SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

あづみ野コンサートホール開館12周年・ドビュッシー生誕150周年記念 高橋多佳子ピアノ・リサイタル

2012年11月20日 02時58分51秒 | 高橋多佳子さん
★あづみ野コンサートホール開館12周年・ドビュッシー生誕150周年記念 
   高橋多佳子ピアノ・リサイタル

《前半》
1.ドビュッシー :「ベルガマスク組曲」より、“月の光”
2.ドビュッシー :「子供の領分」 全曲
3.シューベルト :即興曲 第3番 変ト長調 作品90-3
4.シューベルト :即興曲 第4番 変イ長調 作品90-4

《後半》

5.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第3番 ハ長調 作品2-3
6.ショパン   :ノクターン 第8番 変ニ長調 作品27-2
7.ショパン   :スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39

《アンコール》
※ ドビュッシー :「前奏曲集第1巻」より、“亜麻色の髪の乙女”

                  (2012年11月18日 あづみ野コンサートホールにて)

行けてよかった。
あづみ野のみなさんに会えてよかった。
そして、多佳子さんの演奏を聴けてよかった・・・心からそう思える1日でした。

                  
ワイドビューしなのの車窓から木曽路の紅葉を楽しんだのち、少々余裕をもって穂高駅に到着。
穂高神社で七五三の黄色い歓声のなか、ひとり息子のために合格御守を求め天神社をお参りしました。

心だにまことの道に叶ひなば 祈らずとても神や守らん (道真公)

なぜに世間の親がこぞって【受験生を抱えたときにかぎって】天神社を訪れずにおれないかぐらいお見通しでありましょうに、菅公もお人が悪い・・・
いや、菅公のせいじゃないというなら、神社の縁起にそんな歌を紹介しないでほしいよね・・・
などと思いつつ、いつもの道をコンサートホールへ向かいます。

                  

生憎の少雨で壮観な常念岳は拝めず残念・・・
でも、犀川の中州ではシギが羽を休め、頭上ではトンビがクルリと輪を描いて、名も知らぬ鳥が誰のためでもなく美しい声でさえずっているようすを五感で感じながら深呼吸すると、自分自身が風景に溶け込み自然の一部だと実感できるから不思議です。

自分と自分と対峙するなにか・・・
普段は・・・パソコンに向かっているときなどは特に・・・そんな風にしか物事を感じ取れないでいるけれど、本当はそうではない。。。
「自分」という言葉があるから「自分」があると思ってしまうけれど、世の中にあるものすべてから名前を取っ払ってしまえば自分も相手もない世界、言い換えれば「すべてが自分の世界」が安曇野(だけじゃないけど)では体感できる気がするのです。

そしてそれは・・・
何かに時間を忘れて入れ込んでしまったり、ステキな音楽に聴き入ってしまったりしたときにも体感できること。
そんな時間過ごすことを期待して訪れ、そして満たされて帰ることができる・・・ありがたいことです。

ありがたいといえば・・・
ひとつのコンサートの裏側でどれだけの献身があるのかはそれなりに知っているつもりでおりますが、コンサートホール、調律、運営スタッフのみなさんに心から感謝申し上げます。
調律・録音・オーディオなどに関する興味深いお話などというレベルではない貴重なご垂示や、油揚げを裏返しにしたおいしいお稲荷さん、私が驚嘆するセンスのギャグにいたるまで、いろんなものを土産に持ち帰ることができ大満足でありました。

就中、はじめてあづみ野コンサートホールを訪れて6年・・・
ベーゼンドルファーのピアノがますます素晴らしい音に育っていることを実感しているのですが、その調律に関して伺ったお話では、今回はシューベルトにフォーカスし、作曲家・作品ごとの音域はもちろんピアニストのテクニックまで考慮して行われている・・・とのこと。
お話を伺えば「なるほど」と思えることばかりではありながら、その実現のためには、実は生半可じゃない技術と経験の裏打ちが必要であることは容易に想像がつき、それを当たり前に仕上げてしまうプロの仕事に感銘を受けました。
自分の仕事においても、かくありたいものです。

                  

さて、主役の高橋多佳子さんですが、今回も素晴らしい演奏を届けてくれました。
ロイヤルトランペットさん流に今回の名言をご紹介すれば【地で行くピアニスト】でありましょう。

まさに地でいくピアニスト全開!
得難い感銘を与える演奏とのギャップがこれまた信じがたいのですが、それはひとえに聴き手を惹きつけずにおかない演奏の魅力の証左に他なりません。


インティメートな会場だからこそ、いつもながらの客席の後ろからの登場。
『月の光』では、冒頭のピアニシモはピアノの響・会場の空気を確かめるかのようなやや様子見の感もありましたが、クレッシェンドにつれていつものの世界へすーっと誘われ、流麗なアルペジオに乗っての旋律線の表現には早くも我を忘れた陶酔がありました。

これはベーゼンドルファーの特徴的な芯のくっきりした音、スタインウエイやヤマハなどに感じる付帯音やもれなくついてくると言いたいほどの残響が少ない特徴によるところも大きい・・・かもしれません。

『子供の領分』が、先月岐阜県の関市で聴いたときとの聴きくらべになったため、いっそう確信的にそう思えるのです。
「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」の冒頭など明らかに多佳子さんは聴かせ方を変えているように思えたのですが、これもピアノの性格によるもの、それを生かそうとした技かもしれません。
音の芯がはっきり聞こえるということは、ピアニストの一音一音に対する思い入れがはっきり聞こえるということでもありますが、響や雰囲気でごまかせないということでもあると思います。
どのフレーズをとっても流されない丁寧なタッチにすごいなと舌を巻くと同時に、ピアノそれぞれの持ち味を生かして弾かないといけないからピアニストはタイヘンだと思ったり。。。

で、あくまでも自分の感想としては、関市のピアノと安曇野のベーゼンと比べると、関市の方が残響というか倍音のせいというか音が滲んでいるように響いていたように思われます。
それがいいとか悪いとかに直結しないのがまた不思議なところですが、ベーゼンの方がピアニストのストレートな表現が楽しめると思いつつも、「人形へのセレナーデ」とか「雪は踊っている」の冒頭、「ゴリウォーグのケークウォーク」のトリスタン旋律と合いの手などでは多少滲んで聴こえるほうがむしろ存在感・雰囲気が出たりすると思ったものです。

前半、私にとっての白眉はシューベルト『即興曲第3番』でした。
私がもっともピアノのCDを多く所有している作曲家はシューベルトであり、即興曲集はD960の変ロ長調ソナタと並んで40種類余の演奏を楽しんできました。

しかし・・・
この日の多佳子さんのようにこの曲を弾いた人を知りません。
癒しの音楽として心地よく聴かせてくれる演奏はいくつもありますし、それぞれに得も言われぬ感興を催させられることは事実です。
シューベルトにフォーカスしてチューニングされたというこのピアノから溢れ出したのは、野太い祈り、静謐でありながらこのうえなく荘厳なコラールとでもいうべき地に足がついた天上の音楽でした。
あっという間にあちら側に連れ込まれて五感で受け止め・・・
後から思い直してあの体験をなんと表現しようかと考えたところ「魂のデトックス」という言葉が閃きましたが、要するに懺悔せずにはおれないみたいな気持ちにさせられたのです。

いや、参りました・・・
こんな演奏を「悪魔の悦楽城」のMCに続けて繰り出してくるとは・・・。

『即興曲第4番』はもう何度も聴いていますが、これもまたアッという間に終わってしまったと思えるほど入れ込んで聴いてしまって・・・。

でも、とにかくこの第3番には衝撃を受けて前半を終えました。

                    

後半は多佳子さんをしていつも以上にナーヴァスにさせしめた新曲、ベートーヴェンの第3番のソナタから始まりました。

がんばりますから、とにかく聞いてくれという趣旨の解説がありましたが・・・
ミケランジェリやソコロフでも聴いていたこの曲から、「こんなベートーヴェンがあったか!?」という発見に満ちた興味深い弾きぶりで楽しく聴けました。

とりわけ第一楽章が目覚ましく、音の振幅ではかのハンマークラヴィーアもかくやと思わせるほどの曲だったかと思い至りました。
場面転換が巧みな多佳子さんのこと、ハイドンの疾風怒濤を思わせるようなところや、モーツァルトのチャーミングさを髣髴させるところなど、初期のベートーヴェンならではの初々しい側面をあえてコントラストを大きくとって演奏されていたのかな・・・と。

第二楽章もじっくりと、第三楽章も丁寧に、そして第四楽章は穏やかで自然に聴かせてくれて、この作品への想いがどんなものかを感じ取ることができました。

きっと思いっきり弾いてくれたんだと感じますが、これが寝てても弾けるほどに手の内に入って、件の大家のごとく自然と自分の歌としてあふれ出てくるまでになったとき、どんな高みの演奏が聴けるのか期待大です。

当方の予断をいつも超えてくれるアーティストには、予断のハードルを可能な限り上げて期待していないともったいないですからね。(^^;)


そして、しんがりのショパン2曲。
これを聴いてしまったがために、多佳子さんのベートーヴェンにはまだまだ高みがあると信じられる・・・それほどの演奏でした。

『ノクターン第8番』の出だしのアルペジオ、旋律が現れるまでにあたりの空気は一変して世界が変わります。
いつものことですが、それが高橋多佳子のショパン演奏では起こる・・・
全世界が「その世界」になっちゃうのです。

(トライエム時代の)CDの演奏からもいつとはなく感じられるものですが、生演奏のときにはその現れようが尋常ではない・・・「これが手の内に入るということか」と賛嘆させられる迫力があります。
それを「寝てても弾ける・・・」になったら、いったいどうなってしまうんだろうか、という感じです。

ちなみにオクタヴィアのCDではソリッドな音、CDならではの純度を高めたハイパーな音を志向されているように思えます。これは対象としての音楽を精緻に聴くには素晴らしいソースだと思います。
つまり、神懸かった技巧を針小棒大気味に再現して聴き手を驚嘆させることには効果的ですが、神懸かったアトモスフィアをスピーカーの前に現出させることには向かない音作り・・・と感じています。
現在の「優秀録音」のベクトルはこちら向きであることは否めないので、個人的にはいろいろ思うところはあれ、現代最高峰のトーンマイスターによる仕事であることを疑うものではありません。

話を戻して、『スケルツォ第3番』。
私は多佳子さんのこの曲の生演奏は2007年6月に池田町と八王子で続けて聴いています。

もちろん厳格にコントロールされてのことですが、八王子の演奏ではとどまるところを知らないかの如くの疾走感で聴衆の度肝を抜きました。
聴き終えたご婦人方が、あっけにとられたような顔で口々に「すごいすごい」と言っていたのを(自分の書いたブログ記事を見てですが)思い出したところです。

今回の演奏はずっと落ち着いたもの・・・でも、曲想はまさしく大家のそれとなっていました。
すこぶるつきの名演奏、恰幅もよく揺るぎない・・・それでいて高橋多佳子からでないと聴けないものがある。。。

いえ、ドヤ顔しようが謙遜しようが多佳子さんの場合関係ありません。
紡ぎだされる音のはたらきのめざましさは変わらない、彼女のショパンはそんな思いを抱かせます。


アンコールは『亜麻色の髪の乙女』。
カーテンコールで見せてくれる【地でいく】部分と、得も言われぬこの演奏・・・のギャップ。
気負いなく置く旋律の行きつく先の一音・・・がベーゼンの特性と相俟って、ハスキーに愁いを帯び、言葉にならないすべてを物語っている・・・
こんな瞬間を体験できるだけで、来てよかったなとつくづく思ったものです。


思えば、ショパン、ロシア物、リストにラヴェルにドビュッシーと多佳子さんの演奏を聴いてきましたが、シューマンを除いてはあまり独墺物を聴いてきていない・・・
でも実は、バッハを含めベートーヴェンにシューベルトと埋蔵金のごとくお宝が眠っているかもしれない、そんな思いを強くしました。

もちろんベートーヴェンへの期待が大きいことはいうまでもありませんが、多佳子流シューベルト演奏で、私のかなり確立しているかに見えるシューベルト観を打ちのめしてくれるに違いないと、またしても勝手な予断を楽しんでいます。

それは、今回の演奏中もっとも私が感銘を受けたのが『即興曲第3番』終盤の主旋律に添えられた微かだけれど、主旋律を際立たせるのに絶大な存在感を持つ音たちの献身であり、そのもっとも感動的な表現を聴いたから・・・です。
クラシック音楽の世界が豊饒であることに感謝するほかありません。


打ち上げの席で、ブラームスの作品118-2の話題が出ていましたが・・・これもたまりませんね、ぜひ聴きたい。
スクリャービンの幻想曲で旋律をあのように歌った多佳子さんですから、きっと萌えてしまうんじゃないかと・・・期待は膨らむばかりです。

                  

終演後も暗譜の効用について伺ったり、興味深い話を聞かせていただきました。
リヒテルなどがコンサートにおける暗譜の習慣に一石を投じていますが、確かにそれで失われてしまう恐れがある「よんどころない緊張感」は演奏における生命線のような気がします。
心配なら楽譜を見て弾けばいいと建設的な提案をしているつもりではありましたが、「安心が気の緩みにつながりかねない」と言われれば、たいへんでしょうが頑張っていい緊張感の下、最高の演奏を聴かせてくださいというほかないのかな・・・と。(^^;)

そんな中で、「忘却曲線」の話なんかしちゃったりしたんで、まずかったなと思ってたりしますが・・・。


そうそう、スゴイ記憶力の持ち主・・・
ダニエル・バレンボイムによるベートーヴェンの交響曲・ピアノ協奏曲・ピアノ・ソナタのCD19枚におよぶ全集の話題を多佳子さんがしてくれました。
ロリン・マゼールも人間業とは思えないすごさ・・・だと。

私は、「バレンボイムはあれだけ多忙なのに手帳を持たないことで知られている人」と応じたのですが・・・

記憶力の加齢による低下に懸念を抱いていた多佳子さん・・・
あなただって、B型トリオの再来年1月の予定、同級生トリオの予定もそうですが、場所も日付もバレンボイムばりにしっかり頭にはいってたじゃないですか!

ですから暗譜もぜんぜん大丈夫ですよ・・・きっと。(^^;)

“さろん・こんさーと・せき” 音楽との対話シリーズ No,84 高橋多佳子 ピアノ・リサイタル

2012年10月11日 03時30分07秒 | 高橋多佳子さん
★“さろん・こんさーと・せき” 音楽との対話シリーズ No,84 高橋多佳子 ピアノ・リサイタル

《前半》
1.ドビュッシー :前奏曲集 第1集より 「亜麻色の髪の乙女」
2.ドビュッシー :子供の領分
3.シューベルト :即興曲 第4番 変イ長調 作品90-4

《後半》
4.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 《悲愴》
5.ショパン   :バラード 第4番 ヘ短調 作品52
6.ショパン   :ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53 《英雄》

《アンコール》
※ ショパン   :練習曲 変イ長調 作品24-1 《エオリアンハープ》
※ ショパン   :夜想曲 第2番 変ホ長調 作品9-2

                  (2012年10月10日 関市文化会館小ホールにて)

行きの高速で気温10℃という表示を見て半そで開襟シャツを後悔しましたが、(すばらしい響きの音響板加工が施されているけど、ステージが高くて体育館みたいな)演奏会場でピアニストの衣装を見たときに文句はいうまい・・・と。
もちろん快適、本当に行けてよかったと思えるリサイタルでした。

ご本人のブログでご活躍ぶりは承知していたとはいえ、音を聴いてすっかり納得。
ますます安定感を増した演奏とときどきドキッとするトークにすっかり魅了されて・・・ステージの余韻に浸るあまり、帰りの道を間違えてしまったほど。。。

そもそもこのコンサート、高橋多佳子さん本人のブログでのアナウンス以外にネットのどこを探しても情報らしい情報はなし・・・
で、連絡先に電話させてもらったもののなかなか要領を得ず、とにかく『当日券がある』という言葉を信じて「伺います」という状態で家を出ました。

なんてプロモーションなんだと思ってましたが、開演時にはほぼ満席。
このシリーズ・・・全く知らなかったのですが・・・84回目ともなると、耳の肥えたお客さんが関市にはいっぱいおられるので宣伝はいらないんですね。
そして、手作り感いっぱいのプログラムをはじめ休憩時のホワイエ(?)の珈琲サービスなど、首都圏のコンサートホールでは望めない独特のこなれた運営がステキでした。

                  

演奏は生誕150周年のドビュッシーから・・・

「亜麻色の髪の乙女」でしっとりと始まり、なにぶんサロン・コンサートなのでトーク全開。
同じフランスの作曲家ラヴェルの「ボレロ」の話からお約束の展開でつかみはオッケー・・・
トークがイケイケの多佳子さんは絶好調の証拠と思って聴いたらその通り、「子供の領分」は初めて聴くレパートリーでしたが、6曲それぞれの1音目からの背景づくりが出色で必然的にキーとなるフレーズがよく映える・・・
最後の音をキメるところも第1曲は杭を打ち込むように、第2曲は脱力・・・という感じで、まったく惑いなくわかりやすい。

印象深かったのは、第1曲の音色のペダルを使った混ぜ合わせ方の新鮮さ、第4曲の雪がちらつく描写でミケランジェリに勝るとも劣らない雰囲気を感じたこと、第6曲のワーグナー旋律とケークウォークの合いの手をはっきり対象的に弾かれたこと・・・
いずれも多佳子さんらしくて、聴いていて楽しかったです。


ここからは幼いころから一生懸命勉強した懐かしいレパートリー・・・

変イ長調好きの多佳子さんが選んだシューベルトの即興曲はやはり第4番。
私はハ短調の第1番が好きで多佳子さんの演奏でも感銘を受けたものですが、もっとも多く聴いているこの曲はやはりすっかり手の内に入っている様子で何度聞いても味わい深いものでありました。

装飾音のきらめきとそれに負けずせめぎあうテナー声部の旋律・・・
もちろん素晴らしい演奏はいくつもあるでしょうが、少なくともこの点は実演での多佳子さんからしか聴けない白眉と感じる大切な瞬間でした。


                  


後半・・・
にこやかに壇上に現れるなり、何の思いれもなくピアノを弾きはじめ・・・おぉ、アルゲリッチみたいだ!
それが何の曲かはネタバレになるかもしれないから書きませんが、後半トークもつかみはオッケー!!

