フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

「歩いても、歩いても」(3)

2009年05月28日 | Weblog
 [注釈]
 
 * il s'attache ici au regard de ce garcon... : il ですが、みなさんの解釈の通り、文脈からいって前段落の Il、すなわち Kode-Eda を指しています。
 * (...) apr`s s'e^tre rendu quelque temps plus tard.. : ぼくも最初はこの plus tard にひっかかったのですが、映画内の時間の尺度に合わせると「数年後」となります。というのも、次男が両親の家で一晩過ごし、両親に見送られてバスに乗り実家を後にして物語は一度幕を下ろします。そのあと次男の声でナレーションが入り、数年のうちに相継いで両親が他界したことが告げられています。

 [試訳]
 
 いなくなることに囚われた映画作家是枝は、日の光をこだまのように、目には見えない現前のように映しとっている。彼は、足下、靴下、二人の人間が並んで道を歩く姿をフィルムに収める。息子が歩みを緩めて、重い足取りで歩く父のペースに合わせると、男同士の話が始まる。
 思い出を伝えること、空虚を埋め合わせる知恵、過去の生活と繋がったままでいることを大切に考える是枝監督は、血のつながった父に先立たれ、新しい父を迎え入れたこの少年の視線に張り付き、あらたな家族で起っていることを興味深げに眺めている。
 数年後、義理の祖母の墓参りを済ませて、父と歩くかつての少年は、祖母が伝えたがっていた迷信を自分のものとしている。日が落ちてから飛ぶ蝶は、いつまでも私たちの元を去ることのない、大切な人の魂を象徴する昆虫であるという迷信を受け継いでいる。
…………………………………………………………………………………………….
 この記事の書き手は、なるほど是枝作品の核心はしっかり捉えていると思われますが、やはり映画の細部の把握はややピンぼけの感じがします。
 まず、この映画の舞台は「横浜」ではありません。画面の中でそれとなく触れられるだけですが、両親の住まいはどうも三浦海岸の高台にあるようです。次男夫婦の住居は、横浜にあるようですが。それから、Moze さんが指摘されていたように、いわゆる嫁姑の微妙な関係もこの文章の書き手には難しかったようです。樹木希林演じる姑はたしかに「こぶつき」の嫁に大切な着物を何点(着物は「点」とは数えないかもしれませんね)か譲るのですが、そのさいに、「連れ子」の兄弟となる子供は作らない方がいいわ、とやんわり釘を刺したりしています。なかなか「怖い」老女を樹木が見事に演じていて、それがこの映画の見所となってもいます。
 その母の死後、彼女の願いに反して(?)次男夫婦のあいだに女の子が生まれています。映画のラストで、両親の墓参りを一家四人となった家族でするのですが、その帰り道、次男が蝶の話をするのはその娘とです。
***
 この映画に関してもう少しお話ししたいのですが、実は体調が万全ではありません。一月程前から右肩の辺りが痛く、教室のカーテンを右手で勢いよく開けたりすると激痛が走ります。たまりかねて医者に診てもらったところ、俗に言う「五十肩」というやつで(老いにおいては「早熟」のようです)、関節で炎症がおきているらしいのです。処方してもらった消炎・鎮痛剤を飲んでいるのですが、普段薬を飲みつけないせいか、身体がだるい、眠い。多分副作用なのでしょうね。ただ、痛みの方はすこし和らいでいますが。それで、映画の感想はまたの機会に譲ることにします。
 新しいテキストは、この週末にはみなさんにお届けすることにします。
 smarcel

「歩いても、歩いても」(2)

2009年05月20日 | Weblog
 [注釈]
 
 * malgre' tout : この二語の組み合わせで「それでも」を意味します。ですから、ここは、les petites phrases blessantes を補足説明しているように思えます。
 * ce rituel truffe' de non-dits : rituel は長男の法要のこと。
 * Pro^nant un regard enchanteur : proner = vancer et recommander sans re'serve et avec insistance ちょっと乱暴に訳せば「魅力的な視点が売りの」となるでしょうか。
 * le gamin (...) fait les frais de la blessure non referme'e. : faire les frais de... で、「…の費用を負担する、犠牲になる」
 * On le trouve ridicule. : 後の文脈も考えると le = le gamin。 でも、当時の子供は十五年の月日の後、青年となっています。「彼のことを笑い者にする」

