです。そんな小説体験をして幾日も立たないうちに大震災から二十年を迎えました。そして、あれからの来し方をゆっくり振り返る時間も持てないうちに、混迷を深める中東から不安な知らせが連日報じられることとなったのでした。
 そのわずか前から大澤真幸・木村草太『憲法の条件 戦後70年から考える』(NKH出版新書)を読んでいました。今私たちが直面させられているこの事態から、少なくとも最悪の選択をしないためにも、日本国憲法に「物語」を「魂」を吹き込む努力を怠ってはならないと、同書を読みながら思いました。
 さて、つぎのテキストですが、あのパリでの惨劇があった翌日にLe Monde 紙に元首相のドヴィルパンが寄せた論考を読むことにします。またあらためてテキストはお届けします。
 きょうは立春。陽射しには確かに春の兆しが感じられますが、寒さはまだしばらく続くことでしょう。どうかみなさん、お風邪など召されませんように気をつけて下さい。Shuhei