神の受難のハ短調・・・
「悲愴」はあづみのでも聴いたレパートリー、以前の演奏よりも(ピアノの音色の性格が違うせいもありましょうが)一層オーソドックスで安定しているように聞き取れました。

曲がベートーヴェンなだけに衒いなく普通に弾いたらそれぞれの演奏家の個性が自然に浮き上がり、真に魅力あるピアニストなら聴き手を飽きさせることなく聴かせられるはずと、個人的には考えています。
自分を主張する(本人は楽譜に忠実に弾いているといっていることが多いけれど)タイプの演奏をされるピアニストには、しばしば却ってベートーヴェンの良さを損なってしまう危惧がありますが、そこは多佳子さん、浮足立ったような箇所はみじんもなく確信をもって演奏してくれました。

ベートーヴェンでは、高橋多佳子の演奏であることを証明しようとしなくていい・・・
そう思うのですが、第一楽章のグラーヴェの和音を長く保持するところで、調性を決定する音をわざとそれとわかるように途中で消すという未だかつて聞いたことがない工夫をしておられたと思います。
最初はえっと思ったのですが、繰り返しでも、中間部でも同じ処理をされていたので、なにか考えがおありなんでしょう。。。
楽譜がどうとか全然わからないので是非を論じるのは埒外ですが、今でもすごく印象に残っています。

第二楽章、こちらはこの楽章でこれほど癒された演奏はかつてないと感じるほどにしっくりきました。
お好きな変イ長調だからでしょうか・・・
テンポをいじらないのに雄弁で懐が深い。。。
ここでも前打音の扱いに多佳子さんの主張が感じられましたが・・・
こちらにはコロッとやられてしまいましたから(少なくとも私には)効果抜群だったのではないでしょうか。

終楽章・・・
終演後に多佳子さんが言いたかったことはわかったつもりですが、私にはベートーヴェンの良さをもっとも感じられた楽章かもしれません。
第一楽章はピアニスト高橋多佳子の主張を、第二楽章は多佳子さんのよさを感じてましたから、ベートーヴェンの良さが聴けてうれしかったです。


今後ベートーヴェンをもっと弾きたいという多佳子さん・・・
8年後が生誕250周年ですからツィクルスのスタートにはちょうどいい頃合でしょうか?

ソナタ全曲聴ければもちろんいいですけど如いて挙げるなら、第3番、第4番、第6番、第15番、第23番、第24番、第26番以降全部・・・とりわけ第29番、そして弾いてくれていながら聴くことができていない第31番・・・期待が高まります。
すでに聴いたことはありますがテンペスト、ワルトシュタインももちろん大歓迎だなぁ~。

宣言通りベートーヴェンを引っ提げて、また関でリサイタルをしてください。


しんがりはショパン。

私のためにバラ4を入れてくれてありがとうといいたくなるプログラムですが、解釈の基本はCDとも新宿の講習会ともまったく変わらず、本当に練り上げられ完成されたバージョンだということがわかります。
第二主題回帰前のパッセージの疾走感がやはり生演奏という迫力であること、そして第二主題回帰の「希望の光が見える」箇所への入り方がちょっと聴きCD演奏よりは控えめになったけれど実際には感動を昂める効果が高まっている・・・と感じとれます。

何度聞いても感動させられてしまう、ピアニスト自身が「曲が素晴らしすぎて」と感じてチャレンジし続けてくれているからこその魔法なのでしょう。

英雄ポロネーズもしかり・・・
すべての曲をとおして全体を通して演奏の構成がはっきりすっきりしていて、場面切替が自然でわかりやすいことが安心して聴ける秘訣だと感じます。
細かい工夫もほんとうにいろいろなさっていると聴いていてわかる気がするのですが、ディテールにこだわるあまり全体感が脆弱にならないことは、ドキっとさせる美音を武器とする点で共通しながら、かの歴史に名を成す大ピアニストよりもしかしたら高橋多佳子が優っている点かもしれません。

プログラムの最後も変イ長調なら・・・最初に惹いてくれたエオリアン・ハープも変イ長調。。。
これまたこまかなアルペジオの音色のブレンドが、いつにも増して表情豊かで感激。
りかりんさんとのデビューコンサートのソロで聴いたときは、単音の旋律の音色にビンビンきた覚えがありますが、それとは別種の全体としての潤いある演奏が堪能できました。
アンコールのリラックスした雰囲気・・・いや、お人柄がでた演奏だったんでしょう。

ラスト、もう一曲と断って演奏されたのは作品9-2のノクターン。
なにか特別の仕掛けがあるわけではないのに、曲の世界に惹きこまれ、あっという間に終わってしまう・・・
惜しいようだけれど、充足した気持ちでいっぱいになれる、今回もそんな素敵なコンサートでした。

「悲愴」のところでハ短調と対照した変ホ長調を紹介しておられたので、最後はこの調性で締めくくりたかったのかな?
オシャレなアイディアだと思いました。


多佳子さんと、調律師さん、そして関市でこのリサイタルを企画してくれた方に感謝です。

ホールイン・ワンの達成感とは?

2012年08月18日 22時02分38秒 | 器楽・室内楽関連
★モーツァルト:クラリネット五重奏曲 ケーゲルシュタット・トリオ
                  (演奏:イザイ弦楽四重奏団)
1.クラリネット五重奏曲 K.581
2.ケーゲルシュタット・トリオ K.498
3.アダージョ&フーガ K.546
                  (2004年録音)

ホールイン・ワンをしてしまった。

あの日は、遅れないように5時に起きて余裕をもって車で出かけた。
家を出てからおにぎりを買うためにコンビニに寄ってゴルフ場に到着するまで、車中でかけていたのが、このイザイ弦楽四重奏団によるモーツァルトのクラリネット五重奏曲だった。
そんなこんなでいっきにゲンのいいディスクになったと思ったわけだが、禍福はあざなえる縄のごとし、スゴイを通り越して神がかり的なことをしてしまうとお祝い、励ましからタカリに至るまでさまざまに気を遣わなければならないアプローチがあってよかったのか悪かったのか・・・。

折しもオリンピックたけなわの時期のこと、自分も「ホールインワン達成者」という肩書を授与されうる立場となったことで、種目として正味38名おられるらしいメダリストと呼ばれる人たちと、もしかしたら近しい境遇になっているのかもしれないと感じている。

当日多少調子が良かったにせよ自分の実力はなんら変わっていないのに、周りの囃子(決して期待ではあるまい)が一変した・・・と思う。

真にゴルフに打ち込んでおられる先輩こそ「ホールイン・ワンは初心者と熟達者に多いと言われているがお前はどっちかわかっているな」と、まだ自分が成し遂げていないことを嘆いて見せて正しく祝ってくれるものの、明らかに私など足元にも及ばない実力をもつゴルフ好きの上司筋から「プロ・プロ」と持ち上げられるのは、必ずしも気持ちの良いものではない。それでも祝ってくれているだけありがたい、のだが。


あの日違っていたことと言えば、いつもは7番アイアンとサンドウェッジを2本ずつ持っていくところを、9番アイアンとアプローチウェッジの間がやっぱりほしいと思い立ち当日朝にサンドの1本をピッチングに替えた・・・ことぐらい。
そしたら、そのピッチングでやらかしてしまったのだから、閃きというか何かに憑依されたとしか言いようがない選択ではあった・・・ことになる。

しかし・・・
ショートホールでピンが見えるのならいつもそこをねらって打っているくせに、いざ入ると大騒ぎするのも奇妙な話かもしれない。
もちろん、これは私が体験して数日が経過しているから言えること・・・。
嫌味になる可能性があると承知の上で体験談を言わせてもらえば、そのホールでティーショットを打つ時に思ったことは、単に(距離の合う)ピッチングを持ってきてよかったということと、無風でランが出ないように高い球を打とうと思ったという2点だけ。
パーティ4人の4番目で、同伴の誰も(当たり前だが)そんな物珍しい光景がその後にあることなど期待のかけらもなかった。
はたしてイメージ通りにスィングできて、「いい感じで球が上がったな」とそこではシメシメと思って「あとは距離があっているかだな」とボールの行方を追ったところ2バウンドでカップに入った・・・のである。

高くあがったとき、間違いなくシメシメと思った・・・が、カップに入った時は「あっ!?」と思っただけであった。
同伴のみなさんもそうだった。
むしろその日に7~8mのパットを沈めてパーセーブしたときのほうが、素直にガッツポーズもでて「よし」という声も出た。
周りも「ナイスパー」と盛大に言ってくれて、達成感、満足感はホールイン・ワンの比ではない。
もしかしたら自然にドヤ顔も出ていたかもしれない。

しかし、ホールイン・ワンはちがう。
文字通り「あっ!?」であり、「ヤッター!!」でも「どうや!?」でもない。
それは私が特にゴルフに打ち込んでいるというわけでもないから、ホールイン・ワンを達成するために努力しているはずもなく、願っていもしない想定外のことをやらかしたとしても何を実感してよいかわからない。
他のみなさんがパットをしているあいだ、ピンをもって「ナイスイン」とか言っている自分の所在のないことったらないし、居心地もよろしいものではない。

いまだに達成感らしいものはなく、とんでもないこと(やっちゃったんだから「ありえないこと」ではない)が起こったという事実のみを反芻するばかり。
同伴の上司は「事故」ではなく「事件」だと言われたが、言いえて妙だと感じている。


いつもと同じようにやっていながら、とてつもないことがはからずも達成できたことが幸せかどうかはわからないが、達成してみないと実感できないことがわかったのはよかったに違いない。



イザイ弦楽四重奏団のこのディスク、彼らが自らのレーベルを興して既発の作品もリニューアルして出したものの一環である。
彼らはレコード会社の意向に囚われず、自らの望むレパートリーによる芸術作品を創造し残すことを目指したのに違いないのだろうが、どこにも余計な力が入っていない当たり前の演奏を繰り広げ、その気概にふさわしい会心の作品を残しているのだと思う。

カーステレオで心地よく聴いていながら、私を神がかりモードに誘ってくれたのかもしれない。

とすれば、本当はペヌティエの参加するケーゲルシュタット・トリオを目当てに入手したのだった・・・このあたりも因果関係があるのかないのかわからないが・・・から、世界で起こっていることのすべてが、今ここの時間に流れ込んでいるのだとしたら、少なくともペヌティエのシューベルト演奏のクリティックに出会ったあの日あの時、また中古ショップの店頭でたまたまペヌティエの新品を廉価にしたディスクに巡り会ったあの日あの時から、このホールイン・ワンは約束されていたのかもしれない、そんなこともやらかしてしまった今となって、いろいろ考えたりするのである。


ところで、私のCDプレーヤーのZZ-EIGHTとX-50wの違いが少しずつ体感できるようになってきた。
ZZ-EIGHTは心持ちタイトであり、X-50wはそれよりはやや緩く賑やかな音がする。
X-50wはこの2台のうちの比較論では華やかといってもいいのだが、ソースによってはそれが「滲み」と感じられてしまうこともなくはない。

ZZーEIGHTのトップローディングの「フタ」のセットも面白い。
鑑賞前の儀式として恭しく行うことが楽しいこともあれば、なんとはなくわずらわしいと感じることもある。

いずれも私の鑑賞能力をまだまだはるかに超えたところで鳴っている機械だから、その日その時に自分が感じるところに従って、楽しく傾聴できればそれでよい。
続けていれば聴きなれたディスクから、それこそホールイン・ワンのときのような驚きや、ロングパットを沈め溜飲を下げたような快感を感じることもあるだろうから。

もとより、ミスショットやもったいない1打が出ることも念頭に置いておく必要があるだろうけれど。

ルーツの開陳

2012年06月26日 00時25分33秒 | JAZZ・FUSION
★ソフィー・ミルマン
                  (演奏:ソフィー・ミルマン)
1.おいしい水
2.アイ・キャント・ギヴ・ユー・エニシング・バット・ラヴ
3.ギルティ
4.マイ・ベイビー・ジャスト・ケアズ・フォー・ミー
5.バック・ホーム・トゥ・ミー
6.ザ・マン・アイ・ラヴ
7.ロンリー・イン・ニューヨーク
8.アイ・フィール・プリティ
9.バラ色の人生
10.マイ・ハート・ビロングス・トゥ・ダディ
11.黒い瞳
12.ディス・タイム・オブ・ジ・イヤー
13.アイ・ガッタ・ハヴィ・マイ・ベイビー・バック
14.ストーミー・ウエザー
                  (2004年作品)

引っ越して・・・
CDを置くイーゼルがどっかへいっちゃったので新しいものに買い替えて・・・
アンプをZZ-ONEに替えて・・・
当ブログのテンプレートをジャズ風のものに替えて・・・
CDプレーヤーに・・・めちゃくちゃ無理して・・・ZZ-EIGHTを加えました。

まだまだいろんな音楽をとっかえひっかえ聴いているところで、ZZ-EIGHTがすばらしいプレーヤーであることは疑いのないところですが、ZZ-ONEとのつながりがいいとか、ESOTERICのX-50wの押し出しの強さのほうがいいとか言えるまでに至っていません。
いずれも深く濃く表現する傾向にあるとは思いますが、強いて挙げれば残響の多寡に多少の違いがある・・・
ZZ-EIGHTのほうが直截で、X-50wのほうが付帯音が若干多い、それぐらいの差しか感じられません。
この間違い探し的なことひとつとっても、新鮮な気持ちでの楽しい楽しい聴き比べはまだまだしばらく続けられそうです。


もとよりこれらは全部中古。
今のラインナップで言うと、SACDプレーヤーだけが新品で導入したもの・・・です。

一昔前の私にはまったく想像できなかった事態・・・
私のご先祖様がたは、痩せても枯れても新品で物を迎えて最後まで使い尽くすことをとことん信奉していました。
いまから思えばそれは信仰みたいなもので、理由なんて・・・・きっとない。。。

私もそれが当たり前との思いで生きてきましたが、ここへきて宗旨替えを果たしたといえるでしょう。
家族と一緒に住むにあたって泣く泣く手放さざるを得なかったギターの多くも、今使っているゴルフのクラブも中古だし・・・
一族の掟をこれみよがしに(ひとり)破ってしまっています。(^^;)

きっかけはインターネットの台頭によって、廃盤CDや手に入りがたいCDが広く中古市場で出回っているのを見つけたこと。
それがどんどんほかのものに広がって、とうとう機材までネットで見つけて吟味して・・・というところまで来たわけです。

なぜ古いものを買うのかといわれれば「ずっと憧れの商品だったから」という話につきます。
もちろんあれも好き、これも好き・・・実現したいシステムのルーツはそれこそ古今東西を問わず幾通りもありました。

でも、別格にフィーリングが合う商品、いつかは使ってみたい商品というものがある・・・。
そのようなコンポーネントとご縁があれば巡り会い、数あるうちのただひとつの「一期一会」さえ成就させれば、それ以降の流れはあるていど必然となります。

今回のZZ-ONE⇒ZZ-EIGHTの場合は嬉しくも邂逅のご縁が続いた・・・
あまりにもスパンが短かったので、別の意味でとっても大変でしたが、今こうして充足した気分で音楽に浸れるのは、多少首の回りが悪くなったとはいえ、理由なく道理を引っ込めて無理をしたからに相違ありません。

かつて心の中で自分の夢をかたどってくれたモノが、今ここで、記憶を超えて目の前で自分の好きな音楽を奏でてくれる・・・
いい音楽を聴くのに、新品でなくてはならぬ、という教えは、ご先祖筋にとってはともかく、こと私にあっては足かせ・呪縛であったといえましょう。

そして・・・
私の夢をかなえるルーツたる数あるコンポーネントの中から、ボウ・テクノロジーズの路線に踏み出したいう選択は、マーク・レヴィンソンやマッキン、クレルなどの超重量級路線を必然的に捨てるという選択でもあり、実は、かなりの量の夢の実現性をリストラしたということです。
多少のお金があったとしても、この狭い家ですからML-2Lが鎮座するというのは現実味に乏しいですから、この選択は必然であり、お墓まで持っていきたいと心底思える逸品であることを思えばもっとも自分向きの幸運の女神の前髪を掴むことができたんだと、自分を正当化し続ける毎日であります。