 [試訳]
 
 私たちは、小津や成瀬のすばらしい映画世界にまた浸ることができる。ありふれたある核家族の記録。大人たちの不如意。草花を踏みつけ、冷蔵庫をあさる子供たちの無邪気さがより合されている。あちらでひそひそ話が交わさ、こちらでは携帯電話が鳴る。ちょっとした言葉が身内を傷つけることはあっても、悪気はまったくみられない。是枝監督は、はっきりと口にされない事ごとに充ちたこの家族行事を指揮しながら、やさしくもいじわるな視線をけっして忘れることはない。魅惑する視点を前面に出した『歩いても、歩いても』は、抑制の利いたユーモアーに彩られた繊細な作品である。
 家族の場をしきり、生活を前向きに生きることをモットーとする母親は、遠慮がちな息子の嫁に着物を譲り、夫を急き立て、叱り、思い出のレコードを引っぱり出して来てしばし感傷に浸ったりもする。けれども、彼女の残酷さも明らかになる。毎年長男の法事に、長男に海で助けられた子供を招いている。落ちこぼれとなった青年は、家族の癒されない傷の痛みを背負わされる。青年は笑い者にされる。サディスムから彼を呼びつけているのだ。
 ここで問題となっているのは、「大切なものを失いながらも、それでも一人ひとりが生きてゆく力」である。生き続けようとする本能は、人々がしっかりと土を踏みしめる行為に具現化されている。近親者を失い打ちひしがれても、歩みを進めることをやめてはいけない。映画の中で幾度となく散歩が描かれるが、ある回は墓参りとなっている。
……………………………………………………………………………………………..
 しきりに報道されている通り、今週は関西のほとんどの大学では休講措置がとられています。ぼくも、月曜日お昼前に「登校」したところ、講師控え室の事務の方から、午後からの授業が中止になった旨知らされました。ぼくはケイタイという文明の利器を持ち合わせていないので、連絡が遅れたのです。
 思いがけなく時間に恵まれたので、早く帰宅して、<< Still walking >> を見たよとメールをくれた madame に、同映画の感想を綴ることにしました。
 この年の離れた友人は、実は数十年前に、プルースト研究者を目指していたノルマリアンだった息子さんを亡くされています。その話を直接友人から聞かされたことはないのですが、ぼくが留学を終えて日本に帰ってから、その息子さんの博士準備論文をまとめた小さな書物を届けてくれました。
 そんな友人に、あの映画の感想を率直に綴ったのは少し軽率だったのでは、と今になって気を揉んでいるところです。
 さて、次回はこの記事を最後まで読むことにしましょう。
smarcel
 


「歩いても、歩いても」(1)

2009年05月13日 | Weblog
 [注釈]
 
 * La convivialite' passe par les paisirs de bouche. : ここは、大学の教室で聞かされる、自動翻訳機のような訳は見あたらず、みなさんのフランス語・日本語の理解力の高さがよく表れていました。
 * un porc assaisonne' d'e'chalotes et de fe`ves verts : 映画作品を見る限りでは、ミョウガと枝豆を一緒に口に運ぶところは見られなかったので、少し自由に訳してみました。
 * ses tempuras de mais frits : みなさんご指摘のように frits は不要でしょうね。

 [試訳]
 
 『歩いても、歩いても』- 夏のある日、悲しみと命の慈しみによって集う日本の家族
 横浜での家族行事。夏、息子夫婦が重たい足を引きずって、週末を過ごすために両親の家に向かっている。隠居した父は、診療所にこもったままで、息子たち、孫たちを迎える気の重さを隠そうともしない。それでも母は、食事の支度に一生懸命で、小うるさい夫の冷たさを和らげている。台所ではなんとも言えないいいにおい。ごちそうが並べられて場が和む。大根、にんじん、素麺、鰻、ミョウガと枝豆が添えられた豚肉、寿司、麦茶。食後にはシュークリームとスイカも控えている。母親は、トウモロコシの天ぷらに腕によりをかけている。娘に教えておきたい一品だ。

