フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Laissons les filles tranquilles (2: Le Monde)

2015年04月29日 | 外国語学習

[注釈]
 *quelle que soit la culture religieuse… quel que + subj. となっていますから、ここは譲歩構文です。
 *les uns d'une couleur, les autres d'une autre : ここは文脈からして、子供たちの様々な肌の色のことを述べているのだと思われます。

[試訳]
 私たちフェミニストはこう考えています。10歳の女の子に家族か学校か、あるいは宗教か強いられたライシテの側につくのかと選択を迫ることは、彼女たちが解放されるために必要な解決策とはなりません。かつてのフェミニストのスローガンにも「私を自由にするなどおせっかいはやめてください。私の好きにさせて!」というのがありました。そんなやり方では、人を自由にできません。むしろ逆に自由にしたつもりの人々をかえって疎外することになるのです。女性の身体は誰のものでもありません。ヴェールを強要する人々のものでも、ヴェールを無理やり取り去ろうとする人々のものでもありません。学校に通う女の子からヴェールを取り上げても、公立学校から女の子を追い出しても、性差別主義が後退することはなく、むしろ事態は悪化するでしよう。女の子たちをそっとしておきましょう。性差別的な規範から、異性愛の教理から、あるいは宗教的な禁止から、あれこれの服飾の象徴性から、道徳や聖なるものから、身体や欲望を露わにしろ、あるいは隠せとする命令から自由になることが大切であるにしても、そこから自らを解放する道筋と手段を、彼女たちに考えさせ、議論させましょう。そしてそのためには、教室に座り、校庭を走り回ること以上に最善の方法があるでしょうか。
 学校は万能ではありません。それでもそこは最高の解放の場所なのです。なぜなら、彼、あるいは彼女がたとえどんな宗教的な文化のなかで大きくなったとしても、学校に行けば原則として知識という共有のコーパスに触れることができるからです。そこでこそ子供たちはお友だちを、他者を発見し、彼らと触れ合うなかで自らのアイデンティティーを作り上げてゆくのです。子供たちはそこで学ぶのです。ある人は無宗教であり、ある人は敬虔な信徒であり、またある人はユダヤ教徒であり、カトリックであり、プロテスタントであり、ヒンズー教徒であり、また別の人はイスラム教徒であり、異性愛者であり、同性愛者であり、女の子であり、男の子であり、あるいはトランスジェンダーであり、ある人はある肌の色をしており、また別の人は違う肌の色をしている、という現実を。
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 misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。ようやく気持ちのいい季節となりました。ただ日本の Belle saisonは本当に短い。この連休が終われば、車両やショッピングセンターに欠かすことができないあの空調が、またフル稼働する夏がやってきます。そして梅雨…。この束の間の初夏を大切に楽しみたいものです。
 ところで、今年は戦後70年。昨年の今頃は古井由吉『半自叙伝』(河出書房)を通して戦火の日常を追体験しましたが、この春はつい先日まで、山田太一『月日の残像』(新潮社)を味読しながら、まだ貧しかった日本社会で徐々に映画がその影響力を失い、テレビがメディアの王座につき、やがて日本社会が高度成長期に至るまでの、その日々の断片に、著者のやさしい、しなやかな文章を通じて目を凝らしていました。お二人とも、ぼくの父親世代ということになります。そういえば、亡くなった父からその頃の話を聞くことはほとんどありませんでした。それは、ぼくの世代の大方の父と息子の在り方かもしれません。でも、時代に耳をすませてきた文学者の言葉があれば、それを特別悔いることもありません。
 それでは、次回は残りの文章の試訳は13日(水)にお目にかけます。


Laissons les filles tranquilles (1: Le Monde)

2015年04月15日 | 外国語学習

[注釈]
*qu'il soit volontaire ou imposé. : ここは譲歩構文です。il はもちろんle foulard islamique です。つまり、「べールが自発的なものであれ、強制されたものであれ」

[試訳]
 私たちはフェミニストであり、常に女性の権利を擁護しています。そして学校において宗教的なシンボルを身につけることを禁じる2004年の法律を撤廃しなければならないと考えています。
 問題は、私たちフェミニストが宗教一般を、とくにイスラム教をどう考えているのか、また、それが自発的なものであれ、強制されたものであれ、イスラム教徒のベールの着用に私たちがどんな象徴的、政治的な意味を付与しているのか、などではありません。問題なのは、ここでもう一度強調しておきますが、女性たちを犠牲者の地位に貶めてしまっていることなのです。あるいは、彼女たちを解放すると称して排除しまっていることなのです。もう一度言いますが、女性たちの身体がいわば戦場であり、その前線において、解放の名の下にさまざまなイデオロギーが対立しているのです。そして、フランスは非宗教原則ライシテの対価を、イスラムの女性たちに払わせようとしているのです。
 あの法律成立から十年を迎える今日、私たちは何を手に入れたのでしょうか。あの法の名の下に、どれだけの差別と暴力が冒されてきたでしょうか?何人ものベールを被った女性たちが暴力を振るわれました。何人もの母親たちが差別されました。そのおかげで、フランスはよりライシテに則った国になったでしょうか?この法律を推進した人々が望んだように、べールを着用する女性は減少したでしょうか?そんなことはありませんでした。少女たちは学校から排除されました。ベール着用に寛容な、あるいは反対する両陣営の対立は激しくなりました。女性たちに対する暴力は増加しました。
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 misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。今回もぼくから特に付け加えることはなにもありません。
 イスラムの女性信者であることを象徴するベールを着用して登校した女の子が、学校側の判断で登校を拒否され、それが大きな論議を呼んだのが1989年のことでした。それ以来様々な形で、このベールの着用とフランス共和国の原理とされるライシテの関係が論議され続けています。今再びこうした問題に焦点が当てられているのは、もちろん1月7日が事の発端となった一連のテロ行為のためです。
 先日雑誌『ふらんす』の特別編集号として「ジャルリ・エブド事件を考える」と題された特集号が出版されました。多くのフランス通の論者が様々な観点から今回の事件を考察していて、もちろんこのベール問題も議論のテーマのひとつとなっています。また、先日ここで取り上げたバリバール「ジハード」も、あの三浦信孝氏によって論じられています。是非一度手に取って、現代のフランスが抱える難しい課題の諸相に触れてみてください。
 それでは、次回は残りの試訳を29日(水)にお目にかけます。Shuhei


新しいテキスト: Laissons les filles tranquilles (Le Monde)

2015年04月01日 | 外国語学習

2015年度最初のテキストとして、フランス市民社会とイスラム文化の摩擦をテーマとした文章を読みます。テキストご希望の方は

shuheif336@gmail.com

までご一報ください。

 このテキストに関しては、15日(水)までに

La violence contre les femmes a augmenté.
までの試訳をお目にかけます。Bonne lecture !

Shuhei