                 

さて・・・
ジャズのテンプレートに替えた(戻した)ことでもあるので、日ごろそうそうは聴いていないジャズ・ヴォーカルからお気に入りを挙げておきます。
とはいえ、みんな知ってる人でしょうけど。。。

ソフィー・ミルマンは彼女の2~3枚目のアルバムにポール・サイモンやブルース・スプリングスティーン、スティーヴィー・ワンダーの佳曲を入れています。
それをyou-tubeで見つけて「ほう・・・」と思って聴いて・・・あっさり惹かれちゃいました。
いくつかの彼女の歌唱を聴いてジャズシンガーとしては特徴的なレパートリーをソツなくこなす歌い手だとは感じましたが、あにはからんやポップスの名曲たちは客寄せというにはクォリティーが高いから・・・
本当はこの人は何をしたいのだろう・・・とわずかな戸惑いも感じていました。


それが・・・
さかのぼって手に取ったこのデビュー・アルバムで、実はこの歌手のバックグラウンドには実に広範なルーツがあって、ここではそれが複数のプロデューサーの手によってみごとなまでに開陳されているのを知りました。
バラエティ豊かな選曲に編曲、歌声もときにイーデン・アトウッドを思わせる小悪魔的な瞬間や、伊藤君子さんの力唱を思わせる歌い回しがあったりと変幻自在、それにいい意味での気負いかもしれない勢いがあってまことに活きがいい・・・これこそが彼女の最大の魅力だと感じました。

録音には少し暗騒音を感じたり声に生々しさをもうひとつ求めたい気もしますが、それは新鮮な機材で聴いているので私にはとるに足らないこと・・・であります。

このルーツの方向性を大幅に絞って、なおかつレパートリーに工夫を加えて次作以降が制作されている模様ですが、私には最大のウリに感じられる活きのいい声の表情がいささかセーヴされているように感じられるのが残念です。
大物とかゴージャスとかいう批評は外れていないけれど、若いんだからもっとはっちゃけていいんじゃないか・・・?
テニスのセカンドサーヴィスのように工夫して置きに行くのではなく、どんなタイプの曲でもファーストサーヴィスのような勢いを取り戻す・・・
そのほうが、今の彼女の良さがもっと生きるんじゃないか、なんて思っています。

まぁ、大人気の彼女のこと、これからもどんどん新譜をリリースするんでしょうから、畢竟の傑作に出会う日を楽しみにフォローしていくことといたしましょう。


ゆくゆくはソフィー嬢はジャズ・シンガー界にあって、ポップス界で先般物故したホイットニー・ヒューストン(私と同学年の年なのに驚いた)のような存在にさえなりうる逸材と信じています。
なぜか知らないけれど、気が付くとファースト・アルバムばかり手に取ってしまうところは似てほしくないですが。。。

そういえば、デビュー当初のホイットニーは実力はいかんなく発揮しながらも、多少猫をかぶっていたように私には思われます。
ここはソフィー嬢と逆ですね。

ZZ-ONEの世界へ

2012年04月29日 10時30分34秒 | オーディオ関連
この四月、転勤で単身赴任を解かれ、故郷の愛知県に戻りました。
全般的には生活するにおいても、経済的にも祝着至極なことに間違いありません。

ただ、楽器を演奏したり音楽をきままに楽しもうという輩には、これがどういう事態を招くかということはよくよくご理解いただけると思います。

楽器はピアノおよび「弾く1本」を残してギターのすべてを手放すことにしました。
実際問題として弾く1本があるので困りはしませんが・・・退陣前の某首相のような「私はとってもかわいそう」という心中をお察しください。
この訴えが(たとえ気持ちはわかると言われても)ほとんどの人に通らないことは、これまでにも感じてきたところですが。(-"-;)


CDについては多少は手放しましたが、今のところ大半のコレクションを維持できています。
この「収納」は、当然に考えなければならないやっかいな課題です。
家が狭くなる主犯のように言われるのは仕方ないとはいえ、「着ない服とその収容ケース」がさらに大きくスペースを占拠する共同正犯であることを強く主張できない「弱み」となっているのはこれまた苦々しいところです。

しかしながら・・・
社内の単身経験者の仲間がこぞって「なんで俺のものからなくなっていくのか?」と思ったと経験談を聴けば、いい意味であきらめもつくというもの・・・
道路脇の部屋で車が通る音が気になる部屋とはいえ、家族からある程度離れた部屋に、それでもステレオを鳴らせる部屋をキープできたことだけでも大いに満足しなければなりますまい。



さて、冒頭から嘆きばかりを綴りましたが・・・
ステレオのラインアップをいじりました。
このブログは当初オーディオ関係のそれと勘違いされていたぐらいですから、この思い切った嬉しい変更についても記しておきましょう。


先週までのラインアップは次の通りでした。
【オーディオ・プレーヤー】
・エソテリック:X-50W       CD(メイン)
・マランツ  :DV9500      SACD(メイン)、DVD-A、CD(サブ)
・ソニー   :DVP-S9000ES DVD映像(メイン)、SACD(サブ)、CD(サブ)
【AVアンプ】
・マランツ  :PS17ーSA
【スピーカー】
・ヤマハ   :NS-1


引越に際して機能が重複するソニーを手放す決断をし、ややさびしさを感じていたところに、ネットで、名古屋のオーディオショップのある商品情報を見つけて事態が一変しました。



それがBOW-TECHNOLOGIESのプリメインアンプ【ZZ-ONE】です。
4月11日に輸入元によるオーバーホール完了、外観は無傷、つまみなども修理に際して新品に交換されていました。

なにせ15年以上あこがれ続けてきた機種でしたから、すぐ試聴に飛んでいきました。
多佳子さんのCDをはじめ、オケ、クァルテット、合唱と何枚かのCDを鳴らしたときには、「買います」と言ってしまっておりました。
ええ・・・この際値段は(あんまり)関係ありません。(^^;)



アタマのうちにあるときは、そのほかにもいろんな障害が思い浮かんでいました。

これまでフィリップスのCDプレーヤーやイタリアのスピーカーなど、外国製を使ったことはありましたが、結局(故障等を考えると)国産に如くはないという思い込みもその一つ。
AVサラウンドの芽が、(いったんは)完全につぶれてしまうという考えも頭をよぎりました。

でも、この音を聴いたらそんなことは吹っ飛びました。
念願の機材に国籍など関係あろうはずはなく、自分の望んだ音色を楽しむに如くはない。故障したら、そのときは直すだけ。
AVサラウンド、いつかはと思ってこれまでしなかったのだから、今のところなくても何の支障もない・・・と。




というわけで・・・

デンマーク製のZZ-ONEが、いまや我が家にあり、PCオーディオも含めたシステムの要としてその魅力をいかんなく発揮してくれています。

この1週間というもの・・・家の前の大通りを通る車の爆音、歩行者の会話や足音・・・これまででは考えられない劣悪な視聴環境の中でも、ほとんどそれが気にならないのは考えて見れば不思議、それくらい集中して聴くこともできるんだ、って感じです。


これまでのマランツのアンプはきわめて誠実に音楽を描いてくれましたが、ZZ-ONEの音は申し訳ないくらいに品位が違います。
もしかしたらすっぴんと化粧済のように、出てきた音に素材に付け加えられたウソがあるのかもしれません。
エソテリックとマランツのプレーヤーの音色の傾向がマランツでは全然違ったのですが、ZZ-ONEを通すとその差がそれほどまでには感じられなくなり代わってZZーONEの特徴である重心の深いコクのある音質が顕著に感じられることからも、そんな推理が働きます。

CDプレーヤーを投手とするなら、アンプは捕手。
素晴らしい独自のリードで、あらゆる投手のよいところを自分の個性を発揮しつつ結果を出すのだとしたら、とても親切な女房(いえ主役なのでこちらが亭主かもしれませんが)役であり、お店で視聴したときのマークレビンソンなど超高級機材よりももしかしたら私にとってインティメートな響を繰り出してきてくれる、やはり一生付き合える機材なんだと実感しています。


お店で視聴したときも家に来たときも、最初に聴いたのは高橋多佳子さんの弾くスクリャービン、幻想曲ロ短調でした。
聴きなれているからというのが最大の理由とはいうものの、いい録音だと思いつつ、何か全部を聴き切れていない気がしていたことがその理由です。
音の傾向を知ったり、スピーカーの位置を決めるなど、音を追い込むうえでも非常に有効だと考えてのことですが、このときにも今まで聴こえなかったような音の絡みが見えてきて驚きました。
音が一緒に鳴っているときに、それらが層状に絡んで響きの綾を成すか、分離してそれぞれの音がそれぞれに主張するか、あるいは・・・
そんな微視的ともいえることが、ZZ-ONEの外観のように、黒光りする奥底できわめて高雅に表現されているように感じられ・・・

という具合に、CDを聴けば聴くほど称賛のため息がでるばかりというありがたい状況なのです。


このバックステージでこれまで紹介したディスクは、ほどんどが誠実・実直なマランツで聴いたものでしたが、これからはZZ-ONEを介して感じたことなんかをぼちぼち紹介していければと思っています。

よろしければ、引き続きおいでいただき覗いて行ってくださいませ。(^^;)

探していたことすら忘れたとき見つかることもよくある話で・・・

2012年03月04日 21時00分00秒 | ピアノ関連
★ルドルフ・フィルスクニー・プレイズ
                  (演奏:ルドルフ・フィルスクニー)
1.シューベルト:3つの即興曲(遺作)D.946
2.シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集 作品6
3.ブラームス:4つの小品 作品119
                  (録音:1983年)

仕事の都合で今月末には千葉県を離れ、故郷愛知県へ引っ越します。
これに伴って単身赴任を解消、家族そろっての生活ができることとなりました。
なんの所縁もなかった土地も、いざ転出することが決まると、愛着がわいていることに気づかされるのはいつもと同じ。
千葉県には感謝・感謝です。

新しい土地に移ることで新たに開けること、失うこといずれもありますが、この決まってしまった点について気持ちの中で戦ってしまっては消耗するだけなので、音楽を聴くことに関しての課題をここに記すことでいろんな思いを鎮めたいと思っています。


音楽関係で愛知県に移ることで新たな展開が開けることは、率直に言ってまったく思いつきません。

これに対して、失うことは多くあります。
1.首都圏の数多いコンサートを鑑賞できなくなる。
2.ひとりで音楽をのんびり聞く時間が、家族と一緒に住むことで必然的に限定される。
3.首都圏の新譜・中古の充実した販売網を活用できなくなる。
4.東京都を含めた首都圏の図書館の膨大な廃盤・貴重盤を借りることができなくなる。
5.収納スペースによっては、今大切にしているコレクションを維持しきれなくなる・・・かも。

このほかにも懸念されることばかりたくさんあります。
最悪の事態を覚悟してしまえば、対処を間違うことは少ないなんてよく言われますが、どこが最悪かなんてその場になってみないとわからないんじゃないかなと思ったりもします。
限界と思うところまでは、ひたすら我慢するほかありますまい。


また、このブログは単身赴任になったころ、ひょんなきっかけで始めることとなったものですが、今後も無理せず、できれば今と同じペースで書くことがあるときに更新していければと思っています。


さて、上記の失うことの3番、ことに規模の大きいクラシック専門中古盤店は私にとっては楽園でした。
すでに御しきれないほどのコレクションを持ち合わせていますので、厳選に厳選を重ねたうえでしか購入することはするまい・・・と思って訪れます。
もちろん手ぶらで帰ることも少なくなかったですが、思いもよらなかった収穫ににんまりして幸せを感じることはさらに少なくありませんでした。

今度の住処はHMVなどの店舗もなくなってしまった地域ですから、きっとネット販売だけが恃みです。
あの心ときめく物色の時間、出物に当たったときの驚きといった心境とはこれでさようなら・・・かもしれません。

売り場では断腸の思いで購入を見送ったディスクを、帰ってからレビューなど見直して残念がったり・・・
もう一度、と思って翌週もう一度店を訪ねたり・・・
でも、そう思った盤は、翌週は間違いなくそこにない・・・ものです。
そうわかっていても、行かずにはいられない気持ちになるのも、病気かもしれませんが、楽しみのひとつでありました。

「当たりたかったら買うしかない」宝くじと同じで、聴きたかったら探すしかない・・・のです。


さて、冒頭のディスクは20年以上探していたものですが、とうとう先週御茶ノ水で手に入れることができたという一枚です。
いえ・・・
厳密にいうと、探していたことすら忘れてしまっていたというのが正直なところなので、20年来マルコが母を探したようにしていたわけではありません。

本ディスクと同時期に録音された、対となるもう一枚(シューベルト:ピアノ・ソナタイ短調 作品42、ヤナーチェク:霧の中で、ドビュッシー:版画)は20年前に長崎で手に入れていました。

我が国のオーディオの世界では知らぬ人とてない菅野沖彦先生が、デジタル録音黎明期、巨匠フィルクスニーの来日の機会に録音したこれらのディスクは、1990年ごろのクラシック・レコードの年間ではじめて存在を知り、演奏に対する「特選」の評価と演奏者のバイオグラフィーから聴いてみたいディスクのひとつになりました。
20年前、そのうちの1枚を耳にしたときにピアノ音楽を聴き漁っていた私の耳に、フィルクスニーの奏楽は格が違うと思われました。
親しみやすさ、高貴さ(後光が差しているように聴こえた記憶があります)、しなやかさ、素直さ・・・
どれをとっても桁外れに思われたものです。

菅野先生の録音に関しては、ホールのライブネスを生かしながらも、近接録音により微細な音の表情をとらえるのがコンセプトというライナー通りの特徴がすぐに聴き取れるもの。
さすがに当時のスペックと今では違うのかなというところはありますが、先の目的に照らせば、現在でも最優秀といえる結果が出せているといって間違いないでしょう。


そして、今回、ひょうたんから駒のごとく入手できたこのディスクもまったく同様、演奏・録音ともに期待をまったく裏切らない、本当に手に入れられてよかったと信じられるものでありました。

往年の巨匠のすごさ・・・
アラウは「むん」と力技を決め濃ゆい優しさが特徴ですが、フィルスクニーは力が入っているように思えないのに足腰が揺るがない座りの良さでどこまでもしなやかな優しさを感じさせます。

アゴーギグ、デュナーミクをいたずらに駆使することなく、渋みも味わい深さも感じさせる、すごい境地にあったことがこの録音から十二分に伝わってきます。
シューマンの解釈にも目を見開かされました。
いままで退屈でしかなかったダヴィッド同盟舞曲集が、ここでは最後まで耳をそばだてさせられるものとして存在しています。
もっと華々しく聴こえる演奏はたくさんあるのでしょうが、聴き手にもっとも寄り添う、いや、聴き手が寄り添える演奏としてフィルスクニーの奏でる響には抗しがたい魅力があるように思えるのです。


ほかにも東京の中古盤店で出会って狂喜したディスクたちがあります。

ターリッヒ弦楽四重奏団によるモーツァルトの弦楽五重奏曲第5番・第6番のディスク、何の予備知識もありませんでしたが買って聴いてびっくり。
第3・4番より、第5番の方が私にとって名曲だと知らしめてくれたもの・・・
当然、他のディスクがほしいと思いますが現在廃盤、なぜかと思えばカリオペ・レーベルが活動停止しているから!?

大慌てで店頭で見つけていたユージン・インジックのドビュッシーのピアノ作品集を取り措いてもらい、あわせてショパンのマズルカ全集も迷うことなくゲットして、その後こつこつ歩いて全曲そろえたタカーチュの五重奏曲のディスクと併せて全部大当たりだったこと。。。

イズー・シュアのチェロ、ゲルゲイ・ボガーニのピアノによるショパンとラフマニノフのチェロ・ソナタのディスクを手に入れたときも、チェロ・ソナタのディスクがピアノ独奏の棚にあったので、「なんでこんなところにあるんだ?」と思って手にとってみたら、ジャケットの彫刻が非常に美しく心奪われ、そのうえ奏者がノクターン全集で感銘を受けたボガーニがピアノだったのでラッキーと思ったら、なおかつ「未開封」と記されていて、即ゲットしたんでしたね。

ペーターゼン四重奏団のベートーヴェンのディスクも、シネ・ノミネ四重奏団のシューベルトのディスクも・・・
そうそう、このブログで第1巻がどうしても見当たらないと嘆いたジャン=フランソワ・アントニオーリのドビュッシー前奏曲集のディスクも・・・

現在廃盤で手に入らないはずのものが、「なんでこれがここにあるんだ!?」という歓喜を経て、何かのご縁でこうやって私の手元にあり、それぞれが楽しませてくれて・・・もちろん現時点で私にとってハズレだったかもというディスクもありますが・・・います。


求めよ!さらば与えられん!