 けれどもこの気まずさは何だろう。一人家族に欠けているのだ。十五年前、父の診療所を継ぐはずだった長男が、溺れた男の子を助けようとして亡くなっている。この長男を偲んで毎年家族が集まるのだけれど、亡き者の影は重い。父は突然の息子の死を飲み込めないままで、次男は自分が大事にされていないと感じている。両親には、次男の選択が残念でならない。不安定な仕事、車もいらないというし、こぶ付きの女との結婚。冴えない男の妻となった長女は、そんな思いをよそに実家でくつろいでいる。彼女は両親の家を譲り受け、ここに居座る心つもりでいる。
……………………………………………………………………………………
 同作品についていろいろ感じるところはありましたが、それはこの記事を読み終わってから綴らせてもらいます。ぼくより先に作品を見たフランス人女性は、濃い緑の影を踏みながら、老母・老父それぞれが一回ずつ、血のつながらない孫と歩く散歩のシーンの美しさに打たれた、とのメールをくれました。
 次回は、au cimetiere. までとしましょう。


フレドリック・ルノワール「イエスも破門されるべきではなかったのか」(4)

2009年05月06日 | Weblog
 [注釈]

 * message de compasion envers chaque personne de son fondateur : ここは、manekineko さんの訳に教えられるまで、ぼくも読み違えていました。message (…) de son fondateur と読むべきだったのですね。message 教えの内容は、compasion envers chaque personne です。
 * autrement plus grave que celui des traditionalistes. : celui = un schisme, des traditionaliste は、「伝統主義者からの」と読むべきでしょう。
 * a` qui Rome semble (…) : qui の先行詞は de nombreux fide`les et d'individus です。

 [試訳]

 教会の歴史は、一人ひとりに思いを寄せようという、その礎を築いたひとり一人の人物イエスの教えに忠実であろうとする態度と、往々にしてそうした教えを結果として見失ってしまう教会の指導者たちの態度との、こうした絶え間ない緊張によって特徴づけられている。指導者たちは、それ自体目的化した教会の利益を最優先にしたり、ささいなことに目くじらを立てる、馬鹿げた、非人間的な律法主義に閉じこもってしまっている。
 ヨハネ・パウロ2世が教皇職にあったことは自体、大変両義的なことであった。教皇は道徳面、教義面で厳格な伝統主義者であったが、同時に対話の、心情の人でもあり、恵まれない人々、他宗教に対して、目覚ましい行いをさまざまになした。ベネディクト16世は前教皇の保守的な面しか受け継いでいない。それに、今の教会にはピエール神父も、エマニュエル修道女ももういない。独善的で、非人間的なさまざまな決定に対して怒りの声を上げ、胸のすくような役割を演じ、信者と教会を繋ぐ貴重な橋渡しが出来る彼らのような「信じるに足る信徒」は、もういない。
 教会の左派では静かに分離が進行している。これはある意味で伝統主義者からの分離よりももっと深刻である。ベネディクト16世はヨーロッパを再びキリスト教化しようと企てたためだ。一握りの教条主義者の心を取り戻すことは、教皇には出来るであろうが、福音書の教えに忠実な多くの人々、教えの意味を求めている人々を失うことになるであろう。彼らにとって、教皇庁は、もはや教義と規律をしかもたらしてくれないように思えることであろう。
………………………………………………………………….
 manekineko さんからお尋ねのあった箇所、 Le scandale est tel que plusieurs e've^ques francais sont monte's au cre'neau pour condamner une de'cision inique (…)ですが、ここの試訳は、monter au cre'neau という表現の仏和辞典的な訳語に引っ張られた結果、曖昧なものになっていました。
 monter au cre'neau は、intervenir, s'engager personnellement dans une lutte という意味ですから、comdamner の意味上の主語は plusieurs e've^ques francais となります。したがって、「騒ぎは広がり、何人ものフランスの司教が自ら立ち上がり、不公平な決定を糾弾した」とすべきでした。
tel は「強度」をあらわしています。つまり、「あまりに…なので」ということです。併せて試訳も訂正しておきます。manekineko さん、貴重なご指摘ありがとうございます。

 さて、次回からは、すこし目先を変えて、日本映画の紹介記事を読むことにします。
 先日、去年の春に " Nobody knows "のDVDをプレゼントしたある Madame から
"Still walking "を観たよとメールを頂戴しました。調べてみると是枝監督の『歩いても、歩いても』の英語タイトルでした。実はこの映画のタイトルには、ぼくにもささやかな思い出があります。そんなご縁で、今回同作品を評した Le Monde の映画評を読もうと思います。週末までには、みなさんのところにテキストをお届けします。
smarcel