これを実感させるこういったディスクとの出会いの機会が、今後、激減することは避けられません。
いささか残念に思うことも事実です。


しかし・・・
実は、今回このフィルクスニーのディスクを見つけたきっかけは、長女が千葉に遊びに来る待ち合わせ時刻までの時間つぶし。
娘を東京に呼ぶ提案をした私のファインプレーだともいえますが、こころよく応じてくれた娘が私にとってのラッキーガールなのでありましょう。

思えば、高橋多佳子さんの三条のコンサートにはじめて足を運んだときにも、大雨の中、娘と一緒にホールに行って感激したのが、ファン歴の始まりでした。

単身赴任解消で家族とともに過ごす時間をこそ、今後は宝物として過ごしていく・・・
今回長女が千葉に来たのも、そんな契機を感じさせるできごととなりました。

もちろん、素晴らしい音楽を機会が許す限り新しい土地(故郷ですけど)で聴きに行き、ディスクで楽しむことは続けるに決まっているんでしょうけどね。

夢の共演! 高橋多佳子とヤングピアニスト (2012年)

2012年01月30日 01時38分53秒 | 高橋多佳子さん
★夢の競演!高橋多佳子とヤングピアニスト

 ※高橋多佳子さんの演奏曲目※

1.月の光/ドビュッシー

2.亜麻色の髪の乙女/ドビュッシー
3.泉のほとりで/リスト
4.ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」ハ長調作品53/ベートーヴェン

                  (2012年1月29日 プラザイースト ホールにて)

今回も聴きに行けてよかった、心からそう思える素晴らしいコンサートでした。
なにより「聴き手を元気にする」、ピアニストが子供たちに語ったその気持ちが言葉のとおりに感じられる得難い機会であったことがうれしいです。
ピアニストのみなさんにはもちろんですが、企画に携わられた方にも感謝したいと思います。


そもそも、この企画は、オーディションで選ばれた小学生から大学生までの11人のヤングピアニストと高橋多佳子さんが連弾するというものです。
私のお目当てはもちろん多佳子さんの演奏・・・ではありますが、まずは、主役は子供たちなのであります。

とはいえ、単なるピアノ発表会とはわけが違う・・・
もちろん身内じゃない人が聴いていてとても楽しい思いにさせてくれる、レベルの高いコンテンツがつまっておりました。


私など・・・
天下のショパンコンクール入賞者が、連弾のセコンドとはいえスターウォーズのテーマや木村カエラさんのButterflyを人前で弾く、それだけでも聴きものだと思うのですが・・・。
セコンドだからこそ、多佳子さんの魅力であるリズムの乗りやテナー声部の音色も堪能できて楽しめるわけですし。


多佳子さんは、プリモの子供たちに合わせて音量も弾きようも工夫しておられるのでしょう・・・
プリモが引き立つようにするのはもちろん、たとえ走り気味になったりミスしちゃったりしたときにも、絶妙によりそってすぐに落ち着きを取り戻させてあげるリードがさすがです。

そんな場合、子供たちとはいえ、上手に弾けたとみんなに褒められても間違っちゃったところは自分でもちろん気づいています。
悔しそうにしている素直さ、純粋さには、きっとこの子たちはまだまだ上達するんだろうなとほほえましく思います。
そんな新鮮な思いとともに、今の我が身を振り返れば、子供たちにひたむきに何かに打ち込むことの大切さをあらためて教えられたようで、反省することしきりです。



さてさて・・・
さすがオーディションを通った才能だけあって、連弾のヤングピアニストたちはみんな上手。最近は音楽を専門に勉強している人たちも受けに来ているというだけあって、レベルが高くなっているというのもうなずけます。

就中、ドヴォルザークのスラブ舞曲を弾いた小学4年生の女の子、特に私の印象に残っています。
しなやかなフレージングやリズムの感じ方は天性のものか、あのチャーミングな弾き振りはまねしようとしてなかなかできるものではありません。
お医者さんになりたいそうですが、ぜひとも音楽も続けてもらいたいものです。


高校生以上の4人には、休憩をはさんで1曲ずつソロを弾く機会がありました。
これだけの人前で演奏することは、この上ない経験となることでありましょう。
それぞれのピアニストに生の音楽を聴く楽しさを味わわせてくれたことに感謝の気持ちを伝えたいです。
そしてみなさんがさらに飛躍されるよう、こころから応援したいと思います。



さて、プラザイーストのピアノは凛とした音色のベーゼンドルファー。
多佳子さんのソロ演奏は、都合4曲とはいえ、それぞれに内容の濃いもので感動の濃さではいつもと同じ、いやそれ以上でした。

コンサート冒頭に弾かれた今年が生誕150周年であるドビュッシーの「月の光」。
いつだったかアンコールで聴いた覚えがありますが、あのときのウルウルの情感たっぷりのそれとは一線を画した奏楽。
雰囲気で聴かせるという感はなく、一音一音をゆるがせにしない、そうでありながら響きの合間からうるおいのようなものが感じられてステキでした。
格調は高いけど、親しみやすい・・・多佳子さんの最近のリサイタルの感想に必ず書いていますが、大家の域に達した境地に思えます。



そして、コンサート最後のミニ・リサイタル。

ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」
単音で弾かれるメロディー、その音色と歌い方ひとつで響きというよりホール全体の空気を支配してしまう手際には驚きを禁じえませんでした。
プロってすごいと思った瞬間ですが、ピアニストとはピアノを手なずけるだけでは足らず、聴き手の心を揺さぶるようアプローチしなければならないということを、身をもってヤングピアニスト達に示された瞬間だったと思います。

ここでこの音に鳴ってほしいという呼吸が、私の感覚とぴったりなのはいつものこと・・・
いえ、私に限らずその場にいる聴衆すべてと一致しているようにも思えます。
しっかり弾き込まれた音楽のうちからじんわりと立ち上ってくる芳香のような味わいは、ピアニストが巧まずして作り出しているのに相違ないわけですから。。。

映像第1集・第2集、版画、レントより遅く、喜びの島・・・いつの日か多佳子さんから聴きたいドビュッシーがどんどん浮かびます。


リストの「泉のほとりで」。
爽やかな小品ですが、一篇の詩集を味わったような量感があったように感じました。
音色の粒立ちのよさ、それも一音一音の比重がちがう・・・
一音一音でさえそうなのですから、それが絶妙に織りなされた音楽そのものの密度たるや相当なものだということは、私が聴いてもわかります。
なるほど、「これがリストか・・・」とうなるほかありません。


そして、白眉のベートーヴェン「ワルトシュタイン」ソナタ、ソロ演奏で誰に遠慮する必要もないからでしょうが、持ち味のリズムや音色が適切なのはもちろん、曲に必要なバスの音も迫力満点。
終始、安定感抜群の演奏で、第三楽章の半ばでは感動のあまり思わず涙があふれてしまいました。
多佳子さんの演奏を聴いたときには珍しいことではないかもしれません。
何がそうさせるのか・・・不思議ですが、ホールの雰囲気の中で多佳子さんの紡ぎだす音に身をゆだねるとそうなって、元気をもらえるのです。

音楽とは、単に聴き手を感動させればよいというだけのものではないとは思いますが、どんな演奏であっても弾き手も聴き手も元気になれるのであれば◎なんじゃないかな?
そんなことも強く感じました。

オクターブ・グリッサンドのパートをどう弾くか?
アラウはここをオクターブ・グリッサンドで弾けないピアノではワルトシュタインを演奏しないと言っていたし、ポリーニの来日公演では会場からのリクエストでオクターブ・グリッサンドのところだけを弾いてほしいとリクエストが出て答えている映像を見たことがあります。
CDで音楽を楽しむことがほとんどの聴き手にとって、ライナーノーツやピアニストのインタビューにあった「弾き手のこだわり」は、安易に捉われやすい罠ですね。

これだけ心に響く音楽であれば、演奏家やある種の専門家でない限り弾き方にこだわる必要もない気がしました。
かといって、演奏家が勝手に楽譜に足したり引いたりを安易にしたりしていいとも思いませんが・・・。


元気にしたいというピアニストが、元気になりたいと思う聴き手を感動とともに元気にしてくれたのであれば、これ以上何も求めるべくはありません。
ただただ、聴きに行くことができてよかった、素晴らしい演奏をありがとうと思うばかりです。


これほどの演奏の後に、アンコールはいらない。
そう思ったほどの感動の演奏だったわけですが、終演後に多佳子さんに聞いたら「まだまだ」とまだ目指すべき高みがあるという。

(リアルのだめといわれるらしいお話とかはともかく・・・)
ことピアノ演奏芸術面に関してはいよいよ大家の風格が誰の目にも明らかな多佳子さんをして、こんな言葉が出てくるのですから・・・
これからその山を登ろうとしているヤングピアニストたちは大変です。


そして、いつの頃かは知らないけれど、かつてヤングピアニストだったころ「ベートーヴェン弾きになりたい」とおっしゃっていたらしい多佳子さん!

熱情、ハンマークラヴィーア、作品109~111など、遠からず聴けることを期待しています。
「ベートーヴェンの旅路」も考えられるべき企画だと思いますよ!

好漢逝く

2012年01月11日 22時53分24秒 | ピアノ関連
ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルクのディスクが我が家のターンテーブルに載ったのはいつ以来だろうか?

15年・・・いや20年以上も聴いていなかったかもしれない。
私が社会人となった前後にドイツ・グラモフォンにあって、気鋭のピアニストとしてならした彼。

彼のドビュッシーは何度も聴いた記憶があるが、ラフマニノフのソナタのディスクは巧いかもしれないがなんと無造作な弾き方かと思い、スカルラッティのソナタはペダルの踏みすぎではないかといぶかしんだ。
おかげで私のクラシックのキャリアの最初期に手に入れたCDのはずなのに、いまなお美麗で新品同様に見えてしまう。

それが今・・・
彼のラフマニノフを耳にするとなんと無駄なく、潔い男気を感じさせる演奏家であるかと感嘆し、スカルラッティにはピアノによる男の憩いの最良の表現であったと認識を新たにしている。



折しも東京事変解散の報があった。

椎名林檎の声明にはこうあった・・・


我々が死んだら電源を入れて
君の再生装置で蘇らせてくれ
さらばだ!



そして・・・
1月8日の訃報に接したアレクシス・ワイセンベルクは私のうちに今晩再び蘇り、不滅の硬派な好漢ピアニストとなった。

合掌

装丁のうち・・・

2012年01月09日 21時37分10秒 | 器楽・室内楽関連
★マニャール・フォーレ:弦楽四重奏曲
                  (演奏:イザイ弦楽四重奏団)
1.マニャール:弦楽四重奏曲
2.フォーレ  :弦楽四重奏曲
                  (録音:2004年)

今年はドビュッシー生誕150年の年。。。
ミケランジェリの【映像】に惹かれてクラシックの樹海に誘われたものとしてはショパンやリスト以上に慶賀の念に堪えない・・・というふうにならないのかもしれませんが、正直、いまいちどころかいまさんぐらい盛り上がりませんです。
このところほとんどドビュッシーは聴いてないから・・・。(^^;)

それというのも、「映像」はやっぱりミケランジェリの70年盤(最晩年のがオクラばせながら出てきたのはやっぱりオクラにしておくべきだったと思っています)を超えるものはないし、「ベルガマスク組曲」はドビュッシーの正統な流儀ではないかもしれないけどコチシュのすっきりながらロマンたっぷりの演奏にとどめを刺すし、その他、ツィメルマン、アラウ、アントニオーリ、ストット、青柳いづみこさん、小川典子さん、遠山慶子さんの前奏曲集や選集があればという状況が何年も変わらないですからね。
「牧神」にしてもアバドとクリヴィヌがあればいい気がするし、室内楽も弦楽四重奏曲は10種類ぐらいあるはずだけどラヴェルのそれのつけ合わせみたいな位置づけで聴いてきたから・・・今はこれはこれでいい曲だと思っていますが。。。

今年の記念年リリースの新譜に期待・・・ということにしておきましょう。
とはいえ、昨年のリスト記念年の成果をここで発表できないので、過度な期待はしないようにしなければなりますまい。
自分の耳にフィットする演奏が現れるはずだと思い込んで、「想定外」の結果に終わるとさびしいですからね。


さて、このところ弦楽四重奏曲(弦楽五重奏曲)を聴く機会が多い状況は相変わらずです。
ことにシューベルト・・・
メロス弦楽四重奏団は前回の記事に書いた通りですが、ブランディス四重奏団、ブロドスキー四重奏団、ペーターゼン四重奏団、アウリン四重奏団、カルミナ四重奏団、パノハ四重奏団、クス四重奏団などなどとっかえひっかえ聴きまくっています。
このほかにも聴いていますが私の耳にはまだピンと来ていません。
逆に、ピンと来るものだけでもこれだけある・・・ということなのですが。

弦楽四重奏曲第12番の断章以降、13番、14番、15番、そして弦楽五重奏曲D.956に至る曲は・・・あまりにすばらしい。
浦島太郎の歌のように、文字にできない美しさなので、語らずに沈黙するほかありません。

ピアノ・ソナタ第18番~第21番や即興曲集・楽興の時もそうですが、シューベルトの晩年の楽曲に心奪われてしまうと、あっち側の世界に連れて行かれて帰ってこれなくなりそうです。
こっちの精神状態がぐちゃぐちゃであっても、その意味でリセットできる気がするのは絶大な効用といえるでしょう。

この世のものとも思われない旋律があるかと思えば、地獄の入り口みたいな混沌もあり、とくに終楽章にはやけくそにも聞こえる舞曲のリズムあり・・・
演奏家の解釈と聞き手の気分次第で、どれだけの感じ方ができるか、まさに無限大、それも「天国的な長さ」で味わえるという・・・抽象的な書き方でしかシューベルトの曲を聴いたときの体験は語れないのです。

よくも悪くも聴いてるだけでこれだけ揺さぶられるのですから、弾いてる人たちは大丈夫なのかな・・・と思うこともしばしばですが、それで世をはかなんでという話も聞かないからきっと大丈夫なんでしょうね。


で・・・
今回取り上げるのはフォーレのディスクにしました。

イザイ弦楽四重奏団は今般新しいレーベルを自身で立ち上げ、新譜ばかりでなく自らの旧譜を新しい装丁で発売したようです。
レーベル立ち上げの理由はきっと、レコーディングの曲目やパートナーの選定に際して、アーティストの希望とレコード会社側で大きな開きがあることなのでしょう。
今般発売されたレパートリーを見れば、イザイ四重奏団の意欲と善意が感じられて思わず応援したくなります。

しかし、演奏の内容もさることながら、この新しい装丁というのが実に統一感があってオシャレでよろしい。
冒頭に掲げた写真は私が持っていたディスクですが、これは旧のジャケットです。
ネット上で新しくなったジャケットを見たときには、質感のある彫刻の絶妙なカットでむさいオッサンの並んでいるものよりもはるかによく見えてクヤシイ思いをしましたが、実際に店頭で見たらあんがいちゃっちかったので安堵することにしました。

これとは別にハイドンの「十字架上のキリストの7つの言葉」のディスクを新装丁のもので購入したのですが、このジャケットは素晴らしいと思いました。
演奏も安定感あふれる素晴らしいもので、牧師の説教入りのものとそうでないものの2枚ある・・・
解説書もおそろしく分厚く、研究の内容がつまびらかに記されている・・・

これです!

演奏だけではなく、収める内容、装丁、解説に至るまで自分たちの思ったままにプロデュースするという姿勢が本当に伝わってきます。
装丁のうちには、アーティストをはじめとするディスクにかかわる人の想いが詰まっている。。。
惜しむらくは解説が読めない・・・これだけマーケットがあるということで来日するアーティストが多いのに、どうして日本語の解説はつかないのか・・・ことだけです。。。


装丁の話をもう少しさせてもらうと、私はデジパックが嫌いです。
そもそも(装丁そのものを守るための)強度がない、やはりプラスチックのケースに入れてもらえると安心です。
しかし、アーティストの意向があるならばプラスチックのケースの上にもうひとつ紙で覆ってそこに好きな図絵をこしらえてくれるといいのになといつも思っています。

話がしっちゃかめっちゃかな方向に飛んでしまっています。
元に戻して、イザイ弦楽四重奏団のフォーレの弦楽四重奏曲の演奏に関して言えば、これまた安定感のある音色でフォーレ最晩年の名曲をわかりやすく聴かせてくれる、ようするに、うっとりと心をゆだねられるように聴かせてくれる横綱相撲の演奏だと感じます。

昨今、エベーヌ四重奏団という活きのいいチームが出てきてドビュッシー・ラヴェル・フォーレの弦楽四重奏曲のディスクで世界を席巻したのは記憶に新しいところですが、私としては勢いがありながら時折見せる響きのうるおいにポテンシャルの高さは十分認めるところではありますが、横綱イザイ・北の湖に関脇エベーヌ・千代の富士というほどに思われます。

シューベルトもフォーレも歌曲をめでる声が多いですが、私はまだそこまで手も耳もまわっておりませんで、フォーレのクァルテットなら志の高いイザイ弦楽四重奏団の演奏にとっぷり浸っていられれば幸せ・・・です。


≪ちなみに≫
・マニャールの弦楽四重奏曲は、シューベルトの舞曲のやけくそリズムにも似た感じがする曲です。
 イザイ四重奏団にしてみれば両A面的な扱いだと思いますが、私にはいまのところフィルアップにしか思えませんでした。
 良さがわかるまでにはまだまだ時間がかりそうです。

・フォーレの室内楽のディスクならアウリン弦楽四重奏団のピアノ五重奏曲集が絶品でした。
 これほどクールな美しさに満ちたフォーレは初めてでした。

・ドビュッシーの注目盤としては、旧譜ですが、フランソワ・シャプランのドビュッシー全集には期待しています。
 MP3ではすぐダウンロードできるようですがやっぱりWAVでほしいです。
 できれば妥当な金額でディスクで映像だけでも入手できないかな・・・と。
 今回のタイトルではないですが、装丁のないデータだけっていうのは、いかにも味気ないと思いませんか?
 レコードがCDになったときには俺たちの時代のメディアだと思いましたが、データをダウンロードするだけという時代が来るとは「想定外」でした。

禁断のシューベルト

2011年11月22日 01時31分30秒 | 器楽・室内楽関連
★シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956
                  (演奏:メロス弦楽四重奏団、ヴォルフガング・ベトヒャー)

ドラゴンズの完全優勝の夢が潰えて悔しい。
あの打てなさはなんなんだ?

しかし・・・
今の私自身の心身の状況も八方ふさがりで、とくにシリーズ後半に目立った、どう見ても打てる気がしないドラゴンズの選手たちのそれと重なるところがある。
井端選手のピッチャー返しの打球のように、私とて、ときとして意地で食らいつくことはあるのだが、相手にある種の痛手を与えても、結局目指す得点に結びつかないというもどかしさが何とも自分にオーバーラップしてくるのでたまらない。


そして・・・
そんなバイオリズムのときの私の心をとらえて離さない作品を書いたのが、シューベルトなのである。

シューベルトに憑かれると・・・
そのとき私はきっと心身の不調を訴えているうえ、なぜかやけに食欲が旺盛になり(簡単に言えばヤケ食いが増え)畢竟、体重が増える傾向に陥るのである。


実は・・・
先月の投稿時にも記したシューベルト(&ベートーヴェン)の弦楽四重奏のマイブームがとどまるところをしらない。

ピアノ音楽を主に聞いてきた私にとって、これまでのシューベルトのマイブームは必然的にピアノ・ソナタと即興曲集だった。
家には数えるのも億劫なほどの変ロ長調ソナタD.960のディスクがある・・・多分50種類以上あるだろう・・・のだが、ブームになるとこの曲にとどまらず、小ト長調、レリーク、幻想、そして最後の3つのソナタが恋しくて恋しくてしかたなくなる。

そしていつもなら麻疹のようにパタッと聴く機会がなくなり、それとともに周囲の環境も好転し体調も戻るのだが、今回はどうも様子が違うように思えてならない。

最大の理由は、ピアノではなく弦楽四重奏&五重奏曲とジャンルも曲も違うからであることは疑いないのだが、それにしても重篤な症状なのではないかと危惧せずにはおられない。

これまで馴染みがない型の伝染病にかかったようなものなのだろう。
そしてD.960なんていう強力なウィルスの類似種で楽器1台ではなく4丁も5丁もよってたかって波動を送ってくるのだから、根深いに違いない。。。
これで交響曲やミサ曲第6番なんて作品に惹かれるようになってしまったら、さらにやばいことになる予感がある。
ことここに至ってしまえば、きっと、死ぬまで経過観察が必要な不治の病なのだろう・・・上手に付き合っていくしかないのかもしれない。

シューベルトの弦楽四重奏曲といえば・・・やはり後期のそれ。。。
12番断章以降のロザムンデ、死と乙女もよいけれど、15番の後期弦楽四重奏曲とハ長調の弦楽五重奏曲・・・これらはきわめつけ。
この2曲はピアノの変ロ長調ソナタと同じで、もはやこの世のものではない。

作曲技法的には、ピアノにしても弦楽合奏にしてもトリルが特徴的に使われているとかいろんなことに気付いたりするけれど、えてしてそれは私の耳に合わないというか冷静に聴けてしまう演奏において知らされる・・・。
ツボにハマったシューベルト演奏の本当に恐ろしいところは、日常でぼろぼろになった心身からまさに魂を抜かれてしまうところにある。

音楽でツボにハマって感動した場合にはさまざまなパターンがある。
多くのベートーヴェン演奏や、多佳子さんのショパンなどを心地よく聴けるような麗しいコンディションのときには、音楽を聴いたことで往々にして明日の風に立ち向かうだけの気力をみなぎらせている自分がいることに気付く。

バッハ演奏がツボにハマった場合にもやはり、一見魂を抜かれたようになるものだが、聴き終わると、すがすがしくリセットされた自分がいることに気付くものだ・・・

しかし、シューベルト・・・これはいけない!
曲に魅せられて魂を抜かれて・・・正気に戻ったときに、見たこともない、誰も知らない虚空に放り出さたような気分にさせられる・・・
聴き終わった後に異次元にいては困るのである。

この類の禁断の曲の入ったディスクにわかっていて手が伸びるということは、無意識のうちに私が欲しているところであることには間違いない。
理性的なときには敬して遠ざけることもできようが、経験則上、時間に追われるように1枚でも多くのシューベルトを聴きたいとう症状がでることから、極限まで追いつめられた症候群に陥っていることを知る・・・
それが分かっていても逃れられないのである。

苦し紛れにブラームスのヴァイオリン・ソナタなんかに手を伸ばすのだが、ここには実はシューベルトのエコーがそこここに聴かれる気がして、自分でも意識の底ではわかってて選曲しているように思われてならない。

ブルックナーの交響曲が閃いてディスクをターンテーブルに乗せたのだが、神様とベートーヴェンに両脚を置いているとされるこの作曲家にもシューベルトのこだまが聴こえてくる・・・
ここまで囚われてしまっているとすると、もはや末期的である。


実は、この記事を書くにあたって何度も途中まで書きかけて断念している・・・

これこそ、未完成交響曲をはじめレリークだの弦楽四重奏曲の12番だの・・・途中で放棄された曲が完成品と同様に数多く出回っているこの作曲家の病的な影響なのかもしれない。

厄払いが必要だ。。。
なんとか早いうちに、ドラゴンズの敗戦とシューベルトの呪縛から解き放たれたいものである。



話は変わるが・・・
私は、ペナントレース中であればドラゴンズがたとえ負けたとしても、親会社の生業を同じくする某球団が敗れていれば「まぁいいか」と思える質である。
贔屓の球団が勝つことだけを考えていればいいものを、他球団の負けを願うなんて自分でもほめられたことではないとは思うのだが、人生の半ばを過ぎて物心ついたころからそうだったのだから、きっとこれも一生付き合うべき病気のようなものだと達観している。

何が言いたいかというと・・・
善きにつけ悪しきにつけ「これじゃないといけない」という思い込みを貫き、なおかつ「その余のものを否定する傾向にある」と自分で自分の性格を分析しているということ・・・である。

もちろん、いつでも・どこでも・なにごとにも、それでは生活するうえで角が立ってやっていけない。
したがって、普段は社会的に問題が起こらないよう、独りよがりになっている自分を発見したなら直ちにそういう自分のベルソナを人前に晒さないように努力している。
しかし、本質的にはどうしようもなく自分勝手なのに違いない。



そんな私が・・・
こうしてネットを検索しているとオンラインショップのレビューやブログで、ご自身の贔屓の演奏に熱烈なラブコールを贈る聴き手・・・私の先達になりうる方々・・・に出会うのである。

そこにかかれていることが私にあっているかどうかを判断するときの要素が2つある。

もちろん1つめは「どれほどその演奏に感動させられたか」という点である。
私のように鳥肌が立ったとか魂を抜かれたとかいう表現もあるだろうが、涙がとまらないといった感激の表現、解釈上の妥当性を論理的に述べられるということであっても構わない。
とにかく、感動したということが私に迫ってきさえすればよい。

しかし・・・
これだけなら、そこらじゅうにこの演奏が好きだと表明している聴き手がいるわけで、必要条件は満たしていたとしても十分条件には達していないといえる。

実は2つめの要素は・・・排他的な表現が加わっていることに注目している。
「この演奏を聴いてしまっては、他の演奏は聴けない」という趣旨のことを言明している聴き手の文章であったとき私はその対象となった演奏に興味を持つ。

要するにドラゴンズが好きというだけではなく、他球団は応援できないというストイックな告白をしている文章に従ってもいいかなと思うことが多い・・・のである。

考えてみれば、前者は自分の意見を伝えるうえで必要なことだが、後者は実は言わなくてもいいことなのである。
むしろ言わないほうがいいこと・・・というべきなのかもしれない。

しかし、どんな事情があるにせよ、あえてそこを言わずにはおられない人の言葉を信じたときに自分の感性にマッチしたディスクが紹介されていることが多いというのは経験則上間違いない気がする。

そう伝えてくださっているその方ご自身と気脈が通じやすい・・・わけでは必ずしもないかもしれない。

しかし、そうおっしゃる方の気質はえてして自分に近いものがあり、その方のフィーリングにマッチした作品は必然的に自分にも合っている・・・と考えれば、けっこう納得もできる。


私自身は、ネット上ではいろんな演奏のいいところを聴き取ろうと努力しているコメントを吐いているが、自分には合わないと思う演奏だってやはり少なからずある。

何十種類と同じ曲のディスクを持っていても、繰り返し手が伸びるのは、結局のところ多くても数種類なのが実情だから・・・
どこといって悪くない演奏でも、次に聴かないことは多いのだ。

たとえば・・・
誰にでも聴きやすい中庸をいく奏楽で云々・・・という推薦評がなされていても、私のようなタイプにはヌルい演奏、ユルい演奏と聞こえるかもしれない。
だから、レコ芸のような評では私には伝わってこなくなってしまった。
その点、たとえ中庸を行くという評がされていようと、この演奏ではストイックにど真ん中を行き他の追随を許さない、他にはない境地にあるとどなたかが聴き取られたと表明されたものであれば、きっと求道者が法を求めるに似た軋んだのっぴきならない中庸の音楽がそこにあることが期待され、がぜん聴きたくなる。


シューベルトの音楽はただでさえ禁断の果実であることを知っている。
エデンの園のようなネット空間で知恵の実のありかを訪ねた結果が、楽園追放であったとしても、罪を重ねずにはいられない・・・
どうせ、私はすでにこの点での無間地獄にいる。

これさえあれば他の同曲の演奏はうっちゃることができる・・・

私の心がとげとげしてシューベルトを求めているようなときには、私はあちこちの情報を訪ねてそんな激白を探してやまない。

そうして知りえたメロス弦楽四重奏団のハルモニア・ムンディに移って以降のシューベルト、あるいはベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲には当分外に出られそうにない引力を感じている。

就中、ハ長調弦楽五重奏曲・・・
芳しい書評がいまでも記憶に残っているABQもラルキブデッリも名演奏には違いないと今でも思っているが、ここまで澄み渡って突き抜けてはいなかった。

クラウディオアラウノミコト

2011年10月20日 02時06分56秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード集(全4曲)、舟歌、幻想曲
                  (演奏:クラウディオ・アラウ)
  バラード集
1.第1番 ト短調 作品23
2.第2番 ヘ長調 作品38
3.第3番 変イ長調 作品47
4.第4番 ヘ短調 作品52

5.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (録音:1977年・1980年)

アラウのバラ4・・・ふたたび・・・これがこの記事の当初のタイトル。。。
それは一寸おいておいて・・・


このところやたら忙しい・・・
いや、これまでもずっと忙しいと思っていたのだが、忙しさの質が変わって忙しい・・・このこと自体は、そのような時代なのだと受け入れるほかはないのだが。。。

それだからかどうか、ベートーヴェンやシューベルトの弦楽四重奏曲を聴くことが多い。
ことベートーヴェンの音楽に関しては「生きる勇気をもらった」なんて話もしばしば耳にするし、とにかくてっとり早く心の底から癒されることを期待して・・いるのだが、もとより、そうそう期待通りに気持ちは晴れてくれるものではない。
自分のキモチなのにね。。。

近況報告が続くけれど、きっかけは忘れたが、いつからか読書傾向が「古代史」一辺倒になってしまっている。
たぶん・・・
その素地は、梅原猛さんの本にかねてから親しんでいたからに違いない。

「古代史」といっても、就中、天智・天武・持統天皇のころの我が国がどんなだったのかには、関心が尽きることはない。
これを書き始めたら本題に移れないので、このころこそがわが国の今に至る文化・価値観のベクトルが「創られた」時期であったこと、長年憧憬といってもいい想いを抱いていた藤原不比等に対するイメージが全く変わってしまったことだけを記してとっとと話題を移すことにする。


さて・・・
これらの時代を知るのにまず第一に手に取られるのが「記紀」だと思うのだが、神話の時代から天武・持統天皇までのことが記されているこれらの本には、国の最高位にある神様・天皇のご先祖筋の神様が二柱あるように読めちゃったりする・・・気がする、ことはうすうす感じてはいた。

専門家ではないので以下にどれほどいいかげんなことが書いてあってもお許しいただきたいとお断りたうえで書き連ねるが、その二柱の神とは高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)と天照大御神(アマテラスオオミカミ)である。

天孫降臨において、ニニギノミコトを豊葦原瑞穂の国(ようするに日本ってことでいいんだと思うけど)に遣わした・・・そういう命令をニニギノミコトにしたのは、実は高皇産霊尊が主ではないのか?
天照大御神も確かにそういうシチュエーションにあるけれど、連名でくっついているようなファジーな伝承の書き方になっていやしないだろうかという疑問はどうしてもある。

で・・・
タカミムスヒノミコトって誰、ということになるのだが、「皇祖」とちゃんと書かれてもいる男性の神様なんだから、とんでもなく由緒正しい(だろう)ことは間違いがないだろうと思う。
神様の王様といってよい・・・んじゃないかしら。。。

しかし・・・
女性の台頭激しい世の中だからというわけではないだろうが、現代に至って巷では、唯一無二の神様のトップはアマテラスオオミカミというクィーンだと思われているのはなぜだろう?
かく云う私も・・・
伊勢神宮がやたら有名なことや、実家の床の間の掛け軸にも天照大御神の名が入った表装がかかっていたりするもので、これまで天照大御神こそが我が国の皇祖皇宗に連なる神様の中の神様だと信じていた。

それが・・・
いろんな本を読んでたら、「なんだか明治維新以降の教育の影響でそうなっちゃった・・・のかもね」という感がなきにしもあらずの今日この頃である。

ほんとうにいろんな説があって紛糾しているものだから、これらの神々がどういうものか実はよくわからなくなっちゃっているのだが・・・
要するに、今をトキメク太陽神(に仕える?)天照大御神があって、それこそ夜中の太陽のように厳然と“ある”のだが私たちの目の前から消えてしまっている高皇産霊尊がいるということだけ伝わってくれればそれでよろしい・・・。


さてさて・・・
記紀が実際にできたのが古事記712年、日本書紀720年とされており、殊に我が国の政府(?)による国史たる日本書紀は、その完成の年に没した恐るべきスーパー官僚たる藤原不比等の意向が相当に盛り込まれている・・・らしい。
どの本を読んでも、そこらへんは・・・程度の差こそあれ・・・そりゃそうだろうなという共通の認識になっているようだ。

天智天皇の懐刀だった中臣鎌足の息子であり、壬申の乱で天智の息子を破って即位した天武天皇の時代には文字通りホサれて臥薪嘗胆の日々を送っていたようだが、天武天皇の皇后(天智天皇の娘でもある)である持統天皇の御世になって俄然頭角を現した藤原不比等。
われわれのころの日本史の教科書にはちっちゃな字でしか書かれていなかったものだが、実はその息子たちである藤原四兄弟よりもしたたかで器のでかい野心家であり、日本の歴史のあり方を創ったのが彼であることは、私の中ではもう30年も前から確信されていたことだった。
彼があっての藤原氏のその後の隆盛であり、娘たちを天皇の后とする外戚関係を結ぶことでとりわけ藤原北家の家系が平安時代の道長の時代に「望月の欠けたることもなしと思へば」とまで歌わせるだけの基礎のほとんどすべてを組み上げてしまった・・・といって過言ではないと言っちゃっても怒られはしないだろう。
昨今の古代史の情報読み漁りを通じて、その思いは強まるばかりである。

彼を登用した持統天皇・・・
このお方がすごい曲者で・・・といってはなんだが、この人を天武天皇の皇后として先帝の遺志を継いだ人と見るのか、天智天皇の娘と見て天武王朝を乗っ取ってしまった人と見るのかで位置づけがまったく変わってしまういわばカメレオンのような天皇でいらっしゃる。

前者は、天武・持統夫妻がおしどり夫婦と伝えられ病気平伏を祈って薬師寺等を建立した云々の逸話、天武の遺志を継いで天皇を中心とする中央集権国家をつくるために数々の業績を挙げ、崩御されてなお(天皇ではじめて仏教的な)火葬をされたうえで天武と同じ墓に葬られたなどなどのことから、私がかねてから普通に思ってきた考えである。
まぁ・・・政治上のことがらは、不比等がレールを引いてそのうえで天皇の業績として残っているだけなのかもしれないが。

後者は我が子草壁皇子を帝位につけんとし、同じ天武の子で有力な後継候補だった高市皇子を死に至らしめ、鎌足の息子の不比等と組んで(結果として)壬申の乱で消えかかった天智色に戻したことになる・・・という類のものである。

先にカメレオンといったのは、持統天皇は食うか食われるかの政争の中でそのブレーンとともに自身ができることを一生懸命やられたにすぎないのであって、その行動の性格はそれ以外の意味合いを含むものでもあるかもしれないと思うからに他ならない。

現に、持統天皇の方向性が仮に後者であったのだとしても、現代のわれわれは天武天皇と仲睦まじい前者のイメージを持っている。
桓武天皇に至ったころには天武系は絶えて天智系の天皇に連なっており(そしてそれが現代に至っている)、持統が(きっと不比等と組んで)高市皇子を自刃に追いやったことが天智系復活の決定的なキーポイントであるだろうにもかかわらず、その当事者持統天皇は天武系の後継者と一般的には見られていること自体がカメレオンではあるまいか?
ひょっとすると・・・持統天皇ご自身は、天武系・天智系なんて考えてもおられなかったかもしれないが・・・後世の人はえてして二元論でどっちかにあてはめてみたい衝動にかられるようだ。

この(結果として)得体のしれない(ように思えるようになってしまった)持統天皇が、天照大御神に比肩されることがしばしばある。
理由としてはまず女帝であること、そして「天孫降臨」・・・おばあさんが孫に国を治めさせるようにすることを願い、自分の子供の草壁皇子の息子である文武天皇を執念で即位させたというシチュエーションがぴったり当てはまること、そして伊勢神宮が今のような在りようとなったのがちょうど持統天皇のころだと思われることなどが挙げられている。
私もこの点はそうだろうな・・・と思う。

日本書紀を編纂し、時の元明天皇に捧げたであろう不比等が、持統の息子の嫁さん(元明天皇)と孫(元正天皇)に、持統から文武という孫への皇位のバトンタッチを自国の正史の神話のハイライトになぞらえてみせたとあれば愛いヤツとなるのは必定だし、最高のヨイショであると思うから。
(本論から外れるが、「天岩戸」でアマテラスが隠れたのを神様が騒いで引っ張り出したという神話も、天武崩御後、本命の皇子を殺したために持統も実は立場を無くしていたところを、不比等をはじめとする持統の取り巻きがカムバックさせたことを現しているという説はおもしろいと思う。ほんとかどうかはこの際問題ではない。)

それでは・・・
高皇産霊尊は誰に比肩されるのか・・・・これははっきりとした定説はないようにも思われる。
なんといっても、もともとはとっても畏れ多い神様でありながら、なぜか天武・持統の時代(不比等の時代)以降忘れられる一方になっちゃったように見える神様だから。。。

比肩するには畏れ多すぎるし、アマテラス一色の中で「まぁ誰ということにしなくてもいい」のかもしれないし。

一説に不比等になぞらえる説もあるみたいだけれど、畏れ多すぎという理由で私は採りたくない。
(不比等を塩土老翁(しおつつのおじ)になぞらえる説もあり、まだこの方がありかもしれないと思う。でも、塩土老翁を蘇我氏の祖とされる武内宿禰のに比肩する説も捨てがたい気もする。)
専門家じゃないんだから、こんな気分みたいな理由でも勘弁していただきたい。

私自身は、高皇産霊尊を天武天皇に比肩すべき要素ってないのかしら・・・と思っているのだが、そういう説を掲げた本にはまだ巡り会っていない。
個人的には天智の子である持統・元明も、我が子草壁・我が子文武という下への血統意識はあっただろうけれど、尊属には「天智系」「天武系」という自負は持っていなかったというか、そういう概念はなかったのではないかと思っている。
天智・天武だけを(後世から)見れば、確かに現代の鳩山某のような兄弟でいつからか所属する党が違うみたいなケースに思われるかもしれないが、そのまた皇祖皇宗を訪ねたときには、その血はぐちゃぐちゃに混じっているに相違ないのではないだろうか?
血の濃さの割合を計っても、事実に即するとは限るまい。今だって、遠くの親戚より近くの友みたいな格言もある。

ひとえに今の世から振り返ってみているものだから、結果として天智系と天武系がちゃんちゃんばらばらをやっているように見えるだけであって、当時、実際には味方以外は(多少の血縁にかかわらず)全部敵であって、過去の血統は尊重されこそすれ、天智・天武だけのそれにとらわれる考えはなかったのではないかと思われてならない。

で、脳天気かもしれないが・・・
天孫降臨の命令をアマテラス(=持統)に先んじて一緒に発したのは、(鬼籍に入った後であったとしても)天武であってほしいという気がするから・・・。
また持統天皇も、亡き夫の天武もそう思ってくれていたらいいのにと願わずにはいられなかった・・・と思いたいから、私は高皇産霊尊=天武天皇説を主張しちゃおうと思う。

ただし、この考えだとやっぱり同時代に同じゴールを目指して声を上げたのは(それも持統を導く形で)不比等になっちゃうんと違うか・・・という論法も成り立ってしまうのだが、そりゃいくらなんでも元明・元正の手前もあって畏れ多いという理由で却下したいわけでして・・・
と、くどくど反論(反証とはおこがましくていえない)しておくことにする。


さあ、どこが音楽ブログだという展開もはなはだしくなってきたので本論に移ると・・・

私にとって数年前から、今をときめくピアニストは高橋多佳子さんである。
ショパンの旅路Ⅴのバラ4の演奏で邂逅して以来、彼女の音楽は、私にとって太陽のようにポジティブなものであり、頻繁にCDやウォークマンで耳にしていることはこのブログでも何度も記してきたことである。
そして、伊勢神宮に天照大御神を詣でに行くように演奏会へ行って居住まいを正して真摯に音楽に向かい合うこともある・・・まさに、音楽界の天照大御神のような存在なのである。

しかし・・・
その数年前以前には、私の中でショパンのバラ4といえば私が便宜上(思いつきで)ハンドルネームとして名前をお借りしているクラウディオ・アラウこそが神のような存在としてあった・・・。
リストの『巡礼の年』からの抜粋の演奏(これらを凌駕する“ペトラルカのソネット”や“オーベルマンの谷”の演奏を私はまだ知らない)で出会って以来、ずっと気になっていたアラウ。
ドビュッシーの前奏曲や映像を収めたディスクにも感銘を新たにしていた頃、訃報を耳にしたのは本当に突然だった。

仕事中にカーラジオでその報に接し、追悼としてかかったのがバラードの第1番と第4番・・・
第1番こそミケランジェリの決定的名盤を得ていた私であったが、当時、バラ4はよくわからない曲でしかなかった。
車を止めて、一音たりとも聞き逃すまいとラジオに食い入るように聴いた、そしてそのとき、アラウのバラ4こそが私のバラ4になった。

わが国固有の文化で生まれ変遷したと考えられるアマテラスに対して、高皇産霊尊は大陸の文化を礎とする(輸入された)神であるいう・・・
高皇産霊尊のごとく、今や私の記憶からほとんど消えかかっていた異国のアラウのショパンのディスクを本当に久しぶりに聴いた。
別に10月17日のショパン忌にちなんでというわけではない、忙しくて忘れちゃっていたのだから。。。

タカミムスヒ・アラウのバラ4がアマテラス・多佳子さんのそれに取って代わられてしまったのはわけがある。
気分がハイのときに聴くと、アラウの(特にショパン)演奏は鈍重にすぎるからだ。
これが気になるときはフィーリング的には絶好調だという気が、経験的に、する。

翻って今・・・
これほどまでに確信に満ち、確固とした居住まいでスケールも壮大、あらためてその威容を仰ぎ見るような音楽であったことに気づかされることになった。
エレガントでもあり、男性的でもある・・・
いっとき頭から離れることはあったにせよ、やはりネクラに陥ったときの私にはアラウの演奏はたとえそれがショパンでも、ベートーヴェンの作品110の嘆きの歌のフーガのごとくエンファシスの温かさを備えながらも盤石である大伽藍を想起させる神通力をもった音楽であった。
それは壬申の乱を制した際の天武天皇の勇猛さにも通じている気がする。

というわけで・・・
本記事は、アラウのバラ4のすごさをにわかに再発見したというだけの話なのだが、やはり、高皇産霊尊は忘れられた天武天皇へのオマージュを反映させた神・・・
であってほしいという希望的解釈も併記しておく。(^^;)

《ショパン with フレンズ》 “2つのロ短調” リストとともに

2011年09月12日 01時58分54秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
   デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念シリーズ 最終回
    高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

第3回 2つのロ短調 リストとともに
 《前半》
1.F.ショパン :ノクターン 第9番 ロ長調 作品32-1
2.F.ショパン :ノクターン 第10番 変イ長調 作品32-2
3.F.ショパン :ソナタ 第3番 ロ短調 作品58

 《後半》
4.F.リスト  :「愛の夢」ノクターン 第3番 変イ長調
5.F.リスト  :ソナタ ロ短調

《アンコール》
1. F.ショパン :「別れの曲」エチュード ホ長調 作品10-3
                  (2011年9月11日 浜離宮朝日ホールにて)

高橋多佳子さんのこの《ショパン with フレンズ》4回シリーズに皆勤できたことはまことに喜ばしいことでありました。

こうして記事に残しているおかげもあり、日々の煩わしさに流されていても読み返せば「ああ、そういえば」と思い起こすことができます。
印象的だったシーンをあのときどのように感じたか・・・
そのころの自分を省みるとき、自分自身が置かれていた立場を客観的な目で振り返ることができる、そんな効果もあるように思うのです。

コンサートには、演奏者である多佳子さんにもいろんな思いがあるでしょう。
でも、その場を共有した人の数だけその場の体験はあるわけで、私とっては音楽だけではなく自分自身のアルバムのひとコマとして、シリーズのピースが欠けることなく揃ったことはそれだけでうれしく思えることでした。

今日もまごうかたなき多佳子さんならではの演奏に触れることができ、随所に高橋多佳子でなければ聴けないゾクゾクするフレーズに出会い、いつものように快哉を(もちろん心の中で)叫びました。
シリーズを(聴くのを)完走した・・・
なんともお気楽な達成感も手伝って、充足感のうちにこうして記事をしたためています。



さて・・・
前回はプログラムが一見地味だったこと、震災直後の特殊な環境であったこともあって、特別な思いで出かけた覚えがあります。
ただ、実際には何かを期したような多佳子さんの充実した演奏に会場がこのうえない一体感に包まれた素晴らしいコンサートでした。

そして・・・
シリーズの大団円となる今回・・・
ご本人が「メインディッシュ」と形容したショパンとリスト、それぞれのロ短調ソナタを前後半に並べて聴けるぜいたくなプログラムです。
「こりゃたいへんだ」と聴くほうの私ですらその重みを感じて浜離宮のホールに向かったくらいですから、弾く多佳子さんのプレッシャーたるやいかばかりかと気にかけておりました。

いや・・・
私が心配することなんかじゃありませんが、安曇野などで何度かお話を伺ううちに本番前のアーティストがいかにナーヴァスになるかを窺わせるようなお話があったもので。。。

でも杞憂でした。
神経質になっている素振りなど微塵も感じさせることなく、今となっては勝手に心配した私があほらしいという感じ・・・
きっとご本人は「違う、もうドキドキだった」といわれるでしょうが。。。



前回の演奏会で・・・
特にショパン演奏について多佳子さんの演奏が一足飛びに円熟したのではないか、そんな確信を得ていました。

多佳子さんのブログで、以前は「脱力」を中心に技術的な克服すべき課題をご自身に言い聞かせるかのような書き込みが目立ったものですが、最近はそのようなことはほとんどなくなってもおられたし・・・
きっと何かを掴んだに相違ないとにらんでいた私。。。

そして、今日聴いて・・・
やはりショパン演奏に関してはゆるぎない「悟り」を開かれたことを再認識しました。

それは・・・
「弾き込まれた作品を十二分に準備したであろう練習時・あるいはこれまでの演奏会のときと同じように演ればよいのだ」そんな自信・開き直りがあるからなのか、あるいは最近の充実した活動が忙しすぎて開演前にいちいち心配しているヒマさえなくなったのか、あるいはどちらも違うのか・・・?
それはわかりませんが、事実だけを誤解を恐れずにいえば「大家」の趣すら漂わせる最初からの奏楽振り。

初めて多佳子さんの演奏に触れた新潟県三条市でのコンサートのときの印象を思い起こすと、やはり成長されたというより別次元の「悟り」を開かれたといったほうがピンと来るぐらい違う気がします。

何が違うって・・・
出てくる音が成熟したというか、風格が増したというか・・・
以前よりはるかにフレーズをいつくしんで弾いておられた、少なくとも私にはそう聴こえたのであります。

とてもチャーミングだけど二枚目半になるおしゃべりはそのまま・・・でしたけど。(^^;)



さて・・・
プログラム中で感じたことを書き落としておきます。

先ほど無用な気負いなく演奏に臨まれたような書き方をしましたが、黒に近い紫のドレスをシックに決めて登場されたときには、衣服に無頓着な私でも「これは勝負服だな」と感じ、多佳子さんのこの演奏会にかけるなみなみならぬ気概のほどは感じたものです。
りかりんさん(宮谷理香さん)と話したときにも、1着のドレスで通されたことについて、よほど演奏に集中されていたのではないかという思いを強くしましたし・・・。

そして弾きだされたノクターン第9番・・・
ピアノのオーバーホールの話も聞いていたのでどうかと思ったのですが、まずは高橋多佳子独特の音色で奏でられ始めてホッとしました・・・


とても大きな呼吸、深い呼吸・・・
ピアニストとの呼吸の振幅がここちよく合っていくのを感じました。


曲調のせいか、座った席の残響のせいか・・・
いつもどこかのきっかけで高橋多佳子ワールドみたいな世界にワープするのですが、麗しい音色に心奪われながらもややソフトフォーカスだなと感じつつ曲も終わりに近づき、コーダではいちだんと印象深く最後の響きが伸ばされる、延ばされる・・・

軽いブレスののち、ノクターン10番の冒頭の和音が絶妙に分散されて響いて・・・
ここから高橋多佳子ワールドが“パァ~ッと”開けました。。。

多佳子さんの魔法の音色に魅了され、呼吸というかフィーリングがゾーンにはまり・・・
こうなるといろんな手業やペダルの操作といった足技、思い切った解釈云々などなどがすべて魔法にかわります。
振り返ると、第1曲はぜいたくなアイドリングだったかのように思える・・・。

別のピアニストがやると奇を衒った解釈とかあざとさと感じるようなことさえも、ワールドに誘われたのちに多佳子さんの手にかかると、ひらめきに満ちた解釈とか神々しさになっちゃうから不思議です。
こう書くと、ピアニストがまるで催眠術師か幻術つかいみたいですが。。。


ソナタ第3番は多佳子さんのコメントでは学生時代、コンクール、プロの最初のレコーディングを通して節目ごとにそばに寄り添っていた曲だそうです。
そんな曲だけあって演奏終了後、会場各所からブラヴォーが飛び交うすばらしい演奏、「聴けて良かった」まさに絶品の解釈でした。


第一楽章はあれだけめくるめく楽想があったはずなのにあっという間にゴールしてしまったようにすら感じるのは、とんでもなく充実していたからにほかなりません。
第二楽章は軽妙でありながら存在感も両立していて・・・これは録音では再現できない世界だと思って息をのんで聴くほかありませんでした。
第三楽章は、(私がボーッとしていたのか)第二楽章からいつのまにか続けて演奏されたように感じてあれっと思ったものですが、始まってしまえば、これまた私のフィーリングとぴったり。充足の極みの音の運び・・・とりわけ最後に旋律が回帰する前のつなぎの単音の雄弁なことといったら、今日の白眉の一瞬だったかもしれません。
そして第四楽章、このようなノリで弾けるのは世界でこの人しかいません。
全編にわたって「これを聴きに来た」というべき高橋多佳子のショパンを、まさに満喫できました。


そういえばショパンとリストの演奏のむずかしさの違いを運転に譬えて・・・
ショパンは細く曲がりくねった道を走り抜けていく最高のドライビングセンスが必要な難しさ、それに対してリストは、見通しは良い道だが大変な坂道を圧倒的な馬力のエンジンで進まなければならない難しさだと説明されていました。
説明者は、分かったか分からなかったか不安げでありましたが、こと私に関しては「言わんとされたことは伝わった」とは感じています・・・もしかしたら、盛大な勘違いかもしれませんが。

そして、多佳子さんはショパンの道に関しては、どんな隘路も目をつぶっていても(とまではいいませんが)走り抜けることができるのだろうとも感じたものです。



後半のリスト・・・
「愛の夢」はどこまでもさりげなく、でも、あくまでも自然に弾いておられるのが私にはかぎりないいつくしみの音楽に聴こえて、通俗名曲などといわれるこの曲の垢がぬぐわれた演奏でした。
以前にはこれほどのいつくしみというか、ここまでフレーズを(意識するまでもなく)大切にされているようには感じられなかったのですが・・・
まぁ・・・
かくのごとく弾くべき人が弾けばベラボーに感動できるからこそ、時の淘汰を経てなお通俗名曲として君臨できるという言い方もできるかもしれません。(^^:)

ようするに多佳子さんの手の内に入った曲で、多佳子さん流に弾いてくれれば、きっと私にはぴったり合う曲のひとつだったな・・・ということを嬉しく確認できたということです。



そしてもう一つのメインディッシュ、ロ短調ソナタ。。。

ピアニストにとってこれを演奏会にかけるということは「清水の舞台から飛び降りるような」挑戦であるという多佳子さんの発言がありました。
演奏を聴いて、嘘じゃないどころか、それこそドン・キホーテみたいとでもいうべき、たとえようもなくとんでもないチャレンジなんだろうなと推測しました。


そういえば・・・
当初からディスクとして公表する目的でこの楽曲をライブ録音しているピアニストは、ベレゾフスキーぐらいしか思い当りません。(調べればあるんだろうけど)
自分で弾けるわけでもないのに、ことこの曲に関して、後世に遺す記録にあえて一発録りでチャレンジするのは無謀だとあらためて思いました。

でも、そんなプレッシャーにも屈することなく、見事に弾きあげて楽屋へ引き上げるときの多佳子さんには達成感と安堵感があったことと思います。
本当におつかれさま・・・といいたいです。^^



さて・・・
演奏前に「(自称)3分間でわかるロ短調ソナタ講座」があって、これまた講師は聴衆がわかったかどうかに疑問を持っておられたようですが、主題の提示をされたことで本当に聞いた経験の少ない方への助けになったと思います。

リストほど同じ主題を繰り返し「これでもか」と押し付け続ける作曲家はいない・・・
ベートーヴェンもQUEENでさえも、そこまでくどくやらないと思われますから、主題の紹介はとってもヘルプフル、ナイスなアイデアだったのではないでしょうか?

私にとってのロ短調ソナタは野島稔さんのディスクではじめて出会ってちんぷんかんぷん、「なんじゃこりゃ!?」という感想を抱いて以来、なぜか躍起になって聴いて大好きになったという曲・・・
今では30種以上のディスクを所有し優に数百回は聴いてますし、このブログにいっとき持っているディスクの感想を片っ端から書き散らかしたこともあるいわば聴きなれた曲であります。


そのうえで感じたこと(希望)は・・・
「高橋多佳子はこの曲を“セッションで”録音するべきだ(お願いだから録音してほしい)」ということでありました。

本日のそれは瞠目すべき立派な演奏だったとは思いますが、正直、多佳子さんなら(弾き込むうちにたとえライブでも)もっともっと全体の構成を踏まえつつ各パートの性格分けを精緻にできるはず・・・。
つまりは、随所に高橋多佳子流の素敵なところ、工夫といったものを見出すことができて「おお!そうきたか!」と感激したものの、きっとこれからさらに全編丸ごと高橋多佳子節に昇華される余地を残す楽しみな楽曲であることがわかった、そしてそれを実現できるのはセッション録音しかないと思っている・・・ということです。



ところで、リストのロ短調ソナタ・・・
私には多佳子さんのいわれる「英雄の生涯」というイメージより、「メフィストの悔悟・浄化・逡巡・昇華」といったイメージが強い曲です。
作曲者に「メフィスト・ワルツ」とか「ダンテを読んで」とかの曲があるから、勝手に私がそう思い込んでいるだけかもしれませんが。。。

で・・・
私が好きなロ短調ソナタの演奏は、ツィメルマン(これは別格)、ポリーニ、ブレンデルといったメジャーの大家に、先の野島稔さん、ハフ、セルメット、そして多佳子さんと同じショパン・コンクールで入賞したサジュマンといった面々によるもの。
アラウ、アルゲリッチ、ボレット・・・
なんて方の演奏も確かにおもしろいけど、好みからするとちょっとずれるかも。。。

このような先入観に汚された耳で聴いていても、多佳子さんの今日の奏楽には目(耳?)からウロコの解釈が、そしてそれが見事に実現されている箇所がそこかしこにあって、最後まで耳が離せませんでした。

たとえば、多佳子さんのいう「英雄の主題」が最初に雄々しく現れる前後などは、ほかの誰からも聴いたことのない表現だったように思います。
右手が和音でリズムを連ねる中、左手でドラキュラの心臓に2度杭を打ち込むような箇所がありますが、あの疾走感と低音の冴え・凄みはツィメルマンとポリーニを足したぐらいのインパクトを感じましたし、その後の英雄の主題には文字通り鳥肌が立ちました。

もちろん、これまで聴いたことがない表現のうちには、新鮮というより多少なりとも「おやっ!?」と感じる箇所もありましたが・・・

だからこそ・・・
全体感としても細部の表現にしても納得がいく解釈に至ったと思ったら、ぜひともセッション録音でとことんまで多佳子さんの魂を込めた音に変換して届けてほしいのです。



今回のコンサート・シリーズは、私にとって、とてもエポック・メイキングな企画でした。
そして、最終回、私は(リストのロ短調ソナタという新レパートリーへのチャレンジがあったにせよ)「これまでの高橋多佳子の(円熟と)集大成」を聴いた気でいます。

多少抹香くさい表現と思いながら、先に「悟り」なんて言葉をつかったのも、多分これまでの練習・本番を通じてピアノを弾くという修行のなかで何かを掴まれたんだなと(傍目に)感じたからであります。

ここで手に入れておられる「悟り」は、多分それだけで、地方のコンサートや地域文化活動で多くの人に感動と喜びをもたらすでしょう。
ただ、そのステージにとどまらずソロはもちろんデュオ・グレイスやB型トリオなどの活動ともあわせて、いろんな試みに精力的に取り組んでいかれるうちに、機が熟し、新境地に至った多佳子さんに会えることがまた楽しみです。


レコーディングに関しても、(先にも述べたとおり)リストのロ短調ソナタはしっかり熟成させてCDとして残してほしいです。
カップリングは、たいせつに寝かせておられるであろう「夜のガスパール」で・・・ってくどいですかね。。。(^^;)


コンサートは「別れの曲」が旋律線をたいせつに、ほんとうに大切に弾かれてしっとりと(何度かのカーテンコールののち)幕を閉じました。



終焉後はいつもお目にかかるみなさんとお話したり、サイン会で写真を撮らせていただいたり・・・
りかりんさんにディスクにまとめてサインをもらったり。。。(^^;)
それらを含めて「行ってよかった」と思いながら、いつものように満足感いっぱいで帰途に就いたのでした。



帰宅して・・・
多佳子さんの演奏によるもうひとつのロ短調を聴きました。

スクリャービンの幻想曲。。。

ここでの若々しく生気あふれる演奏に、聴くたびに新鮮な喜びに包まれます。
やはり、CDとして手許にあるとその演奏を深く知れるわけで・・・ライブとは違う音楽を突き詰める醍醐味を感じるんですよね。



P.S.
デュオ・グレイスのCDの感想はまた聴きこんでから。(^^;)
入念な準備を経て万全に奏された楽曲を、とにかく明晰な録音が捉えているということは強く実感できました。
聴くほどにいろいろ気付くことがあって味わい深くなるんだろうな・・・と思っています。

謎かけのココロ

2011年07月06日 00時14分48秒 | ROCK・POPS
★時の流れに
                  (演奏:ポール・サイモン)
1.時の流れに
2.マイ・リトル・タウン
3.きみの愛のために
4.恋人と別れる50の方法
5.ナイト・ゲーム
6.哀しみにさようなら (フィービー・スノウとのデュエット)
7.ある人の人生
8.楽しくやろう
9.優しいあなた
10.もの言わぬ目



日本中を騒がせたニュースを見た瞬間に閃いたこのアルバムの6曲目(LPのときはB面のトップ)『哀しみにさようなら』ですが・・・

英語の原題は【Gone At Last】です。



ポールとフィービーが一緒に

GONE AT LAST

という示唆なのではないでしょうか?



ポールって見方によってはカンでもありますよね。
いえ・・・
はっきりいえば、真ん中がからっぽに抜けたポール状のものが管です・・・よね(^^;)





松本前復興大臣の発言まで訃報を知らなかったけど、あらためてフィービー・スノウのご冥福をお祈りします。


あの場で謎かけするのは不謹慎。
それ以前に、心証を害したことへの謝罪はあたりまえ。



でも・・・
前後の事態の推移を見て、前大臣の言動を振り返ったときに・・・

私の説による謎かけのココロがもしも正しいとすれば、今回の事態は「ご乱心を装った殿の自刃」であり、不謹慎とは百も承知のうえで、本懐を謎かけの心に託さずにはいられなかったのではないかと推察されるのですが・・・


如何?

さらなる昇華への期待 もしくは 言わない約束

2011年06月22日 00時51分20秒 | J-POP
★Mind Travel
                  (演奏:Superfly)

※曲目をいつもは書いていますが今回は省略します。(←手抜き)

お久しブリーフ・・・って感じですね。(^^;)

私自身が被災したわけではありませんが、仕事面では震災以降かなり忙しくなって、自分のブログに訪問できないほど生活は一変って感じでありました。

60日以上更新しないでいるために、ページの冒頭から宣伝みたいなのがはいっちゃっていることに先日気づいて、ちょいとヤだなと感じておりました。
更新できてやれやれですが、記事の内容は聴きこまなければならないようなクラシックはお休みにして、景気よくSuperflyの最新盤について書くことにします。


Superflyは、めざましテレビでの“マニュフェスト”の演奏以来ずっと気にとめていたアーティスト。
出演時に当時の相方(多保さん)が「まだこの番組に出られただけでも、ラッキーが残っている」というような発言をするなど『もう後がない感』をいっぱいに漂わせていたものの、私はそのパフォーマンスに、ブレイクしないはずはないと確信を持っていました。

同じくめざましでブレイクしたと感じているアンジェラ・アキさんみたいになるだろう・・・
と思っていたのですが、「手紙」以降、活動のステージを大きく広げている彼女をすら、Superflyはすでに商業的には凌いでしまったようにすら感じます。


しかし、ヴォーカリストとしてのSuperfly・・・越智志帆さんには、私がもう何も語ることがないほど讃辞が寄せられていますな。。。
私も「凄い!」としかいいようがありません。

途中、ソロユニットになったとはいえ作・編曲などのパーソネルは基本的には変わっておらず、越智さんという宝物を音響作品・ビデオ作品としてどう料理するか、あとはプロダクションの問題なんでありましょう。
聞けない作品に仕上げることの方が難しいってぐらいの声ですからね。。。


店頭で目にした“Mind Travel”と題されたサード・アルバムのアナウンスには、『ファーストにしてベスト セカンドにして進化!! サードにして深化!!』と謳ってありました。

はたして私は、ファーストアルバムには『原石のくすんだ輝き』を感じました。
『ジャニス・ミーツ・ストーンズ』って帯にあったと記憶していますが、たしかに“マニュフェスト”のプロモを見れば多保さんがひと目でキースを意識してると知れるテレキャスカスタムで“らしく”弾いているし、越智さんのいでたちもジャニスをリスペクトしていることがわかるものでした。


でも・・・
全体的な印象としてはパワーは感じるけれど、どことなくぎこちない・・・


チャートのナンバーワンを獲ったわけですからベストというのはウソではないですが、この後、どのように『進化』するか・・・
それをとても楽しみに感じさせる予告編だと私は思っています。

ただし、バラード「愛をこめて花束を」は、もうここで現在と同水準の完成形を示していました。
後続の名バラードだって何曲もあるけれど、その真摯さにおいて決して勝っても劣ってもいないのではないでしょうか。


さて・・・
40年ほどもまえになりましょうか・・・
あのジャニス・ジョプリンの「生きながらブルースに葬られ」てる感じってのは、今のご時世、我が国の誰がどうやったって出せないだろうことに気づいたためか、セカンドの方針は大きくシフトした気がします。

すなわち、ジャニスにはこだわらない・・・
越智さんのヴォーカルは、『ボックス・エモーションズ』においてとってもファッショナブルに変貌しました。

プロデュースに携わった蔦谷好位置さんがその変貌のキーマンだと思います。

シングルカットされたものは特にですが、素のままの勢いといった特徴からソフィスティケートしながらパワーは増幅された楽曲が多くなりました。
加えて、最良の意味での歌謡曲のエッセンスとでもいうべきものが『How do I sleep?』『恋する瞳は美しい』という曲に結実し、これらはほかの誰にも真似できない新機軸になったと思います。
コアなファンには望ましくない変貌だろうな・・・とも推測されますが。。。(^^;)

そしてなんといっても「Alright!」がいい。
こういう曲こそが、私は大好きなのです。

このアルバムには捨て曲がない・・・
なんていわれていましたが、越智さんが歌えば『鉄道唱歌フルコーラス』だって捨て曲にならないだろうから、本当にそうかは聞いた人によるかもしれないんじゃないかな・・・?(^^;)

つまるところ・・・
書店で見た広告の『進化』というのが「音楽性の幅の広がり」と捉えるのであれば、方向性は望ましい方向に行ったと感じる人とそうでない人がいるに違いありませんが、進化したんでしょう。^^


そして、サードアルバムに至るまでにいくつものタイアップの音楽が発表されました。
なんといっても白眉は今回の収録曲のいくつかも入っているミニアルバム・・・
レビューなどを目にするといろんな意見があるようですが、私は、このようにシングルなどで世に問うたもので品質を保証して、そのうえでフィルアップの作品を収めた作品作りをするこのプロダクションには好感を抱くものです。

話を元に戻すと・・・
ミニアルバムにオマケみたいについてきたように見えて、物量的にはそっちがメインじゃないかとも思えるリスペクトする楽曲のコピー集・・・

さらっと聴きましたがまさに「オマージュでございます」というべきお仕事で、本当にこれらを演っていると楽しいんだろうなという感覚が伝わってきました。

プロダクションとして安定感抜群でお上手なので、いささかも文句のつけようもありませんが・・・
あえて私は、Superflyとしてやらなければならなかったのかということに疑問を挟みたくなります。


ただ・・・
今回のアルバムを聞くと、これが大きな伏線になっていたんだなと強く感じられます。

そういうわけで・・・
できたてホヤホヤ(ホントは発売されてホヤホヤ)のサードアルバム『Mind Travel』ですが、越智さん自身の「とても明るく、華やかな作品」という評価、そしてゆっくり心の旅を楽しんでくださいというメッセージが、さすが作り手、よく特徴を顕していると思います。

曰く・・・
作り手であるSuperfly自身の心の旅なんだろうな・・・と。
オマージュした曲を下敷きにした、自分たちの現在の到達点を表現したんだろうと。。。


したがって・・・
セカンドからの深化というよりも、ミニアルバム・・・オマージュの曲集からの深化なんじゃないか、そう思わずにいられません。

これは以前の曲集でもしばしば気になったことなのですが、多保さんのオマージュの顕し方はきわめて直截です。

もちろん・・・
むしまるQの愛すべき動物ソングの数々のようなパロディーや、シブがき隊の『ZOKKON命(LOVE)』のイントロでナイトレンジャーをそのままパクったようなマネは決していませんが・・・
でも・・・わかるんです・・・お里が。
いや、正確を期せば、わかるように思わせられちゃうんです。


こしらえられた楽曲はいずれもご機嫌だし、よくできてるし、パフォーマンスも文句ありません。

だから、かけっぱなしておくと越智志帆というヴォーカリストを統一して、バックを著名なロック・レジェンドをリスペクトするコピーバンドが演奏しているように聴こえちゃう。
FMとか有線で洋楽を聴いているんだけど、いろんなグループがやってるようにも聞こえるし、ヴォーカリストはなんでかしらないけれど一緒だし・・・
そんな違和感があります。
それが楽しみ・・・でもあるのですが。(^^;)


“Rollin’Days”で“Black or White”の別ヴァージョンかというようなリフに始まり、先々の曲では“Yesterday once more”の伴奏リズムかという箇所があり、Zepの“カシミール”、クルセイダーズに妖精だった頃のオリヴィア・ニュートン=ジョンにブロンディまでいるじゃん・・・
パープルのギグのスタートを思わせる“Free Planet”、これらはすべて多保さんの手になるもの・・・

彼のアレンジワークに通底するのはストーンズやロッドのエッセンスであり、なんかあふれまくっているという感じです。


アレンジ以外にも・・・
“Wildflower”なんてタイトルだって、何にインスパイアされたのか?
“Morris”のPVで、Gibson弾いるじゃん!?
などなどの言いがかり的なツッコミに至るまで、ウンチクをかたむけたくなるような作りは、オンタイムでご先祖筋の音楽に触れてきたおじさんにはとても嬉しいものということもできます。
それらは決して悪くない・・・んです。

Superflyの資質は一聴してわかっているし、素養も十分にわかった・・・
でも、Superflyという桁外れのユニットの特徴が、そんなことであるのはいかにも勿体ないんじゃないんでしょうか?

つまり・・・
Superflyでしかありえない、もうひとつ昇華された作品作りを期待したい、これが私のもっとも感じるところなのです。


突き抜けたヴォーカル・・・
これがもっとも生かされた私のイチオシナンバーは、越智さん自作の“タマシイレヴォリューション”です。

この路線こそ私の知る限りSuperflyの独壇場、すなわち、ルーツである洋楽のエッセンスに拘泥しない蔦谷路線です。
今後のことを思うとき、蔦谷氏あるいはさらに越智さんの共感を勝ち得てなお、インスパイアしてやまないような触媒となるキーマンが現れることがもしかしたらいいのかもしれません。

でも・・・
ミニアルバムでコピーしました → それに敬意を表したことがわかるオリジナル曲を相当な完成度で作りました (本作) → それらの財産を消化して、さらにこれこそSuperflyと言えるほどに昇華した4thアルバムの完成を期待したいというのが私の思い。。。

レッド・ツェッペリンだって、ファーストのあと勢いとドライブ感で勝負のセカンド、アコースティックなサード、しかる後に『天国への階段』にいたった(『ブラック・ドッグ』『ロックン・ロール』だってある)わけです。
TOTOにせよ、『ロザーナ』や『アフリカ』を擁する4枚目のアルバム(ジャケットの剣が印象的でしたね)をものにしました。

Superflyの3枚目にも、『移民の歌』『グッバイ・エリノア』に相当する、いやそれ以上に人口に膾炙しうる作品は収められていて、4枚目への期待はいや高まります。

わが国においては、長渕剛さんだって4枚目の『乾杯』でそれまでの集大成と、唯一無二の音楽を作り始めるスタートを切った・・・
さだまさしさんだって、ソロ4枚目『夢供養』は少なくとも私にとってはエポックメイキングな作品だったし、彼自身にとってもフリーフライトレーベルの嚆矢を飾る意欲作だったのでは・・・?

4枚目ってえてしてそんな作品が多いし、Superflyにとってもそうであってくれるといいと思うんですけどね。

そして・・・先の長渕さんの『乾杯』に富澤一誠さんが寄せた言葉「これで長渕の曲はすべてよくなった」が、Superflyにもそのとおり当てはまるようになれば、歴史に名を残すだけでなく永くその芸風を親しまれる独自の存在として活躍できるに相違あるまい・・・なんて思うわけです。


そういえば、私が今もっとも好きな日本の女性ヴォーカリストは越智さんのほか、LOVE PSYCHEDELICOのkumiさん、mihimaruGTのhirokoさんなんてところであります。

デリコの4枚目『GOLDEN GRAPEFRUIT』も、デビュー時からすでに独自の個性を誇っていた彼等のいいところを、経験を踏まえたうえで、原点回帰して全部出したようなアルバムになっていました。
とりわけ“フリーダム”は、MLBのテーマにも取り上げられ広く人に知られるようになっただけでなく、kumiさんの体の柔軟性まで十分にアピールしたPVまで含めてカッコよかったし文句なし。

mihimaruGTは4枚目というより、“気分上々”が大ヒットしたサードの後にドラえもんの映画の主題歌としてリリースされた“かけがえのない詩”に撃沈した私・・・
子供を映画に連れて行って、エンドロールに一生懸命食い入ってしまったのを思い出します。

この歌でのhirokoさんのような声そのものの演技というか“アヤカシ”は、越智さんの芸風にはないですね。
ユニットにおけるhirokoさんの振舞いは、miyakeさんにかなり負っているところがあると思うので、大いにネコを被っているというか抑制を強いられているようにも感じます。

彼女のソロを聴くと結構声の演技よりも張り上げてしまい、それによって却ってよさがスポイルされている気もするので、mihimaruのスタッフはhirokoさんをいかに生かしたらよいのかをよく心得ているのでしょう。
彼女はアレサ・フランクリンではない・・・んだと。

越智さんはアレサのように歌ってもいいんだけど、彼女をもう一段以上ステップアップさせる課題も、案外こんなところにあるのかもしれません。
裏目に出る可能性も多分にあるので、プロデューサーとしては頭の痛いところでしょうけどね。(^^;)


ついでながら・・・
PVについてもベストヒットUSAやMTVを永く観てきたものの目には、どこかで見たような演出がいっぱいある・・・んだよね、これが。

こちらも、中国の漢詩よろしく借景としての出典を楽しませるのではなく、オリジナリティで勝負してほしい・・・ものです。(^^;)
(“Rollin’ Days”のローズ・テレキャスターに始まるギターのコレクション映像には食いついてしましましたが。^^)


最後に・・・
BUMPやRADWIMPSもそうだけれど最近の若者のロックって、現実的で厳しい歌詞を歌ってるんですね。

ここでも“Beep!!”における「最後に逃げる」「自分の手を汚せ」って、ここで使われているような意味で、いつから女性歌手が歌うようになったんでしょう・・・?

この記事には「言わない約束」の事柄をけっこう盛り込んでしまいました。
明日も仕事に向かうおじさんはこれら「言わない約束」の歌詞のオンパレードにただただたじろぐばかりなので、多少言い返してやったかなという感もあり・・・です。

《ショパン with フレンズ》 ポーランドを愛したショパン

2011年03月28日 01時30分40秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
   デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念シリーズⅢ
    高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

第3回 ポーランドを愛したショパン
 《前半》
1.F.ショパン :ポロネーズ 第9番 変ロ長調 作品71-2(遺作)
2.F.ショパン :4つのマズルカ 作品17
3.F.ショパン :4つのマズルカ 作品30
4.F.ショパン :ポロネーズ 第5番 嬰ヘ短調 作品44

 《後半》
5.F.ショパン :ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53『英雄』
6.F.ショパン :3つのマズルカ 作品59
7.F.ショパン :ポロネーズ 第7番 変イ長調 作品61『幻想ポロネーズ』

《アンコール》
1. F..ショパン :夜想曲 第2番 変ホ長調 作品9-2
                  (2011年3月27日 浜離宮朝日ホールにて)

モナリザのようなポーズをとってくれた多佳子さん、このコンサートを開催してくれて本当にありがとうございました。

さまざまな事情が重なっている中、開催の当否についていろんな考えが頭をよぎったことと思います。
「インフラの問題上は開催に支障はないけれどどうするべきか?」というシチュエーションで決断された答とすれば、あれだけの聴衆の期待に素晴らしい演奏で応えられたわけですから大正解だったと、私は思います。

物理的にムリでなく準備も十分されたうえで演奏に臨むことができるなら、アーティストとしてはそれを楽しみにしている聴衆を元気付けるために最良のパフォーマンスを臆せずされるべきではないでしょうか?
演奏を聴いて元気をもらった私たちが、またそれぞれの持ち場で気持ちよくできることをしていけば・・・
きっと(大袈裟でなく)日本全体がいい循環になると思います。


それに・・・
お目にかかったときにも申しあげましたが、(仕事の都合というハードルもありましたが)このコンサートは自分の誕生日祝いだと思って楽しみにしてきましたから、まずは「聴けた!」ということで感激でした。


私信めいた書き出しとなってしまいましたが、年度末のうえにいろいろあって公私共に忙殺されている中、私にとっては、このコンサートが聴けたこと、演奏が期待していたとおり心に響くものだったこと、プログラム・進行がとてもよかったことなど、総合的に最高のパフォーマンスだったのではないかと思えて、とてもいい形で気持ちのうえで一区切りをつけることができました。

多佳子さん自身も・・・いつものように反省点はいっぱいあると言われるのでしょうが・・・思い切り演奏され、ほぼノーミスで演奏を終えられた(フィギュアスケートじゃないですが)ことに手応えを感じ、それなりには納得しておられる出来栄えだったのではないかとお察ししますが・・・

ともあれ・・・
私という聴き手に関しては、とても癒され大満足だったということだけ伝われば結構です。



さて・・・
前半は、まず(正直言って聴き慣れない)遺作のポロネーズから始まりました。
18歳のショパンの作品ということですが、サロンで持てはやされるであろう曲調で多佳子さんの音色、絶妙なニュアンスのタッチによってウルワシイ曲に聴こえました。
興味深い曲には違いないですし、多佳子さんも感激しているくらいだからいい曲なんだろうけれど、聴きなれてないからか『フィールドの様式で作曲された字あまりのモーツァルト』っていう感じに思えちゃいました。
多佳子さんぐらい曲への愛情を持っていない人が弾いたら、ちょっと私には違うんじゃないかなと思えるタイプの曲かもしれません。

ここでMCが入り、ポロネーズとマズルカについて解説がありました。
曲目については冒頭の曲をいかに気に入っているかという説明はありましたが、この後弾かれる曲の内容についてはありませんでした。
私はこれは大ヒットだったと思います。
聴き手の無用な予断を許さない・・・ことも、演奏家のパフォーマンスを味わう場合には大切だと思うからです。
集っている人の大半はきっと、ここから後の曲目についてはよく知っていたと思います。
よしんば知らずとも、プログラムに下田先生の解説がしっかりあったわけですから、少なくとも今日に関してはベストのMCだったと思います。

続く8曲のマズルカですが、このところ多佳子さんの音楽の重心が低くなり大家の風情を漂わせるようになってきたのではないかと感じさせる演奏でした。
思うに、かねて多佳子さんが達成を目指していた「脱力」がいよいよ完成の域に入って、以前よりずっとリラックスした音楽の雰囲気作りを可能にしているのではないか?

聴き手である私もリラックスできちゃったため思わず寝ちゃいそうでしたが、曲が短かったのでなんとか持ちこたえられました。

ともあれ・・・
安定した伴奏に乗って、右手が思うままにニュアンスを紡ぎ出すことによって音楽に立体感が生まれているのではないか・・・
なんて、わかったように書いて実は的外れだったらみっともないですが、けっこう一筋縄ではいかないリズムと旋律線を自然に聴かせてしまうことは、実はとても凄いことだと思います。

われわれがカラオケに行って、ミスチルやバンプの歌を歌ったときに、オリジナルの桜井氏や藤原氏が見事にメロディーに乗せている歌詞がしょっちゅう字あまりになったり、リズムとケンカすることを思っても、あのマズルカの1曲の中で“楽譜どおりに”表現されている内容の多彩さと据わりのよさは驚異的であります。

1曲だけコメントすると、作品17-4の多くの演奏が私にはジャズっぽく聴こえて仕方ないのですが・・・
多佳子さんの演奏だと真正なクラシックの曲に思えたことが印象的でした。

ポロネーズ第5番・・・
大好きな曲ですが、CDではこれはと思える演奏になかなかお目にかかれない曲です。
多佳子さんの“ショパンの旅路”を聴くまでは、アシュケナージの演奏がいいのかなと思っていましたが、どことなくちょっと違うというイメージがどうしても拭い去れませんでした。

リストが絶賛したというこの曲、たしかにリストが褒めたくなりそうな曲ですが、多佳子さんの実演に触れてはじめてこういう曲だったのかと得心が行きました。
終始ニュアンスに満ち溢れ、途中ユニゾンで駆け上がっていくフレーズでも最初と2回目では微妙に雰囲気が違っていたり、妖しい芳香を撒き散らすようなところもあって、まさにメフィスト・ポロネーズという表現がぴったりの曲・・・
最後の低音部に消えていくリズム・音色にゾクゾクしながら・・・
脱力の成果なのでしょうか、何故鍵盤を叩かないのにあんな音量が飛び出すのかと思われる最後の和音で前半は大団円。

この演奏を聴いて、今日の多佳子さんは調子がいいと確信しました。
このところお忙しいようなので練習がオーバーワークではないかとか、諸般の事情から気苦労や気負いとかがないかとか、ファンであれば心配したくなるところですが杞憂でした。

まぁ仕事というものは忙しい人に集中する、それはその人の仕事が任せるに足るものだからという理由によるものであります。
忙しい人は、余計なことを考えている間もなく目の前の仕事に対していいパフォーマンスをするということでありましょう。
私もかくありたいと思いますが、なかなかそうもいかないようで・・・。(^^;)
だから、こうしていい音楽を聴いてリフレッシュを・・・というわけであります。



後半ですが、嬉しいことに前半を大きく凌駕する印象を残してくれました。
これはきっと私が聴いた多佳子さんのベストパフォーマンス、少なくともその有力候補になりうる鮮やかな演奏だったといえるものでしょう。

英雄ポロネーズは何度か実演でも聴いています。
その都度、ディスクで聴くよりもはるかにファンタスティックに弾かれるのを素敵だと感じていましたが、今日は(遠い席で響がかなり入って聴こえたこともあり)華麗さ、派手さはすこし抑え目であるように聴こえました。
音楽の重心が低いというのはここでも強く感じたところ、一部の旋律のタッチが粘り強い音になったのではとも感じました。
この音は・・・
デュオ・グレイスのコンサートでりかりんさんのソロ演奏で感じたときのものではないかと思い当たったのですが、気のせいかもしれません。
レコーディングまでされるほど一緒に仕事をされていて、呼吸を合わせている間に相手のワザを自分のものにしてしまう・・・北斗神拳奥義「水影心」みたいなことが達人になるとできるんだろうかとも思いましたが・・・
いや、むしろ影響がないというほうがおかしいのかもしれません。
結論が、あるかもしれないしないかもしれない・・・ということに変わりがないのは、申し訳ないことです。

作品59のマズルカも同様に、多佳子さんの実演のすばらしさをこれでもか堪能できました。
アルゲリッチの演奏で初めて聴いて、特に作品59-2はマズルカ中の最高傑作だと思い込んできました。
なぜ、ミケランジェリはDGに録音した10曲のマズルカに採らなかったのかすっと残念な気もしていましたが、彼はそれほど好きじゃなかったのかも知れず、言っても仕方のないことです。

3曲をつなぐ間の取り方・・・
アタッカではないですが、まさにここしかないというポイントで3曲を有機的に結んで、ひとつのまとまった曲のように聞かせる演出もステキ。

1曲目イ短調のモノローグのようなニュアンス豊かな出だしにふっと絡んでくる左手の魅力的なこと、その後も徹底的に研ぎ澄まされた音が立体的に聴こえて耳は釘付け・・・
2曲目変イ長調の音色も絶美、とりわけ中間部の左手で奏される旋律の美しさは多佳子さんの特徴とはいえ、わかっていながら心に沁みてきます。
そしてこの曲が静かに幕を下ろしたとたんに、激しく3曲目嬰へ短調が始まり・・・
これも常套手段だとわかっていながら、あまりの場面転換の鮮やかさに引きつけられるばかり。
また、なぜあの手の動きでピアノがあそこまで鳴るのかと驚かされることもあわせて、ブラヴォーな演奏でした。

そして、プログラム最後の幻想ポロネーズ・・・
この演奏を聴いたことはきっとずっと忘れないと思います。
多佳子さんの実演は初めてでしたが、この曲がこんなにコンパクトに聞こえたことはかつてありません。
ディスクではアルゲリッチの切実さがあふれた演奏に最も共感してきましたが、今日の多佳子さんの演奏はその切実さにおいても曲想のスケールにおいても遥かに凌駕するものだったと言い切ってしまいたいほど素晴らしいものでした。

多佳子さんの演奏からは何度もこのように思わせられているものですが、ヴィトゲンシュタインの「人は語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉を言いたくなるほど筆舌に尽くしがたい・・・
竜宮城が絵にも描けないぐらい美しいのと同じ感動でプログラムを終えました。
(文字がいっぱいあるのに何も説明していないことが気になるレポートだなあ。)

幻想ポロネーズの最後を大きな呼吸、底光りするような音色で収斂してきた後、高らかに最後の和音が鳴らされると、一瞬息を飲むような間があって会場からは“当然に”割れんばかりの拍手が沸き起こりました。


正直、この演奏の後にアンコールなんて必要なのだろうか、そうでなくとも弾けるのだろうかと思っていましたが、1曲だけと断って多佳子さんはノクターンの作品9-2を弾いてくれました。

多佳子さんのアンコールは本番の緊張が少しほぐれた開放感があるのが特徴で、それも楽しみなのですが、今日は旋律線をひどく大切にした演奏振りでした。

そうか・・・これは祈りなんだな

と勝手に合点してコーダ以降の澄み切った音の残した余韻を噛みしめて素晴らしいコンサートは幕を閉じました。



さて・・・
祈りに関連してではないですが、コンサートでは多佳子さんがステージから東日本大震災被災地への募金を呼びかけをされました。
そして、なんと、ホワイエでは笑顔のりかりんさんが募金箱を抱えておられました。

これは考えようによっては凄いこと・・・
野球に喩えたら、楽天の岩隈投手が募金を呼びかけてマー君が箱を持っているのと同じぐらいのインパクトではありませんか?
いずれにせよデュオ・グレイスのお気持ちは、多くの人にきっと届いていたと思います。

また・・・
折からの節電モードで地下鉄の自販機が動いていなかったので飲み物に不自由した人がいたでしょうし、ホールへ向かう道すがら、あるいはホワイエも灯が間引きされていました。
確かに違和感はありましたが、ことコンサートにおいてはいい演奏が聴けさえすれば全然問題ないんですね。
逆に、いかに私たちが必要以上に灯がついている状態に馴らされてしまっているかということを痛感しました。
この灯が100%点くことが復興ではない・・・そう思います。
不要な電気を使わない、私はこれを励行する先に復興があると感じています。
でも、計画停電ははやくナントカして欲しい。(^^;)


最後に特筆すべきは、多佳子さんのスピーチがすばらしかった。
本当はもっと曲目紹介や、楽しいお話をされたかったのかもしれませんが、開催の趣旨・経緯とショパンをいかに愛しているかは十二分に伝わりました。
コンチェルトを例にとったマズルカとポロネーズのお話も興味深かったし、私には今日ぐらいの分量のコメントがちょうどいいですね。
多佳子さんにしてみれば、節約モードだったかもしれませんが。

さて・・・
私も、お父様といろいろ話させていただいたことなどネタもありますが、明日の朝、計画停電があるかも知れず、私もいつもよりは分量節約モードでレポートを終えることにします。


自分では節約モードだと思っているものの、それでも結構長いですね。^^
本当に必要最小限でレポートするなら「最高に感動した、特に後半は筆舌に尽くしがたかった」これだけでオシマイなんですけどね。